5.ぬるい水と気づき
——あったかい。
そんな感覚が、全身を襲う。
柔らかくて、優しくて、包みこんでくれるような、ずっとこのままでいたいと思うような泥酔感を伴っているそれに、軽く触れる。
——ぬるい?
なぜだろう。さっきまであったかいと感じていたのに、今度はぬるい。それは、決して心地よいものではなく。
段々と、自分の中でなにかが冷めていくのがわかる。冷たくなって、固まって、いつか忘れる。いつかそうなる気がする。
それはまるで、デジャヴのようで。このままではいけない気がして。
抜け出したい。気持ち悪い。こんなところに、いたくない。
そう願うほどに、どんどんと湯は水になっていく。
そうして、自分のからだを侵食していく。
抵抗しても無駄で、いつしかそれでいいや、とあきらめの気持ちが生まれる。
俺って、本当に——。
「ッ、ゲホッゲホッゲホッ! おえっ、はぁ、はぁ、はぁ、……」
刹那、翔奏は激しく咳込みながらそれから顔を出す。
目の前には、髪から滴り落ちる水滴がいくつも見える。
「ゲホッ、溺れてた……?」
どうやら翔奏は、風呂で顔を浴槽に浸からせたまま束の間に寝てしまっていたようだ。そのせいで呼吸ができなくなり急に目が覚めた、ということらしい。
「まだ髪も洗ってねえのかよ……」
髪がベタつく妙な気持ち悪さが嫌で、翔奏はすぐに立ち上がりシャンプーを手に取る。そういえば、「ぬるい」と感じたのは、浸かっていた湯のことか。ついさっきまであったかかったはずなのに、時間というのは本当に不思議なものだ。
シャンプーをし終わって、次に体を洗っていく。いつもならこのあとにまた湯に浸かるのだが、ぬるくなった湯に浸かるのはプライドが許さなかったし、追い焚きもガス代がかかるから入らないことに決めた。
上がって、バスタオルで全身を拭いていく。まだ髪から落ちてくる水をうざくて、頭を乱暴に拭く。
ふと、目の前の鏡が視界に入った。そこには、翔奏の上半身が映っている。
普通の顔、普通の髪、普通の鎖骨、普通の胸筋、普通の腹部。
——きもちわる。
自分の美貌に惚れる——なんてことは当然なく、一秒も経たずに目を逸らし、素早く手の先にあった新しい服を着る。
その隣にあった紅い宝石のペンダントをポケットの中に入れ、翔奏は洗面所を去る。ドライヤーは、めんどくさいからいいや。
タオルを片手に、自室へと直行する。
なんの気もなしにドアを開ける。
すると。
「すぅー……」
「っ! ……あぁ」
開けた途端に寝息が聴こえ、忘れかけていたさっきの記憶が掘り返される。
もう寝たのか、と思いながら翔奏は首にタオルを掛ける。
なるべく音を立てないようにして、翔奏はゆっくりとベッドに近づく。
「……瑞葉、なのか?」
「んん……」
少し唸り、少女は寝返りを打ってその顔がこちらを覗く。
その髪と顔は、確かにあの人と似ていて。
「瑞葉……」
かわいい、懐かしいその寝顔の頬に、そっと手を伸ばす。
ゆっくりと、ゆっくりと手を伸ばして、
その時。
「んん……、うわ誰!?」
「あ、ちょっ!」
急に目覚めた少女に翔奏は手を素早く引いて驚き、思わず後ろに尻もちをつく。
一方の少女は状況が飲み込めていないように翔奏を見つめる。
「ああ、翔奏さんですか……。え、今なにやろうとしてました?」
「い、いや、なにもしようと」
「でも、私のほっぺに手伸ばしてましたよね……?」
「そ、それは……」
一体、どう説明したものか。そう悩んでいると、少女はどんどん違う方に解釈していく。
「まさか、そういうことするつもりで……? そ、そういうのはもう少し、心の準備ができてからじゃないと……」
「そういうこと……? っ、いや違う、俺は決して」
「そして、私のファーストキスを奪うんですね!? 運命の人とする予定だったのに……。あ、でも翔奏さんもファーストキスですよね、どうせ」
「奪うつもりはないし、ついで感覚でディスのはやめてくれ」
「じゃあ、どういうことなんですか! 説明してください!」
「うっ……」
そう言って、目の前の少女はベッドから立ち上がって距離を詰めてくる。その拍子に精巧なその赤い瞳が、はっきりと目に映る。
(……本当に、瑞葉みたいだな)
その瞳も、仕草も。どこまでも瑞葉のようなその少女は、まるで刑事のような顔で翔奏を見ている。
