王太子妃は、軽やかに歌って、離縁する。
「……愛する人が出来たんだ」
久しぶりに顔を合わせたわたくしの夫、リヒャルト殿下は口をモゴモゴさせながら、言った。
夫は、エルクスレーベン王国の王太子。
つまり、わたくしは王太子妃。
結婚して五年になるが、子はまだいない。
結婚当初はそれなりに夫婦の務めを果たしていた。
が、最後に閨を共にしたのは……一年以上も前になる。
理由は簡単。
忙しい。
ただ、政務が忙しいというだけではない。
夫のお父様……つまり、国王陛下の体調が思わしくないのだ。
そのため、夫は王太子としての政務に加えて、本来国王陛下が行うべき政務を代わりに行っている。
夫のお母様……つまり、王妃様も、ご心痛で、なかなか政務が進まない。
だから、わたくしが王妃様の政務を肩代わりしている。
代替わりをすれば、手伝いではなく、わたくしが担うべき政務になる。
だから、慣れない王妃業務も、気持ち的には苦ではない。
が、二人分の政務を一人でこなしているのだから、わたくしも夫も、息をつく暇もないくらいに、単純に時間がない。
疲れ果て、ベッドに横になれば、昏倒するかのように眠りに落ちる日々。
蓄積された疲労は、相当に溜まっている。
ああ、ほんの一日でもいい。休ませてほしい……!
そんな状態で、子など作れるはずもなく。
だから、夫が愛人を作るのも仕方がない……なんて、思うわけはない。
愛人など作る暇があるのなら、積み重なっている案件の一つでも二つでもさっさと片付けろ!
……と、怒鳴りたくなる。
イライラするが、長年の妃教育のたまもの、わたくしはにっこりと笑いながら、冷たく問う。
「それで? 愛する人が出来たから、何なのですか?」
夫の腕に胸を押し当てるようにして立っている若い女。
社交の場での見覚えがない。
ということは、高位貴族ではない。男爵家もしくは子爵家の娘だろう。まさか平民ということはあるまいとは思うが。
「えっと、だから……愛する人が出来たから……」
「それはもう聞きました。わたくしが聞いているのその先です」
「先って……」
夫は、きょとんとした顔で、首を横に傾けた。
……王太子殿下ともあろう者が、そんな幼いしぐさはお止めください。
モゴモゴ喋るのもおやめください。
後には王となるのですから、もっと毅然と! 威厳を持って!
何度言っても治らない。
ああ、イライラする。
「わたくしと離縁して、その娘と婚姻を結ぶおつもりですか?」
「え⁉ し、しないよ! 無理だよ!」
「そうですわね。法を変えなければ、王族と下級貴族や平民との婚姻は不可能ですものね」
王族と婚姻を結べるのは伯爵位以上でなければならない。
そのように我が国の法で定められている。
まあ、問題は法だけではなく。
政務、外交、社交……などなど、それらを下級貴族の娘にこなせるとは思えない。
そう……ね。愛人なら可能かしら。
愛人に関する身分的な規定はないのだから。
「では、何なんです? わたくしと離縁はしない。だけど、その娘と愛人関係を続けるとでも?」
笑顔で圧力をかけるわたくしに対し、夫はおどおどと言った。
「えっと、あの……。ボクが、愛する人を連れてきたんだよ」
「ええ。繰り返さなくても聞こえておりますわ」
夫は何度か口を開け閉めした後、ようやく言った。
「カタリーナは……嫉妬とか、しないの……?」
ぼそりと告げられた言葉。
そして、向けられた上目遣い。
……ああ、そう。そういうことなのね。
愛人を連れてきたと、嘘を言って、わたくしに嫉妬をさせたいのね。
そんな小娘なんか愛さないで。わたくしだけを見て。
わたくしは、あなたを愛しているの!
