第18話 愛を騙る価値【フィセリオ視点】
求婚のためにラティマー家を訪れたとき、ウィステルとその兄のローワンを見て、“油断ならない目をしている”という印象を抱いた。実際、援助内容の交渉では、こちらがさり気なく仕込んでおいた罠を早々に見破ってきた。
『キャスバート様、失礼を承知でお願いがございます。先ほどご提示いただいた援助内容の中から、どれを受けるかをわたくしたちの方で選ばせていただけないでしょうか。わたくしはもう、あなたのもとへ嫁ぐ覚悟はできております』
ウィステルの紅紫色の瞳が、凛と確かな光を宿してフィセリオを捉えていた。従順な妻を求めていたフィセリオにとって、彼女が交渉に参加してきたことには少しだけ驚いた。それもフィセリオの“愛しているフリ”を逆手に取って。
当主であるローワンと、その妹ウィステル。この二人の聡明さがあるからこそ、ラティマー領はなんとか持ちこたえている。短慮な領主は資金繰りに困るとすぐに税率を上げるが、ラティマー領では世代交代後も行われていない。二人の民思いな姿勢が民衆の不満をギリギリ押し留めているのだということも、一目瞭然だった。
そのくらい、この二人からは“誠実さ”が滲み出ている。そしてウィステルとローワンは互いを大切に思い、心からラティマー領を愛してやまなかった。それは褒められるべき美点でありながら……致命的な弱点でもあった。
誠実さもここまでくると、哀れなものだな。
この私でさえ、同情してしまいそうだ。
誠実な人間というものは、恩を売れば感謝と共に勝手に縛られ、忠誠を誓い始める。こちらが誠意を尽くしている限り、己の中の矜持と誠実さに則って裏切ることもない。しっかり仕込めば、自らの立場を悪くしてでも恩返しとして身を挺してくれることさえある。
これほど都合が良く、有用な駒はない。おまけにこの兄妹は、公爵相手に怯むことなく賢く立ち回っている。変に敵対心を煽るよりは手元に置く方が得だと考え、“愛している妻に譲歩するという体で”援助の条件交渉に応じることにした。この寛大な処置もまた恩の押し売りだが、破綻寸前のラティマー家に拒む力などあるわけもない。
誠実は強固な信頼を生み、時に何物にも代えがたい武器になる。しかしそれを逆手に取られれば、最大の弱みだ。そうしてフィセリオは、貞淑で従順な妻を手に入れた。
──と、思っていた。あの日までは。そう、忘れもしないあの日から、緩やかに何かが変わった気がしている。
『少し畑の様子を見に行こうかと思いまして』
『もちろん、お手伝いしてきます』
『ラティマー領では作業の傍ら、直接困り事を聞いていました。幸いわたくしは魔術が使えますし、橋が壊れかけたと聞けば草術で応急処置し、倒木があると聞けば風術で退けに行ったものです。馬にも乗れますよ?』
これまでに一度も見たことのない生き生きとした顔で、得意げにウィステルは言いきった。知らない情報を大量にたたき込まれ、頭が痛くなるような朝だったことを鮮明に覚えている。
ウィステルは、まるでこちらの“妻を愛する夫のフリ”を逆手に取るように、自分のやりたいことを見つけては主導して、成功させていった。公爵家の者たちとあっという間に親しくなったかと思えば、母のヘレニーテからはいつの間にか絶大な信頼を寄せられるようになっていた。最初は結婚に難色を示したエルウッドでさえ、今はウィステルを認めている。
キャスバート領の民からも慕われ、評判も上々。最初こそ勝手な行動をせずおとなしくしていてほしいと思っていたフィセリオも、ウィステルの政治センスと外交手腕を信頼するようになっていった。
一度は弱みとして握ったはずの誠実さが、手の中にあるようでないような奇妙な感覚。手のひらの上で転がすはずだった人は、思うようには踊ってくれない。
けれどその一挙手一投足は、決して手のひらという舞台の外へ 出ようとはしない。その境界をわきまえた従順さが、なぜか心地良かった。
ウィステルは本当に、どこまでも都合良く出来すぎた妻だった。茶会のあと、彼女を侮辱したフェアファクス家へ抗議を申し入れるかという話になったとき、内心フィセリオは頭を悩ませていた。
“妻を愛する夫”を演じていくなら、抗議を申し入れるという姿勢を崩したくはない。だがこの程度のことで抗議し、無駄に関係を悪化させるなど愚策中の愚策だ。むしろ相手の術中に自ら嵌まりに行くくらいの愚かさだ。
