第13話 優しさだから突き刺さる
お茶会を終えたウィステルは侍女たちに混ざって片付けを終えたあと、一人で遅めの昼食を済ませた。そうしてようやくゆっくりしようとしたところで──なぜかフィセリオの執務室に呼び出されていた。
執務室に入るなり、空気に重さがあるのではないかというほどの静けさに包まれる。いや、重さというより、張り裂けそうな沈黙に、刺されているようですらあった。
「あの、ご用件というのは……?」
個人的な話であれば、就寝前に寝室ですればいいはずだ。わざわざこの時間に、ジャスミンやエルウッド、数人の侍女たちまで呼びつけているのには理由がある。
フィセリオは目を伏せ、重々しく息を吐き出す。いつも皆の前では絶やさず微笑みを貼りつけている彼が、明らかな不快を示して眉間にシワを寄せていた。
「茶会で、いわれのない謗りを受けたと報告があった。どこの誰だ」
スッと開かれた銀灰の瞳が、研ぎ澄まされたナイフの切っ先のように鋭く閃く。微笑みの演技だけでなく、怒りの演技まで迫真だ。けれどそれは“怒り”というより、粛々と裁きを下すような冷たさが潜んでいるように見えた。
「また、フェアファクス家か……?」
彼の母であるヘレニーテの件もあり、さすがに誰が中心であったかは聞かずとも理解しているということか。それとも名指しで報告が上がったのか。そして、報告したのはジャスミンか、ここにいる侍女たちの誰かか、はたまた全員か。
きっと扱き下ろされていたウィステルを思っての行動だ。ヘレニーテと同じ道を辿らせるわけにはいかない、と。善意と忠誠心が強く出ただけなのだろうが、それが皮肉にも“愛し合う夫婦”の首を絞めていた。
「過ぎたことはもう良いのです。わたくしは気にも留めていません」
「良いわけがない。君を侮辱したのだ。それはキャスバート公爵家を侮辱したも同然だ」
「……では、抗議なさるおつもりですか?」
フィセリオは息を止め、瞬きを一つ落とす。その一瞬の動きは、まるで首を刎ねる刃のようだった。
「当然だろう」
そこに、深い嘘の匂いが漂う。フィセリオも、ここで抗議することが得策でないことは理解しているようだ。感情的にフェアファクス家との関係を悪化させても良いことなど一つもない。むしろ相手の術中にまんまと嵌まりにいくようなものだ、と。
けれど、彼は報告を聞いてしまった。“妻を愛する夫”を演じている以上、臣下たちの手前、怒りを示さないわけにはいかない。
つまり、表立って「我慢しろ」「そのくらい当然だ」「抗議は損だ」と、ウィステルに言うことができないのだ。ならばウィステル自身が、望む方向に収束できるよう導くしか道はなかった。
「そのようなこと、望んでおりません。全ては、わたくしの不徳の致すところです。罰するのなら、どうかあなたの名を汚したわたくしを」
ウィステルは処刑を待つ罪人のように、あるいは忠誠を誓う騎士のように頭を垂れた。ここまでやれば、相手へ抗議しないことを“仕方ない”と侍女たちも納得するだろう。
「……ならば、顔をあげろ。公爵の妻が、そんなみっともない顔で俯くな」
顔を上げると、ウィステルを見据える彼の視線と視線がまっすぐに交わる。そこにはもう刃のような冷ややかさはなく、湖面に映る月のような静けさと柔らかさを取り戻していた。
「胸を張れ。君が恥じる部分など、一つもない」
「……はい」
それはウィステルにとって、少しだけ意外な言葉だった。嘘もなく、自身を認めてくれるような優しさを投げかけてくれるなんて想像もしていなかったからだ。それでも今はその優しさすら、不甲斐ない自分を突きつける皮肉のように、胸の内側に響いて止まなかった。
* * *
その夜、身支度を終えたウィステルは寝台の上で文箱を開いていた。中には、兄ローワンから届いた手紙がいくつも収められている。柔らかく部屋を染める魔石灯の明かりが手紙一枚一枚を照らし、その裏に深い影が差していた。
正直、今日の出来事に堪えていた。フェアファクス一派からの言葉ではなく、侍女たちの優しさが……残酷なほどに、胸の奥に刺さっていた。
あんなふうに心配されてしまうほど、わたくしは頼りなくて、不甲斐ない。
公爵夫人として皆を守るどころか、不安にさせて気遣わせて……
