襲撃
年末が近づいた北見市の市街地。
小さなスナックの看板が消灯すると、店の扉が開いた。
扉からは背の高い女性が現れた。
店内で見せていた露出の高い服ではなく、防寒の為のぶ厚いコートで全身を覆っていた。
普段の彼女なら、すぐ扉に鍵をかけて歩き出すところだが、周囲に何者かの気配を感じ、呼びかけた。
「誰?」
呼びかけたあたりで、ぼんやりと青白い顔が浮かび上がる。
「!」
彼女は一瞬叫び声を出しかけたが、その青白い顔に見覚えがあった。
金払いのいいインバウンド客を冷たくあしらうのは良くない、と思った彼女は、恐怖を抑え込み、普通に声をかけた。
「ハントさんでしたっけ。店は終わりましたよ。もしかして、道にでも迷ったのですか?」
それは突然、起こった。
一瞬で間を詰めてくる自分より大きな男。
彼女は思い切り両腕を伸ばして抵抗した。
……はずだった。
「あっ……」
前に突き出されたはずの腕は弾かれ、勢いよく左右に広がった。
彼女が体で作ったその十字架を、ハントと呼ばれた男は抱きしめた。
素早く首元にアクセスすると、人間のものとは思えない長い牙を突き立てた。
薄く張った氷のような雪に、鮮血が飛び散った。
突き立てた牙を覆うように唇を重ねると、男は彼女の血を吸い始める。
そう、男はいわゆる吸血鬼だった。
自らが生きる為と、彼女をこの地での『眷属』とする為、死なない程度に血を飲んだ。
生気が失われ、瞳の光を失った彼女は、スナックの扉に背中を預けるように倒れた。
意識は遠くなり、やがて思考が止まった。
男はしばらく彼女の様子を見てから、口を開いた。
「さあ、立ち上がれ。新しい命の始まりだ」
男が言うと彼女は重力に逆らうかのように、不自然な動きで立ち上がった。
そしてゆっくりと首を縦に振った。
朝になると、北見市のその小さなスナックに、男がやってきた。
彼の着ている防寒着にはある清掃会社のロゴがついていた。
スナックは清掃を請け負っている店と思われた。
だが、扉の前に広がる赤いもの、鍵がかかっているはずの扉に鍵がかかっていないことがわかると、男はすぐに自社に連絡した。
すると自社の事務所から、折り返しの電話があり指示を受けた。
『そこの女性がくるから、そのまま待ってろ』
男がオーナーの女性を待っていると、仰々しくサイレンを鳴らしたパトカーが店の近くで止まった。
制服の警官と、ボサボサの髪をした茶色のコートの男が近づいてくる。
「あんたが通報者?」
清掃業者の男が戸惑っていると、制服の警官が言った。
「いえ、通報したのは女性です。通報した女性は店のオーナーだと言っていました」
コートの男は制服の男に反論する。
「髪は短いけど女性かもしれないじゃないか。何事も先入観を持って見ちゃだめだ」
コートの男は振り返っていう。
「あなた、女性ですか?」
「いえ。私はこの店の清掃のために来たんですが、いきなりこの状態で」
「この状態、とは?」
清掃しにきた男が体を避けると、コートの男の目に、扉の前で飛び散った血が映った。
「これは血、ですかね?」
コートの男がそう言うと、清掃請負業者の者が答えた。
「店の扉に鍵もかかってなくて、店の人が帰り際に襲われたんじゃないかって……」
「まあまあ、そこは道警で調べますから」
一方、制服の警官は、立ち入り禁止のテープを張りだした。
するとパトカーの後ろに大きなジープが止まって、中から女性が降りてきた。
女性は店の前にくると、制服の警察官に言った。
「酷い血の量だわ。通報した理由は、この店で働いているイヴァンナと連絡が取れないからなんです。昨日、最後に店を出たのはイヴァンナだから、この血はきっとイヴァンナのものよ。すぐに調べて探して頂戴」
「まだ何も分かってないんで、これが血だと決めつけるのは早いかと。それにイヴァンナさんですか。その方だって単にスマホの電源がなくなっただけかもしれないじゃないですか」
女性が言い返そうとすると、割り込むように茶色のコートの男が現れて言う。
「道警の横田です」
「ここのオーナーの久保田です。今、言った通り、すぐにイヴァンナを探して頂戴」
「心配されるお気持ちはわかりますが、そこまで焦る理由はなんですか?」
久保田の表情が心配している顔から、怒りに変わっていく。
「警察はいつものんびりして! 夏ですよ、うちの店の『加田佳代子』の事件があったのは。警察は何にも調べてくれないじゃない」
「……捜索願を出された件ですね」