その窮地を、彼女がキャスバート家の利のために、泥を被って頭を下げる形で収束させてくれた。誠実に、忠誠を捧げる騎士のように、身を挺して。ウィステルの機転と聡明さに救われた形だった。
けれどその夜、ウィステルは彼女の兄ローワンから届いた手紙を寝台の上に広げて眺めていた。心細そうに眉根を寄せて、唇を引き結び、固い表情をしていた。
兄に元気を分けてもらうと口にして力なく笑うのを見て、少しだけ胸の奥が重くなったような気がした。
『いいえ。キャスバート家の評判を損なうような妻など、要りませんでしょう』
ウィステルの切実な声と眼差し。ここまで真剣に『公爵夫人』という立場と向き合っていたのかと驚くと同時に、かける言葉を失っていた。隣に立っているだけの飾りで良かったはずなのに、「そんなことはない。君は妻でいてくれるだけでいい」とは言えなかった。
それは愛を土台にした全肯定ではあるが、これまでの彼女の『公爵夫人』としての努力を無意味なものにしてしまう言葉だった。最初に求めた役割がたとえ『お飾りの公爵夫人』だとしても、結果を残している人間を軽んじて良い通りはない。
その後、フィセリオは柄にもなくエオナックの話をウィステルにした。
そこにいるだけで空気を和らげて、明るくする。話しやすくて、人の心を自然と集める。それが、彼女とエオナックがどこか似ていると感じる面でもあった。
* * *
ウィステルのこれまでを労い、気分転換にでもなればと新婚旅行という形で外へ連れ出してみた。一日目のときはまだ思い詰めていたように見えたが、二日目には楽しそうにアクエレスト島を満喫してくれていた。今日はあいにくの雨だが、彼女は彼女らしく“自分でやりたいことを見つけて”楽しんでいる。
「フィセリオ様」
ウィステルに呼ばれて振り返ると、彼女は手のひらを差し出してくる。その上には茶色い小さな巻き貝が乗っていた。丁寧に磨いて拭き上げられたのか、つやつやと照りがあり、焦げ茶色の細い線まで綺麗に見える。
「たくさん拾ってきましたから、フィセリオ様にも旅の記念に一つ。このクロワッサンみたいな貝殻を」
「クロワッサン……」
「巻きが綺麗で、美味しそうじゃないですか?」
小さな巻き貝を指差しながら、はにかんだようにウィステルが笑う。巻き貝を眺めながら、本気で美味しそうと言っている姿が少しおかしくて、ふっと小さく息が漏れた。
「言われてみればそうだな。私にまでありがとう」
ウィステルから小さな巻き貝を受け取る。どこからどう見ても何も価値のない、平凡な巻き貝だ。それを“妻を愛する夫”らしくハンカチに丁寧に包み、服のポケットへとしまう。普段であればあとでひっそりゴミ箱にでも捨てるような物なのに、なぜかそれは少し気が咎められた。
「あとで桃色の貝をジャスミンに、コーヒー豆みたいな貝をエルウッドさんに渡すつもりです」
「二人にも渡すのか?」
「はい。わたくしたちにとっては旅行でも、二人にとっては職務ですから。せめて何か思い出になるものでも、と」
職務だからこそ、そこまで気を使う必要もないのにと考えてしまうところがフィセリオとウィステルの差であり……尊敬する兄エオナックとの埋まらない差でもあるのだろう。
どれだけエオナックのように優しく穏やかに振る舞っても、中身までがエオナックになるわけでもない。呼吸をするようにエオナックらしい振る舞いができるようになってきた今でも、心のあり方は何一つ変わりはしない。相変わらず打算的で、実利を重視し、人の情すら政治に利用できる人間のままだった。
「そうか。あの二人なら喜ぶだろうな」
心から喜べているのかもわからない自分と違い、心根が素直なあの二人なら間違いなく喜ぶだろう。純粋な者が純粋なままでいるために、自分のような人間は存在しているのかもしれない。そう思うことにした。
兄上やウィステルのような者たちしかいない世界が、最も平和で効率が良い。
けど、そうでないからこそ、私のような人間にも価値がある。
エオナックの持っていた優しさや慈悲、人徳は大切だが、綺麗事だけでは守りきれないものもある。だからこそ表はエオナックのように穏やかに、政治や交渉ではフィセリオらしく冷酷な振る舞いを選択する。
