香山再び
智子は街を出て自宅に戻った。
佐藤や山村は仕事をしているし、アーニャは夜の仕事だから彼女も家でゆっくりしているだろう。
アルバートは吸血鬼だから、日中起こすわけにもいかない。
智子にだけ見える白い猫が、暖房機の近くで丸くなっている。
猫は目を開くと、智子の方を見た。
『お昼ご飯、とても美味しかったわ』
そう。こんな時の話し相手はルビーだけだ。
「久々に、感覚を共有したわね」
病院からの帰り道、気晴らしに少々値段のするランチを食べたのだ。
スマホを開いてランチの映像を見る。
視覚的にも、味覚的にも魅力的な食事だった。
猫が急に立ち上がると、智子の方へ走ってきて、体に飛び込んだ。
『誰かくる』
人間の姿をしていても、ルビーは吸血鬼の能力を働かせ、遠くからこちらに向かってくる自動車の音を聞いたようだ。
道道から山道側に走ってくる車は、まずこの家を目指しているに違いない。冬場は特に。
「誰だろう……」
今は平日の日中だから、勤務中の佐藤や山村はこない。アーニャも夜の勤務に向けて仮眠しているだろう。
郵便か宅配、と言うことになるが、智子自身、この家に直接届くような方法で通販を利用しない。勤務先は宅配業務もやっているから、事務所止めにしておけば、平日の勤務中でも受け取れるからだ。
『今、車の中から独り言が聞こえたわ。この声、確か香山』
香山は智子のことを疑っている。
彼は、智子が何か隠していると思っているのだろう。
智子が犯人そのものではないにせよ、事件解決の鍵を握っていると思っているのだ。
今回は何をしにくるのか。
表向き知っていること、と知っていたら不自然なことを整理しておかなければ……
智子はソファーに座ったまま、香山がやってくるのを待った。
しばらくすると、人間の耳にも微かに車のエンジン音が聞こえた。
インターホンが鳴る。
智子はゆっくりとソファーから立ち上がって、呼吸を整える。
「はい?」
『警視庁の香山です。お聞きしたいことがありまして』
インターホンからは、ゆっくりと間をおいた香山の声が聞こえる。
智子は返事をして、玄関にでた。
香山は一人で、いつものように髪をべったりと撫で付けていた。
「突然、もうしわけない」
「そのコートで北海道は寒くないですか?」
「使い捨てカイロをたくさん使っているから、そうでもないですよ」
智子は香山を家に上げ、コーヒーを出した。
「ブラックでしたよね」
香山は礼を言うと、話を始めたいと言った。
「神河社長が殺された件なんだが、あの事件の中で、扉のデッドボルトつまり扉のかんぬき部分が切断されていただろう?」
「確かに見ましたけど、あれが何か」
「向こうでの看護士惨殺事件を調べている時に『クリムゾン・ヴェイン』と言うバーでも同じように扉が破壊されている記録がある。この店は俺が『黒峰』をある件で追っていた時に聞き込みに入った店だ」
智子は店のことを覚えていた。
ルビーがその店の中で、ダンピールのバンパイア・ハンターと戦った。
店主が血の売買をしていた。その血を利用してアルバートとルビーはこの地へやってきたのだ。
積極的に香山へ知らせる必要はない。だが、店のことを一切知らない『ウソ』をついた際、向こうが決定的な証拠を持っていた場合、不利になる。
智子は黙っていると、香山が言った。
「黒峰から何か聞かなかったか?」
「……多分、何も。何度か言ってますが、そもそもそこまで親しい間柄では」
「このデッドボルトを切断すると言うのはね。私の知る限り、君が関係している事件でしか起こってない」
智子は困ったような表情を浮かべた。
「あの、それは全国の事件を色々調べてその結果なのですか? それとも香山さんの経験上だけの話をおっしゃっていますか? こんなこと言うのは失礼ですが、香山さんの調査不足なのでは?」
「確かにそうかもしれない。だが、扉から侵入するのに鍵のこの部分を壊すというのは尋常じゃないんだ」
「私、疑われてるんですか?」
香山は持ってきたタブレットを取り出した。
何か必死に操作した後、画面を智子の方へ向けた。
画面には彼女の車が映し出されていた。
駐車場の映像らしい。
「神河涼子社長がホテルで襲われた事件に関して、君のアリバイはない」
