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第1話 鐘の音は祝福を奏でない

──どうして彼は、自分の心を偽ってまで……嘘に(まみ)れた愛を囁くのだろう。


 雲一つない澄んだ青空に、祝福の鐘が高らかに響く。けれどウィステルにとってそれは、空っぽの瓶の中でガラス玉を転がすような音に聞こえた。


「誓いの口づけを──」


 ベールで白く霞んだ視界が、彼……フィセリオの手によって持ち上げられた。


 陽光を受けたフィセリオの紺色の髪が、柔らかく青く透ける。銀灰の瞳はまるで鏡面のように、ウィステルの髪の淡い紫を映していた。


 柔らかく細められた眼差し。穏やかな表情。美しい彫刻のように、計算され尽くした微笑。


 彼は唇を、ウィステルの頬へと寄せる。一瞬だけ掠めるように、ヒヤリとした感触がした。


「私、フィセリオ・キャスバートは、生涯君を愛し、幸せにすると誓う」


 その瞬間、くらりとするほどに濃く甘く“香る”。よく熟れた柔らかな果実が腐りかけているときのような──人が嘘をついた一瞬にだけ香る独特の、匂い。


嘘の匂いを感じる体質でなければ、わたくしはきっと、この完璧な笑顔(うそ)を信じていたのに。


「わたくし、ウィステル・ラティマーは、生涯あなたを愛すると……誓います」


 フィセリオは小さくクスッと笑うと、嬉しそうにはにかんだ。まるで恋に酔ったような熱を帯びた瞳に見えるのに、それすらも完璧に演じられた“妻を愛する夫”の仮面でしかない。


 この場には、彼の愛を疑い、政略の匂いを探している者もいるだろう。しかしキャスバート家側の利益は薄く、彼の完璧な微笑は愛を裏付けるように見る者を翻弄する。


そして『本当に、彼は恋をしているのかもしれない』と、静かに欺かれていくのだ──



* * *



──一ヶ月ほど前。


「あぁ……本当に来やがった。はぁぁ……」


 兄のローワンが、窓辺からこっそりと外を伺う。貧相な我が屋敷の前に、きらびやかで豪奢な馬車が一台停まった。馬車にはキャスバート公爵家の紋章が描かれた紅の紋章旗が掲げられている。


「ローワン兄様、そんな顔をなさらないで。これは我がラティマー領にとって、願ってもない話なんですから」


 ウィステルの家……ラティマー伯爵家は今、領地経営に苦慮している。先代当主である父が災害に巻き込まれて急逝し、二年前にローワンが引き継ぎもろくにできないまま、家督を継いだ。


 元より痩せた田舎の土地。天候不良による不作と災害。そして手探りの領地経営。父の代でギリギリ保っていた均衡は崩れ、一気に傾いた。


 見返りが期待できないラティマー領に手を差し伸べる者はおらず、むしろ搾取することしか考えない。孤立無援の中、兄の手腕でなんとか存続しているような状態だった。


「……本当にそうだといいんだけどな」


 ローワンは一枚の書状を手にし、深いため息をついた。書状を前にするといつも眉間にシワを寄せるが、今は一段と深い。


【貴家のウィステル・ラティマー嬢に、婚姻を前提とした縁談を申し入れたく、ご挨拶申し上げます。


一目お見かけしたときから忘れられず、貴家のことを知るほどに思いは募るばかりでございます。


微力ながらも公爵家の人間として貴領にお力添えしたく、近日中にそちらへと伺います。このご縁について、前向きにご検討いただければ幸いです。】


 キャスバート公爵家当主のフィセリオから、この書状が届いたのはつい先日のことだった。そうして今日、本当にここへ来たのだ。


胡散臭(うさんくさ)い……胡散臭すぎる……! 隣接地のくせに二年間何もしてこなかったじゃないか。それが急に“援助してやるからウィステルを嫁がせろ”って?」


 ローワンの言う通り、なんとも言えない胡散臭さがあることはウィステルも感じ取っていた。キャスバート領とラティマー領は山を挟んで隣接している。ラティマー領での災害や、当主の急死、その後の惨状を二年間全く知らなかったとは思えない。


 これまで援助の申し入れがなかったこと自体は、特に不思議ではない。見返りがないだけでなく、キャスバート家と敵対している家門の派閥に、二年前までラティマー家は所属していた。“しない理由”はいくらでもある。


だからこそ、ここで求婚と援助の申し入れがあることが“異常”なのだ。


「薄気味悪いにも程がある。裏がありますって言ってるようなもんだろ、こんなもん」


 げんなりとした顔で吐き捨てながら、ローワンは執務机に書状を叩きつける。あまりの雑な扱いに、思わず苦笑が漏れた。緊張感を持って臨むべき場面を目の前に、少しだけ心がほぐれていく。


「気持ちはわかりますが、言い過ぎです。相手は公爵様ですからね?」


 ローワンの感覚は、ウィステルにも理解できる。フィセリオ・キャスバート……彼は皆から“微笑み公爵”と呼ばれている。常に崩れない美しい微笑に、穏やかな人柄。けれど交渉事では一歩も引かず、実利主義だとも言われている人物。


 ウィステルは夜会の挨拶以外は、遠巻きにしか彼を見たことがない。地位も高く、華やかで人当たりも良い彼は社交場での人気者だった。多くの令嬢に囲まれては、困った顔一つせずに穏やかに談笑している。そういうイメージだった。


「まぁ、来てしまったものはしょうがない。出迎えに行くぞ、ウィステル」

「はい……」


 ローワンに促され、ウィステルは後ろに続いて歩く。フィセリオが実利主義だと評されている以上、この縁談には“何か”がある。


 自身の未来を大きく左右するであろう対面。油断して足元を掬われないようにと、警戒心が糸のように張り詰めていた。


 門を開いて出迎えると、馬車から一人の男性が降り、颯爽とこちらへ向かってくる。その堂々とした風格と遠慮のなさに気圧(けお)されながら一礼すると、彼も丁寧な所作で会釈(えしゃく)した。


 深い紺色の髪に、冴えた月のような銀灰色の瞳。キャスバート公爵家当主のフィセリオで間違いない。けれど、そんな高貴な立場にも関わらず、今日は御者と執事を一人ずつしか伴っていなかった。


「遠路遥々、ようこそお越しくださいました。まさか公爵家の当主であるあなた様が、このような小領までお越しくださるとは……」

「謙遜はしなくていい、ローワン殿。貴殿の献身と努力は、以前より耳にしている」


 フィセリオは以前社交場で見かけたときと変わらず、華やかな雰囲気をまとっていた。穏やかな笑みを湛えてローワンに応対したあと、ウィステルを見つめる。視線が合うと、まるで花でも愛でるように笑みを深くした。


「突然の申し入れに驚かせてしまったな」

「い、いえ……」

「社交場では人に囲まれてしまうことも多くて……やっと今日、君に会えた」

「わたくしも、お目にかかれて光栄です」


 偽りのない言葉に、寸分の狂いのない笑み。彼を囲む令嬢たちが奪い合っていたものがウィステルだけに向けられ、月明かりのように降り注ぐ。


 けれどそれは想像していたよりも冷たく、まるで冷水を浴びせられたように体が硬直し、ウィステルは緊張と共にゴクリと小さく喉を鳴らした。

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