公爵として守らなければならないものを守るには、どちらの力も欠かせない。エオナックだけでは陥れられ、フィセリオだけでは殺伐とする。エオナックが当主を務め、フィセリオが支えるという形でのキャスバート家の繁栄は、彼の死によって潰えた。ならば両方を一人で担うしかないというのが、フィセリオの結論であった。
ウィステルは暖炉の方へ戻ると、二人へ渡す貝殻を除けてから残りを小さな箱の中へと詰めていく。その傍らには昨晩書いていた、彼女の兄ローワンへ向けた手紙が置かれている。土産物屋で買ったものとは別に、海を見たことのない兄へ手紙を同封して送るらしい。
箱の中に綺麗に貝殻を収めたいのか、ウィステルは眉根を寄せながら小さく首を傾げた。その横顔が、昨日土産物を選んでいた姿と重なる。
『お土産は何がいいんでしょうか? お酒……それともお菓子? 食費も切り詰めていましたし、保存が利きそうなもの……? フィセリオ様のオススメは何かありますか?』
パッと顔を上げたときの、自然体にこちらを頼る姿が印象に残っている。保存が利いて気に入っているものをいくつか教えると、それらにお酒を一本足して包んでもらっていた。
『綺麗……フィセリオ様、ありがとうございます。大切にします』
土産物などを、たくさんもらっているからという理由で全て私費から賄うウィステルに、“妻を愛する夫”として何かしなくてはと考えて懐中時計を贈った。何も知らない頃だったらきっと何か装飾品の類を選んだのだろうが、彼女の性格を知った今、実用的な物の方が喜ばせられると判断した。
『……貝殻でこんなこともできるなんて、素晴らしい技術ですね』
想像していた感想や反応とは少し違っていたが、何か気に入る部分を見出してくれていれば十分だ。そっと時計に触れながら、夕日の朱を瞳に映して微笑んだのを見て、みぞおちのあたりが鈍く痛んだような気がした。
今は何も問題ないことを確かめるように、フィセリオは軽く胸元をさする。あれはなんだったのかと考えかけて、ウィステルが箱の中へ手紙を収める仕草に目が留まった。
ウィステルはよくローワンへ手紙を書いている。その内容を見せてもらったことがあるが、フィセリオが兄に返していた手紙とは、ずいぶんと違っていた。エオナックがくれる手紙の温度感はローワンに似ているのに、ウィステルが返す手紙の温度感に比べて、フィセリオが返していたものはあまりにも事務的な印象のものだった。
感情的な文章が書けなかったわけではない。ただ心を許していた兄には、素に近い自分なりの温度をもって書いていただけだった。だがこうして見比べることで、自身の淡白さが浮き彫りになる。けれどそんな手紙しか寄越さない弟に、兄は手紙を出し続けていた。
兄上は、私をどう思っていたんだろうな。
エオナックは、ローワンが妹のウィステルを思うように、フィセリオのことを気にかけてくれる心優しい兄だった。だがフィセリオはウィステルと違って冷淡で、お世辞にも思いやり深い性格ではなかった。
エオナックのことは尊敬して憧れていたが、それもどこまで伝わっていたのか今となってはわからない。ウィステルのような思いやりが自分に一欠片でもあれば、エオナックに見返りの一つくらい返せたかもしれない……そんな実にもならないことを、柄にもなく考えていた。
* * *
翌日、雨上がりの青空に色づく海辺を散策し、昼前にアクエレスト島を発った。船で海を越え、今は領都エルダミアに向けて走る馬車に揺られている。
移動で疲れたのか、ウィステルは俯いて寝息を立てている。その向こう側、馬車の小窓からは傾きかけた陽の光が差し込み、彼女の藤色の髪が銀糸のように輝いていた。
夜の気配を帯び始めた冷たい空気に、ウィステルのまつげがふるりと震える。フィセリオ自身も寒さを感じ、備えつけられていた毛布を自身とウィステルの膝の上へとかけた。
少しだけ長さが足りず、彼女の肩を抱いて引き寄せる。そうして毛布の端を整えていく。こういう些細な気遣いも、嘘の完成度を上げるためには欠かせない。
“妻を愛する夫”を演じるのは、なんと骨が折れることか。
そう思いながらも、肩が触れ合う距離感に心地良さを感じている。それはきっと、少し肌寒い気温のせいだろう。毛布をかけてやった礼に、ウィステルから少しだけ温度を分けてもらうことにして目を閉じた。




