第24話 花の蜜に毒を忍ばせて
ヘレニーテを背に庇い、ウィステルはフェアファクス公爵夫人であるロクシーナと対峙していた。今はロクシーナの取り巻きだけでなく、マーチリッジ派であるジェシアとローダンセにも見られている。対応を間違えて、キャスバート家の足を引っ張るわけにはいかない。
ヘレニーテの顔が見えず様子が窺えないのは気がかりだが、万が一のときはジャスミンとヘレニーテの侍女に対応してもらう手はずになっている。今自分が集中すべきは、ロクシーナたちだ。ヘレニーテを守るためにも、できるだけ早く会話を終わらせた方がいいだろう。
「ウィステル様は、フィセリオ様の一目惚れでご結婚なされたと伺っておりますが……ラティマー家はキャスバート家から多大な援助を受けておられるようですわね」
「えぇ、おかげさまで。災害で傷ついたラティマー領もだいぶ回復してきました」
「それは大変喜ばしいことですわ。ですが……せっかく愛を実らせた美しい婚姻ですのに、なんだか少々濁って見えますわね? 濁りのある婚姻は……気苦労が絶えませんわよ?」
ロクシーナは、チラリとウィステルの肩の奥へと視線を逸らす。それはウィステルによって遮られたヘレニーテへの視線であった。
遠回しではあるが、恋愛結婚のように見せかけて打算塗れの政略結婚なのだろうと言いたいようだ。同時に、ヘレニーテの心労をアマドゥロと政略結婚したことへ転化しようとしていた。
「確かに苦労がないとは言えません。それでも皆で、手を携えて暮らしております。どうぞご心配なく」
「あらまぁ……今や恋は“自由”という風潮ですのに何も感じませんの? ウィステル様も……すっかり古風なお考えになってしまわれたのね」
「わざわざ“自由”など説いてくださらずとも、それぞれでお好きになさったらよろしいのではないですか? 愛を選ぶのも、政略を選ぶのも、“自由”だと思いますが」
ここ十数年ほどで、貴族社会でも自由恋愛の風潮が強まってきている。とはいえ、まだ政略結婚もよくある話だった。
『美のフェアファクス』とも呼ばれるフェアファクス家は、自由恋愛を推奨している。自由の尊さ、恋や愛の純粋さを貫くことこそ、心の美しさだと説いているのだ。
ウィステル自身も、その考えは間違ってはいないように思う。しかしそれがただの思想に留まらない話であることも透けて見える。自由な恋愛という魅力的な言葉で支持を得ながら、政略結婚などの家同士の結びつきを解体して弱体化させようとしていることは目に見えていた。
「詭弁ですわね。政略結婚は、相手を利益で買うようなもの。愛への冒涜ですわ」
「あの、誤解なさらないでほしいのですが、わたくしも自由恋愛を否定するつもりはありません」
貴族としては、領地や民を守るためにも、家同士の結束の維持や利益を求めて婚姻を結ぶことも責務の一つだ。けれど、心から愛する人と結ばれたいという個人の願いや憧れも、理解できないわけではない。実際ウィステルは、この愛のない結婚に思うところがないわけではなかった。
「心に決めた人と共に愛を育むことは、素敵なことだと思います」
最初に愛がなかったとしても、それが恋を伴う感情にならなくても。少しずつ親しくなれたら、信頼し合えたら、いつか愛情の伴った夫婦になれたら……ウィステルは、そんな希望を捨てきれないでいる。
けれどフィセリオは──きっとそんなことは望んでいない。
相変わらず“妻を愛する夫”の演技は冴え渡っている。見せかけの愛は優しいが、決して本音には触れさせてもらえない。
冷たくされれば悲しいが、愛はないという本音の一部に触れることができる。何が今足りてないのか、どう心を溶かしていけばいいのか、努力の道筋も見える。
つまり今のウィステルは、どうフィセリオに歩み寄れば本物の愛情を育めるのか、努力の方向性がわからないままの迷子の状態だった。ロクシーナの語る自由恋愛や愛の美しい思想は、ウィステルの心を抉り取るように刺さりすぎていた。
「ただ、わたくしはまだロクシーナ様ほど自由恋愛というものを理解できておりません。ですが、蝶のように花から花へと殿方に微笑みかけて回るお姿──」
ウィステルはわざとらしく視線を逸らし、ロクシーナの娘であるアマリリアを一瞥した。彼女は今、親しい令嬢を数人連れて、複数人の男性を相手に談笑しては、また別の男性たちと……と繰り返している。
それ自体は何も問題はない。公爵令嬢で愛嬌があり、見目麗しい彼女は社交場ではいつも人気者だった。むしろアマリリアが花で、蝶に群がられている構図でもある。だがそれをあえて逆転させて、ロクシーナへとつきつけることにした。
ロクシーナの語る愛と自由恋愛の美徳は、本来であれば“一途で唯一無二の想い”を尊ぶものであるはずだ。だが今のアマリリアの姿は、公爵令嬢として当たり前の振る舞いではあるものの、その思想に照らし合わせれば“一途で唯一無二”とは言い難く、どこか噛み合っていないように思える。
とはいえ「アマリリアは人気者だから仕方ない」とは口が裂けても言えない。ロクシーナ自身が掲げる思想と、娘のアマリリアの姿の齟齬……そこを指摘されると“痛い”という話だからだ。
