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7.少女の涙

 次の朝。翔奏はかすかなアラームの音で目が覚めた。


「んん……眠い……」


 寝ぼけ眼をこすりながら上半身を起き上がらせる。さっき聴こえたアラーム音は、もう止まってしまったようだ。

 ふと、膝にだけ異常な重力がかかっていることに気づき、不思議に思い膝を見る。

 すると。


「っ!?」


 そこには、翔奏の膝で寝ている少女がいた。そしてその少女の顔は、()()()()()()()()()()()


「みずっ!? ……ああ」


 だがすぐに今日の未明の出来事をすべて思い出し、翔奏は一人で納得する。


 自分のベッドで寝ている見知らぬ少女に出会って、まあそのあといろいろとあって(ここは省略する)。そういったことがあって今翔奏は、その少女を膝枕しながら寝ていたという状況に至っていた。

 いやそんな一、二時間でありすぎじゃないかと思うが、なぜかあの時間はすごく長く感じられた。つまらなかったからではない、ひとつひとつのことが濃密すぎたのだ。


 膝ですやすやと寝息を立てて気持ちよさそうに寝ている少女の顔を見る。


「……いいなぁ」


 なんのことに言ったのか、自分でもわからない。だがその言葉は間違いなく、少女に向いていた。

 間違いなく、目の前にいる少女に。


「っはぁ……」



 そんなことを思ってしまう自分が、やっぱり嫌いだ。人のことを羨んでも、自分が変われなかったら意味なんてないのに。

 自分の忌々しさに嫌気が差してきた、そのとき。


「……え?」


 膝の上で瞑っている少女の目から、一粒の涙が零れた。

 透明なその滴は流れるように頬を伝って、翔奏の膝に落ちていく。

 どこまでもかわいらしくて、どこまでも瑞葉に似ているその顔から、雫が滴る。


 その一連の動作を見終わったあと、ようやく翔奏は少女が寝ながら泣いているんだと気づいた。


「…………」


 無言で、その横顔を見つめる。

 笑っているのに、泣いている。その姿になぜかまた既視感を覚え、なにもできない翔奏はただ見ることしかできない。


 だがやがて少女は小刻みに肩を震わすようになってきて、さすがに見ているだけだと思いやられるので翔奏は少女の背中をゆっくりとなでる。


「……大丈夫だよ」


 優しくささやくように、かつて一番隣にいた人が言っていた言葉を、今膝の上にいる少女が言っていた言葉を、かける。


「……ごめん、こんなことしかできなくて」


 背中をなでることしかできなくて、大丈夫だよなんて無責任な言葉しかかけられなくて、それしかあげられなくて、ごめん。そんな意味を含めて、翔奏はそう言った。


 しばらくなでていると少女も夢の中で落ち着いてきたようで、肩の震えが収まってきた。表情も少しこわばっていたのがなくなったので、翔奏は安堵する。


 机の上の時計を見るとそろそろ七時になりそうな時間だったが、登校時間は問題ないので、さっきとは違う、無防備な少女の寝顔を見つめる。

 不覚にもかわいいと思ってしまうのは、また瑞葉と似ていると思ってしまうのは、きっと、脳のバグだ。


 また十数分経ったとき。


「んん……」


 起きたらしく、少女は少し動き、かわいらしい唸りを上げる。

 もぞもぞとしたあとにその紅い瞳が見えたとき、翔奏は声を掛ける。


「みずはさん、おはよう」

「え……? あ、翔奏さん、おはようございまふ……」


 一瞬認識できなかったみたいだが、すぐに翔奏だと分かったようで少女は寝起きの語尾で返事を返してくれた。

 目をこすり、改めて少女は紅い瞳を開ける。

 少女と翔奏が見つめ合う。


「……え?」


 だがしばらくして、この状況のおかしさに気づいたようで少女は寝起きのかすれた声をあげる。

 そんな少女を見ないふりして、翔奏は首を傾げる。


「どうした?」

「ど、どどど、どうしてこんなに近いんですか?」


 すると少女はそう言いながら、その近さに身を縮こまらせ翔奏を怯えたような目で見る。見ないふりはしなかったほうがよかったのか……?