翔奏は小さくため息を吐く。
「……昔、きみみたいな人がいたんだよ。瞳が紅くて、黒いストレートが特徴的な」
実際にはほとんどが同じなのだが、と思いながら言う。
似てないと言ったら、顔つきぐらいだろうか。あと、性格とか口調とか。今のほうが幼い、というかおとなしいように見える。
なんだか懐かしいような気分になり、俯いて言葉を紡ぐ。
「その人は、普通の模範みたいな俺に特別を与えてくれた。深海の底みたいな、暗い海から俺を連れ出してくれた」
思い出したくないはずの記憶なのに、その鱗片に触れた瞬間、言葉が堰を切ったように溢れてくる。
聞いている人がいるとかいないとか、どうでもいい。翔奏は独り言のように呟いていく。
「俺もいつかあいつみたいになりたかった。明るくて、きれいで、嘘のない人に」
「…………」
少女は黙ってその話を聞く。義務感で聞いているのか、聞きたいから聞いているのか。それは分からないが、翔奏の話は止まらない。
「ずっと一緒にいたかった。隣にいたかった。そうすれば、あいつみたいに特別になれると思ったから」
でも、と。
翔奏は息を吸う。
「気づいたんだ。結局俺は、あの人のそばにいて甘い蜜を吸っていたいだけだった。現実を見たくないだけだった。そのための、道具にしてたんだって」
翔奏が勝手にそう思っているだけなのかもしれない。思い違いかもしれない。
だが、そう翔奏が思ってしまった以上その考えは変えられない。変えられる人は、もういないのだから。
「恩を仇で返したんだ。もらうことしかできなかった。なにも、返すことができなかった。ものも、言葉も、表情も。なにもかも、もらってしかいなかった」
「……その人は」
少女に言われた瞬間、少女が次になにを言おうとしているのか察して、ズキンと頭が痛むような感覚がしたが素振りは見せずに短く答える。
「もう、いない」
そのひとことだけで、説明には事足りた。
それ以上も、それ以下もない。もういない。それだけが事実だ。
あの日、あの時の虚無感を、少し思い出す。
なにも、返せないまま。
あいつは、忽然と姿を消した。
ある日、突然と。
俺の、前から——。
もう、二年前だ。二年前のはずなのに、あの日の虚無感だけは、覚えている。
「涙も出ないなんて、薄情だよな。思い出したって、なにも感じないし」
嘘だ。なにも感じないわけがない。思い出すたび、胸が張り裂けそうなほどに痛む。そしてそれが耐えられなくて、また忘れたふりをする。
なんとも、残酷な人間なのだろうか。
苦笑すら出なくて、そう思った、その時。
「……どこが薄情なんですか?」
「どこがって……、そんなの、自分でも」
「だって涙、出てるじゃないですか」
「え……?」
驚きのあまり俯いていた顔を上げる。
すると、近くにあるはずの少女の顔が歪んで見えた。
涙。普通の人は流さない、涙。
「なみ、だ……」
その事実が受け止めきれず、翔奏はそれを拭うことも忘れてただ少女の顔を見る。
「ちょ、翔奏さん? なんで拭かないんですか?」
「……俺、泣いてるのか?」
「え? あ、はい、そうですけど……」
……そうか。
俺、泣けたんだな。
瑞葉がくれた特別は、まだ俺の中で生きていた。
小さくて、だけど絶対的な存在感を放っていた。
俺の中の、特別は。
「まだ、あったんだな……っ」
こんなことで泣くなんて、笑われてしまうかもしれない。
だけど、それは翔奏にとって大切なことで。
ボロボロと涙を流しながら俯き、翔奏はうまくできない笑顔でそう言った。
「……おかしな人ですね」
そんな翔奏を見ながら、少女は呆れたような、だが優しい笑みを浮かべて、そう呟いた。
*** ***
「まったく、なんであなたは涙を拭こうとしないんですか?」
「……すみません」
しばらく泣いたあと。
翔奏は、少女に涙を拭かれていた。
「私はあなたのお母さんではないんですよ」
「……じゃあ、やらなければいいでしょうに」
「それは、なんというか……母性本能というか」
ぎこちなく、少女は答える。母性本能って、年下に感じるものじゃなかったっけ? 少女の年齢は分からないが、見た目的に翔奏よりは年下のはずだ。
「俺のどこに母性本能を感じたのやら……」
「静かにしていてください」
「……はい」
