第15話 海風に髪を遊ばせ
宿は街から奥まった高台にあり、短い距離ではあるが一台の馬車に四人で乗り合わせて街へと向かった。フィセリオの手を借りて馬車から降りると、湿った風がウィステルの髪を梳く。ここに来て初めて知った潮風は、海藻のような独特の匂いがした。
「わぁ……! 私がアクエレスト島に来られるなんて! ウィステル様の侍女長になれてよかったぁ〜!」
「ジャスミンが一番浮かれててどうするんだよ……」
ジャスミンも領都からほとんど出たことがないらしく、初めて見る海やリゾートを思わせるような雰囲気に目を輝かせている。それに対し、フィセリオについていろんな場所を巡ってきたであろうエルウッドは、呆れたように肩を落としていた。
初めて見る白壁の家が、空よりも深い青の屋根を帽子のように被って肩を並べている。キャスバート領内だというのに、まるで海向こうの異国の地にでも降り立ったような新鮮さと鮮烈さをもってウィステルの心をときめかせていた。
朝から人々が行き交い、活気にあふれている。荷車の車輪の音に、鮮魚店の水しぶき。客を呼び込む店員の声や、品物を見て楽しそうに笑う観光客の語らい。それらが遠くから聞こえるさざなみに乗って耳へと届く。中秋を過ぎた今は主要な観光時期からは外れているが、それでも遊びに来ている人は多そうだ。
アクエレストの街に流れる時間は、いつもと変わらない日常を描いているように見える。話しかけられても、店主と観光客のような距離感が崩れない。それは昨日見たマーシェルでの光景とは正反対であった。
マーシェルはキャスバート領内で最も貿易の盛んな街で、港には大きな商船が何十隻も停泊しているような大きな街だ。それでも、仕事に勤しんで忙しなくしていた人々は、ウィステルたちを見るなり目を丸くして足を止めた。
『え、あれって……え? 公爵様……?』
『なぁ……視察の予定なんてあったか?』
『隣にいらっしゃるのって、まさか……』
港湾都市と聞いて想像していたような賑やかな喧騒ではなく、戸惑いに満ちたざわめきに出迎えられたことを鮮明に思い出す。視察ではなく非公式の見学という軽い気持ちだったが、やはり“公爵同伴”ともなれば、一発で顔が割れてしまう。“半分お忍びの旅行”とは一体なんだったのか……という有り様になってしまっていた。
フィセリオ自身はというと、マーシェルで騒がれていたときと同じように、涼しげな微笑を保っていた。一瞥すらせず、まるで他人事のように。
微笑みの面の皮が厚い……
さすが、全方位に“妻を愛する夫”の嘘を平然とつき続けているだけある。呼吸するように嘘をつくためには、やはりこのくらい図太くないとやっていけないのかもしれない。自分でもよくわからないが、なぜか少し反省していた。
「アクエレストは非公式訪問に慣れてるから、騒ぎになることはない。そういうところが買われて旅先にも選ばれてる」
視線や態度からだろうか。まるで考えを見透かされたかのように、フィセリオはウィステルの疑問に答えた。
非公式訪問に慣れていることは、アクエレスト島の強みの一つと言える。その価値を損なわないよう島民たちの間で意識を共有し、徹底されているということでもあった。
人々の降り注ぐ陽射しのような飾らない笑顔と温かさに触れ、思わず顔が綻ぶ。言葉遣いでは気遣われているはずなのに、まるで市井の中の特別でない一人になったような不思議な感覚。胸の奥がふっと溶けるようで、貴族や富裕層がひっそりとここへ安らぎを求めてやって来る理由がわかったような気がした。
「人ばかり見るのは、思考の癖なんだろうな」
フィセリオは大通りの往来を眺めながらぽつりと呟く。
「どういうことでしょうか?」
「君は表情をよく見てるし、他人のことばかりで自分を疎かにしがちという意味だ。ここには人以外にもいろんなものがある。もっと目を向けてみてもいいんじゃないか?」
人、以外。活気にあふれる店主の傍ら……商店には、様々なものが売られている。貝殻を使った装飾品や小物、屋根にも使われている青い釉薬の工芸品、白波の花や島で採れた果物を使ったお菓子や飲み物が並んでいる。
庶民の生活を支える鮮魚店では、軒先に氷で冷やされた魚が並べられていた。今朝の漁で捕れたばかりなのか、ウィステルの記憶の中にある魚とは透明感と艶が全く違っている。銀色だけでなく、赤や黄、青い色をした魚まであり、色彩豊かだ。
料理屋、菓子店、工芸品店、オシャレなカフェ……庶民向きな店構えのところから高級志向のところまで。周囲を広く見ることで、ここに息づく光景を観客のように眺めていた自分が、いつの間にかその中の登場人物になっていく。
フィセリオのおかげで、これが旅行というものだと知り、自分で自分を外野に置きがちだということに気づかされた。
「何か欲しいものがあれば私に言ってくれ」
「余るほどにいただいている私費があるので、そちらからで……」
「その慎ましさは美徳だが、贈り物一つさせてもらえないとは……」
ふぅと小さなため息をつき、目元を軽く押さえたフィセリオの姿に、ウィステルの心臓がぎこちなく跳ねる。仲睦まじい夫婦……のフリをしているのに、さすがによそよそしかっただろうか。
いつもの感覚で遠慮したせいで思わぬ失態を……なんとか挽回しなければ……!