それが、あまりにも悔しい。未熟で無力な自身に自己嫌悪し、拳を握りしめる。ラティマー家にいた頃は、こうして何か壁にぶつかるたびにローワンに話をしていた。ここにはいない兄に話しかけるように、手紙を一枚開く。
故郷の匂いが感じられそうなほどの、馴染み深い筆跡。そこにはローワン自身の近況と、ウィステルを心配して励ますような言葉が書かれていた。
今回のことを話していたら、ローワンはどんな助言をくれただろう。悩みを打ち明けると、兄はいつも静かに耳を傾ける。真剣に言葉をくれることもあれば、笑い飛ばしてくれることもあった。そうして最後には大体こう言うのだ。
『大丈夫、お前には兄様がついてる。思うままに進めばいい』
どの手紙を読んでも、ローワンはウィステルを信じてくれている。その信頼を裏切りたくはない。兄の助言がなくても、これからは自分の力で切り拓いていかなければ。
たった一度上手くいかなかったくらいで、落ち込んでいる場合ではない。公爵夫人は俯くなと、フィセリオも言っていたではないか。
「手紙を読んでいるのか?」
声をかけられ、ウィステルは内省の海から浮かび上がる。寝室へと戻ってきたフィセリオは、広げられた手紙に視線を向けていた。
「はい。少し兄から元気を分けてもらおうと思いまして」
「今日のことを気にしているのか。フェアファクスの戯言など真に受けるだけ無駄だ。思い詰めると母上のようになる」
フィセリオは小さく息を吐きながら寝台へ上がり、ウィステルの隣へと腰を下ろした。ヘレニーテを思い出しているのか、彼の声は憂えているような、感情の重さを伴ったものだった。
謗りを受けたことを気にしていると思われたらしく、優しく励ましてくれている。ヘレニーテが、フェアファクス公爵夫人のロクシーナによって心を病んでしまったこともあり、ウィステルのこともそれなりに気にかけているのかもしれない。けれどウィステルが気にしているのは、そこではなかった。
「いえ、そうではありません。皆に心配されてしまうほど頼りないのだと……思い知ったんです」
「そんなことはない。君はよくやってくれている」
「いいえ。キャスバート家の評判を損なうような妻など、要りませんでしょう」
フィセリオは静かに息を呑むと、それ以上何も口にしなかった。その沈黙は、否定でも肯定でもなく、ただ立場と責任を慮ったものであることは伝わってきた。
フィセリオは無言のまま、広げられた手紙の一枚をおもむろに手に取る。中身はなんてことはない、彼に読まれても問題のないようなものばかりだ。
「先代が亡くなって、一番苦しかったのはきっと……一人で家を背負うことになった兄だと思います。けど、そんな素振りを見せたことは一度もありませんでした。この手紙と同じように、わたくしの心配ばかりで……」
「ローワン殿は、私の兄に似ているな」
「エオナック様に、ですか?」
エオナックは、すでに亡くなったフィセリオの兄だ。彼が以前、目標にしていたと話してくれた人物でもある。
「士官学校時代に兄上が送ってきていた手紙と、内容が似ている。体が弱いのに、風邪一つ引かない私の心配ばかりしていた。この感じは……少し懐かしいな」
フィセリオはウィステルから視線を外すと、一瞬だけ伏し目がちになる。フィセリオは懐かしそうに目元を和らげながら、再度手紙へと視線を戻した。いなくなってしまった兄の名残を追いかけるように、彼の指が文字をなぞっていた。
「フィセリオ様から見て、エオナック様はどんな方だったんですか?」
「……そうだな……穏やかで、そこにいるだけで雰囲気が明るくなるような人だ。誠実で利他的な、だが賢明な人だった。私が“微笑み公爵”などとふざけた呼び名をつけられたのは、兄上を真似たせいだろうな」
フィセリオはどこか自嘲めいたように笑いながらも、眼差しは温かかった。兄を目標にし、それを当主たるべき姿として模倣したことで“微笑み公爵”という呼び名がついた。それは兄という理想に近づいた証であり、それによって彼という存在が埋もれていくという皮肉でもあった。
しかしいつもの姿が、まさか兄の模倣……演技だとは思いもしなかった。だとすれば、今見えているフィセリオは何者なのだろう。どこまでがエオナックの模倣で、どこからがフィセリオ自身なのか、ウィステルにはわからない。
それでも、憧れの兄のような人でありたいと自分に強いてでも理想を成そうとする思いは、間違いなくフィセリオのものだと確信できる。それだけで十分、信頼できる。