「横田さんには、涼子社長を別れた後は、車で自宅に帰る途中だったと説明したと思いますが」
「自宅には君一人しか住んでない。だから直接帰ったかどうかなんて証明しようがない。そうだろう?」
智子は横田から知った内容を、どこまで言っていいのか困惑した。
変に私に出来ないと主張して、知るはずのない事件の内容を言ったら疑われてしまう。
「それと、これ」
香山はタブレットをスワイプして映像を切り替えた。
「!」
映像には智子の車を運転するルビーの姿が映っていた。
智子は必死に表情を抑えた。
香山はじっと智子の反応を見ている。
「……」
これは致命的かもしれない。
頭の中でさまざまな思いが駆け巡っていく。
智子はただただ黙って、香山の言葉を待った。
「これは、さっきの駐車場に停める前の映像だ。カメラの調子が悪くて運転席に誰も映っていないから、びっくりしたかと思うが」
そうか。
智子は安堵した。
彼にも吸血鬼であるルビーの『映像』は見えないのだ。
智子は口に握った手を当てて、露骨なため息を誤魔化した。
「駐車場とホテルとはかなり距離があるから、まあ、走ったとしても行き来は出来ない」
智子は重ねるように言う。
「……けれど警察的にはアリバイにはならない。と言うことなんですか」
「まあ、札幌のホテルにいて、たまたま犯行時間のアリバイがない、ということと同じだ。可能なことを証明できれば別だが」
「襲う理由がないです」
香山はタブレットを手元に戻しながら、言う。
「同期は正直に話さないものだ。普段近くにいる人間に漏れ出ていることはあるが、こうやって警察がきたと言う時に素直に話す人間はいない」
智子はどうして香山がしつこく自分を犯人にしようとしているのかわからなかった。
「私は香山さんから追いかけられているのか、理由を知りたいです」
「黒峰の件はとても不可解だ。殺した凶器も出ていないし、彼の足取りは完全に消えている。そう、生きている人間がこんな完璧にあれもこれも姿を隠すことは出来ない」
智子は、連続企業爆破事件で、四十年も逃亡生活を続けていた人が、死ぬ間際に入院している病院関係者に本名を名乗った、と言う事件を思い出した。
「けれど、四十年も逃亡生活を続けていた事件があるのことを知っています。やって出来ないことはないのでは?」
「……時代が違う」
「私はどうすれば出来るか長い間逃亡出来るかわかりませんが、香山さんのその自信も理解できません」
智子のこの言葉が、香山の何かに触れてしまった。
「一連の件で君が重要な何かを握っているのは間違いないんだ。長年、刑事をやっている俺の勘に狂いはないんだ」
突然、激昂した香山は、コーヒーカップをひっくり返した。
ほとんど残っていたコーヒーがテーブルに広がり、ラグに溢れていく。
「す、すまない」
香山は、自分のポケットからハンカチを出してテーブルを拭った。
智子はゆっくりと立ち上がると、黙って布巾を取りに行く。
智子が、ラグに掛かったコーヒーを吹いていると、香山は立ち上がって戸口の方へ去っていく。
「これで失礼する。そこに置いた金でクリーニング代にあててくれ」
扉が閉まり、外でエンジン音がする。
智子はラグを拭き終わると布巾を洗面所で洗った。
「……」
智子がソファーに戻ってくると、そこには白い猫がいた。
猫はラグのシミになりそうなところを舐めるような仕草をすると、智子の方を向いた。
『香山が二度と智子を疑わないように、関係ないことをハッキリ示す必要があるわ』
「彼を納得させるにはどうしたらいいのかしら」
『例えば、絶対に出来ないところで殺人事件が起これば』
智子は怒った。
「私の無実を示すために人を殺すなんて本末転倒。ずっと誠実に対応していれば、そのうち時間が解決してくれるわ」
それは半ば願望のようなものだった。
とにかく人を殺すなんて絶対に出来ない。
もしこの体から『智子』が消えれば、ルビーを抑えるタガはなくなる。
智子は、ルビーの関係を維持しながら、事件に関わらない生活がしたい。
ただそれだけが望みなのだ。
しかし、吸血鬼に人を襲うなということが出来ないのと同様、それは無理な話なのかもしれない。




