血の掟
ルビーはホテルの窓から飛び出した後、空中で体を回転させた。
初めは大きく回り後に体を縮め、回転スピードを速める。
フィギュアスケートでスピンをする要領だ。
ルビーの背中から首を絞めていた眷属は、スピン量が増した瞬間に、耐えきれなくなって剥がれてしまった。
二人はそのまま落下して、ホテルの隣の建物の屋上に落ちた。
ルビーはすぐに立ち上がって戦闘体制をとった。
だが、ルビーの首を絞めていた眷属は強いダメージから再生が間に合わず、体を横たえたまま身をよじるだけだった。
ルビーは眷属に近寄ると、足を使って眷属を転がし、顔を確認した。
「この娘がイヴァンナだったのね……」
ルビーはメルヴィンも他の眷属もいないこの瞬間なら、神社の裏手で考えたがあの場では実践出来なかった方法を実行に移せると思った。
「智子、この娘を人間に戻したい?」
深い、意識の底から、智子の声が湧き上がってきた。
『そんなこと出来るの!?』
足元で横になっているイヴァンナは、ゆっくりと再生しているが、まだ立ち上がるには程遠かった。
「出来るわ。どれだけの確率かはわからないけど、このままメルヴィンの眷属でいるよりマシ」
頭の中で、ルビーと智子の考えが衝突する。
少しでも可能性のある方にかけるのか、全く可能性のないまま見殺しにするのか。
「彼女の再生が終われば、彼女は私と戦って死ぬか、全力でメルヴィンの元に逃げてしまう。あまり時間はないのよ」
智子は動かない体の中で、必死に思考した。
そして、決断した。
『やろう。きっと救える。私は信じる』
智子の決意に、ルビーは頷いた。
倒れているイヴァンナの腕を取ると、そのまま引き起こした。
完全に脱力している彼女を抱きしめ、メルヴィンが噛み付いたと思われる反対側の首筋に牙を立てた。
『えっ!?』
ルビーはそのまま開けた穴から血を吸った。
彼女の血からメルヴィンの力が含まれていることがわかる。
複数の吸血鬼から血を吸われた者が、気が狂わずに正常を保てたことはなかった。
だが、メルヴィンとルビーは同じ一族だ。
そして序列はルビーが上。
血の掟が正しければ、血の呪いを上書きできるはずだ。
上書きできれば、ルビーの意思で呪いを解くことが出来る…… はずだ。
イヴァンナは目を開いた。
だがそれも一瞬で、再び気を失ってしまった。
ルビーはそのままイヴァンナを両腕に抱えると、屋根を駆けて飛んだ。
いくつかの屋根を飛び越え、再び別の屋根を駆けて飛ぶ。
智子の車に着くと、後部座席に彼女を横たえた。
ルビーの血の力と、本人が人間に戻りたいと思う力。そして時の運。
それらがうまく嵌れば、イヴァンナはルビーの眷属として生まれ変わる。
そうすれば……
ルビーは十分に再生が終わったことを確認すると、一度、体を智子に戻した。
智子は車のエンジンをかけると、ここまでに起こったことを考えた。
眷属たちは『涼子』を狙っていた。
それは確実だったが、連中が涼子を殺して何か得をするのだろうか。
「……」
このイヴァンナが人間に戻れば、メルヴィンが『涼子を殺せ』と指示した意図がわかるかもしれない。
これからの十数時間、イヴァンナはただもがき苦しむだろう。
うまくルビーの眷属になるか、何も起こらないか。あるいは気が狂ってしまうのか。
智子は車を走らせながら、雲の上、はるかな空に見えるはずの星に祈った。
家に着くと、ルビーの力を借りてイヴァンナの体を家の中に運ぶ。
テーブルをずらして、地下へ通じる蓋を開ける。
ここなら彼女が激痛で絶叫しても、外に響かないだろう。
智子は思った。
激痛、絶叫、どういうことだ。
アルバートの棺が、ゆっくりと開く。
頭の奥にいるルビーが、智子に説明する。
『智子、伝えたはずよ、気が狂ってしまうかも…… と。これは強い痛みを伴うの』
アルバートが、イヴァンナを横目で見ながら通り過ぎ、無言で梯子を登っていく。
智子がイヴァンナのために持ってきた毛布をかけていると、彼女の目が開く。
「!」
イヴァンナは自らの首をかきむしり始めた。
「イヴァンナ!?」
『話しかけても無駄よ。彼女の中で、メルヴィンの血と私の血が争っているの』
智子はお互いに彼女から血を吸ったのに、血同士が戦うという表現の意味がわからなかった。
『私がどうやって智子の体にやってきたのか、理解していなかったの?』
ルビーが智子に対して、簡単にイメージを与えてきた。
智子はそのイメージで理解していく。
黒峰が取った智子の血が、西欧にいたルビーの元に届き、それを飲んだルビーが彼女の体へ乗り移ってきたのだ。
アルバートも同じように黒峰の血を使って、彼の体に入ってきた。
