8.親友(自称)、登場
——目が覚めると、目の前には美少女の顔があった。
『っ! うわっ、心臓に悪いな……』
未だに心臓が飛び上がるのは、慣れていないからだろうか。こんなのに慣れは来てほしくないが。
なんだかんだ考えつつ、朝からその美顔を拝めて幸せな気持ちと、バクバクと鳴る心臓の鼓動の気持ち悪さで半々の気持ちになりながら上半身を起き上がらせる。
そしていつものように彼女を起こそうと、翔奏がその肩に手をかけようとした、そのとき。
『っ、瑞葉!?』
そのきれいな少女の瞼の隙間から、透明な水滴が流れていた。それは、頬を伝って枕を濡らしていく。
『瑞、葉……』
夢の中で泣いている目の前の人に掛ける言葉も見つからず、翔奏はなにもできず、じっと黒髪の少女——瑞葉を見つめる。
そういえば昨日の夜、瑞葉はなぜか弱々しかった。いつもなら翔奏をいじるところもいじらず、ベッドに入れと催促もせず、一言で表すなら、雰囲気が暗かった。
それに、翔奏がベッドに入ると、なにも言わずに抱きついてきた。それがふざけている雰囲気ではなかったので、翔奏はそのまま抱きつかせたのだが。
……なにが、あったのだろうか。
そう思ってもなにもできていない自分に居ても立ってもいれず、いつのまにか翔奏は瑞葉の頭をなでていた。
こんなことしかできない。そんな自分に腹が立ち、でもこれは今瑞葉がしてほしい一番のことだと、そう思った。
なでながら、翔奏は考える。
瑞葉が弱々しかったのは、なにも昨日だけのことではない。今までも何回かあったし、そりゃ人間だから喜怒哀楽の上下くらいはあるだろう。
だが、昨日は段違いで暗かった。いつもの瑞葉からは考えられない、まるで逆のような性格になっていた。
『んむぅ……あ、おはよう翔奏くん』
……やっぱり、瑞葉にとってよくないことが彼女の周りで起こっていることは間違いない。だからこそ、瑞葉もあんなに暗くなっているのだろう。
だが、あの瑞葉がそこまで気分を落とすことなんて……、
『翔奏くーん? おーい』
……まさか。
最悪の想像が一瞬浮かんできて、だがすぐにその想像はかき消す。
そんなわけない。そうだ、そんなわけない。
だが、本当にそうだとしたら。
俺、は——
『翔奏くん!』
『うわぁ!?』
おそらくさっきから呼んでいたのだろうか、その声と顔の近さに翔奏は思わず後ろに跳んで、ベッドから落下する。
世界が、スローモーションで映る。
目の前では、咄嗟の出来事に反応しきれていないのだろうか、瑞葉が翔奏に手を伸ばしていた。その目には、まだ水滴がついていて。
だけど、昨日みたいな暗い雰囲気はなく、いつもの瑞葉に戻っているように見えた。
瑞葉が、瑞葉であるなら。
それだけで——
「翔奏!」
「っ!?」
瞬間、その声によって翔奏は唐突に夢から覚める。
勢いよく顔を上げて声の鳴った方向を見ると、一人の男子生徒が翔奏の机の前に立っていた。
「おはよう、翔奏。よく眠れたか?」
「……寝てたのか、俺」
「お前、何時に寝たらそんなボケができるようになるんだ?」
そうボケたつもりのないことを訊いてくるのは、クラスメイト兼自称親友の木蔦雀だ。どうやら地毛らしいその茶髪と周りから溢れ出ている爽やかなオーラが特徴で、スタイルが良く性格も良くのハイスペック人間だ。クラスの中ではカースト上位にいると思う。
そしてこいつは、普通の翔奏と唯一関わってくれる、相当の変わり者だ。決して悪意ではなく、むしろ感謝しているのだが。
翔奏は雀の質問に返事を返さず、ぐっと伸びをする。
「っあぁ……、あれ、今何時限目?」
「もう放課後だぞ、とっくのとうに授業は終わってる」
「嘘!? さっきまで五時間目だったよね!?」
「お前の特技は二時限分の授業を寝過ごすことだな」
「ハッハッハ!」と人の少なくなった教室の中で大声で笑う雀。そんな姿が日常なので、特に咎めず翔奏はおとなしく帰る準備をする。
と、あることに気づき翔奏は教科書片手に雀に話しかける。
「あのー、雀。できれば寝過ごした分の授業ノート見せてほしいんだけど」
「懇願したらいいぞ?」
「え、やだ」
「人にものを頼むときの態度が分かってないみたいだな。よし、貸そう」
「文脈がおかしいことに自分で気づかない?」
「悪いな、オレは寛容な人間なんだ」
「…………ああ」
「とてつもなく微妙な反応はやめてくれ」
ほらよ、と雀は自分のノートをリュックから出して翔奏に渡す。まったく、こいつは優しすぎる。これがハイスペックか。
