第3話 ウィステル・ラティマーの決意
教会での婚礼の儀は滞りなく執り行われ、場所をキャスバート公爵邸へと移したあと、盛大な祝宴の席が設けられた。
キャスバート家から贈られた祝宴用のドレスと宝飾品に身を包み、ウィステルはフィセリオの隣にいた。彼の髪色に似た濃紺のドレスには、繊細な銀糸の刺繍と白い真珠が贅沢にあしらわれている。
さすが公爵家というべきか、生地まで上質だ。婚約から婚礼までに一ヶ月もなかったというのに、誂えられたものは寸分の隙もない美しいものだった。
まるで自分という存在が飾り立てられ、埋もれ、輪郭が曖昧になる。手袋は手枷のように。靴は足枷のように。ネックレスは首輪のように。そうして公爵家という最高の舞台に置くに値する、調度品にでもされるかのように。
夜を照らす魔石灯の光は、実家では温かく優しい明かりだった。それも今では、冬の星のように冷たい豪奢なシャンデリアの光になってしまった。
無骨な灰色の石畳の床は、白く艶やかな大理石へ。至るところに施された彫金細工、飾りつけられた絵画や美術品。これが今日から“自分の居場所”になるのだと思うと、胸の奥に隙間風が吹いたような気がした。
誰もが羨むような結婚。貧乏な家の娘が、優しい王子様に見初められて煌びやかな世界へと誘われる夢物語。まるで童話のお姫様のようね、なんて。本当に皆はそう思っているのだろうか。
挨拶に来ては、祝いの言葉を述べて去っていく。まとわりつくような、嘘の甘い匂いが、ずっと会場に漂っている。
『キャスバート公爵の一目惚れ』
フィセリオはそう公表し、それは瞬く間に国中に広まった。一目惚れなんて言われれば、真正面からは叩きにくい。精々陰でひそひそと“何か”を囁くことしかできない。
なんと便利な言葉だろう。フィセリオがその言葉を選んだことも頷ける。ただ、彼の“一目惚れ”自体は嘘ではない。彼の嘘はあくまでも“愛している”であり、一目惚れという真実の裏に、愛ではない何かが潜んでいるというだけだ。
時折漏れ聞こえる、わかりにくい陰口。扇の奥に潜ませた冷笑。フィセリオと結婚したがっていた令嬢も、その親もいくらでもいた。社交場で囲まれていたことからもそれは間違いない。
この程度で済んでいるのは、キャスバート公爵家の権力と“一目惚れ”という言葉の魔法。まるで自分の味方など、この世のどこにもいなくなってしまったかのように錯覚しそうになる。
彼に愛情などというものは一欠片もなく、恋を謳いながら、そこには政治的な計算と損得しかない。まるで情熱的なバラの中にナイフを仕込むような、そんな見せかけの花束で嬉しいものなのか。ウィステルにはわからなかった。
挨拶も一通り終わり、ようやく一息つく。嘘が匂う社交の世界は正直苦手だ。それは兄であり、同じ能力を持つローワンも同じであった。今日のこの席は、主役である自分はまだ良い方だろう。
キャスバート家の当主に見初められ、破格の援助を得たラティマー家。羨望、嫉妬、打算、警戒──その中に当主として投げ込まれたローワンの心労は計り知れない。何か言葉を交わしている兄の背中を、遠目から祈るようにウィステルは見つめていた。
「言いたい者には言わせておけば良い」
小さな囁きが、そっと風のように耳に届く。つられて視線を向けると、フィセリオの穏やかな眼差しに捕らえられた。
「君も、君の家も、私が援助するという事実は変わらない。それを妨げるということは、私に挑むということだ。そのときは私が受けて立つから安心するといい。君と君の兄に必要なのは、世間の残酷さに耐えうる精神力だけだ」
フィセリオの大きな手が、ウィステルの手の甲へと重ねられる。この人はきっと、甘く優しく愛を差し出したつもりでいるのだろう。けれど、守るとは一言も言わなかった。
キャスバート様がわたくしたちに望むのは、ただ従順に、耐えることだけ……
ウィステルは……いや、ウィステルたちラティマー家は、フィセリオが仕掛けた“毒餌”だ。彼の言葉には、一片の嘘もない。援助や支援は改めて結び直された契約通りに履行され、他家からの邪魔立ても払ってくれるのだろう。のこのこと釣り出された“虫”たちを、残らず一掃するように。
ウィステルたちは、ひたすらそれを耐え忍ぶしかない。どんなに集られて、蝕まれようと。そうでなくては、家も民も何一つ守れない。
「はい。兄からも、キャスバート様のお役に立つようにと言付かっております。ご期待を裏切らぬよう、努めて参ります」
ローワンはそんなことは一言も言っていないが、そういうことにしておいた。初対面であれだけ反論したローワンは、恐らくフィセリオからの心証が悪い。少しでも印象を修正するために、兄共々従順であると示しておくのが賢明だ。
ローワンいわく、こちらが提示した条件を意見を交わしながらもほとんどそのまま受け入れたと聞いている。ますますキャスバート家にとって得がなくなったこの援助、その譲歩の真意は依然として掴めない。