「それは警察が何もしてくれないから出したのよ」
横田の記憶にあった。
あるスナックで働いている女性が、夜間運転代行のバイトをしていた。運転代行のバイトをしたある夜から、彼女の行方が分からなくなっているのだ。
「加田さんも、あなたがオーナーのお店で働いていた、と言うことですか」
「そうよ。どう考えても彼女に代行を頼んだあの社長が怪しい、と言ったのに調べもしないし」
「社長さんの家は調べましたよ。家の中に加田さんはいなかったし、手がかりになるようなものも、怪しい点も見つからなかったので、それ以上どうにもならなかった。加田さんだって、大人の女性なのだし」
久保田は、横田を指さして言った。
「今回のイヴァンナに何かあったら絶対あなた達を訴える」
「それよりも久保田さん、店の中で何かなくなっていないか確認してもらえないですか。あと防犯カメラも見せてください」
「……」
オーナーの久保田は黙って店に入り、淡々と言われた確認を始めた。
「お金がなくなっているわね。防犯カメラはここよ。映像は勝手に見て、必要な映像があったら、その部分をDVDにコピーして渡すわ」
北見市で数社の大手運送会社から地区の配達を任されている企業として、KK運輸が存在していた。
KK運輸の北見営業所。
それは市を突き抜けている国道沿いにある。
笹川智子はそこで働いていた。
事務として採用されたが、人手が少ないので、小さいサイズの荷物を積み込みについてドライバーを手伝ったりしていた。
「智子ちゃん、考えてくれた?」
市内の配送にでる山村がそう言った。
智子は、背後から同じ事務の仕事をしている佐藤奈美からの視線を感じた。
佐藤の視線には気づかないふりをして、山村に答える。
「それって網走ですよね。もう少し考えさせてください」
「結構いい金出してくれるし、巫女の服なんて着る機会ないでしょ?」
「前向きには検討していますから」
山村はそれを聞いて笑顔になり、そのままトラックに乗り込んだ。
手を振りながら、トラックは営業所を出ていく。
佐藤の後を追って営業所の建物に入ると、佐藤が振り返った。
「今の話って、山村くんの親戚がいる神社のバイトでしょ」
「そうなんです。なんか年越しの時のバイトを今から集めているらしくて」
「実は、私もやったことある」
智子は、思わす佐藤の袖を掴んだ。
「じゃ、一緒にやりましょう。巫女のバイトなんてやったことなくて不安だったんです」
「残念だけど、私はもうできない」
巫女は『男性と関係を持たない女性』がやることになっている。
彼女がもうできないと言うのは、そういうことなのだろう。
そして、佐藤は腰に手を当てて威張るように胸を張った。
「……あっ!」
「まあ、そう言う意味ね」
私は…… どうなのだろう。
智子は北海道に来る前のことを思い出していた。
それはルビーが体に入り込んで、吸血鬼となった以降の、ある日だった。
ルビーと恋仲の吸血鬼であるアルバート・ノクターが黒峰という男に憑依した。黒峰も吸血鬼となった時、彼は智子の血を吸いたいと言った。
『じゃあ、いいかな』
近づいてくる密かに想いを寄せていた男の顔。
血を吸われるという予想を裏切り、彼がキスをしてきたこと。
その後、すぐに血を吸ってきた。
初めて吸血鬼に血を吸われる感覚。
そして…… ファミレスの奥の席で、私たちは、確かに、人に言えないようなことをした。
智子は思い出すが、はっきりと行為のことを覚えていない。本当に失ったのか分からないのだ。ただそんなことがあったせいか、次の生理が飛んでしまい、めちゃくちゃ焦った。
本当に『した』だろうか。
こんな自分の体のこと、普通は分かるだろう、と思っていたが本当にはっきりしない。
経験がある、ない、なんて実際に巫女のバイトをするかどうかとは関係ない。
実際にチェックされるわけでもないのに……
智子は我ながらバカなことを考えていると感じた。
「智子ちゃん、ボーッとしちゃって、どうしたの?」
突然、呼びかけられて現実に戻った。
「ご、ごめんなさい。考えごとしてて」
「ねぇ、さっき私が言ったのこと、変な風に受け取ってない? 田口さんの奥さんだって巫女のバイトやってたんだから、そんなこと別に関係ないのよ」
なんだ、匂わせとか、経験済みのマウントをとっているのかと思った。
「そ、そうなんですね」
「やっぱりそんな風に思ってたか。神社のバイトは、もう体力的に無理なだけよ」
