ワカサギ釣り
アーニャの休日、横田はホテルにいる香山を呼び出して車に乗ると、網走湖へと向かった。
「今日は二人か?」
「なんだ、香山さんもアーニャのこと気になってたんじゃないですか。彼女は彼女の車できますよ。話だと、友達を誘ってくるらしいです」
「それで良かったのか?」
天気は良かったが、今日の気温は平年より低かった。
「そうなるとは思ってましたからね。ワカサギ釣りに集中すれば、気晴らしになりますよ」
香山は神河社長殺しに妻の涼子の浮気が関係しているのではなかと涼子やその相手である青海の行動を調べていたが、アリバイは簡単に崩せそうになかった。
「お前のところ事件を、俺が懸命に調べているのは変なんだが」
「厳しいなぁ。まぁ、何か手がかりが増えないとこのままじゃ、お手上げですよ」
その手がかりを探すのが捜査なんだ、と香山は思ったが、言わなかった。
網走湖が見えてきてから、湖の半分ぐらいをぐるりと回ったあたりの駐車場に車を停めた。
湖に近づいていくと近くにはホテルなどもあるようだった。
「横田さん、こっちです!」
声がする方を探すと、そこにアーニャが立っていた。
近くにいる男性と、女性は友達らしかった。
横田と香山は近づいていくと、横の二人が挨拶をした。
「山村です。よろしく」
横田と香山が簡単に名前を言うと、その横にいた女性が声を上げた。
「香山さん!?」
横田と香山の視線が、その女性の方へ移った。
山村が小さい声で笹川に聞き返す。
「知り合い?」
「警察の人です」
神河社長殺人事件が起こった時に、日中訪ねてきたことを覚えていたのだ。
「一応、非番なのでそこは忘れていただけると」
「……」
笹川は小さく頭を下げた。
アーニャが切り替えるように元気よく声掛けする。
「と、とにかく始めましょうか!」
横田、山村はアーニャの近くでやりたがったようだが、なんとなく牽制し合ってしまったのか二人とアーニャは離れた位置に陣取った。笹川は山村とアーニャの間に、香山は一人外れた位置に穴を開けてもらった。
椅子に座って、自分の穴に釣り糸を垂らす。
湖底についたと感じてから少し浮かして置くのがコツのようだった。
香山は一人で黙々と作業をしていたが、釣りをしている様子がない。
横田が香山の所にいって、話しかける。
「どうですか? わかりますか」
横田が見ると、香山は言われた通りに支度を終えて、しっかり釣り糸を垂らしている。
彼の足元を見ると、一匹釣り上げていた。
「心配ないようですね」
香山は、顔を上げずに横田に訊いた。
「笹川が見ている先には何がある?」
「えっ!?」
「声をあげるな、それとなく確認してくれ」
横田がゆっくり笹川の方を振り向くと、確かに笹川は椅子に座ってぼんやりと湖の端を見ている。
そこになにがあるか。
横田は頭の中にある周辺の地図を考え合わせ、笹川の視線の先を予想した。
「智子ちゃん、どうですか?」
アーニャが笹川の様子を見にいき、声をかけた。
笹川はアーニャを見上げると、笑った。
「全然釣れなくて」
アーニャが笹川の釣り糸を引き上げると、餌がついてない。
「エサ落ちちゃったみたい」
アーニャが笹川の代わりに餌をつけてあげていると、山村から声がかかる。
「アーニャ、ひいてるぞ」
「山村さんが釣り上げて」
アーニャは餌を千切って、糸につけると説明する。
「糸を垂らしたら『トン』て底をついたあたりから少し巻き戻して。待っているのが退屈なら、少しゆすってあげてもいい」
「うん、ありがとう」
笹川は再び、椅子に座ってぼんやりと遠くを見つめた。
香山は横田の答えを待っている。
横田が、香山の方を向き直ると言った。
「あの方向は神河社長が呼び出された農場です」
「……なるほど」
香山はメモを取り出すと書き残した。
アーニャが横田を呼ぶ。
「横田さんの穴から、だいぶ釣れたよ、もう、そろそろ自分でやって」
「ああ、戻る戻る」
横田が戻っていく。
香山は、それとなく笹川を見る。
確かに、視線の先に例の建物があるように思えた。
「……」
そんな風に、彼らが氷上のワカサギ釣りを楽しでいる時に問題は起きた。
電動ドリルで湖に張った氷に穴を開ける作業をしている者が、妙な声を上げた。
「ちょっと、ちょっと待って」
そして事務所側にいる者を呼ぶ。
ドリルは抜き取り、表情にたまった雪を懸命に掃いて、氷をじっと見ている。
「早く来てください、それと警察に電話を」
横田と香山は、その言葉に釣りを中断して立ち上がった。
事務所から来たもの、横田と香山、声に反応した野次馬たちが集まってくる。
「ちょっと、集まらないで!」
最初にドリルを操作していた者は、焦って周りに距離を取るように言う。
横田と香山は警察だと告げると近づき、彼が雪を掃いた所を見つめた。
氷の下なのか、氷漬けになっているのか、それはわからなかった。
そこには人の形したものが存在した。
「死体……」
「皆さん落ち着いて、周辺には立ち入らないように」
横田はそう告げると、署に連絡をつけた。
「そうだ。すぐ来てくれ、氷を切り出すカッターは手配してもらえるよう頼んだ」
凍りついた遺体を取り出すため、湖面の氷を切り出さねばならず、ワカサギ釣りは中止になり、客たちは順次片付けて帰るように指示された。
横田たちと一緒に釣りをしていたアーニャたちも例外ではない。