「や、やっぱりそういうことを……」

「違う違うまじで誤解しないでくれ」


 はぁ、ため息を吐き、どう説明したものかと翔奏は視線を彷徨わせながら考える。


「えっと、まず順を追って説明するんだけど」

「……はい」


 そう翔奏は切り出して、今日の未明の話をする。少々記憶違いもあるだろうが、決して他意はないので気にしないでおく。

 そうして、翔奏が話し終わると。


「はぁぁあああ……!?」


 話している途中から赤くなっていた顔がついに限界を迎えたようで、少女はやかんが湧くような音を出しながら耳の先の方まで赤く染める。

 きっと羞恥心で焼かれているのだろう。翔奏も若干赤くなってはいるが、どっちかというとされた身なのでそんなに羞恥心は感じないのだが。


 少女は両頬を手で押さえて、頬の赤らみを隠すような行動をする。


「そ、それ、それって、ひ、ひざ、ひざ、膝枕……」

「気にするのそこなんだ……」


 思わず翔奏は突っ込む。てっきり自分の恥ずかしいところをさらされて羞恥に追い込まれているのかと思ったが、結果的に「膝枕」という状況になってしまったことに顔を赤くしているらしい。


「と、と、とにかく、そのすみませんでした、こんな不躾者どもが膝枕などをしてもらってしまって」

「いや、そこまで思い詰めなくてもいいんだけど……」


 実際少し足が痺れている感じがするが、いくら「普通」だからといってもそこまでやわな身体ではないわけで。いや普通だからやわじゃないのか? いやでも……。


 そんなくだらないことを一生懸命に考えていると、少女の顔からはいつのまにか赤らみが引いていて、今度は執拗に自分の目の下を触っている。

 それを不思議に思い、翔奏は口を開く。


「どうした? なにもついてないけど」

「あ、いえ、そういうわけではなくて……」


 確かめるように、少女は声を小さくする。


「涙の痕、みたいなものがある気がして」

「……っ!」


 その言葉を聞いた瞬間、翔奏の記憶が思い起こされる。

 そうだ。この少女は、さっきまで——。


「なんで涙の痕なんか……私、泣いてましたか?」

「えっ、と……」


 言われて、翔奏は言葉を濁す。

 嘘を吐くのは違う。正直なことを言ったほうがいい。嘘は、勘違いを生むだけだ。


 だがもし言ってみればどうだろう。少女はまた、夢で見た記憶を思い出してしまうかもしれない。

 あれは決して、嬉し涙なんかではなかった。恐怖に戦慄しているような、そんな涙で、そんな表情だった。


 翔奏がどうしようかと視線を泳がしていると、少女は少し下を俯く。髪のせいで、目に影ができる。


「……ごめんなさい、意地悪な質問でしたね。悩ませるつもりは……」

「いや、それは俺が勝手に悩んでるだけっていうか……」


 言って、翔奏も視線を下に落とす。苛ついているわけではない。なぜか、申し訳なくなったのだ。

 少しの沈黙のあと、少女が軽く息を吸う音が聞こえた。


「……私、昔からこういう事が多くて。夢の中で見た記憶はないんですが、いつのまにか見ていたらしくて、起きたら涙の痕が頬についていることがよくあるんです」

「……そう、なのか」


 その話を聞いて、翔奏も思うところがあった。

 ふと目が覚めたら、なぜか頬から水滴が垂れていた。こんなことが、翔奏にもある。

 まさに今日の一時に起きたときがそうだったと思う。夢の内容はよく思い出せないが、多分なにか思い出したくないものを思い出してしまったのだろう、という感覚はある。そんなあいまいな感覚が、少女もあったのだろうか。


