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迷宮の主  作者: 大秦頼太
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冬のあほうつかい

「迷宮の主」の時代より百年ほど前のお話。と書くとよく解んなくなっちゃう感じ。

シミュラが北の迷宮の主になって百三十年ほど経った頃のお話です。

冬のあほうつかい




 亜法。

 それは豊かな想像力を源にこの世界に起こり得ない様々な不可能を可能にすることができる魔法である。

 その使用者は非常に限定的で恐れを知らず、苦しみを知らず、飽きることも知らず多くの幸福感を持つことを要求される。

 故におよそ全ての亜法使いは子供であり、亜法使いは大人になることで亜法を失う。



「シュミラさまー、まってよー」

 青空の下、十歳くらいの子供が積もる雪の上を青い髪を振り乱しながら走っていく。先をゆく長い黒髪の女は、防寒具に包まれた子供とは対象的に薄手の白衣をまとうだけだった。女はまるで昔語りの雪女のように雪景の中に溶けているように見えた。

「カペラ、ここは寒いわよ。部屋の中にいなさい」

「シュミラさまと一緒にいるー」

 カペラと呼ばれた青髪の子供はニッコリと笑った。シミュラもカペラに笑って見せる。シミュラの透き通るほどの美しさは完璧すぎてどこか不自然に見えた。視線を麓の方へ切り替えると厳しい顔をする。その顔もまた完璧だった。

「じきに春のようね」

「春好き! シュミラさまは?」

「カペラ、私の名前はシミュラよ。まだ覚えられないの? いつまでも子供みたいね」

「だって言いにくいんだもん」

「そう。じゃあ、あなたはそれでいいわ」

 シミュラは遠く山の麓を見下ろす。春が来る。多くの者にとって春は喜ばしいが、シミュラには違った。雪が溶け氷が崩れ落ち、山の岩肌が現れるこの季節には大きな揉め事がやってくるのを知っているからだった。

「わたくしは冬が好きだわ。厳しい風や雪のお陰で厄介事がここへたどり着くことが出来ないから……」

「ちしっ!」

 カペラがくしゃみをした。シミュラはカペラを見て微笑む。

「戻りましょう。ゴマフになにか温かいものでも作ってもらいましょうね」

「はい!」

 シミュラはカペラの手を取ると道を戻り始める。二人の向かう先に朝日が差して氷の城が輝いて見えた。

 シミュラはこの北の大地を統べる女王だ。そして、世界に七つ存在するという大迷宮の主の一人だった。



 氷の城から麓の町ノースフロストまでの間には平野が広がっている。秋が来る頃には雪が降り始めるが土地自体は非常肥沃である。しかし、町の実情から見れば誰も耕作などはしない。そのため平野は春から夏にかけて草原となりトナカイやヘラジカなどの大型の草食動物、リスやウサギなど小動物などが活動をし、キツネやテン、クズリ、グリズリーやオオカミなどの肉食動物が草食動物を狩る豊かな自然環境が存在している。一般的にはこういった豊かな草原は猟師たちにとっては夢のような猟場になるのだが氷の城の庭とも言える場所であり、ほとんどやってくることはない。冬になれば動物たちも冬眠や西に移動していき草原は深い雪に埋もれる。


 平野の南側はノースフロストに至るのだが冬場はひと気がない。この町は冬に生活をするには危険で過酷な環境のために住人も冬の間はもっと南の町へ移動してしまう。ただこの町は氷の城の前哨基地となるため、シミュラも過去には冬場のうちに町を破壊するなどの手段を用いたこともあった。しかし、何度か襲撃をすると町側にも対策をされてしまった。春に攻勢をかけても敵勢力も数が多くシミュラの戦力が削られてしまうことになり、冬にわざわざ仕掛けても町自体が季節労働者向けのようなものなので人と物資は一緒に南へ移動してしまう。そのためわざわざ攻め込んでも奪い取るものもない。町を囲う塀も板塀程度の物なので人がやってくる春が来るたびに新しく直されてしまうのでわざわざ破壊しても意味がなかった。使役している生き物を動かせば食料が必要だし、迷宮より魔物を出動させ動かすにはかなりの量の魔素と呼ばれる燃料がいる。さらに魔素を魔物に供給するには迷宮の中でなければならない。シミュラは迷宮の主であっても外で魔素を補給させるすべを知らなかった。氷の城の防衛も大事であるが、その地下にある迷宮の奥にある物を守り抜かなければならない。魔物を外に送りすぎてしまうと腕利きの冒険者達に迷宮を攻略されシミュラは永遠とも呼べる命と強力な魔力を失うのである。冬は数少ない冒険者の相手をしていればいいが、春になると周辺国家や傭兵団の軍隊をいくつか相手にしなければならない。その間をすり抜けて入り込む冒険者も厄介なものだった。


 そんなにぎやかな春が北の大地にやってくる。草原の肉食動物が目覚める頃、ノースフロストにも人間の姿をした猛獣たちが大挙してやってくるわけだ。

「氷の城には財宝が溜め込まれている」

「城の奥には世の支配者になれる力が眠っている」

 彼らはそんな噂話を信じてやってくるわけである。そうなると軍隊や冒険者に物資を供給する商人たちも繁忙期を迎えることになる。港には軍船や商船がひっきりなしに横付けされ人や荷物を降ろし、寒々としていた町は一気に膨張していく。ただ立ち並ぶ店は家屋と言うよりはいつでも即撤収できるようテントのような屋台系のものであった。

 とにかく戦いやすい季節ということもあってノースフロストは一気に賑わいを見せるわけである。


 やってくる者たちにとってはいい季節だが、攻め込まれるシミュラにとっては迷惑なものだった。周辺に生息している動物を魔力で操ることも可能だがずっと兵力として使い続けるわけにも行かない。無理な使い方をすれば彼らの生息数にも影響を与えるし、そうなると動物の数を増やすことができずやがては兵力を整えることもできずに詰むことにもなり得る。

 他にも魔力で氷の巨人を動かすこともできるが細かい命令はできない上に数体作るのがやっとである。氷の巨人自体は凄まじい攻撃力ではあるが、寒さで土地を荒らす。使いすぎれば動物たちの食料がなくなってしまう。その代わりの火力となるのは氷の砲台や投石機ではあるが、敵味方が入り乱れた場面では使うことができない。

 この地を守ることは想像以上に繊細で難しいのである。

 シミュラの家系は代々この地を治めてきたが、何度か迷宮の主の地位を奪われてしまったことがある。それでもこの地を取り返すことができたのは、シミュラが有能であると言うよりはこの地の防衛が想像以上に困難であるということを現しているのだろう。

 シミュラにはもう血の繋がった家族はいない。父は迷宮の維持に失敗し、母もその時に殺された。兄は争奪戦で破れ、貧しさの中で妹を病気で喪った。ようやく氷の城を取り戻したのは百三十年以上前のことだった。冒険者の中に紛れ、魔物と戦い罠に阻まれ仲間をすべて失いながらもようやく手に入れたものだった。