蚊が血を吸う際にヴィールスを媒介してしまう理屈とは違うのだ。
バンパイアの呪いであり、吸われた血に呪いをかけることで、その血が流れる本体を呪う、というわけだ。
「暴れないで!」
どうにもならない苦しさで、手足を振り回し始めた。
智子は必死にイヴァンナを抑えるが、眷属であるイヴァンナの力に負けてしまう。
「アルバート、手伝って!」
『それとアルバート、このままだと口の中を切ってしまうわ。何か手ぬぐいのようなものを』
アルバートは地下の入り口の穴を、ストンと下りてきた。
口には輸血用の血液パックを咥えている。
手には輪にしたロープと、スポーツタオル。
「体は毛布で包んでロープで縛ろう。口内を噛み切らないようにこのタオルを噛ませる」
アルバートがイヴァンナを抑え、智子がぐるぐるとロープを巻きつけた。
「ダメだ、もう一度。もっときつく縛らないと」
アルバートにダメ出しされ、智子はもう一度ロープでイヴァンナを縛り上げた。
ようやく、本人も傷つかない状態になった。
唸り声だけが、地下室に響く。
「智子。ずっと見ていても何も変わらない。あとは運だよ」
智子はアルバートに体を引き寄せられた。
そして入り口の穴の下にくると、アルバートの力で放り投げられた。
「!」
智子は1Fのキッチンダイニングに飛び出てくると、体を畳んで後転した。
ルビーの運動能力がなければ、投げられっぱなしで床に顔をぶつけていたかもしれない。
ルビーが着地した音を聞いて、アルバートも穴から飛び出てくる。
智子は怒った。
「いきなり何するのよ」
彼は血液パックを空にして専用のゴミ箱に入れると、振り返った。
「こうすれば体の中にいるルビーが出てくるだろう、と思ったのさ」
「ルビーに会いたいなら、言葉で言えばいいじゃない」
智子は、ルビーと交代するため、意識を鎮めていく。
体の大きさが変わっていき、智子はルビーへと変化していく。
真白い肌、真っ赤な瞳。
風もないのに智子の黒い髪が靡くと、いつの間にかルビーのブロンドの髪へと変わっている。
「ルビー」
「アルバート」
力強い男の体に、抱きしめられ、ルビーの気持ちが昂っていく。
薄れていく意識の中で、智子は思った。
二人の邪魔はしたくない…… けど、こうしている間も、地下ではイヴァンナが苦しんでいるのよ……
枕元の目覚ましが鳴り、智子はそれを止めた。
出勤前、いつもの朝。
フリースを引っ掛けてキッチンダイニングへいく。
テーブルも動かされ、地下へ続く穴の蓋も閉じている。
昨晩いつ、智子の体に戻っていたのか、記憶がない。
智子は、湯を沸かしコーヒーをいれ、ベーコンを焼き、卵を目玉焼きにすると、それら全てを焼き上がったトーストが乗る皿に滑らせた。
ああ、今日も同じ業務の繰り返しなのか。
仕事については都心で派遣をしていた時と大して変わらない。
救いは満員電車に乗らずに済むことだった。
食事を終えると、智子は耳を澄ました。
小さく、イヴァンナが唸る声が聞こえる。
下に行き確認したいが、テーブルを動かして、地下の蓋を開けるわけにはいかない。
地下にいるのはレベルの差こそあれ、吸血鬼なのだ。
万一、地下に陽の光が差し込んだら……
アルバートはおとなしく棺に入っていれば救われるが、毛布に包まれているだけのイヴァンナは助からないだろう。
簡単に陽が差し込む構造ではないが、吸血鬼にかけられた呪いにおいて、太陽の光はそれほど致命的なものなのだ。
智子は祈りながら身支度をし、外に出た。
車に乗ると、山道を慎重に進み、道道に出た。
ひたすら道なりに進んで北見の市街地に入る。
渋滞もなく、快適なドライブで会社の事務所に着いた。
車を下りて、事務所に向かって歩いていると、事務所の前に横田が立っているのが見えた。
「……」
横田を認識して、智子は歩く速度を落とすと、後ろから佐藤がやってきた。
「おはよう」
「おはようございます」
「あそこにいるの誰?」
佐藤はワカサギ釣りに来なかったので、横田と面識がないのだ。
「横田刑事です」
「刑事て、警察!?」
智子は頷く。
佐藤は驚くと同時に好奇心に満ちた顔で智子を見た。
「智子ちゃん、何したの?」
首を横に振り、否定する。
「何もしてません」
横田が二人に近づいてくる。
身分を示すために手帳を見せてきた。
「笹川さん、ちょっとご同行願えますか」
「何かあったんですか?」
「それは向こうで話そう」
横田は智子の肩に軽く触れると、路肩で待っている車を示した。
佐藤がじっと見つめる中、二人は車の後部座席に乗り込むと出発した。
移動する車両の中で、横田が言った。
「笹川さん、昨日、二十時から二十三時の間、どこにいましたか」
