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第16話 潮騒を裸足で駆ける

 一面に広がる純白の花が潮風に揺れ、柑橘類を思わせる爽やかな香りが淡く広がる。風に揺れる様が寄せては返す白波のように見えることから、『白波の花』という名前で呼ばれるようになったらしい。風にそよいで肩を寄せ合う花々のざわめきが、密やかに交わされる内緒話のようにウィステルの耳を撫でた。


 昨日フィセリオからもらった白波の花は淡い青色をしていた。白波の花は本来白く、その中に時折咲く青い花は特に香りが良いらしい。つまり普通の砂糖漬けではなく、高級な方だったというわけだ。


「波打ち際へ行ってもいいですか?」

「あぁ、今日は波も穏やかだから大丈夫だろう」


 ウィステルは白波の花の花畑から離れ、波打ち際へと向かう。散策しやすい服装にしてきているとはいえ、公爵家で準備してもらった高価そうな靴を汚すわけにはいかず、少し離れたところで脱いだ。


 海水に濡れて砂浜の色が暗くなった部分へ一歩踏み出すと、足裏にひやりと冷たい感触がした。服の裾を少したくし上げてからさらに進むと、寄せてきた波がウィステルの足を濡らす。そのまま引いていくと、足裏の砂が溶けるように浚われていく不思議で新鮮な感覚を味わった。


 少しだけ屈んで指先を海水に浸す。興味本位で舐めてみると、本当に塩の味がした。海から塩が作られることは知識として知っていても、こうして自然の中から調味料の味がすることを体験するのは面白い。例えるなら、蜂の巣の巣蜜にかじりつくときのような気持ちに近い。


「海水を……舐めたのか?」


 すぐ後ろにフィセリオがいたことも忘れていて、思わず肩が跳ねる。明らかに困惑した声をしていて、振り向くのが少し躊躇(ためら)われた。「公爵夫人としての品格を忘れないでくれ」と咎められてもおかしくはない。


「あ、海が本当に塩の味がするのか……どうしても試してみたくて、つい……」

「ふ……ははっ、子供のような好奇心だな」


 フィセリオは呆れつつも、楽しげに笑ってくれていた。片手には、ウィステルが脱いだ靴を持っている。これでははしゃぐ子供とその後ろをついて回る親そのものだ。


「君を初めて見かけたときもそうだったな。手にした軽食をいろんな角度から眺めてから口にしていた。あのときは不思議に思ったものだが、今ならその理由もなんとなく想像がつく」


 言葉に濁りはない。一目惚れして求婚したという言葉にも嘘はなかったが、まさか本当にその姿を見て気に入ったのだろうか。軽食を舐めるように観察していた女性のどこが良かったのかはわからないが、何かしらの基準で求婚相手として最適と判断したのだろう。


「そんな姿を見られていたなんて、恥ずかしいですが……それでわたくしを選ぶフィセリオ様の女性の趣味も変わってますよね」

「……そうかもしれないな」


 フィセリオは肩を竦めながら緩く微笑している。それは「自分でもよくわからない」と言いたげにも見える、皮肉と親しみの両方がこもったものだった。けれどウィステルはそこに、人肌的な温かさを見出していた。


この笑みが、いつか演技でなくなる日が来たらいいのに……


 嘘をつかないでほしいというわけではない。ただ、わざわざ二人きりのときにまで“愛したフリ”はいらない。利用し、利用され、打算と志で繋がる奇妙な関係でも、嘘を共有して手を携えていけたらいいのにという思いがある。


 けれど“騙されていること”まで含めての価値だとしたら、嘘に気づいていることは隠し通さなければならない。最低でもラティマー領が安定するまでは、都合の良い妻でいなくては。


 新婚旅行の話が挙がった夜、フィセリオは彼の兄であるエオナックと自身の思いを少しだけ話してくれた。彼もウィステルと同じく、兄の背中を追いかける者であることを知った。


 それも彼の追いかけているものは亡くなってしまった人だ。亡くなった人には、どんなにあがいても永遠に追いつけない。そして、その空いた穴を一人で埋めようとしている。


 “微笑み公爵”がエオナックの模倣として生まれたものなら、本来のフィセリオは一体どこにいるのか。


 二人で嘘を背負える日が来たら、フィセリオがフィセリオでいられる瞬間を少しでも作り出せるだろうか。エオナックの優しさを模倣した“微笑み”ではなく、フィセリオの顔で笑える日が来るだろうか。


 親近感を抱き、心を傾ければ危険とわかっていながら、フィセリオを少しずつ知るたびにただの利害や恩を返すだけの相手として見られなくなっていく。もしかしたらそれが、フィセリオの“妻を愛する夫”という嘘の狙いで、まんまと乗せられているだけなのかもしれないが。