 迷宮の主になってからしばらくは順調だったが冒険者達の間に「攻略本」なるものが共有され始めたあたりから難しくなった。一定の冒険者達は迷宮探索を途中で切り上げてそこまでの記録を集めて本としてまとめているのである。仲間を失っても、迷宮攻略を続けるような冒険者ではなく冒険で得た情報を売るという稼ぎ方が登場したために罠や謎掛けがほぼ無力化され深部にたどり着く冒険者が爆発的に増えた。その対応のために蓄えた資材や資金などが使用されて財政の赤字が長らく続いてしまった。


 そんな中、シミュラを救ったのが亜法使いの子供たちであった。その行いは失った妹の代わりを求めただけだったのかもしれないが、シミュラは周辺の村々で身寄りのない子供を見つけると氷の城へ連れてきて育てていた。そんな中の一人がある日、魔法を使ったのだ。シミュラが教えたわけではない。普通、魔法を使うには触媒のようなものが必要となる。シミュラは周辺の水気を使うことで氷を作ったり、物を温めたり、溶かしたりできる。

「シムラ様! 空からアメが降ってきたよ! 僕ね、アメアメアメなめるアメ~ってお空にお願いしたんだよ」

 後になってわかったことだが亜法使いになる子供はシミュラの名前を正確に言えない。

 その時、呼び名を注意することなく降ってきた雨を見に行ったのは、その時期に雨が降ることが珍しかったのとその量によっては雪が融かされて雪崩が起きることがあるからだった。そうして見に行った先で驚きの声を上げた。天候はよく晴れ雨など降っておらず、冬の日の中でもだいぶ穏やかな天気だった。大騒ぎをする子供たちの目の前の雪の上にカラフルな点が落ちていることに気がついた。雪の上に飛び出してはしゃぐ子供たちを見てシミュラは「お待ちなさい! キッチンで洗ってもらってから口の中に入れるのですよ!」などと言うしかできなかった。

 原理は分からなかったが、亜法使いはその身の内にある無限の想像力で不可能を可能にしてしまうようだった。

 それからというもの歴代の亜法使いの子供たちは迷宮の新しい階層を作り、豊かな発想により様々な罠や謎を作り出し冒険者の侵入をほぼ完全に防ぐようになった。やがて大人になった元亜法使いたちは他の子供達と同じようにその後も城で生活するか外の世界に旅立つかを自ら決めることができた。氷の城で育った者は城で寿命を迎えた者や戦死した者、時々戻ってきてまた旅立つ者と様々だったが、亜法使いだった者は好奇心が旺盛で氷の城に残り続ける者は少なかった。



 狩人のような風体の若い男がノースフロストの港に降り立つ。

「春の町か。その割には汗と鉄の匂いしかし無いな」

 並んでいるテントを一通り見て回る。欲しいものを見つけると店主と値段交渉をして手に入れる。オープンカフェのような酒場もあったが、今はむさ苦しい連中ばかりしかいなかった。女が増えるのは夜だという。乱雑にテントが設営されているのかと思いきやある程度のブロック分けがされているようである。港からまっすぐ北側に大通りがある。そこから東西に振り分けられ西が軍隊の設営所、東が商業ブロックとなっている。まず第一陣がそういう形を作り後発は先発の隣にテントを張る。東ブロックは途中で川を挟むこととなり、川の向こうでは商売が難しいために場所争いが加熱する。例年だと先にテントだけを広げて商品を並べずに後発できた商人にテントごと場所を売るような輩までいる。

 いわゆる売春宿のようなものは川沿いに多かった。川で髪や体を洗っている女たちが若い狩人に手を振ってくる。若い狩人も手を振り返す。小舟を並べて繋げた上に木の板を渡したような橋を渡る。

 町の周囲は動物の侵入を防ぐために石を積み上げた土塁や板塀が作られるのだが、大体の場所は去年の名残もあるため少々手を加えるだけで良かったが新しい場所はそうは行かない。兵隊たちが土塁や塀を作る作業をしていた。今年はすでに二カ国の軍隊が到着しており、西にアステリア軍が駐屯し、東の商業ブロックの南東にベアラング軍が駐屯する形になっている。そのため今年は後発の商人たちにも儲けの芽がありそうだった。

「川は浅いが幅がある。が、魚は少ないっと」

 秋の頃にはサケ・マス類が遡上してくるのだろう。そうなるとグリズリーなども頻繁にやってくるはずである。ただその頃にはテントの一群も皆帰国しているだろう。

「石ころだらけか。雪解けの水はあまりないのか。もう流れきったのか」

 北の山々はまだ真っ白だった。

「違うか。あれはずっと白いままだもんな」

 雪解けの水はほとんどこない。氷の城より北側はずっと冬のままなのだ。極寒の帯がずっとそこにあり続けていると聞いたことがあった。

 シミュラと戦うということは敗北するということだ。少なくとも百年以上は軍隊は敗北者だ。商人たちは敗北者に物資を売って儲ける。負け続けてもなお軍隊を送り続ける。それはなぜだろうか。軍事に金を使いすぎ滅びた国も一つや二つではない。新しい国が興っても軍備に金をかけすぎて崩壊するのだ。または、軍に国を乗っ取られる。それでも民は変わる社会の変わらないシステムの中で生き続けなければならない。

「軍隊で氷の城を落とせると思ってるのかねぇ」

 本気で氷の城を落とすのなら冒険者を集めたほうが良いだろう。兵隊と同じ数の冒険者を集めれば簡単に制圧できるはずだ。ただ誰もそうしないのは、費用が兵隊の何倍もかかるからだ。

「金銀財宝が本当に存在するのか。誰も見たことがない。見たことがないから人を引き寄せるのか。あの人が勝ち続けるから期待値が上がるわけだ」

 若い狩人は川沿いに北側へ向かっていった。



 氷の城の城門の前に狩人風の男がやってくるのが見えた。氷の城と言っても基本的には石や木で作られているし、留め金なども一般的な城と変わらず鉄で作られている。周囲に雪や氷がくっついているので氷で作られているように見えるだけである。