なんとなしに言うと、少女がそう制してくる。恥ずかしさをごまかしたようにも聞こえたが、翔奏は言われた通り静かにする。
正直、翔奏にとってもこういうことは母親にもあまりされたことがないので、困惑している。こころなしか顔も熱い。
「……はい、これでいいので、目が腫れる前に顔洗ってきてください」
「はい……」
もはやだるさに抗う必要性も感じなく、言われたとおりに洗面台に行って水で顔を三回洗う。
洗い終わると憑き物が落ちたかのようなサッパリとした感じがして、そこら辺にあったタオルで顔を拭く。さっきまで持っていたタオルは、どこかへ行ってしまったらしい。
自分の部屋へと戻り扉を開けると、ちょうど少女は再びベッドへ戻ろうとしているところだった。
「すっきりしましたか?」
「え? ……ああ、まあ」
少し目を逸らして曖昧な返事をし、翔奏は机の上に立てかけてあるアナログ時計に目をやる。
時刻は、二時三十分を回ろうとしていた。
……腹、減ったな。
突拍子もなく、翔奏は思う。泣いたら腹が空くとは、このことなのだろうか。
そういえば寝過ごしてから夕飯を食べていないことに今気づき、なにか食べようとキッチンへ向かおうとする。
すると。
「まさか、今の時間からなにか食べようと思ってます?」
「えっ」
突然に後ろから聞こえた心読みに驚き、翔奏は少女の方を振り向く。
その目からは、相手の心を見透かそうとしているような鋭い視線が出ていた。
「……なんでわかったの?」
「ふっふん、勘です」
自慢げにベッドの上で腕を組みながら、少女はそう言う。
だが翔奏がその姿をジト目で見ると、少女は腕を組むのをやめて咳払いをする。面白かったのに。
「……それに、なんか落ち着かない様子でしたし」
「落ち着かない、って?」
「悪いことをしようとしている人の動きみたいでしたので」
「そんな動き、してた、か……」
少し疑問に思ったが、だがそれも当然だと思い直す。
翔奏は「普通」だ。普通の人は、深夜二時に夕飯を食べたりしない。そんなことをするのは追い込まれている社会人か、生活リズムが相当に狂っている人だけだ。「普通」の翔奏はそんなことはしない。
だから、深夜に夕飯を食べることに対する罪悪感から、無意識にそういう動きになってしまったのだろう。すぐに、そう思い当たった。
「深夜に何か食べるのはよくないですよ。消化も悪くなりますし、なにより生活リズムが崩れます」
「……でも、」
「ただでさえ遅いんですから、見ている私のためにもおとなしく寝てください」
「……はい」
結局押し負けて、お腹が空いている翔奏はベッドへと向かう。
——が、すぐに足を止める。
一つの問題に気づき、それに少女も気づいたらしく少女と翔奏はお互い見合う。
——ベッド、どうしよう。
今この瞬間、このベッドは少女のものでもあり、翔奏のものでもある。つまりはそのまま寝ようとしたら、一緒に入るということになってしまうわけで。
少女が、恐る恐るという感じで口を開く。
「……私床で寝ますので、翔奏さんはどうぞベッドで寝てください」
「いやいや、さすがに俺が別の場所で寝るよ。女子を床で寝させるほど男も廃ってないわけだし」
「いやでも……」
それを皮切りに、しばらく二人の譲り合いの戦いが続く。
少女が床に寝ると言えば翔奏が否定して、翔奏が別の場所で寝ると言えば少女が否定する。そんな客観的に見れば痴話喧嘩のような会話を繰り広げる。
言って言われて、言われて言ってを続けて、数分後。
「はぁ、埒が明きませんね……」
「それはこっちのセリフでもあるんだけど……」
いったん言い合いを止め、お互いにため息を吐く。
すると、少女が少し顔を赤らめながら口を開く。
「じゃあ、翔奏さんがいいならですけど……、もういっそ二人ともベッドでよくないですか?」
「えっ?」
あまりに突然の提案に、翔奏は驚く。
「い、嫌だったらいいんですけど、」
「いやそんなことは……」
言ってすぐ言葉に詰まり、翔奏は写真を彷徨わせる。こころなしか、少女の顔もより赤く見える。自分の顔が赤いのなんて承知済みだ。
しばらくの沈黙。何が正解なのか分からず、どう言ったらいいか分からず、お互い口を閉ざす。
先に沈黙を破ったのは、少女の方だった。
「……ああもう、優柔不断な人ですね。嫌なら嫌、いいならいいってちゃんと言ってください!」