けれど、好条件になった内容に、ウィステルもローワンも感謝はしていた。含みがありすぎたせいで、心から……とまではいかないが。
「無理はしなくていい」
困ったように眉尻を下げて見せながら、気遣いを口にしたフィセリオの指が、そっとウィステルの頬を滑る。その先に腐りかけの果実の匂いを隠しきれず、微かに残したまま。
「それに、顔色も悪い。奥に下がって少し休むといい。応対は私がしておく。ジャスミン、ウィステルを案内してくれ」
「かしこまりました、フィセリオ様。ウィステル様、歩けますか?」
「お言葉に甘えて、少しだけ休憩をいただきます」
ウィステルはフィセリオに軽くお辞儀をし、ジャスミンと呼ばれた侍女の案内に従う。案内された小部屋にはソファが備え付けられており、勧められるままに腰を下ろした。
「よろしければ、水をお持ちしましょうか?」
「お願いします。ご迷惑をおかけしてすみません」
「とんでもございません、ウィステル様! これも私のお役目でございます。なんなりとお申し付けくださいませ」
ジャスミンは素朴な仕草で誇らしそうに胸を小さく叩き、明るく笑った。それから間もなく水を持って戻ってくると、恭しく一礼し、仕事に戻るために部屋を出ていった。
誰の目もない場所。嘘の甘い匂いと緊張から解放され、静かにため息をついた。あの濃厚な匂いに少し酔っているのか、微かに吐き気を感じる。顔色が悪いというのはフィセリオの体感ではなく、本当だったのかもしれない。
キャスバート様は、一応気遣ってくれていたのでしょうか?
そんな考えがよぎったとき、不意に扉がノックされる。緊張に背筋を伸ばしながら返事をすると、聞き慣れた声が聞こえた。
入室を許可すると、開いた扉の隙間から自身と同じ藤色の髪が見える。心配そうに翠色の瞳を細めて、ローワンが部屋へと入ってきた。
「大丈夫か? さすがに疲れただろう……俺もだ」
「ふふ、わたくしはまだ何も言ってませんよ?」
ふっと、固くなっていた心が綻ぶのがわかる。この場所で、唯一味方でいてくれる人。そこに拠り所を感じてしまうのは、まだまだ自分が未熟で甘えている証拠だと内心毒づいた。
「ウィステルの姿が見えないから心配して聞いてみれば、顔色が優れないから下がらせたと……俺は正直、彼を測りかねている」
「そうですね。わたくしにも、よくわかりません」
フィセリオからは、時折深い嘘の匂いがする。微笑も、言葉も、礼節も──全て完璧な作り物。けれど、こうして気遣ってくれることもある。援助も、利益などほとんどないにも関わらず受け入れてくれた。そこに愛がないとしても、何か利益以外の思惑があったとしても、一方的に助けられている現実がある。
「ローワン兄様、お母様の言葉を覚えてますか? 知りすぎてしまうからこそ、目に見えるものも大切にしなさいって」
「大切なことは、心の奥だけにあるとは限らない。目に見えるものがその人を形作る……だな」
「はい。時には“知りすぎてしまわない者”の視点で見ることも大切だ、と。少なくとも今は、優しくしてくれています」
「……そうだな」
嘘を見抜けるからこそ、そこに固執することで目を曇らせてしまう。言葉や行動の真偽は、さほど重要ではない。肝要なのは、客観視したときにそれがどんな影響を与え、利と害を生み出しているかを見極めることだ。でなければこの力は、本当の意味で“雑音”になり下がる。
「人として、礼儀を欠いてはなりません。わたくしたちが、誰かに合わせて歪む必要はないんですから」
「つらかったら、いつでも帰ってこい。迷惑だとか、何も考えなくていい。お前が帰ってきた後の処理は、兄様が全てやるから」
「まだ何も始まってもいないのに、心配しすぎです」
どこまで行っても、ローワンにとってのウィステルは幼く未熟な妹なのかもしれない。本当は隣に並び立ち、背中を預け合えるくらいになりたいのに。
『大丈夫。お前には兄様がついてる』
そうやって存在感で勇気を授け、背中を支えてくれた兄。何か新しい物事に挑戦するときも、悩んで立ち止まったときも、母が病に倒れたときも、父が土砂の下で眠りについた日も、隣で優しく見守ってくれていた。
そんな兄のもとを、今日……離れる。これからは遠くから、今度こそ肩を並べて、その背中を支えられるように。
「最後の日くらい、多めに心配させてくれ。改めて結婚おめでとう、ウィステル。どうか……幸せに……」
それは純粋な祝福というよりは、祈り願うような響きを持って胸の奥へと落ちる。ローワンが、たった一人の兄が、幸せを願ってくれている。
その気持ちがあれば、わたくしはきっと茨の上だって歩いていける。
「ありがとう。けど、大丈夫。わたくしはローワン兄様の妹だから。どんな場所でもきっと、楽しくやっていけます」
ローワンはウィステルにとって誇れる兄だった。その兄の信頼を背負って送り出されたからこそ、強く歩んでいける自分であると信じられた。