 城門には落とし格子の名残があったが、今は分厚そうな木の扉がついているだけだった。

「誰か来たよ!」

「バカ、声を出すなよ。聞こえるだろ」

 城門の上の方で子供の声が聞こえた。狩人は城門を見上げて声をかけた。

「僕はサース。ゴマフかモンティはいるかい? シミュラ様に聞いてくれてもいいけど」

 返事はなかったが、何人かがかけていく足音が聞こえた。

 しばらくすると頭上から大人の声がした。

「本当だ。サースだ。わかるわかるよ。ちょっと待ってろ。おい、開けていいぞ。あいつはここの人間だ」

 大人の声を受けて城門の扉の一部が開いた。若い狩人サースは小さい方の扉をくぐって中に入っていく。




 サースは食堂で頭髪の薄いゴマフと何人かの子供に囲まれていた。

「サースは元亜法使いなんだ。ここでオレたちと一緒に育ったんだ。で、今は何をしてるんだ?」

「旅人さ。この十数年この大陸の色んなところを見て来たけど、やっぱりここが一番キレイだね」

「シミュラ様にもお前が帰ってきたことを伝えてあるからじきに呼ばれるだろうさ」

 食堂の戸が開き、しばらくするとシミュラが早足気味に入ってくる。サース、ゴマフ共に慌てるが子供たちは気にもしていなかった。

「サース! よく戻ってきました。さあ、顔を見せておくれ」

 両手を広げてサースを迎え入れようとしているシミュラに対してサースは膝をついて頭を垂れる。

「只今戻りました。お呼びくださいましたらこちらからご挨拶に伺ったのですが」

「いいのですよ。さあ、昔のようにおいでなさい」

「いえ、私ももう分別のある大人になったのです。いつまでも子供のように甘えることはできません」

「そう……。それは、残念です」

 シミュラはサースの姿をまじまじと見つめる。

「それで、今は何を?」

「旅をしております。大陸の西側は大体見て回りました」

 サースがシミュラの側にやってきた青い髪の子供を見つける。

「この子が今の?」

「そう。私の亜法使いカペラ」

「シュミラ様、この人……」

「僕も亜法使いだったんだよ。よろしくね」

 サースが笑いかけるとカペラはシミュラの影に隠れてしまう。

「おや、珍しい」

「嫌われちゃったかな? 困ったことがあったら、僕に聞いてね。これでも僕は亜法使いだったんだ」

 サースが声をかけてもカペラはシミュラの後ろから出てこなかった。サースもそれ以上声をかけることはせずにシミュラに向き直る。

「シミュラ様、戻る途中で町の様子を見てきました。今の時点で二つの軍隊が来ています」

「厳しい春になりそうですね」

「今、川に雪解けの水を流せば東の軍と町を潰せますよ」

「それは草原の生き物の棲家も荒らすことになるからやらないわ。サース、ここでの戦いはただ勝てばいいという話ではないのよ」

「草原なら亜法で元通りにできます」

「サース」

「彼らは本気です。ここを落とそうとしている。ここには子供だって多いのでしょう? 僕はいろんな町を見てきました。軍隊に潰された町を……。あんな酷いことがここに……」

「ゆっくりしてゆきなさい。着いたばかりで疲れているのでしょう」

 シミュラとカペラは手を繋いで食堂を去っていった。

 黙ってうつむくサースにゴマフが声をかける。

「シミュラ様だってご存知さ。ご自身だって戦争で家族を失っているんだから」

「そうだったね。でも、時間は流れるもんだろ? 忘れてしまうことだって……」

「忘れるわけがないだろ。シミュラ様は慈悲深い方なんだ。味方だけじゃない。動物にも敵にも愛情がお有りなんだよ」

「敵に情けをかけるからなめられるんだ。僕が亜法使いのままだったら、あんな奴らすぐにやっつけられるのに」

 いきり立つサースにゴマフはため息を付いた。

「お前、全然大人になれてないな」

「大人さ。子供だったら亜法を失うことはなかった」



 カペラはいつもシミュラのあとにくっついている。以前は他の子供たちと遊ぶこともあったが今はシミュラにべったりだった。

 天井が高くそれと併せたような長い窓の部屋には大小様々な本が並んでいた。部屋の中はかなり明るかった。

 シミュラは今、カペラの三分の一くらい有りそうな大きな本を読んでいる。大きな本を読む専用の台があるのだが、こんな時は喋りかけることはできない。それでもカペラは傍を離れることはしない。シミュラを見ながらも様々な思いが頭の中を駆け巡っていた。

「シュミラさまに褒められたいのに他の子達の願いを叶えてたら亜法が嫌になって大事なときにちゃんとした亜法にならないんだもん」

 カペラはそう思っている。もしも亜法を要求されないように他の子供たちをどこかに閉じ込めてしまったらシミュラに叱られてしまうことは想像ができたのだろう。だからそういうことはしなかった。

「さっきのあの人。あのサースとか言う男の人はどこか変な感じがした。なにが変かよくわからないんだけど、嫌な気持ち。そう、なにか嫌な気持ちをたくさん抱えているような感じがした。もと亜法使いってことはあたしと同じ悩みがあったのかも。だから亜法が嫌になったんだ。みんな好き勝手に願いを叶えてって言うんだもん」

 シミュラは時々難しい顔をする。カペラはその表情を見ると自分が役に立ててないなと思ってしまう。

 鐘が鳴る。シミュラの顔の厳しさが増す。

「カペラ、みんなと一緒にいなさい」

 そう言うとシミュラはその部屋を出ていった。

「みんなと一緒は嫌だよ」



 城壁の二段目から平原を見下ろすと、武装した兵士たちが草原の上で雑に並んでいた。シミュラの手には象牙色の長大な杖が握られている。白い長衣は風を受けるたびに青や緑色に発光していた。

「敵はどれくらい?」

 髭面の大男モンティが答える。

「ニ百といったところでしょうか。こちらの手の内を見ようって話ですかね。どうします? トナカイかオオカミを突っ込ませますか?」

「……。いいえ、冬季に考えていた物を使いたいわ。ちょうどいい機会ですからね。それと、いつも通り氷の矢と槍で迎え撃ちます。動物たちにはもう少し日常を大事にしてもらいましょう」

「はっ!」

 モンティが城の中へ下がっていく。

 シミュラが象牙色の杖を空にかざすと氷の城の城壁から数十本の氷の矢と槍が発射される。それは勢いよく武装兵たちの方へ飛んでいくがその脚とも数歩前で地面に突き刺さるだけだった。

「寝ぼけているものはいなさそうね」

 彼らはおそらくそのまま帰る部隊なのだろう。大軍で押し寄せる前に矢と槍の飛距離を確かめたのだ。向こうからの弓は一段目の城壁にすら届かない。仮に届くとすれば投石機などの攻城兵器であるが、春は地面が軟らかいので使用は困難である。

「このまま帰らせれば、すぐに戦闘が始まる」

 シミュラは象牙の杖を前方へ突き出す。すると氷の槍が解けて水になる。更に杖を横にすると水が霧に変わる。武装した兵士たちは霧に包まれていく。それから杖を横に一回転させる。その途端、霧の中から悲鳴が上がり始める。

「ぎゃあ、足を切られた!」

「足元になにかいるぞ!」

「逃げろ!」

「どっちに行けばいいかわからん!」

「とにかくここを離れろ! やられるぞ!」

 霧の中から兵士たちが飛び出してくる。上手く町側に出られたものはそのまま走っていく。運悪く氷の城に近づいたものには氷の矢と槍が飛んでくる。体や足に突き刺さり動けなくなるもの逃げ切って町の方へ逃げ去っていくもの。霧が晴れると倒れる兵士たちの中に氷の花が地面に咲いていた。花は春の日差しを受け、すぐに解けて消えていってしまう。