アマリリア自身に罪はないが、攻撃してきた彼女の母ロクシーナには罪がある。申し訳ないが、利用させてもらうことにした。
「──彼女がフェアファクス家の掲げる“自由恋愛”の形なのですね。とても勉強になります」
「えぇ。ウィステル様はよく民との交流をしていらっしゃるようですし、どうぞ花を散らさない愛で方を覚えてくださいませ。“野花”ばかり摘んでいますと、要らぬ誤解を招きますもの」
ウィステルはアマリリアの姿を蝶のようだと喩えたに過ぎない。だがロクシーナは貴族の男性を“花”と改めて定義し、ウィステルの行ってきた慈善事業を逆手に取って平民の男性を“野花”と喩えた。
確かに公爵夫人という立場から見れば、市井に踏み込みすぎているのかもしれない。けれどそれはウィステルなりの考えがあってのことだった。当然、平民の男性を漁りに行くような真似はしていない。
クスクスとロクシーナの取り巻きたちが、扇子の向こう側でせせら笑う。すぐ近くではローダンセがキュッと緊張で喉を鳴らした。背後のヘレニーテは、こちらが不安になるほどに気配が薄い。
ロクシーナの発言に怒りを露わにしても、沈黙しても、この場でウィステルの不貞疑惑の種は蒔かれる。いや、事実を利用して歪曲され、すでに蒔かれた後であり、社交的には失言ギリギリのところを攻めた猛毒だ。ならばこちらは、この猛毒を利用し、フェアファクス夫人へ刺し返すしかない。
「わたくしは幸い、まだ民の怒りは買っていないはずですが……誤解とは、どのような誤解でしょうか? ロクシーナ様が何をお考えか、未熟なわたくしにご教示いただけませんか?」
その瞬間、ロクシーナの整った眉がピクリと微かに不愉快そうに歪み、取り巻きたちの冷笑が静かに固まる。とぼけて質問形式で返したことで、ロクシーナは言葉に詰まっていた。
それもそのはずだ。「平民の男性を相手に、不貞を働いているのでしょう?」という品のない発言ができるはずもない。それも証拠のない単なる憶測での発言であり、自身の想像力の下品さを露呈するだけだ。それこそ言ってしまえば失言であり、ロクシーナは大きく評判を落とすことになる。
──言葉を詰まらせた、一瞬の沈黙。その好機を、ウィステルは逃さなかった。
「あら、グラスが空になっていますよ?」
ロクシーナが手にした空に近いグラスを見て、ウィステルは片手を上げて給仕を呼びつける。話題が途切れた今、ロクシーナにとっては失態を濁して去る絶好の機会だ。同時に、流れを切ることでこれ以上の話題の継続と追撃を強引に断ち切った。
それでもまだ、みっともなく勝ちを求めて食い下がりますか?
それとも傷の浅い今のうちに撤退しますか?
徹底的に攻めて勝ちきるより、時には退くことも大切だとホリンが教えてくれた。現時点で十分にこちらが優位に立てている以上、ここで終わっても勝利を収めることができる。
徹底して追い詰め過ぎれば、フェアファクス派からさらに強い反感を買うことに繋がるだろう。であればここで退路を用意して恩を売り、強く出られないようにしておく方が得策だ。
ロクシーナに情けをかけたわけではない。わかりやすい逃げ道を与えることで、できるだけ禍根を残さず早くヘレニーテを解放するための利害のための一手にすぎなかった。
「……お気遣い感謝いたしますが、結構ですわ。では、わたくしはこれで失礼いたします」
「えぇ、ごきげんよう。今宵の夜会、どうぞ楽しくお過ごしくださいませ」
ロクシーナは深追いをやめ、ここで撤退することを選んだようだ。優雅に一礼すると、返す波のように取り巻きたちと共に退いていった。
ウィステルはそっと胸を撫で下ろしながら、ヘレニーテの方へ振り返る。ヘレニーテは俯き気味にじっと絨毯を見つめながら、青白い顔をしていた。
浅く上下する胸元、固く握られた拳の震えからも、耐え難い恐怖に耐えながら、キャスバート家に恥をかかせないよう必死でこらえてきたことがありありと伝わってくる。ウィステルがその拳に手を添えると、ようやく全身の強張りが少し緩んだようだった。
「ジェシア様、ローダンセ様、会話の途中でしたのに、申し訳ありません。義母を休ませたいので、今宵はこれで失礼させていただきますね」
「えぇ、ではまたの機会に。ヘレニーテ様、お大事になさってくださいませ」
「あ、ま、またお手紙、送らせていただきますね。それではっ、ウィステル様、ヘレニーテ様……し、失礼いたしますっ」
ジェシアとローダンセは丁寧に一礼し、会場の人波の中へと消えていく。嘘の匂いはなく、ジェシアの「またの機会に」が建前でないことを示している。つまり先程のロクシーナとの応酬をジェシアに評価され、また話しても良い相手と見なされたということでもあった。
「お義母様、歩けますか? 控え室へ参りましょう。わたくしが付き添います」
「えぇ、よろしくお願いするわね……」
弱々しく掠れたヘレニーテの声には、疲労と安堵の両方が色濃く滲んでいる。ウィステルはヘレニーテの背を支え、片手を取り、キャスバート家へと割り当てられた控え室へと向かった。




