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第26話  足りないもの【フィセリオ視点】

 王家主催の夜会が終わり、再び政務に追われる日常へと戻っていく。そのはずだった。


 昨日の夕刻のことだった。書類に目を通していると、執務室の扉が叩きつけられるように乱暴に震え、こちらが許可を出すのも待たずに勢いよく開く。


「フィセリオ様っ!!」


 飛び込んできたのは、ウィステルの専属侍女であるジャスミンだった。ここまで走ってきたのか蜂蜜色の髪は乱れて、肩で息をしている。見開かれたオリーブグリーンの瞳が、異常事態を告げていた。


「ウィステル様が──」


 それは、ウィステルが突然意識を失って倒れたという報せだった。すでに寝室へ運ばれ、キャスバート家つきの医師によって診察が始まっているという。


 意識のないウィステル。医師の診察。そして何もできない自分。冷静に考えて、自分が駆けつける意味は薄いとフィセリオは思った。


 だが“愛する妻”が倒れているのに淡々と政務をこなしていては、これまで築いてきた“仲睦まじい夫婦”の印象が揺らぐ。フィセリオは迷うことなく立ち上がると、“模範的な夫”の姿を積み上げるように寝室へと走った。


 寝室へ入ると、いつも二人で使っている寝台の上にウィステルが寝かされていた。血色が悪く、唇まで心なしか白く見える。今にも儚く消えそうなその横顔が亡き兄エオナックのものと重なり──ゾクリと心臓が冷たく震えた。


「アキレイ、ウィステルの容態は?」

「直ちに命に関わることはないですが、過労と心労が重なった結果、限界が身体症状として表れたのでしょう。高熱はしばらく続くと思われますが、安静にしていれば回復なさいます」

「そうか……」


 アキレイは一礼すると、ウィステル用の薬の調合と食事内容の指導のために部屋を出ていった。


 過労と心労……フィセリオには思い当たる節がいくつもあった。昨年末頃からウィステルは催事の立案と計画に奔走し、領地経営を学びたいと合間を縫ってハルシャから指導を受けていた。それだけでなく、年始の夜会では母のヘレニーテを支え、フェアファクス家のロクシーナと正面から戦っていた。これだけ揃っていれば、むしろ納得しかない。


「いきなりフィセリオに求婚されて、心の準備もできずに公爵夫人だもんな。嫁いできてから、絶え間なく働き詰めてたし……」


 執務室からフィセリオと共についてきていたエルウッドが、ぽつりと呟く。気の毒そうな彼の声色が、なぜかフィセリオの胸の奥にズシリと重くのしかかった。


私はきちんとウィステルを“愛していて”、彼女も信じていたはずだ。

公爵夫人としても、無理はしなくていいと再三伝えてきた。

それでも、心労をかけていたのか?


 最大限、でき得る限りの配慮をしてきたつもりだった。働き詰めているのも、それはウィステル自身が動いている方が好きだからだと思っていた。


「責任感の強い方でしたから、ご自分でも気づかないうちに無理が蓄積していたのかもしれません。ウィステル様、気づいて差し上げられなくて……申し訳ございませんでした」


 ジャスミンが意識のないウィステルに向けて膝を折り、謝罪している。傍にいて何も気づけなかったのはフィセリオ自身も同じだった。むしろ夫として信頼され、その心労を和らげる役目は自分にあったはずだ。


最初から、無理をしていたのか?

それとも私が、無理をさせたのか?


『フィセリオ様、知っていますか? 不毛の地に生える草は踏まれて枯れても、根が深くてしぶといものなんです』


 夜会の日、ウィステルはそう言って不敵に笑っていた。どこかエオナックと似ていると感じていたウィステルとローワンの、企みが成功したと言わんばかりにほくそ笑む姿に「兄上はこんなに強かな人ではなかったな」と、二人の評価を改めた。


 憧れていた兄のような柔和さ。それでいて兄と違って凛としていて……何も心配いらないと、心のどこかで信頼と安堵を覚えていた。


根が深くても、しぶとくても、枯れるときは枯れる。

どうして、安心なんてしたんだ。

私は兄上のようには上手くやれないのだから、油断すべきではなかった。


 あのときの言葉も、単なる強がりだったのかもしれない。決して心は明け渡さないというラティマー家の意地。怯まずにフェアファクス家と対峙した気概。しぶとく耐え忍ぶことを気質と表現したくらいなのだから、あり得る。


君は、誰も味方だと思えずに……ひとりで耐えていたのか?