「あ、え、いや、そうじゃ、ないんだけも、さ」
「なにがそうじゃないんですか? はっきり言わないと分かりませんよ!」
「えーっと……」
寝ること自体はいい。誰かと一緒に寝たからって、別になにかするわけでもないし、されることもないだろう。相手が女子だというのもあるが、あっちから提案してきているということは相手は一緒に寝ても問題ないということだ。セクハラにはなるまい。
だが、翔奏には分かっていた。
そうすれば、絶対に新しい罪悪感が生まれることが。
「もしかして、さっき言っていた私みたいな人のことですか?」
「…………」
突然言われた少女の言葉に、翔奏は口をつぐむ。
……図星だった。
瑞葉のせい、というわけではないが、瑞は床のベッドで一緒に寝ていた記憶が思い出されて、他の人と寝るという行為が憚られてしまう。
他人に言わせてみれば、「もういないんだから気にしなくてもいい」という意見も出るかもしれない。確かにそのとおりだ。瑞葉は、もうどこにもいない。
だけれど、やっぱりどこかで見られている気がして、怒られてしまうような気がしてできない。一種の束縛のようなものかもしれないが、その縄に翔奏は縛られていた。
それを翔奏の表情から察したようで、少女は「はぁ……」とあからさまに呆れたように見せかけたようなため息を吐く。決して本当に思っているのではないということは、そのため息から感じられた。
「別に私は構いませんが……あなたが気にするだったら、無理にとは言いません。一緒に寝る提案は取り下げます」
「っ、本当に……?」
「ええ。もともと、埒が明かなかったから言った妥協案でしたから」
その言葉に翔奏は思わず喰いつき、だがすぐに俯く。
「……ごめん」
「あ、いえ、別に謝らせるつもりでは」
翔奏が謝ると、少女は片足を前に出す。
ごめん、と翔奏が言ったのは、提案してくれたのに自ら取り下げさせてしまったことだけではなかった。
——きみと瑞葉を重ねてしまって、ごめん。
これが、翔奏がその言葉に含めたことだった。
瑞葉に似ていなかったからと言って一緒に寝るわけではない。むしろ即断るだろう。知り合って間もない人と、一緒に寝たくはないと。
だが目の前の少女は違う。黒い髪も、整った目鼻立ちも、赤い瞳も、名前も、すべてが瑞葉と同じだ。
瑞葉と似ているから、迷ってしまった。少女と瑞葉を重ねてしまっていた。
思えば、さっきもそうだ。少女と瑞葉を重ねてしまっていたせいで、危うく手を伸ばしそうになっていた。
我ながら、本当に最低だと思う。瑞葉は一人しかいないのに。少女も一人しかいないのに。人間として、最底辺だ。
落ち込むわけではない。翔奏はすでに自分のことを最低だと思っているから。
ただ、自分は最低なんだと、改めて自覚してしまうのが嫌なだけだ。
翔奏はさらに俯き、奥歯を噛む。こんな最低な人の顔を、もう誰にも見せたくなかった。
……もういっそ、俺なんていないほうがいいのではないだろうか。
そう思った、その時だった。
「大丈夫です」
その優しい声色に、思わず瞳孔を見開く。
「あなたは最低でも、最底辺でもないですよ」
そう少女からかけられた言葉に、翔奏は見開いた瞳のまま顔を上げて少女を凝視した。
思いを読まれたからではない。声に驚いたからでもない。
その言葉に、聞き覚えがあったからだ。
「あなたが気にしていても、私は気にしませんし、怒りもしません。あなたはあなたの行いを、だめだと分かっているから」
翔奏は思い出す。彼女にそう言われた時のことを。
『きみは、最底でも、最低辺でもないんだよ』
鮮やかに、昨日のことのように、ぼやけていたその記憶がよみがえる。
『大丈夫。自信を持って、失くしそうになったら私の言葉を思い出して。きみは特別なんだから』
あいつも、そう言っていた。
翔奏が一番安心する言葉を、優しく言っていた。
目の前の少女をもう一度見やる。
赤い瞳の少女はどこまでも精巧なその目で、翔奏のことを優しく見ていた。
「……ありがとう」
今度は、ごめんではなく。
どこまでも瑞葉みたいな、その少女に。
翔奏は、小さく呟いたのだった。
今回は少し長めです。
最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
5.ぬるい水と気づき




