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だが、森の奥へ進もうとした瞬間、カイルの足が止まる。周囲を見渡すと、木々の幹にはいつもより深く広がった爪痕が刻まれ、小物魔獣の姿はほとんど見えない。足元の獣道もやけに目立ち、普段は静かな森に、何かが潜んでいる気配が漂っていた。風に揺れる枝葉の音さえ、妙に鋭く響いて聞こえる。
「……今日はここまでにしておこう」
カイルは棍棒を肩に担ぎ直し、森の奥へ足を向けるリディアに視線を向けた。
「まだ採りたい気持ちはわかるが、無理は禁物だ。森の様子がおかしい。」
リディアは肩をすくめて短剣を握り直す。残念そうな表情を見せるが、諦めて膝の土を払った。カイルの勘はいつだって信頼できるのだ。
「僕もここまででいいや、リディ姉ちゃん」
シルヴァンも大槌を抱え、頷いた。安全策を取るカイルの判断に従う。
三人は慎重に引き返す。森の空気は緊張感を帯び、落ち葉や小枝が足元でかさりと音を立てるたび、自然に背筋が伸びる。夕焼けの木漏れ日が赤黒くゆらゆらと揺れ、いつもとは違う重みを帯びていた。
森での素材集めを終え、三人が村に戻ったころには、空はすっかり宵の口に入り、星がちらほらと瞬き始めていた。荷袋は薬草や武具素材でいっぱいで、収穫としては十分すぎるほどだ。
「ふぅ、今日はよく歩いたな」
カイルが額の汗をぬぐい、肩に背負った袋を下ろす。
「でも楽しかったよ!森の苔もかわいかったし!」
リディアは相変わらず苔の話を蒸し返して笑い、シルヴァンはその隣で「まだ言ってるのかよ」と肩をすくめる。
村の中央広場を抜けると、酒場から明かりとざわめきが漏れていた。ちょうど狩りから戻った者たちが集まっているようだ。三人は自然と足を向け、扉を開いた。
中は煙と肉の香りが充満し、木製の椅子や卓に人がぎっしりと座っている。だが、普段の笑い声に混じって、妙に沈んだ声が耳に入った。
「……また畑の家畜がやられたらしい」
「魔獣だってよ。普段こんなに出るか?」
「いや、爪痕が深すぎるんだ。牙狼どころじゃねえ……」
声をひそめる村人たちの表情には、不安がありありと浮かんでいる。
「やっぱり……」
カイルは小さく息を吐いた。森で感じた違和感が、ただの気のせいではないと確信したのだ。
リディアは首をかしげつつも、すぐに表情を引き締めた。
「本当に危ない状況なんだね」
「大丈夫だよ」
シルヴァンが慌てて口を挟む。
「僕たちも今日、牙狼を倒したじゃないか。あれくらいなら余裕だよ」
その声に、数人の村人が振り返った。若い彼の姿を見て、微笑ましそうに見つめる。
「頼もしいな」
「シル坊、元気なのはいいが、まだ若ぇんだから無茶すんなよ」
馴染みの冒険者のひとりが肩を叩き、笑いながら言った。
「みんなにとっては幼いままかも知らないけど、僕はもう大人になったんだ!」
シルヴァンは思わず声を荒げ、大槌を抱える腕に力がこもる。椅子の背にごつんとぶつけてしまい、場が一瞬しんと静まった。
だが次の瞬間、別の男が豪快に笑った。
「ははっ、言うじゃねえかシル坊!その調子で頑張れよ!」
笑い声とともに場の空気は和らいだが、シルヴァンの胸の奥には、悔しさがじわりと広がる。――結局、自分は「シル坊」でしかないのだ。
リディアはそんな彼をちらりと見やり、困ったように微笑んでから「成長しているのは分かってる」とでも言うように軽く頷く。
だが、その仕草すらシルヴァンには、年齢の差を突きつけられるようで息苦しかった。
カイルは黙って二人のやり取りを見ていたが、やがて低い声で言った。
「……気になる話だな。今後は用心した方がいい」
その一言が、酒場のざわめきを切り裂く。村人たちは顔を見合わせ、やがて「確かに」「見回りを強化するか」と小声で話し始めた。
不安と緊張が、酒場の温かい空気をじわじわと侵食していった。