 味方のつもりでいた。こちらの都合で利用される彼女を、“愛されている公爵夫人”という世界を築くことで、不必要に心を乱さないように整えてきた。


 けれど聡明な彼女のことだ、こちらの打算にはある程度気づいていた可能性はある。働き詰めていたのも、自身の有用性を示すことで、キャスバート家からラティマー家への援助を強固なものにしようとしていたのかもしれない。


 つまりウィステルにとってフィセリオやキャスバート家は信頼すべき味方ではなく、警戒すべき協力者。それが、心を開けずに神経を擦り減らしてしまった理由なのかもしれない。真相はわからないが、フィセリオはそう結論づけた。



* * *



 フィセリオはウィステルが回復するまで、仕事を寝室に持ち込むことにした。エルウッドは執務室に残し、必要なときだけ声をかけてもらうようにしている。


 看病などジャスミンに任せれば良い話だが、“妻を愛する夫”らしく献身的に看病し、傍を離れないことを選んだ。けれどそれだけではない。罪悪感とも焦燥ともつかない、得体の知れない感情を拭えなかった。


「ん……うぅ……」


 一日明けた今も、ウィステルは目を覚まさない。深く眠っているかと思えば、熱が上がってくるとうなされる。そのたびにフィセリオは額の汗を拭き、氷嚢(ひょうのう)を取り替えた。


 氷を入れ替えた氷嚢が額に当たると、眉がピクリと反応する。すると薄く目を開き、彼女の紫を帯びた紅玉のような瞳が微かに覗いた。寝台の傍らから見下ろすフィセリオを一瞥(いちべつ)する。


「ローワン……兄、様……」


 縋るような、掠れた声。ウィステルは少しだけ表情を和げるとそのまま目を閉じ、落ちるように眠り始めた。ようやく、心の安息地を見つけたように。


──ローワン兄様。


 ウィステルが実兄であるローワンを本来どう呼んでいたのか、フィセリオは今初めて知った。ウィステルとローワンのいる場にフィセリオがいる場合、基本的に二人は『公爵夫人』と『伯爵家当主』として対応することになる。実際、フィセリオの前で二人は、互いを『ローワン様』『ウィステル様』と呼び合っていた。


それが、ウィステルがフィセリオに心を開いていない何よりの証左だった。


 もし愛されていると実感し、心を開いているのなら、彼女の会話の中でローワンの名前が出るときに、フィセリオへの信頼を伴って『ローワン兄様』という呼称が出たっておかしくはなかった。けれど、そんなことは一度も……たったの一度もなかった。


 ウィステルはフィセリオの前では常に『公爵夫人』であり、『愛されている妻』だと思えていなかったということだ。ウィステルにとってフィセリオは“夫”ではなく“主”だった。監視され、粗相のないようにと気を張る日々は、窮屈で息苦しくてたまらなかっただろう。


穏やかに眠れているなら、それでいい……


 ゆっくりと穏やかな呼吸を繰り返すウィステルに、フィセリオは安堵とも落胆ともつかないため息をついた。眠る間際の表情は、初めて見る、安心と信頼に満ちたものだった。


 たった半年間しか過ごしていない自分が、ずっと一緒にいたローワンよりも信頼されたいなどとは思わない。夫である自分を一番にしろとも思わない。


 ただ、フィセリオ自身は欠片も信じられていない。この半年間ずっと、警戒すべき相手としてしか見られていなかった。その事実が、どうにも胸の奥に暗く深い影を落としていた。


愛してもいないのに、なぜこんなにも気にかかる?

ウィステルは元々想定していた役割を果たしている。

それで十分のはずじゃないか。


 考えを巡らしていくと、一つだけ納得できる理由が見つかった。それは自身が演じてきた“妻を愛する夫”が、自分が想定していたように効果を示さなかったことだ。ここが上手くいっていれば、ウィステルはフィセリオに心を開いていただろうし、こんなふうに倒れることもなかったはずなのだ。


私はどうすれば良かったんだ……兄上……


 エオナックは人望が厚く、皆から慕われていた。ここにいるのが自分ではなくエオナックなら、ウィステルにも信頼されていただろう。


 エオナックがしているように振る舞っているはずなのに、エオナックのようにはいかない。どれだけ表面を似せたところで、中身はフィセリオのまま。それがどうしたって滲み出るせいか、フィセリオは大抵警戒されるし、寄ってくる者も大半は信頼ではなく打算だった。


 エオナックなら信頼されたのなら、エオナックにより近づければいい。もっとフィセリオ自身の打算や冷たさを隠し、エオナックの持っていた明るさと温かさで目をくらませる。足りないのは、警戒心が強く聡明なウィステルさえも疑うことなく信じられるだけの……演技の精度だ。


「ウィステル、すまなかった」


 ウィステルの目が覚めたら、もっと上手くやれるだろうか。今度こそ信頼され、心を開いてもらえる“完璧な夫”を演じられるだろうか。


 余すことなく打算で利用しているからこそ、その代価として彼女の立場を保証する。今度こそ、彼女がきちんと穏やかに暮らせるように。そんな思いだけが、静かに静かに空回っていた。

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