なんて、そんな三文芝居でもさせたいのか。
馬鹿々々しい。
「するわけないですわね」
「し、しないの……? なんで⁉」
わたしは即答した。
「わたくしに子ができない場合、王太子殿下が側室を置くのは義務ですから」
王太子妃教育で、何度も言われたことだ。
後継を作れない妃に意味はない。
出来ない場合は、離縁をされても側室を作られても文句は言えない。
王太子妃として一番大事な公務は跡継ぎを産むことだからだ。
ただ……愛人というのは規定にない。
子さえ作らねば、それはわが国の法律上は問題はない。
愛人はね。
ただし、王太子妃、王妃、更には王の側室には下級貴族の娘ではなることができないという法はある。
だから、浮気をするなら、いや、小説だの物語だのに登場する真実の愛とやらでも構わないが、王太子である夫が、どこかの女性と子を成すのであれば、それはきちんとした身分の相手でなければならないのだ。
そうでないと、子が出来たところで、後継とすることはできない。
流石に生まれてきた子を弑すようなことはしないが、血を残さないように断種もしくは一生涯幽閉だ。
惨いが、それが我が国の決まり。
王の、そして上級貴族の血統は守らねばならない。
青き血を、汚すことはできないのだ。
「王太子殿下とわたくしの間に子はない。未だできてはいない。よって、既に側室の選定は行われております。当然すべて上級貴族の令嬢。その選定のリストに、その娘は入ってはおりませんわね」
淡々と、わたくしは言葉を紡ぐ。
「えっ⁉ な、なんで⁉ 僕はそんなこと知らないよ! 聞いてない!」
「当然ですわ。まだ選定の途中ですもの。数名まで、候補を絞った後、お知らせいたしますわ」
身分だけではない。
後継を得るための側室なのだから、多産の家系が推奨される。
更に、数代さかのぼって、おかしな病気にかかっていないか、伝染病に罹ったことはあるかなどなど、身体に関する事柄などは、側室となる令嬢だけでなく、家族、親族にまで調べあげられる。
わたくしも、リヒャルト殿下の婚約者になる前、同じように相当調べられたのだ。
「側室……って、カタリーナはそれでいいの? ボクが……誰か、他の女性を愛しても、いいの?」
青ざめた顔の王太子殿下に、わたくしはころころと笑った。
「何をおっしゃいます。誰か、他の女性? すでに殿下の腕には、その愛する女性が引っ付いているというのに?」
「こ、これは……、この娘は、その……」
ちらと、娘を見る王太子殿下。
娘の側も、困惑顔だ。
……やっぱり、予想通り、茶番なのね。
愛する人が出来たと言って、実際にどこからか娘を連れてくる。
けれど、その娘は本当に愛しているわけではない。
わたくしに嫉妬をさせるための、嘘であり、茶番。
……国王陛下の病状が思わしくなく、政務が恐ろしく忙しくなった。
わたくしとの話す時間も無くなり、更に言えば、陛下の病状が思わしくないので、王太子殿下は心細くなったのね?
王になる、覚悟ができていない。
わたくしという妻に、支えてほしい。
だけど、わたくしは王妃様の政務をこなすのに精いっぱいで、夫にかまける暇もない。
ちょっとくらい甘やかしてほしい。
嫉妬を見せて、ボクのコトが大好きだと言ってほしい……。
そんなところね。
馬鹿々々しい。
王となり、一人で国を支える程度の気概もないなら、王太子の位など返上しろ!
さいわいなことに、夫の弟は三人もいる。
第二王子、第三王子は優秀だ。
第四王子はまだ幼いが、まあ、間に二人もいるので、有能でなくても問題はないだろう。
「せっかくですから、本音を申し上げましょうか? わたくし以外の女に触れた夫など、実に汚らわしい」
「け、汚らわし……⁉」
平民たちの間に流行っていた替え歌にもあるではないか。
やめてね。
よしてね。
触らないでね。
カビが生えるわ。
アンタなんか嫌いよ、顔も見たくないわ……と。
元歌というのがあって、それは、
サラダ食うわ
メシは食うわ
耳デカいデブ
と、歌うらしいのだけど。
……あら、違ったかしら?