 ふと少女を見るとさっきのように肩が小刻みに震えていたので、翔奏は再び背中をなでる。


「……すみません、本当に」

「……このくらい、全然」


 翔奏は普通だから、かっこいいセリフも、気の利いた言葉も分からない。それが返って毒になるのが怖いのだ。

 だけどそれでも、もらったものは返したいと、そう思って背中をなでている。

 瑞葉のときは、なにも返せなかったから。あのときの過ちを繰り返したくはないから。ただ、それだけで。


 少女はトラウマから抜け出すように、何度も、何度も乱れた呼吸を整えようとする。その姿がどこか翔奏の記憶に刺さり、必死に抗うその姿から目が離せなくなる。

 だがそうしているうちにまた呼吸も収まってきて、少女は下を向いたまま、深呼吸をするように息を吐く。


「……ありがとうございます、翔奏さん」

「いや……うん、どういたしまして。落ち着いた?」

「はい、ある程度は」


 そう言う少女の腕はまだほんの少しだけ震えていたが、これ以上やって迷惑になってしまったら少女も嫌だろうし、翔奏自身も嫌なので背中から手を離す。

 落ち着いたのなら、よかった。そう思い、なんとなしに翔奏は時計を見る。

 すると。


「……四十分!?」


 時計は、七時四十分を指していた。

 いつもなら翔奏は七時前に起きて身支度、朝食、そこからのんびりと七時三十分くらいには家を出る。

 だが、今は歯も磨いていなければ顔も洗っていない状態で家服のままで床に座っている。


 一瞬現状を俯瞰で見たような気分がして、だがすぐに主点に戻り隣で翔奏の大声に驚いていた少女に声をかける。


「ごめんみずはさん、俺ちょっと学校の時間やばいから準備してくる!」

「え、あ、はい。……?」


 困惑する少女に内心で「本当にごめん」と思いながら、だが学校には行かなければいけないので翔奏は大急ぎで立ち上がろうとする。

 と、そのとき。


 バキッ


「えっ」

「へっ」


 突然、関節からしてはいけない音がして、動かそうとした足が固まる。その音を聴いたのか、少女の顔も瞬時にこわばる。

 激痛が、足に遅れてやって来る。


「っ、たぁあ……!?」

「大丈夫ですか!?」


 痛みに顔を歪ませた翔奏を見た少女は声を上げて翔奏に駆け寄り、その足を見る。


「もしかして、私が……?」

「いや、きみのせいじゃない。寝てたんだから、しょうがないでしょ」


 少女が言おうとしていたことが分かり、翔奏はすぐに否定する。

 だが少女は罪悪感に押しつぶされそうな顔をしたので、翔奏はこうするしかないと思い、足に力を入れる。


「大丈夫、そんなに痛く、ない、から……っ!」


 少女を心配させないために足の痛みを無視して立ち上がり、ドアに向かう。足が震えているが、そんなの気にしている場合ではない。


「わ、私も手伝います」

「大丈夫! 一人で行けるから」


 なるべく声のトーンを上げて返事をし、翔奏は壁を支えにしながら洗面所まで行く。しばらくすれば痛みが引いてくるだろう、そう思った。


 限界寸前の足で立ち、歯磨きと洗顔を済ませる。

 洗濯機の上においてあったブレザー類を取ってなるべく手早く着替え、翔奏はまだ痛い足のまま部屋に戻る。


 入ると、なにをすればいいのか分からなかったのか、真ん中で棒立ちしていた少女にリュックを取りながら言う。


「じゃあ、俺学校行くから。……いろいろと、ごめん」

「そんな……むしろこっちが謝らないと、」

「そんなに気にしてないから。じゃあ」

「は、はい。気をつけて……」


 少女が申し訳なさそうな顔をしていたが、翔奏は、ごめん、と小さく呟きながら部屋を出て行こうとする。

 すると、ドアを開けようとした背中に、少しうわずった声がかかった。


「あ、あの……いってらっしゃい!」



 ——その言葉を聞いた瞬間、あの頃とは違う意味で世界が止まる音がした。



 後ろを見て、翔奏は目を見開く。

 ()()()()()()()()。それは、二年ぶりに言ってもらった言葉。忘れかけていた、懐かしい声がその時に聴こえた気がした。


『いってらっしゃい、翔奏くん』


「……うん、いってきます」


 振り向いて、少し顔を赤らめた、だけど真剣な表情をした少女に、そう優しく微笑みかけて。


 いつの間にか少し足の痛みが引いていた翔奏は、二年ぶりに少し明るい気持ちで玄関を出た。




7.少女の涙

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