「これで少しは時間を稼げるかしら?」

 対策に時間を使ってくれれば冬までの時間が短くなる冬が来れば時間切れだ。軍隊は帰らざる負えない。



「さっきのアレ、なんですか?」

 サースがシミュラに問いかけた。

「氷の花よ」

「氷の花?」

「氷の槍を解かして霧を起こしそこから少し離れたところで花を咲かせるのよ。それで、花びらを回転させるの。薄い氷が刃になって足を切るのよ。革靴程度だったら切り裂けるわ。冬の間に考えていたものよ」

「シミュラ様は優しすぎます。もっと威力の高いものにしなきゃダメですよ」

「アレはそんなに優しいものじゃないわ。みんな戦争などやめて故郷に帰ればいいのよ」

「敵は殺さなきゃ増えるだけです」

「皆が皆、敵になりたくて敵になっているわけではないはず」

「だから攻略本なんて作られるんです。人間は欲の塊なんです。旅をしてみてわかったんだ。どれだけ善良そうに見えても本当に善良な人間なんていないんです。欲に目がくらんだ人間は僅かな金銭のために悪事に手を染めるんです」

「善良な人間だっているわ。ここの人間は違うでしょ? 命の価値を理解しているでしょう? あなたもそう。だからこんなにも怒っている」

「僕に力があったらあんな奴ら」

「サース。あなたは強いわ。自分を小さく見てはいけないわ」

「でも、僕にはもう亜法はないんだ! 魔法だって習ってみたさ! でも、亜法を使うようには上手くできないんだ。仕方がないから狩人のマネごとみたいなことをしているけど、それだってまるで役に立たない。僕はもっとシミュラ様の役に立ちたかったのに!」

 サースの瞳から涙がこぼれ落ちるとシミュラはサースを引き寄せて強く抱きしめる。

「あなたは今もわたくしの宝物よ。側にいてくれるだけでわたくしの力は何倍にもなるわ」

「ここにいるだけだなんてそんなの役に立ってるとは言わない! 僕のことが大事だって言うなら、僕の提案を聞いてくださいよ!」

「……洪水は、たしかに大きな被害を与えるでしょう。でも、憎しみも大きくしてしまうわ。その憎しみは敵を強くするのよ」

「憎しみよりも恐怖が強く植え付けられます。誰もシミュラ様に逆らおうなんて思わないはず」

「あなたはわたくしをそんなに怖いものにしたいのですか?」

「あ、すみません。そういうつもりじゃ。でも、人間たちが次から次へとやってくるのはシミュラ様を侮っているからだって思うんです。怖いところも見せたら来ないと思うんです」

「敵は戻っていきました。氷の花を見てね。しばらく時間があるはず」

「シミュラ様!」

 非難の声を出すサースの口をシミュラが指でつまむ。

「草原の動物たちは西側に避難させましょう。それが完了次第に上流の雪を解かします」

 サースの顔が明るくなった。

「水を流す合図は僕にやらせてください」



 カタカタカタ。暗闇の中で地面が揺れていることに人々が気がつく。地鳴りのような音が遠くから近づいてきているようだった。一瞬の悲鳴もその後の轟音で消されてしまう。

「鉄砲水だ! 逃げろ!」

 外に駆け出した男が流れてきた板壁に足を取られてそのまま流される。助けようと見送った者のテントも濁流に飲み込まれる。水が生き物のように人もテントも物資も飲み込んで黒い水の中に巻き込んでいく。

 テントが燃える。商品も燃える。が、すぐに消火される。荒れ狂う川の水によって。暗闇の中では掴むものを探すこともできずに多くの者達が溺れ死んだ。溺れる前に物資や木材に激突して死ぬものも少なくなかった。

 押し流された木や石によって港に係留されていた船にも大きな被害が出た。

 夜が明けると港は茶色くにごり木や布などに混ざり人間も数多く浮かんでいた。生気のない亡骸たちは人形のようにも見えた。

 生き残った者たちは救助活動を始めるが、絶望的な状況だった。川の東側の軍のテントは壊滅的で二千人からいた兵士は五十名も生き残っていない。指揮官も生き残っていないようで座り込んでうなだれる者がいたし、動いている者は仲間の遺体を集めて並べるくらいしかできなかった。

 町の中ほどにいた人々はほとんどが港から海へ流れていった。

 西側の軍隊は三千の兵力をほぼ保ってはいたが物資が流されたり浸水したため作戦の継続は不可能になった。すでに救助活動に参加せずに撤退の準備に入っている。

 日が昇っていくに連れて臭いが出始めて救出作業は困難になり、多くのものがその場から去ることにしたようだった。


10


 草原の半分ほどが水浸しだった。これでは避難させた動物たちも戻ってこないかもしれない。

「シミュラ様、人が戻ってこない内に町にあふれている遺体をすべて迷宮に運びましょう。魔物たちを出してください。回収作業くらいだったら魔素は十分に保つはずです」

「あなたはこれを、最初からこれを?」

「悩んでいる暇はありません。死んでしまったものを味方につけるんです」

「気分がすぐれない」

「では、魔物の指揮権を僕にください。僕がやっておきますから」

 シミュラはサースの手を払う。

「それはわたくしの仕事です。彼らを殺したのもわたくしです。自分でやります」

 シミュラは山の西側にある洞窟から魔物を呼び出し、それを使役して町から死体を回収して洞窟の中に運び込んでいく。その数の多さと無惨な姿にシミュラの顔は青ざめ途中で何度か吐いたりもした。サースはそれを冷ややかに見ていた。


11


「シミュラ様は弱い。魔物を上手く使えなかったり、敵に対して情けをかけたりするなんて迷宮の主としてあまりにも精神が弱すぎる。大陸を歩いてきた自分にはわかる。これから先、技術や魔法が進歩してくる。魔の迷宮を統べる者としてもっと強くなくてはその戦いを生き抜くことはできないだろう。そもそもこの地は厳しい自然環境や険しい山脈に囲まれている。他の地よりも随分と守りやすいはずだ。それなのにこれほど侵略者を招き寄せるのはシミュラ様が弱いからに他ならない。負けてしまえば僕らは殺されてしまう。僕の家族がまた殺されるなんてそんなことは許されることじゃない。シミュラ様が僕らを守れないのなら誰かが代わりにやるべきなんだ。シミュラ様は戦いに向いていない。そう。だから僕が代わりに厳しい決断をして戦いに勝たなきゃいけない」

 サースは夜空の星にそう誓った。


12


 寝室は氷の城の中でも上の方にある。

 精神的に堪えたのか魔力を使いすぎたのかシミュラは寝込んでしまう。カペラがベッドにもたれかかりシミュラを覗き込む。

「シュミラさま、だいじょうぶ? 治す?」

 カペラがシミュラの手を取る。シミュラはカペラの手を優しく握り返す。

「大丈夫よ。大丈夫。今日、沢山の人が死んでしまったからとても悲しくなってしまったのよ」

「悲しいの? 消す?」

「ダメよ。消さないで。この気持ちを消してしまったら、わたくしは人でなくなってしまうわ。カペラ、今日命を落とした人たちが安らかに眠れるように願ってあげて」

 カペラは小さくうなずく。

 シミュラは目を閉じた。カペラは側を離れようとしない。

「優しい子。カペラ、おいでなさい」

 シミュラはカペラを招き寄せるとベッドの上に引き上げてギュッと抱きしめた。

「側にいてくれるだけでいいのよ」

「大人になっても?」

 シミュラとカペラの左の頬が擦れ合う。

「ええ、ここはお前の家なのだからずっと側にいて良いのですよ」

 カペラの頭がシミュラにグッと押し付き、両の腕がシミュラを掴む。

「やったぁ」



13


 シミュラが寝込んでしまうと、カペラもずっと側にいるわけにも行かなかった。他の子供たちもカペラに接触をしようとちょっかいを出してくる。みんなカペラに亜法を使わせようとするのだ。