ビビデと、バビデと、ブウ……だったかしら? 魔女が使う呪文のようだけど、これも違うかしら?
流行り歌というものは、形や歌詞を変えていくものだから、最初の、元歌の形は残っていないのかもしれないわね。
ええと……、平民理解のために、以前、いろいろな流行り歌を研究したときがあったのよね。
印象が深くて覚えているのはたくさんあって。
その中でも特に印象深いのは……、そう、あれよ。
しあわせは、歩いてこない。
だから、奪いに行くのだよ。
一日、一つ。
二日で、二つ。
三日で、たくさん、強奪だ!
……平民の皆さんは、恐ろしいと思ったわ。
強奪なんて歌を、気軽に歌う、平民の皆様。
実に恐ろしいわ……。
わたくしは震えあがったわ。そんな平民を従え、王として、王妃として立たねばならないのか……と。
だって……、現状、王太子妃を拝命しているわたくしではあるけれど。
この先、わたくしが王妃となったときに、わたくしの隣に立つのは……この、気弱な王太子殿下。
いざ何かあった時、この夫が指導力を発揮することは……想像もできない。
どうしよう、カタリーナ。
ボクはどうしたらいいと思う?
助けて、カタリーナ。怖いよう!
幼児のように、わたくしに縋りつく夫の姿なら即座に想像はできる。
うん……、こんな夫と共に、国を支えるなんて、わたくし、このあとどれくらい苦労せねばならないのかしら。
これ以上の苦労なんて、いや!
わたくしだって、王妃になる怖さをぐっと抑えて努力を重ねているというのに‼
今はまだ、王太子。
だけど、国王陛下の病状は、良くはない。
……逃げたほうが、いいのではないかしら?
ふっと、思った。
逃げたほうがいい。
うん、逃げよう。
さいわい、逃げられる程度の理由はある。
だって、夫との間に子はいない。
王太子妃時代に子が出来なかったのだから、王妃となった後も、子を産むのは無理かもしれない。
これは、最大の理由になる。
側室も選定しつつある。
その側室候補のご令嬢の皆さんは、野心に溢れている。
王妃となるこのわたくしを蹴倒してでも、のちの王となる子を孕み、産む。
……任せて、いいんじゃないかしら?
……気弱な王太子殿下を支え、国政を担い、更に側室の皆さんとの精神がすり減るやり取りをし、更には恐ろしい平民たちから反逆されないように、治世を行う……なんて。
無理。
今でさえ、忙しいのに、これ以上、神経を知り減らすような日々を送るのは無理。
ああ、そうね。ちょうどいいわ。
夫の思惑がどうであれ、せっかく愛人など連れてきてくれたのだもの。
利用させてももらうわ!
「ええ。当然でございましょう? 妻以外の女を愛した夫。そんな汚らしい存在と同じ空気を吸うのも嫌ですわ。側室候補のご令嬢の皆様もいることですし、そちらの皆様から、正妻一名と側室二名ほどを選ばせていただきます。そして、わたくしとは離縁」
「り、離縁って、嫌だよ!」
「あなたとこれ以上顔を突き合わせるのは、わたくしも嫌ということですわ!」
きっぱりと言い切ってやる。
「そうそう。そちらの愛する方とやらに付きましては、わたくしと離縁した後の、次の正妻と側室の皆様と共に協議でもしてくださいませね。わたくしとは無関係でございますから」
ダメ押しとして、言う。
「そ、そんな……」
がっくりと崩れ落ちた夫に背を向けて、わたくしは離縁の手続きを行うために、わたくしの執務室へと向かう。
周囲には侍女やら護衛やら側近やらが、当然たくさんいるので、王太子殿下に愛する人がいるということや、わたくしが離縁を口にしたことなどは即座に王城中に伝わるだろう。
ふふふ。
わたくしは、実家に帰って悠々自適の生活を送るわよ。
ビビデと、バビデと、ブウ~なんて、軽やかなステップで、歌いながらね!
終わり