ありがとうと言って、翔奏はそのノートと片手に持っていた教科書をリュックにしまう。思わず感嘆のため息を吐き、翔奏はリュックを背負う。
「っていうか雀、ホームルームが終わってから待っててくれてたのか?」
「ああ、オレ今日はなんも予定なかったし」
「……いつもすまんな、本当に」
「いいってことよ、その代わり翔奏がオレを親友だと認めてくれるんならな」
「ごめん最近耳に大豆が詰まってて。もう言わなくていいから帰ろう」
「じゃあ膝枕して耳かきしてあげようか、保健室から借りてくる」
「気持ち悪いからやめてくれ……」
「ひどいなぁ」と雀は笑いながら返してきて、二人は教室を出る。
雀は自分のことを「翔奏の親友」と言っているが、翔奏はそれを認めていない。決して嫌っているわけではなく、本当の理由は本人にも言っていないのだが思うところがあり、だから認めていない。
まずまず、「親友」なんて言葉はどうせ言ったところで陳腐になってしまうだけなのであまり翔奏自身は好きではないのだが、言いたいなら言えという感じだ。親友ほど言葉に表すと無価値になる言葉はないだろう。
……そもそも、親友も、友達も、作るつもりないし。
ただ、純粋に接してくれるのは嬉しいと思っているし、その気持ちを無下にできないとも思っている。これは自分自身のためではないと、信じたい。
よく雀に、周りの人が「なんでこんな普通の奴とつるんでいるのか」と質問することがあるらしいのだが、それを雀はすべて「オレが誰と一緒にいようとオレの勝手でしょ?」とバッサリ切り倒しているらしい。小説の手本のようなきれいな返し方だな、と聞くたびに思っている。
だが、雀のその言葉に嘘が混じっていないことを翔奏は知っている。ただの定型文の羅列でないことも、分かっている。雀はそういうことをする人ではない。
今日は本屋に寄ろう、と教室を出た時に雀が言い出したので、翔奏はそれに賛同し昇降口まで歩いていく。
「なに買いたいんだ?」
「この間ネットで見た小説が書籍化されたらしくてさ。それ買いたいんだよなぁ」
「……事前に聞かなくても大丈夫?」
「まあ、あそこの本屋なら大丈夫だろ。あそこでオレが欲しいと思った本がなかったことはない」
自信満々に言う雀を横目に、靴ロッカーに上靴をしまう。
雀は茶髪とチャラい見た目をしているが、意外と読書家だ。あるネットの小説に心を惹かれたんだとかで、そこから小説にハマりだしたらしい。翔奏もまだ極意(?)を教わっている途中だ。
靴を履きながら、なにを買おうかと考えていた、その時。
「ねぇ、木蔦くん」
後ろから、なにやら甘い声がした。
なにかと思い雀と同時に振り返ると、そこには明らかに位が高いだろう女子が一人と、その子分みたいな人たちが二人——要するに、学園物の物語で一組はいるだろう女子グループが、いた。
なにを話されるのか察しはついたと思うのに、優しいからなのか、雀は靴を持ったまま女子の方を向く。
「なに、なんか用?」
「ちょっと、あの……」
そうして、位が高いだろう女子は翔奏を興味のないような目で一瞥し、すぐに雀に視線を戻す。
「木蔦くんに、大事な話があって……」
もじもじと、少し下を向きながら言う女子の姿を見て——
——翔奏は、げんなりした。
またか、と。
今週何度目か分からない光景に、翔奏は内心で大きなため息を吐く。
雀も同じことを思っているはずなのだが、さすが雀だからなのか一切表情を変えず、無意識にいつものクールさを醸し出す。
「ごめん、オレ今から用事あって……」
「五分だけでいいから、五分だけ! お願い、木蔦くん!」
「そう言われても……」
断ろうとしている雀に、語尾に感嘆符がつくような言い方をした女子は距離を詰める。まるで迫られているようにも見えない構図たが、雀は一切動じず、いつもより少し細い目でその女子を見る。困惑している素振りを見せるのは、口頭だけだ。
「ねぇ木蔦くん、お願いだから! ここじゃできない話なの!」
「…………」
「ほら、こっちだから!」
案内しようとしたのか、女子は黙った雀の右手を無理やり握る。
そしてその瞬間——雀の目が、見開かれた。
驚いたのではない。恋愛的な緊張でも、動揺でもない。
その顔にははっきりと、嫌悪の怒りが示されていた。
その光景を見て、焦ると同時に翔奏は思う。
——やばい。
「ねえ木蔦くん、すぐに終わるから! だか」
「勝手に触るな」
そう言うと、雀は握られた手をパッと振り落とす。そしてその拍子に、女子の手が雀の右手から離される。
存外に力が強かったのか、それとも演技なのか、払われた少女は手を押さえながら一歩後ずさる。