「昨日は勤務が終わると車に乗り、レンタカーを借りて乗り回していました。二十三時近くは、もう車を返して、自分の車に乗って家に帰るところでした」
「レンタカーには誰か乗せましたか」
智子は横田の方を向いて、彼の表情を見た。
「嘘をつくと、いい事はないぞ」
「社長を乗せていました」
「……神河涼子だな。どこで下ろした」
智子はビルの名前や住所は覚えていなかった。
地図を表示させて、そこを指し示した。
「で、涼子社長はどこへ行った」
「さあ、それは知りません。この後、私はひたすら車を走らせていました」
「涼子社長の指示か?」
智子は頷いた。
「社長はつけられていると言っていました」
横田はその問いを無視する。
車が建物の前で止まると、智子は下りるように言われる。
ビルの一部には工事をしているのか、一部立ち入れないようにコーンが立っていた。
横田がその場所の上を見ながら言った。
「そこのガラスが破られて、落ちてくるかもしれないから、そうしてある」
智子はビルを見上げた。
確かに一部、光を反射しない場所がある。あそこがガラスを破られた場所だろう。
智子は考える。なぜ私がここに呼ばれたのか。
ルビーの姿をしていたはずだ。
監視カメラに映らない、映ったとしても服が同じだけで、背格好は全くの別人であり、智子だと思われる余地はない。
「誰か飛び降りたとか?」
「中で話そう」
智子と横田はホテルのフロントに説明して、エレベーターで上がっていく。
フロアで下りると、奥に規制線が張られた箇所があった。
横田はその規制された領域に進みながら、言った。
「涼子社長が襲われた」
「えっ!」
きっかけを待ち構えていた智子は、半ば大袈裟に驚いてみせた。
「社長は大丈夫なんですか?」
「昨日、病院に運ばれた。軽い怪我だけで問題はない」
「そうですか」
横田はその襲われたという部屋に入っていく。
智子もついていく。
「ここだ」
横田が示す。
部屋の壁が壊れている。
これはルビーが壁越しに眷属を掴まえた場所だ。
自分の力で行ったことではないが、その時の手や腕の感覚はあった。
「うわっ、これ社長は本当に『軽傷』なんですか?」
「そこは間違いない。だが、そう思うのも無理はない。いくら安いホテルの壁とは言え、犯人はこれを壊せるようなものを持っていたはずだからな」
「あの、なぜ私が、こんな場所に連れてこられたんですか?」
横田は智子の顔を見つめた。
智子は横田に気づかれないよう、じっと耐えた。
「何か知らないか? 涼子社長が襲われるような理由を。あるいは、昨日誰と会うとか言っていないかったか?」
「いえ、知りません。さっきも言いましたが、社長はつけられている、尾行されている、と感じていたようです。誰とは言っていませんでしたけど」
また横田は黙ってしまった。
智子は涼子を尾行しているのは『警察』だということを知っていた。
もし警察が尾行している事でこの事件が引き起こされたのだとしたら、警察側の責任になるのではないだろうか。ふと、そんなことを考えた。
「けど、わざわざ一人でこんなところに泊まるなんて」
進んでいくと奥の部屋にはダブルベッドが見えた。
「ホテルの部屋で商談、とかじゃないのか」
「私は何も思い当たるところがありません」
「そうか。じゃあ、最後に」
横田は上を指さした。
部屋を出て、規制線を通過すると非常用の階段部分に入り、登っていく。
建物の中なのに、強い冷気が下りてくる。
「一度、外に出よう」
横田がそう言うと、二人は扉を開け屋上に出た。
屋上から外を見下ろすのかと思っていると、横田はすぐその『扉』に向き直った。
「これ」
扉と扉の枠の間に、何か切断したような跡があった。
智子は脳裏に残っている記憶を、抑え込んだ。
昨晩、吸血鬼の眷属がここで爪を滑らせて切断していた。
「何か機械で切断されたような……」
智子はうまく立ち回れているか、不安になった。
「社長を襲った人はここから入った!?」
「さあ、それはわからない。屋上には複数の足跡があったが、内部に侵入してきたような形跡はない」
横田はまた智子の反応を見るように黙った。
智子はすがるように手を前に出しながら、言う。
「あの、これが、何か?」
「いや、何か見たり思い出したりしないかと思って」
智子はしばらく顎に指を当てて考えるような時間をとり、口を開いた。
「神河社長宅でもこんな風に扉が破壊されていました」
「そうだ! ほら、どうかね?」
「?」
智子は首を傾げた。
強い風が吹くと、智子は大袈裟に体を震わせた。
「昨晩のこと、何か思い出したら、教えて欲しい」
智子は頷いた。