 フィセリオに手を取られ、半ば強制的に波打ち際から少し離れる。不意に立ち止まると、彼はポケットから薄めの小さな小箱を取り出した。


「ウィステルに渡したいものがある」


 小箱を手のひらの上に乗せられると、見た目よりも少し重みがあった。小箱を開けると、中には美しい彫金の施された懐中時計が入っている。蓋を開くと夕日を照り返して、文字盤の部分が淡く虹色に煌めく。


「綺麗……フィセリオ様、ありがとうございます。大切にします」

「その文字盤は貝殻からできているんだ」

「……貝殻でこんなこともできるなんて、素晴らしい技術ですね」


 時計にそっと触れながら、ゆっくり傾けると煌めきが変化する。角度によっては白い石鹸のように見えたり、別の角度では銀のような強い輝きと共に淡い緑や青、桃色の混じった虹色の光彩を放つ。ずっと見ていても飽きない美しさがあった。


「フィセリオ様が選んでくださったのですか?」

「そうだ。実用的な物の方が喜ぶんじゃないかと思って。君の好みに合うものだといいが……」

「こんな素敵なものを贈っていただけるなんて、本当に嬉しいです」


 フィセリオに欲しいものはないかと聞かれていたが、お土産を含めて全て私費で支払ってしまった。それでもこうして贈り物をしてきたということは、やはり目に見える形でわかりやすく“妻を愛する夫”を主張していきたいということだろう。


でも、わたくしの好みを少し考えてくれたことは本当なんですね。


 ただ潮風の匂いしかしない今が、心から嬉しかった。フィセリオは結婚に際し、ドレスや装飾品などたくさんのものを用意して贈ってくれた。でもこの時計は、ウィステルの人となりを知って、喜びそうなものをと考えて選んでくれた。


 たとえ愛は偽物でも、適当に物を贈るという形ではなく、心から喜ばせようとするくらい徹底された“妻を愛する夫”の嘘。そこに小さな優しさの欠片を見つけて胸の奥が痺れるように熱を持った。


 フィセリオは“妻を愛する夫”として、贈り物を用意した。ならばその恩に報い、妻として“仲睦まじい夫婦”の宣伝のために積極的に利用しなくては。彼の意図を最大限発揮できるよう支えるのも、“夫を愛する妻”の務めだ。


よし、早速ジャスミンとエルウッドさんに自慢しに行こう……!


「これだけ綺麗なもの、独り占めするなんてもったいないです。二人にも見せてきて構いませんか?」

「え、あぁ。それは構わないが」


 フィセリオの返事を聞くまでもなく、ウィステルは二人の方へと駆け出す。走って戻って来ることに驚いた二人が、わたわたと慌ただしくしながらこちらへ向かって駆けつけてくれた。


「見てください! フィセリオ様がわたくしに贈って下さったんです」

「わぁぁ〜、素敵ですね! もぅ、私までにやけちゃいますよぉ」

「おぉ……これは懐中時計ですか。繊細な造りですし、ウィステル様がお持ちになるものとして、よくお似合いかと。てか、フィセリオはいつの間に買ったんだ……?」


 懐中時計の蓋を開いて二人に見せると感嘆の声を上げる。ウィステルと喜びを分かち合うように目を輝かせた。その輝きは、この懐中時計の貝細工の文字盤のような煌めきに似ていた。


「実はフィセリオ様、わたくしが──わっ!」


 喜ぶ物を贈ろうと選んでくれたことを話すより早く、地面から足が浮く。後ろから駆けつけたフィセリオになぜか横抱きにされ、彼の心配そうな銀灰の瞳が上から注がれていた。


「素足で走って、貝殻で足を切ったらどうする……ひとまず洗い場で砂を流そう」

「あ、自分で歩けます! だから降ろしてくださると……」

「話を聞いていたか? それとも、その砂だらけの足で靴を履くつもりなのか? 言っておくが、素足のまま歩くと言うなら降ろせない」

「それは……その……」


 視線を足の方へ向けると、海水に濡れた足に砂が大量にくっついたままになっているのが見える。まるでいつぞやのブールドネージュのようだ。


「おとなしく運ばれておきなさい」

「は、はい……」


 フィセリオはウィステルを軽々と抱えたまま悠々と歩いていく。後ろからは、ジャスミンの「童話のお姫様みたい」とはしゃいでいる小さな声が聞こえてきた。


恥ずかしい……ずっと子供みたいな失敗ばかりで。


 自分のことに無頓着過ぎて、フィセリオに迷惑をかけてしまう。“妻を愛する夫”が気遣わなくてはならない状況を作り出し、こうして彼が尻拭いをする。嘘をもっともらしくできる状況として利用できるから良しとしていいのか。いや、やはり迷惑をかけているのだから、きっちり反省はしておくべきだろう。


 そのあと、足を洗ってから靴を履き直し、改めて海岸の散策をした。波の音に耳を澄ませ、貝殻を拾い、夕日が水平線の向こうに沈むまで、フィセリオたちはウィステルに付き合ってくれた。

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