その顔には、困惑と、明らかな怒りが浮かんでいた。
「な、なにするのよ! いきなり手を払って、失礼じゃない!」
「……話にならねぇな」
少し低い声で言うと、雀は目を閉じて小さくため息を吐く。
「話したことがなくて、親しくもない人に急に話しかけられて人の時間をくれと言われる。それは許す」
だが、と。
雀は鋭くした眼光で、その女子——ではなく、女子の眼を見る。
「触れるのは、だめだ」
「……な、なによ、それ」
まるで理解ができないというように、気圧された女子はつぶやくように言う。
「なによ、それ! 触れたっていいでしょう、スキンシップってやつよ! そんなのもできないなんて、あんた男失格だわね!」
「……どこかで、聞いたことはないのか?」
「は?」
脈絡のない突然の言葉に、激昂した女子は思わず疑問符を上げる。
この様子から見ると、本当に知らないそうだ。まああくまで噂でしかないのだが、こういう系の人が知らないとは珍しい。
場が緊張する。
雀は、眼を睨みつけ、ゆっくりと口を開く。
「木蔦雀には、」
——触れてはならないって
その瞬間、女子の顔が一変した。
さっきの剣幕はどこへやら、その恐怖に圧されて青ざめな顔をする。
凍るような空気の中、女子は無意識に反芻する。
「……木蔦雀には、触れては、ならない……」
きっと忘れていただけで、どこかで小耳に挟んだことくらいはあるはずだ。それほど、この言葉は有名だ。
「行こう、翔奏」
「……うん」
女子三人を置いて、二人は昇降口を出る。最後に見たその女子は、魂の抜けたような顔で床に座り込んでいた。
視線を戻し隣を見ると、さっきの恐い雀の面影はなく、いつもの表情に……だけど少しこわばった表情をしていた。
翔奏は雀に話しかける。
「……あれ、また告白だよね」
「だろうな」
少し低い声で答えた雀に、その後に続く言葉が思いつかず翔奏はなにも言わずに前を向く。
カーストが上位の男子は、なにかと周りの女子から告白されることが多い。もちろんそれは逆も然りなのだが、限って告白してくる相手はカーストが高い女子が多く、なんでカースト上位界ではそんな文化が出来上がっているんだろうと不思議で仕方がない。
しかも雀は顔面偏差値も高いし、告白される確率も高い。たしか今週だけで二、三回は告白されていたはずだ。
翔奏はさっき女子に握られた雀の右手を見て、言う。
「手、洗わなくて大丈夫なの?」
「……思い出させないでくれ、親友よ」
「あ、ごめん……」
軽く、雀は右手首を振る。
さっきの言葉——木蔦雀には触れてはならない。意味は言葉の通り、雀には触れてはいけない、という意味だが、それは雀に告白をした人から広まっていった噂だ。
さっきのように無理矢理話ができるところに連れて行こうとする場合、大抵の場合は手を掴む。そうすれば、その後が簡単になるから。
だが、雀の場合は逆だ。
触れれば、さっきのように払われる。
だから「木蔦雀には触れてはならない」なんて意味深なワードが広まっていったのだ。
雀自身はこの言葉を嫌っているみたいだが、さっきのような場合は、ごくたまにだが使っている。最終手段のような感じだろう。
「ちょっとそこで手洗ってくるから、校門で待っててくれ」
そう言い残すと、翔奏が頷く暇もなく雀は走って校庭の水道へと走っていく。あっという間に遠くなった背中を見て、元陸上部の走りは伊達じゃないなと思う。
雀は、気分で触れるを拒否しているわけではない。そういうことは絶対にしない人だ。
じゃあ、どうして触れるのがだめなのか。
答えは単純明快。それが無理な体質だからだ。
人同士の接触が無理。他は問題ないのだが、本当に、それだけはだめなのだ。
雀も本当は、人の手を払うなんて暴力的なことはしたくないらしい。でもどうしても昔の記憶が蘇って、一刻も早く逃れなければという圧迫感に襲われて思わず手を払ってしまうんだそうだ。
理由もなしに、こんなことをする人ではない。だからそういうことをするのには理由があり、それは彼の家のことが大きく関わってくるのだが……。
思い出そうとしたその時、雀が帰ってきた。
「翔奏、帰ってきたぞ」
「あ、うん。……行こうか」
「……あいよ」
顔も洗ってきたのだろうか、少し前髪が濡れていたがそのことについては尋ねず、二人はそのまま駅の方へと歩き出した。
橙の空の光が、影をつくる。
カーストが高いというのは、決していいことではない。
ましてや、普通の人間が背伸びしていいことなんていいことはないんだと、雀を見て思ってしまった。
8.親友(自称)、登場