「お菓子出せよ。簡単だろ」

「ケチケチすんなよ」

「シミュラ様に言いつけやがって、この意気地なし!」

 カペラの後を付け回し、つねったり突き飛ばしたりして言う事を聞かせようとする。

「やめないか」

 子供たちを止めたのはサースだった。文句を言いかける子供たちにサースは言った。

「僕も亜法使いだったんだけど、君たちには罰が必要かな?」

「おい、行こうぜ」

「うん」

「早く出ていけばいいのに」

 子供たちが行ってしまうとサースはカペラの頭を撫でた。

「外の空気でも吸おうか」

 カペラは黙って付いていく。無言のまま進み続け城壁の二段目に出る。城壁に寄りかかって座り氷の城の上部を見る。カペラもサースのマネをして座る。

「僕のときも他の子達が亜法を使わせようとしたなぁ」

「使ったの?」

「使ったよ。お菓子におもちゃにみんな大体おんなじだったね」

「そっかぁ」

 ガッカリするカペラ。

「だからそれが嫌いになるようにしてやったんだ」

 カペラは驚いた顔をしてサースを見る。

「そんなことしていじめられなかったの?」

「誰が亜法使いをいじめるんだい? どんなことでもできるのに」

「そうか。そうだよね」

「もしそれでもいじめてくる奴がいたらそいつが一番怖がっているものを背中にくっつけてやれば良いのさ」

「うん」

 カペラは笑った。サースも笑った。

「どうしてあほうつかいをやめちゃったの?」

「やめたくなんてなかった。だけど、僕はずっと早く大人になりたかったんだ。いつも早く大人になりたいってね。でも、それが間違いだったって思うんだ」

「どうして?」

「なんでか知らないんだけど大人になると亜法使いではいられなくなるんだ。そうなるとね亜法使いじゃない僕にはここは居心地が悪かったんだ。だから旅に出たんだよ」

「亜法が使えなくなるってどんな感じ?」

 カペラは不安そうな顔をした。

「不安だった。シミュラ様の役に立てなくなるってことだからね」

 サースの言葉を聞いたカペラは今にも泣き出しそうだった。サースは下唇を噛んだ。

「そんなの嫌だ! ずっとシュミラさまを助けたい!」

「僕だってそう思っていたさ。でも、時間が許してくれなかった」

「どうしたらいいのかな? ずっと亜法使いでいたい!」

 サースは少し考えてカペラに教える。

「だったら、大人になりたくないって願い続けることだね。そうしたらずっと子供のままで亜法使いでいられるよ」

「お兄ちゃんありがと」

 カペラの笑顔を受けてサースも笑顔になった。

「どういたしまして」


14


 夏を前にアステリア軍や商人たちがノースフロストへ戻ってきた。石材や木材などの物資や人足などが見える。アステリア軍は町の外、その西側にテントを張りそれを当てにした商人たちも側にテントを張る。復興を指示しているのはそのどちらでも無いようだった。人足に指示を出している現場監督は各所に見られる。川の東側でも人足たちが石を集めて町の方へ運んでいくのが見えた。

 川の西側では拳大の石を袋詰にして積み重ね町の高さを上げるかさ上げ工事をしている。港でも灯台の建設が開始されたようだ。

 おそらくこの工事は冬が来る前には終わらないだろう。来年以降も建設作業は続くはずだ。来年もう一度洪水が起こればまた一からやり直しである。冬に魔物がやってきて破壊してまわるということだって起こり得るだろう。それを考えればこのような大工事をするのは意味がないどころか大きな損失のように見える。

 氷の城の城壁の二段目からサースが町を見下ろす。

「どうせまた流されるのに無駄な努力をしてさ」

 町の復興が終わるまで氷の城にちょっかいは出してこないだろう。城の中に戻りかけてもう一度町を振り返る。

「作らせて奪い取るっていうのも良いかもな」


15


 夏。

 アステリア軍が兵力三千ほどで草原に布陣した。足元は重歩兵用の装備になっている。そのため、ぬかるむ大地に足を取られ行軍のスピードは落ちているようだった。前衛は大型の盾を並べて立ち、二列目と三列目は長い槍を空に向ける。四列目は大型の盾を体の脇に構えていた。これは盾、槍、槍の組み合わせをセットとするアステリア軍の編成である。九十人が横に並びこの組み合わせで九列で一塊となる。歩兵は中央、左翼、右翼と三つの塊からなりおよそ二千四百。その後ろに弓兵が百八十ずつ付き従う。後方に指揮官たちがいておよそ三千の兵力となる。

 歩兵たちはまず敵の突進に備える。最前列が盾を正面に構えそれを支えると、二列目は最前列の兵の右肩より長い槍を前方へ突き出す。三列目が二列目の左肩側に長い槍を出して空に向かって構える。その際、右腕を兜の額に充てるようにする。そこに四列目の盾がスライドしてきて最前列の盾のフチの上に四列目の盾のフチが乗り、一列目から四列目の頭上を守る。五列目は四列目の右肩側で空に長い槍を向ける。六列目以降は三列目からと同じになる。

 トナカイの突進でも正面からであれば受け止められるくらいの耐久性と柔軟性を持っている。グリズリーの場合は盾が剥がされる事があるので弓兵で先に仕留める必要がある。とは言っても長弓で一撃で仕留めることは難しい。指揮官クラスが持っているクロスボウであれば一撃の威力が高いので心臓を射抜けばそれが可能となる。狙いをつけて放つ必要があるので獲物の足を止める必要があるので陣形は崩されることを覚悟しなければいけない。グリズリーの数はニ十頭もいれば多い方である。それよりもトナカイのほうが危険かもしれない。正面のグリズリーに気を取られていると横からトナカイ百頭の突進が来る。そこで弓兵を出すのだが、オオカミの集団に背後を取られて矢を放てない事が多い。

 首尾よく(もしくは運良く)動物の猛攻を防いで更に先へ進むと次は氷の矢と槍が飛んでくるわけである。更に今年は新しい魔法「スプリングキラー」が現れた。誰が名付けたのか知らないが南方の庭師が考案したスプリンクラーという散水機を氷の女王が使う足元で回る氷の花となぞらえて呼んだそうだ。