「今でも、キャスバート家は兄上が継いでいた方が良かったと思うことがある。真剣に政務に向き合えば向き合うほど、己の不甲斐なさに頭を抱えたくなる日があるものだ」
冷徹で合理的で、微笑みも演技も完璧な彼でもそんな日があるのかとウィステルは目を丸くした。こうして自身の中にある弱さを打ち明けてくれたことも、本心を見せてくれたことも、そういう形で励まそうとしてくれていることも。全てが意外だった。
「わかりやすく驚いた顔をしているな。何も悩みのないお花畑にでも見えていたか?」
「あぁいえ、そういうわけではなく! そういった話を聞かせてもらえると思っていなかったので……」
「エルウッドの言う通り、君にも兄に似た部分がある。余計なことまで話してしまうのは、そのせいかもしれないな」
フィセリオはどこか気の抜けたように、肩を小さく揺らして笑っていた。本当に心から笑いかけてくれていると錯覚しそうなほど、自然体に。
「あぁ、そういえば、君に話そうと思ってたことがあったのを忘れていた」
「なんでしょうか?」
「近々、少し休暇を取ろうと思っている。遅くなってしまったが、どこか新婚旅行へ行かないか?」
「しんこんりょこう……? え、新婚旅行、ですか!?」
「そんなに驚くようなことだろうか?」
「フィセリオ様はお忙しい方ですから、無理だと思っていました……」
フィセリオに訝しまれ、ギクリとぎこちなく心臓が跳ねる。フィセリオはウィステルが“愛されていない”と気づいていることを知らない。ましてや嘘を匂いで見抜かれているなど、夢にも思っていないだろう。能力のことを知られるわけにもいかず、とっさにごまかした。
「えーっと……もしかして、わたくしが落ち込んでると思って……気分転換に誘ってくれたのですか?」
「いや、そういうわけではない。たまたまタイミングが合っただけだ」
自分でも「何を言っているんだ」と思うようなことを口走って後悔していると、突然嘘の匂いが強く香ってくる。
え、え……図星?
今の言葉が嘘ということは、つまりウィステルを心配して新婚旅行を提案してくれたということになる。タイミングも偶然ではなく、政務を調整してくれたということで間違いなさそうだ。
「無理強いはしない。君が行きたいと思えたらでいい」
「ぜひ行きたいです。せっかく誘ってくれたんですから」
心の奥に明かりが灯ったように熱を宿す。心の水面に波紋を広げ、そわそわと期待に胸がふくらみ始めていた。
返事を聞いたフィセリオの口角が、緩やかに上がる。嬉しそうにも見えてしまう表情に、なぜだかギュッと心臓のあたりが締めつけられた。
「ならよかった。どこか行きたい場所はあるか?」
フィセリオに行き先の希望を聞かれたウィステルの頭には、真っ青な海と空と白い砂浜の風景が浮かぶ。それは写真のような鮮明なものではなく、絵本の挿絵のように淡くぼやけていた。
「……わたくし、一度海を見てみたいです。まだ本物の海を見たことがないので」
ラティマー領は内陸で、海とは縁遠い場所だ。海までは距離もあり、気安く行ける場所でもなければ、そんなお金の余裕はどこにもなかった。ただただ、本の世界の挿絵や文字からなんとなく知識だけはあって、そこから想像したりする程度だ。
「今の季節だと泳いだりはできないが……」
「ふふ……見たいだけなので、そこは大丈夫ですよ」
「なら、希望通り海にしよう。楽しみにしていてくれ」
「はい……!」
ウィステルの一声で話はあっという間にまとまり、行き先が海に決まる。と言っても、キャスバート領だけでも海沿いの街はいくつかある。その中のどこに連れて行ってもらえるのだろうか。
楽しみにしていてくれという言葉が、ツンと胸に沁みた。あんなにも優しさが残酷に刺さったのに、今は優しさでその棘が静かに溶かされていく。
過度に思いつめたことをウィステルは反省していた。心配をかけたことや不安に晒したことは、未熟な部分があったせいだと考えている。
ただ、侍女たちの心配は、ウィステルを大切に思ってくれているからこそのものだ。それは公爵夫人だと認め、壊れてしまわないよう支えたいと思ってくれているということでもある。
そのことに、ようやく気づけた。そしてそれは、フィセリオが演技の仮面の奥から覗かせた、一欠片の本心のおかげだった。