「あの、でしたらわたくしと一緒にお土産を考えてもらえませんか?」
「もちろん。愛する妻のため、できることはなんでもしよう。それで、誰への土産だ? ローワン殿か?」
朗らかに協力を申し出ながら、微かに嘘の甘い匂いを言葉に乗せてくる。“愛する”と強調しておきたいのはわかるが、そのたびにいろんな意味で「わかったわかった。もうわかったから」と無碍にあしらいたくなる。
「兄はもちろんですが、ラティマー家やキャスバート家に仕えてくれている皆にも買っていくつもりです」
「ウィステル様、本気ですか……? 公爵家に仕える人間だけでも一体何人いるのか……その、ご存知で?」
なぜか三人とも目を大きく丸くし、ウィステルに穴を開ける力強さで凝視してくる。眼力に気圧され、気づけば一歩下がって距離を取ってしまっていた。
「確か、屋敷で働いているのは百五十八人だったと記憶しています」
フィセリオと婚姻を交わし、公爵夫人として従者たちを把握するために名簿を借りたことがあった。側仕え、家政を主に担う侍女、料理人、事務官、警備担当の騎士……やはり公爵家ともなると、その一つ一つの役目を大勢の人が担当している。ましてやキャスバート家領内全体に広げたら数百では済まないだろう。
「さすがに個人名までは把握できてませんが、ざっくりとした内訳くらいなら答えられますよ」
「端数まで……」
「君は土産物屋ごと買い取る気なのか?」
「下世話な話ですが、ウィステル様が私費でいくらもらっているのか、急に気になってきてしまったんですけど!」
それまで似たような顔で固まっていた三人が、三者三様の表情を見せている。エルウッドは愕然としながら口元を引きつらせ、フィセリオは軽く首を傾げ、ジャスミンは口元に手を当てながら目を輝かせている。どうやら盛大な誤解を招いているらしく、ウィステルは訂正しておくことにした。
「そんな高価なものではありませんよ。ちょっとしたお菓子や工芸品を一つずつ配るだけですから」
名前もわからないのだから、個人の好みを考えて買うのは難しい。けれど何か、ささやかでも喜んでもらえそうなものを贈りたかった。
たとえ面識がなく会話を交わしたことがなかったとしても、『あなたのことを知っている』と伝えることができる。どんなに努力を重ねても、意味や意義が霞んでしまえば虚しくなる。仕える相手に“自分の存在が認識されている”という実感は、日々の見えざる努力に報い、その志を支える力になれるのではないかと思った。
ウィステルたちはゆっくりと店を一つずつ見て回りながら、お土産を吟味していく。そうしているうちにあっという間に時間は過ぎ、太陽も天高く昇っていた。
* * *
昼食は『汐匙なみのこ亭』という名前の料理屋へ行くことになった。土産物を見ている最中に立ち寄った鮮魚店で魚介を選び、料理屋へと送ってもらっている。自分たちで選んだものを調理してもらえるのはなんだか不思議な感じだ。
お店は少し高台にあり、案内されたテラス席からは街並みと海が一望できる。天気も良く、風も気持ちいい。絶好のテラス席日和だった。
「今日はエルウッドさんとジャスミンも一緒にどうですか?」
ウィステルは席に座ってから、エルウッドとジャスミンにも座るように促す。雲間から日が差すように笑顔になるエルウッドと、緊張して顔を強張らせたジャスミンの反応は対照的だった。
「あぁ〜、なんてお優しい! そう言ってもらえる気がして、フィセリオに大量のエビを買わせたかいがありました!」
「エルウッド様……最初から同席する気だったなんて信じられません……」
「あんだけはしゃいでたくせに、そういうとこは遠慮するんだな……」
「ウィステルの望みだ。君も座るといい」
「えっ、は、はいぃ! 畏れ多くもご一緒させていただきますぅ!」
フィセリオが勧めると、ジャスミンはビシッと背筋を伸ばし、カチコチとぎこちない動きで椅子へと座った。全員が席に着くと、間もなく料理が運ばれてくる。
カルパッチョは、瑞々しく色とりどりの野菜の上に透明感のある白身魚の切り身とエビが盛りつけられている。他にもガーリックシュリンプやエビと小魚のフリット、白身魚の香草焼き、汐匙なみのこ亭名物のブイヤベースなどが次から次へと運ばれてくる。
それだけでなく、中央の火鉢では貝や縦に割った大きなエビにバターを乗せて焼いている。目にも鮮やかで、海の青や街並みの白に映えていた。
香ばしい香り、風味豊かな料理。魚介料理の味はあまり馴染みがないものの、ホッとするような旨味がある。それは普段暮らす地を離れ、遠くの異国へと来ているような気持ちにさせてくれた。
談笑の声と爽やかな陽射しに、これまでずっと抱えてきた“公爵夫人”としての重圧と緊張がほぐれていく。今だけは、父も存命だった頃の自分に戻れているような気がした。
過去に置き去りにした涙の匂いが、潮風に乗って消えていく。昼食後はまだ見て回れていないお店を見て、いよいよ海へ行くことになっている。ウィステルは小さく胸を弾ませながら、料理を口へと運んだ。