 足元はぬかるむ上に氷の刃から足を守らなくては進むことも出来ない。進軍が緩めば矢と槍の餌食であるし、急ぐためには軽装備にしなければならないがそれでは多くの者が足を負傷し攻城戦どころではなくなる。ここ何十年も城壁にたどり着いた軍隊はいない。スプリングキラーのせいで更に遠くなった。

 春先の雪解け水の洪水のせいで草原のぬかるみも未だに酷かった。


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「今年は動物たちの数が少ないように見える。無理な移動が祟ったか……」

 シミュラは氷の城の城壁の二段目よりアステリア軍を見下ろす。グリズリーとトナカイの投入数が少なければ彼らの被害も大きくなる。彼らの被害を大きくしてしまうと繁殖に影響が出てきてしまうのでそれは避けたかった。

「敵は準備万端のようです。熊と大鹿で攻め立てましょう」

 サースはすっかり戦争の虜になっていた。

「彼らは数が揃いません。ですから使えないのです」

「オオカミは?」

「多くの生き物が洪水で住処を失いここを離れていったのです」

「避難させたのでしょう?」

「させました。ですが、その後は彼らの意志が優先されます。ここでは食べるものがないと判断したのでしょう」

「避難先も確保しておくべきでしたね」

 サースの言い方には棘があった。まともな避難先も指示できずにただ移動させただけかという批判のようなものがあった。

「どうしますか? このままだとすぐに攻めてきますよ。鈍足でもああやって盾を構えられては矢も槍も効果が薄くなりましょう? 足元だって金属鎧の物みたいだし」

「そうですね。なにか対策を考えましょう」

 ため息をつくサース。

「シミュラ様、迷宮から二千の死霊兵を出してください。敵の進撃を阻害できれば乱戦時に弓や槍を撃ち込んでも倒れるのは敵兵だけです。死霊兵であれば倒れても蘇りますから」

 シミュラが眉を曇らせる。

「それは……。魔素が足りなくなったらどうするのですか?」

「また死体を迷宮に捨てれば大丈夫です」

「迷宮は墓穴ではないのよ」

「味方の損害を減らすことが出来ます。動物が使えないなら魔物を使うしか無いです」

「そうね。確かにサースの言うとおりだわ」

 そう答えるシミュラにサースは自信満々な顔で答える。

「全てはシミュラ様のためです」


17


 氷の城の西側の山にある洞窟より列をなして骸骨たちが溢れ出てくる。この穴は迷宮の入り口に繋がっているがずっと長い縦穴であり人間が降りていくことは向かない。その穴を暗闇の中からわらわらと骸骨たちが這い上がってくる。

 骸骨たちは2つの塊に整列してみせると草原に向かって行進を始める。

 草原の中ほどではアステリア軍が進撃を開始していた。足をぬかるみに取られていたが着実に氷の城に近づいていた。

 アステリア軍の左斜後方から骸骨たちが襲いかかった。アステリア軍も接近に気が付かなかったわけではなく弓兵が矢を射かけるなどしていたが骸骨たちを止めることも出来ず、二千の骸骨たちは弓兵に見向きもせずに歩兵隊へ襲いかかったのだった。武器を持たない彼らはアステリア軍の歩兵に対して掴みかかったり噛み付いたりして絡みついて歩兵を地面に押し倒していく。そうなると弓兵たちは骸骨と一体化した味方を撃つことも出来ずに待機せざるを得なかった。

 そのタイミングで歩兵の上に氷の矢と槍が飛んでくる。槍が地面で弾けると霧が発生して周囲の視界を奪った。霧の中から悲鳴が上がる。おそらくは氷の花が咲き、回転して転がった兵たちを切り刻んでいるのだろう。

「引け! 引けぇ!」

 指揮官の声に反応して霧の中から飛び出してきたのは歩兵ではなく骸骨だった。今度は骸骨たちが弓兵や指揮官たちに襲いかかってくる。そうなるとアステリア軍は大混乱で弓兵は弓を捨てて散り散りになって逃げ出すし、指揮官も兵を捨てて逃げた。

 軍隊が霧散してしまうと骸骨たちは死んだアステリア兵を掴むと引きずりながら出てきた穴の方へ戻っていくのだった。中にはまだ息のあるものもいたが骸骨たちは構わずに引きずり連れ去っていった。


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「人間の軍隊を養うべきです」

 サースの提案はこうだった。

 まず近隣から傭兵を募集し軍を編成してそれでノースフロストを攻め落とし、そこにシミュラの軍を駐留させるべきだという。交易を開始して軍の維持費に充てることで活動を支える。例えば周辺にいる動物は食料や毛皮に加工して商品化し、西側の山岳地帯を切り開き木材も輸出などして販売すれば軍隊の駐留費など余裕で賄えるはずである。ノースフロストに駐留軍がいるとなれば氷の城の目の前にいきなり攻め込まれることもないはずであると。

「ここ百年以上、今のやり方で十分撃退も出来た。軍など必要なかろう」

「いいえ、このままではいつか破られます。今年のように動物が減った場合、魔法や魔物だけに頼ることは出来ないのです。人間の兵を使うほうが安全です」

「だが、人を集めればそれだけ災いが増えよう」

 ノースフロストの町は徐々に守りが固くなってきている。行き当たりばったりで作られる町ではなく誰かが設計図を書いてそれを全員で実行しているようだった。外壁は板ではなく大きな石に代わり、川の西側に重厚な壁を築きつつある。川の東側は遊水地となるようにほとんど開発されていない。このペースで行けば洪水に強い冬を越す町が出来てしまうかもしれなかった。

「城や西側から迷宮に入られることはありませんが、東の谷からは可能です。その険しさ故に大人数では進むことは出来ませんが冒険者なら可能です。町が発展して多くの冒険者が迷宮攻略に乗り出せば魔物の稼働も難しくなるはずです」

「町に水を流すべきではなかったな」

「時代の流れです! 遅かれ早かれあの町は発展しました」

「人を集めると言ってもこの北の大地にどれくらいの村がある? そこにどれだけの人がいるだろうか。どこも厳しいのだ」

「それこそあの町で募集しても良いのでは?」

「正気ではないな。敵の町でこちらの味方が集まるものか」

「この城の蓄えの一部を出すことと長には町の支配権を与えることをお許しください。それであれば必ず集まることでしょう」

 返事をしないシミュラにサースはもう一言付け加える。

「我々が大きな力を持ちいずれ国となれば、必ずここに平和が訪れますから」

「……良いでしょう。やってごらんなさい」


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 多少の家具の移動はあってもこの部屋は十四か十五の頃とほとんど変わらないが、その頃は両親が使っていた。部屋の中央には天蓋付きのダブルベッドが置かれている。これは固定式なので動かない。大きく長い窓があるが、高い位置にあるので城壁の二段目から屋を放っても届かなかった。廊下へ続く扉とかつての子供部屋につながる扉があり、四方の壁には文様が刻まれていてその中に扉を隠している。その隠し扉を開けると迷宮の最深部へ行ける転移魔方陣が描かれた部屋に繋がっている。転移魔法陣は迷宮の主が許可した者にしか使えないものだが、敵がもし城に攻め込んできたときにはそこから迷宮へと逃げるのだ。城を落としても迷宮を攻略しなければ最深部へたどり着くことは出来ない。迷宮での戦いでも敗北を重ね最深部に攻め込まれても、大広間から続く部屋には外へ行く転移魔方陣がある。