三人は、横田と香山の分も片付けすると、湖畔のホテルへと移動した。
アーニャと笹川がホテルで待っている中、山村が横田に直接話を聞きに行き、戻ってきた。
「二人の釣りあげた分は俺たちで分けていいってさ」
「それだけ?」
智子が訊ねると、山村は首を横に振った。
「色々話してもいいけど、まずは食事にしよう」
ホテルのレストランで持ち込んだワカサギを料理してもらい、他にもいくつか料理を頼んだ。
料理が揃って、三人は不幸な事故のことは一時的に忘れて食事を楽しんだ。
食後のコーヒーを飲んでいるとき、智子が言った。
「山村さん、湖の事件のことなんだけど」
「そういうの聞いても平気なの?」
「私は大丈夫」
アーニャは気を使ったのか、立ち上がった。
「お化粧直してくるから、その間に話しておいて」
山村はアーニャの姿が見えなくなると、口を開いた。
「発見されたのは女性の死体らしい。かなりの間、水に浸かっていて体が膨れ上がっているそうだ。衣服は着ているからもしかすると、身分証などを身につけているかもしれない」
「なんで氷づけに」
「氷を切って取り出してからじゃないと分からないらしいけど、遺体があることが知られないよう湖底に沈めていたものが、ある程度湖面が凍った頃に浮いてきていたんじゃないかって。氷の厚さを測ればいつ頃か、推定はつくみたいだけどね」
智子はKK運輸の営業所で佐藤から聞いた失踪事件のことを思い出した。
「その女性って、ロシアとか、東欧の人?」
「いや、あの言い方は日本人だと思うけど」
「……」
失踪事件がメルヴィンによる眷属集めなら、東欧の女性の死体が見つかることはないだろう。だが失踪事件の中で一件だけ、名前が日本系だったはずだ。
二人が話していると、ホテルのレストランに横田がやってきた。
彼は深刻な表情で、二人に話しかけた。
「アーニャは?」
「えっと今、お化粧を直しに」
「ちょっと湖に来てくれるように頼んでくれないか」
「まさか、彼女の知り合い?」
山村は言いながら、ゆっくりと立ち上がった。
「彼女に死体を見せるのは…… やばいんじゃないか」
「ああ、当然だ。彼女の意思を尊重する」
そう言って横田はレストランを出ていく。
智子は思った。
アーニャに遺体の身元確認を依頼してくるということは、発見された死体は、スナック店員失踪事件の一人に違いない。
年末の神社で見た人数から考えてもメルヴィンとは無関係な失踪事件だ。
アーニャが戻ってくると、山村が言い出しにくそうに腕を組んで、顎に手を当てた。
「アーニャ、もし良ければ、なんだけど」
「山村さん、いつもと違います」
「言い出しにくいんだけど、湖で発見された遺体の……」
アーニャは、一瞬、智子に視線を移した。
「遺体の身元を確認してほしいって」
「それって」
智子も立ち上がった。
「北見市のスナックで連続して発生している失踪事件でいなくなった人じゃないか。警察は確認したいのよ」
「智子ちゃん、一緒に来てくれますか」
「うん」
智子とアーニャは上着を着て、バッグを持つとレストランを出ていく。
「お、俺はここにいるから」
二人は軽く振り返り、会釈した。
湖に出ると、横田と香山が近づいてきた。
「大丈夫かな?」
横田がアーニャを気遣うようにそう言った。
「そう思うなら最初から依頼しないでください」
香山が冷静に付け加える。
「先入観なしで見てほしい」
「私も見ていいですか?」
「……気を失うとか、吐くとかはなしだ」
智子は『ええ』と言って頷いた。
湖の端に青いビニールシートで囲われた場所が出来ていた。
横田はその場所に向かって無言で進んでいく。
アーニャと智子がそれにづづき、香山が後ろについていた。
厚いコートを着た制服の警官の横を通って、中に入る。
彫像のように氷が立てられていて、そこに遺体の体があった。
アーニャと智子は、遺体と正対した。
氷は磨かれていて、顔がよく見える。
水で腐っていると思ったが、目は腐敗していたが、頬や輪郭は綺麗に形を保っていた。
「加田ちゃん……」
アーニャはそう言った。
彼女は震え出し、顔を背けた。
しばらくすると立っていられなくなり、雪の上に膝をついてしまった。
横田が駆け寄って、落ち着くように背中を叩いた。
横田に誘導されアーニャがビニールシート外に出て行く。
「君は大丈夫なのか?」
智子は『水の中に遺体があって、腐らないのか』と後ろにいる香山に訊ねた。
「普通は腐敗してしまう」
香山は近くにおいてある黒い物体を指差した。
「遺体はどうやら湖底にあったこのゴム製のシートでぐるぐる巻かれていたと思われる。おそらく、冷えてきてから浮かんだため、腐敗が進む前に凍ったと考える」
「アーニャのいう通り、この被害者が加田さんなら夏に失踪しているはずです」
「……だとすれば奇跡的だな」
香山は、智子がなぜ失踪事件の被害者を覚えているのかに興味を持った。
地元で発生している事件だからと言って、ここまで覚えているだろうか。
「ちょっといいか? 君は、なぜこの件をそんなに覚えている?」
「最近も失踪した方がいたから、たまたま気になっていただけです」
智子はそう言って、ビニールシートの外へと出ていった。
アーニャと横田を見つけると、近寄った。
「アーニャ、大丈夫?」
智子はアーニャの顔を覗き込んだ。
「智子」
突然、抱きしめてきた彼女を、智子は抱き返した。
「大丈夫。大丈夫だからね」