突然、事務所の窓の外に白い猫が現れた。
猫は智子をじっと見つめている。
智子が佐藤を振り返ると、彼女には何も見えていないようだった。
「あっ、ちょっと席外します」
智子は事務所のトイレへいくと、白い猫は壁や窓ガラスをすり抜けて智子を追いかけてきた。
智子が個室に入ると、白い猫も中に入ってきた。
猫は智子の意識に話しかけた。
『外に吸血鬼がいる』
「えっ、なんでバレたの」
智子たちは、ある事件の後、都心から一気にタクシーでこの地まで逃げてきた。
北見市のはずれで降りた時、アルバートも壁谷も、そのタクシーの運転手を殺そうと言ったが、智子が反対してやめさせた。
『相手が吸血鬼なら、タクシーの運転手を突き止めて、この場所を吐かせるとか、そんな面倒なことはしないわ。吸血鬼が別の吸血鬼を探すのなら、相手の血の匂いを辿ればいいわけだし。そもそも今まで追ってこない方がおかしかったのよ』
智子にとっては、タクシー運転手が危険な目にあったのでなければそれでいい。
「で、どうするの」
『注意する』
「なにそれ」
思わず声が大きくなった。
事務所の従業員は、佐藤と智子、あとは山村を含めたドライバーが三人だ。
佐藤がトイレに入ってこない限り、誰にも聞かれることはないだろう。
『言葉以上でも、以下でもない。相手の存在を意識して、注意深く行動するだけ』
今、昼間だから吸血鬼はほぼ活動できない。その点では、智子側はルビーのアシストをもらえるため、普通の吸血鬼より有利なはずだ。
だが、こちらから派手に動いてしまうと、智子が罪に問われる可能性がある。
警察から追われたり、職を失っては人間であることのメリットを享受できない。
ルビーは全ての吸血鬼と敵対している訳ではないから、今と同様ハートリッジ家から資金援助を受けられるだろうが、社会と縁を切った状態で、智子の暮らしを維持できるほどの援助が可能かというと疑問だ。そして、人間社会から外れた場合、ルビーは容赦なく『智子』を殺すだろう。
そしてルビーは体を維持するために、人の血を吸うことになる。
自分のせいで犠牲者が増えることは、智子にとって許されないことだった。
「わかった。気をつける」
智子一人生きるのであればいいが、アルバートに血を与えなければならない。
アルバートが必要とする血は、フィオン・マックムール、人間の名で言えば前田歴彦を経由して『輸血用の血』を買っているのだ。
ひと月に一回程度だが、智子の一ヶ月の食費に相当する金額がかかる。
この運送会社の仕事を失うわけにはいかない。
智子は偽装の為、水を流し、個室を出ると化粧を直した。
髪を一度櫛ですいてから、ゴムで縛り直した。
ルビーのおかげで必要がなくなったメガネをかけると、事務所に戻った。
「……」
ルビーの感覚が、智子に伝わってくる。
道路の向かいの、二階の窓、真っ黒なカーテンの奥。
視線と呼ぶにはあまりにも殺気だった強い感覚。
だが、動き出す感じはない。
「怖いわね」
「えっ!?」
智子は佐藤の発言に驚いた。
表情か何か、あるいはトイレの会話を聞かれ、佐藤に知られてしまったのかと考えた。
しかし、ルビーの言った言葉は音声にはなっていない。トイレに来ていたとしても、ルビーの発言は、あくまで自分の頭に響いただけなのだ。
「な、何が、ですか?」
「これこれ」
佐藤のパソコンに表示された記事を読むために、回り込んだ。
それは、ある地方新聞のネット記事だった。
北見市内にも多くの店舗があるスナックの女性経営者の話だ。
記事によれば、この数日で何人もの『飲み屋の店員』が行方不明になってしまったという。経営者いわく『警察は何をやっているのか。最初の行方不明者は今年の夏だった』ということだ。
「これ近所だよ。気をつけないと」
智子はわかっている行方不明者のリストを見た。そこには六人の顔と名前が並んでいる。
なんだろう名前がカタカナの名が多いな。いや、夏にいなくなった人は漢字の表記だ。そもそも水商売にカタカナ名の人を採用する傾向があるからかもしれないが……
だとしても、偏っているように思える。何か事件の本質に関係することなのだろうか。
「奈美さんも気をつけて」
『もしかすると』
智子の中のルビーが言う。
『あそこで、こっちを監視している奴が関係しているかも』
智子は答えることが出来ない。
『襲撃の時に備えて眷属を集めているのよ』
智子は道路の向かいの建物に視線を向けた。