 やはり十四の頃だったろうか、まだ髪の色が黒でなかった頃。最深部にある転移魔法陣はその時を最後にもうずっと使っていない。あの時。父が迷宮の主の資格を失ったあの日あの時。それは今から約百三十年前のことだった。目を閉じると時々夢となって現れる。幸せだった頃の夢はいつまで待ってもやって来ないのにあの日の夢だけは何度も現れるのだった。


 氷の城は夜間に突如攻撃を受けた。今まで冬場に攻めてくる前例がなかったので皆油断をしていた。冬季は近くの町も港も凍りつき、人が生活するには過酷すぎるため物資の補給もままならない。すべての町人はもっと南に移っていきそこで冬を越すのだ。そんな本来は不利になるはずの冬季に戦争を仕掛けてくる者がいたのだ。城壁に連続で何かがぶつかり揺さぶられる。ドラゴンの尾でもぶつかればそうなるかもしれなかった。


 明け方になるとその規模がわかった。その軍勢は五千を超える兵力だった。補給部隊を入れたらもっと多かったかもしれない。大石を積んだ塀の前に五十台ほどの投石機を並べ、嵐のように岩を撃ち込んできた。父である氷の魔術師ロスは多数の投石機の姿に驚き、後手を踏んだことを嘆いた。その頃はまだ氷の槍を打ち出せず、氷の矢は届かない距離だった。それなのに防衛装置は父の魔力を使いながら敵のいないところへずっと氷の矢を撃ち込んでいたのである。

 一斉に放たれる無数の大石を受けてすでに氷の城は半壊していた。東側の城壁は二段目まで崩されている。


 氷の魔術師ロスは母ナミュラに指示を出して迷宮の防衛を任せた。直後に迷宮から二千の骸骨の魔物を出して突撃させる。投石機と積み上げられた大石の間に魔物が飛び込もうとしていた。

 攻め手には見張りがいた。左翼側の投石機の部隊がそれに気が付き装備を切り替えて応戦する。その数、千。魔物が人間の兵を圧倒するかと思われたが、少数が多数を押し返した。骸骨の魔物が弱い訳では無い。骸骨の魔物は五体もいれば大人のグリズリーを殺すことが出来る。それなのに骸骨の魔物はすり潰されていった。不可解なことだった。更に奇妙なのは歌だ。人間の兵士たちは歌を歌っていたのだ。兵は歌いながら戦っていた。

 投石機部隊の中央より黒い煙が空に昇る。しばらく後、氷の城の東でも黒煙が昇り灰色の空に存在感を示す。

 それは、迷宮へ突撃部隊が入った合図だった。迷宮の主を討つことができれば攻め手の勝ちである。上の城で討てれば良いし、それがダメでも下の迷宮で討てれば良い。戦争と迷宮攻略を同時に攻略しに来る者がいたのだ。

 城には次々と岩が打ち込まれる。骸骨の魔物は全滅した。二千もの魔物を失った迷宮は攻略の難易度が下がったことだろう。軍勢は投石機を離れ、盾を頭上に構えて崩れた城壁に向かって突撃を仕掛けてくるのが見えた。


 シミュラたちは迷宮の最深部にいた。最深部の大きな両扉は閉じられているが向こう側では開くために激しく扉に攻撃を加えているのは振動を見れば分かった。

 氷の魔術師ロスは最深部にある大広間の両端に並ぶ部屋の一つにシミュラたち三兄妹を押し込んだ。外につながる転移魔法陣の描かれた部屋だ。

「よいかエサイアス、大きな力だけではダメだ。勝ちすぎては誰も生きていけないのだ。バランスがいちばん大切なことなのだ。それを覚えておけ。シミュラ、兄を助けてカーラを守ってやれ」

 氷の魔術師ロスは転移の魔法陣に三人の兄妹を突き入れると転移魔法を発動させた。

「お父様も一緒に!」

「母さんをここに置いていけない」

 先に迷宮を守りに行った兄妹の母ナミュラはもう敵の手によって討たれているだろう。ひとつ上の四階は母の設計した迷宮で母はそこで敵を撃退するのが得意だった。だから、その遺体はまだ上の階に残されているだろう。シミュラはまだ赤子のカーラを抱いて叫んだ。

「お父様も一緒に来て!」

 魔法陣から飛び出しそうになったシミュラを兄のエサイアスが彼女の淡く赤い髪を乱暴に掴んで引き戻す。同時に転移が発動し完了した。雪に埋もれかけた石柱群の真ん中に兄三人は現れた。

「この近くに村があったな」

 エサイアスはシミュラの脇を引き上げて立たせると雪の中を歩き始める。雪のような白い髪をなびかせながら。

「早くしろ。こんなところにいつまでもいたらお前もカーラも凍死するぞ。こんなところで余計な魔力は使えないからな」

 エサイアスは鈍色の短い杖を懐に隠した。


 エサイアスは村に着くと氷の魔法で村人を襲った。村人を殺し尽くすとようやく落ち着いたのか余裕が出来たのかそこで初めて両親の死を悲しんだ。涙は流していなかったが。

「父様が失墜した以上、周辺の村や町は全部オレたちの敵になる。全部殺して新しくしないと安心できないんだ。父様はここの人間どもを信用しすぎたんだ。他人を信用したから何もかも奪われてしまったんだ。お前が操る動物だって魔力が切れた瞬間襲いかかってくるしな。いいか、家族以外はみんな敵なんだ。忘れるな」

 エサイアスは村々を襲い財産を奪った。そしてそれをシミュラにも手伝わせようとした。シミュラにトナカイを操らせ荷物を運ばせようとしていたが、目撃者を一人残らず殺してしまうようなあまりの非道さにシミュラは兄の協力を拒んだ。すると、エサイアスは石ころでも捨てるようにシミュラとカーラを見捨てた。

 

 シミュラたちは兄の襲撃を恐れ村に頼ることも出来ず生活に困窮していった。冬の森の中に身を隠し、周辺にいたオオカミのボスを操りその群れと生活を共にした。

「おめいたんおめいたん」

 シミュラは妹のカーラが好きだった。小さな手はあかぎれしていて可愛そうだった。シミュラとは違ってきれいだった赤い髪は、所々にゴミが絡みついている。

 姉妹は食料や着る物を得るためトナカイを操って誘い出して殺した。本来それは禁忌だった。操った動物を自らが殺すことで自らの魂に傷をつけるとされているのだ。

「おめいたんだいすき」

 そんな自然との生活の中でカーラは病を得て早世してしまう。その年はオオカミたちも妹と同じように病気で沢山死んだ。群れに病気を持ち込んだのは自分だったとシミュラは感じている。シミュラには抵抗力があったおかげかなんとか助かった。しかし、幼い妹は助からなかった。村や町に住めばこんなことにはならなかっただろうが、エサイアスとの遭遇を恐れた。自分の弱気が妹を殺すことになったと悔いていた。


