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その日、リディアは朝から胸騒ぎを覚えていた。陽射しはいつも通り穏やかで、村の広場には子どもたちの笑い声が響いている。けれど森の方角から吹いてくる風は、どこか湿り気を帯びていて、肌にまとわりつくような重さがあった。
「なんだろ」
仕入れの帳簿を片手に、思わず森のほうを振り返る。小鳥のさえずりが途絶え、動物たちの姿もほとんど見えない。
静かすぎる。
まるで大きな何かが近づいている前触れのようで、背筋がぞくりとした。
その違和感を確信に変えるように、昼過ぎには村の門が騒がしくなった。血に染まった外套の冒険者が駆け込んできたのだ。肩を担がれた仲間は意識がなく、胸の鎧には鋭い爪痕が深々と刻まれている。
「しっかりしろ!おい、回復薬を……!」
「傷が深い、急いで!」
村人たちが慌ただしく駆け寄り、場の空気が一変する。のどかな昼下がりは一瞬にして緊張に塗りつぶされた。
リディアも店を飛び出し、血で滑る道に膝をつく。
「これを飲ませろ!」
カイルがすぐ横に現れ、冒険者の口に薬を流し込む。彼の表情は険しいが、声は落ち着いていた。
「深手だが、まだ間に合う。村の治療師を呼べ」
その言葉に村人が頷いて駆け出していく。リディアは震える手を押さえ込みながら、必死に冒険者の額の汗を拭った。
「……魔獣なの?」
問いかけると、血に濡れた冒険者がうめくように答える。
「ああ……森に、群れで……以前より、ずっと……」
声はそこで途切れた。
沈黙を裂くように、工房から現れたシルヴァンが無言で冒険者のそばに寄る。手際よく鎧の留め具を外し、裂けた金属片を調べる。鍛冶師の目は傷の深さよりも「何に斬られたか」を探っていた。
「……この形状、牙じゃない。爪だ。しかも一本じゃない、複数……群れで動いてる」
低く呟く声に、リディアの胸がざわついた。
村の空気が一気に張り詰める。誰もが不安を抱きながらも、声に出すことをためらっていた。
それからは、武器屋は嵐のような忙しさに飲み込まれた。
連日、冒険者たちが血に染まった武具を抱えて転がり込んでくる。折れた剣、割れた盾、毒を浴びて黒ずんだ鎧。彼らの瞳は疲れ切り、焦りに曇っていた。
「すぐ直せますか?明日にはまた森に行かなきゃならなくて…」
「頼む、これがないと戦えない」
武具を差し出す手は震えている。リディアは唇を噛み、作業台に並ぶ刃や鎚を抱えて走り回った。
カイルは客の声を的確にさばき、必要な道具や薬を即座に用意していく。
「お前らは一度休め。傷が癒えなきゃ戦えねぇ」
ぶっきらぼうだが、その言葉に何人もがほっとした表情を浮かべる。
一方シルヴァンは黙々と火床に向かい、砥石を鳴らし続けた。鉄を打つ音が、村の不安をかき消すかのように響き渡る。鍛冶槌を握る手には迷いがなく、その横顔は鋼のように固く引き締まっていた。
リディアは二人の間を走り抜けながら、必死に支えようとした。カイルを手伝い薬草を刻み、煎じ薬を配り、時には冒険者の腕に包帯を巻く。器用さには欠けても、誰かが「助かった」と微笑むたびに胸の奥が温かくなる。
ある晩、ひとりの冒険者が包帯を巻かれながら言った。
「……リディアさん、あんたがいてくれて助かるよ。俺ら、戦うことしかできないからさ。こうして支えてくれる人がいるってだけで、どれだけ心強いか」
リディアは驚きに目を瞬いた。自分が誰かの役に立てている。守られるだけの存在じゃなく、ここで必要とされている。
――その実感に胸が震えた。
「……私も、力になれるんだ」
ぽつりと漏れた言葉を聞いて、カイルが僅かに眉をひそめた。
「無理はするな。お前は武器屋だ、戦場に立つ必要はない」
淡々とした声だが、瞳の奥には抑えきれない心配が滲んでいた。シルヴァンも作業の手を止め、ちらりと視線を投げる。言葉にはしないが、その真剣な眼差しは「危険に近付くな」と告げていた。
リディアは二人の視線に、ほんの少しだけ笑ってみせた。
――それでも、守られるだけでは嫌だ。
数日後。村の門に駆け込んできた斥候が、息も絶え絶えに叫んだ。
「ま、魔獣だ! 群れがこっちに向かってる!」
村中に悲鳴が響き渡り、冒険者たちは慌ただしく武具を手にする。リディアは震える手を押さえ込みながらも、胸の奥に確かな決意が芽生えていた。
「私だって……役に立つんだから」
その言葉が風に溶けて消えた瞬間、村の外れに不気味な咆哮がこだました。