 エサイアスは強盗団を組織するとそれまで以上に荒稼ぎをし始めたという。数年もするとエサイアスは強盗で集めた資金を元手にして中規模の傭兵団を雇入れ氷の城を奪還すべく戦ってあっけなく死んだ。

 エサイアスの死を教えてくれたのは罠猟師だった。

 氷の魔術師ロスの後、氷の城の城主は定まらなかったようだ。誰もがバランスを取れずにその座を退いたと聞いた。シミュラにとって幸いしたのはその入れ替わりの激しさのお陰で氷の魔術師ロスの存在を忘れてしまったからであった。父の名が生きていれば、その息子エサイアスの悪名も残り続ける。その妹であることが知られてはいけないとシミュラは町に出ることを酷く恐れていた。

 氷の城主が代わり続けても依然、村々には盗賊や強盗団が現れ続けた。シミュラはそれをオオカミの群れを使って数度撃退した。村人からの頼みもあったがそれでようやく村に住むようになり、知り合った猟師に角や毛皮を売ることで暮らし向きを良い方向へ変えることが出来た。そうやって得た信用と資金を元にシミュラは町の魔法使いを師事することになった。師となった者は父親や母親ほどの魔法使いではなかったが、研究や研鑽するには十分な環境だったし、基礎を固めるには問題がなかった。

 以降、獣の癖が抜けて人として生きることが出来たのは師のおかげだったのかもしれない。


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 淡く赤い髪を小さくまとめて小綺麗な格好で町の中に出るのは楽しかった。その日も師に頼まれた物を町で買い歩いていると、シミュラは不意に懐かしい声を耳にした。   

 声の方へ振り返り声の主を探してみるのだが見つけることは出来なかった。不思議に思いながら師の求める品を探した。その中に度数の高いアルコールがありそれを求めに酒場を尋ねると再びあの声とすれ違った。

 シミュラはもしやと思った。

「お母様の声に似ている……」

 シミュラは五年も前に迷宮で死んだはずの母親の姿を見つけてしまった。他人の空似かもしれないが、男と腕を組んで人混みの中に消えていく母ナミュラを追いかける。しかし、混乱する頭と気持ちのせいで上手く歩くことが出来ずに見失ってしまう。

 ただの錯覚だと思うようにしたが、どうにも落ち着かなかった。どうにかして確かめる方法が欲しかった。

 師はシミュラの心を見透かしているようだった。魔力とはあまり縁のない人だったが、人の心を読めるような人だった。

「冒険者が氷の迷宮を探索するのに必要な人材を募集している」

 師がシミュラにそんな話をした。

「気が散って集中できんならそんな修行は役に立たん。やめてしまえ。迷宮の中で答えを見つけて戻ってくるのが良いだろう」

 シミュラはオオカミを二頭連れて冒険者の元へ向かった。本当なら母が生きていれば嬉しいはずなのに、心の何処かに言いしれない不快感があった。迷宮の中で遺体か遺品、その残骸でも見つけられればそれがはっきりとする。そう思った。

 冒険者が集まるようなところは大体が酒場だった。シミュラが入っていくには抵抗があったがそんなことはどうでも良かった。これを逃せばもうチャンスは来ないかもしれなかった。

「犬使いか。キツネみたいな髪の色だな」

 リーダーの男は二十代後半という感じの栗色の髪の毛の男。軽装の剣士なのだろう。

 その近くでシミュラのチラチラ見ているガタイのいい男が座っていた。見るからに重戦士といった風体だった。焦げ茶の短髪。

「オオカミよ。足りなければ二十頭までなら呼んでこられるわ」

「そりゃ結構だ。だが今は二頭で十分」

 緑と青の混ざった髪の女がリーダーの隣りに座った。狩人か。身のこなしが軽やかだ。

「珍しいね。獣使いとか」

「参加は無理でしょうか?」

「戦士がもう一人欲しかったけど……」

「爺さんをクビにすれば? で、もう一人戦士を入れようよ」

「聞こえとるぞ」

 背の低い老人が机の下から顔をのぞかせる。長い灰色の髪で色褪せた緑色の長衣を着ている。おそらくこの人は魔法使いだろう。

「オオカミなら十分戦士の代わりになるじゃろ」

「じゃあ、決まりだな。俺はイラリ」

 リーダーはイラリだ。

「私はマリ」

 狩人はマリ。

「グスタフだ」

 重戦士はグスタフ。

「ワシはニコデムスじゃ」

 魔法使いはニコデムス。

「わたくしはシミュラです」


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 シミュラとニコデムスが明かり持ちを担当している。シミュラは上を照らし、ニコデムスが足元を照らしているが別にそう取り決めたわけではなかった。

 リーダーのイラリは長剣と幅広の剣を使い分ける剣士だった。更に腰に二本の短剣を装備している。攻撃をひらりと躱して長剣を骸骨兵たちの骨の間に通す。魔物の身動きを封じた後、幅広の件で頭骨を破壊する。

 重戦士グスタフは左腕に大きな丸盾を構えて突進して骸骨兵を転がすと右手に持った金棒で一撃で粉砕する。

 狩人のマリは単弓を上手く使うし、罠や敵を察知するのがとても上手だった。シミュラが操る二匹のオオカミもマリの補助に役立った。

 ニコデムスは魔法使いのくせに魔術も使わなかったし、身の丈を超える杖で肩を叩きながらただついてくるだけだ。ただその杖は地面からシミュラの胸くらいまでの長さしか無い。ニコデムスが小さいだけなのだ。誰も文句を言わないのは危機的状況まで魔力を温存する作戦なのだろう。シミュラも二頭のオオカミに戦闘参加をさせるだけで魔法は使わなかったのだが、それは触媒を集めるための杖を持っていないからだった。

 魔法を使うためには触媒と変化が必要になる。すぐに使える触媒があれば別だが、それがない場合は周囲から集めなくてはいけない。火を起こすための触媒、風を起こすための触媒、それを集めるために専用の杖がいる。火や水がそこにあれば魔力を使って変化させて魔法を唱えることも可能だが、杖を使って触媒を変換させたほうが魔力の損失が少ない。

 杖を持っていないシミュラはただの動物使いだと思われているのであった。


 迷宮の攻略は順調だった。というのもシミュラが仕掛けの殆どを知っていたからだった。実際、謎解きは子供のなぞなぞのようなものが多かった。それはシミュラの父ロスが彼女に考えさせて作らせたからだった。ただそれを言うようなことはしなかった。命の危険性が高い罠のときや謎掛けのときだけ口を出すようにしていると、あっという間に階層をクリアしていくのだった。

 新たな階層が作られなかったのは軍勢に攻め込まれるせいだったのだろう。次の戦争までに失った戦力を立て直すのに物資や資金が使われて迷宮運営は後回しにされたわけである。

 城と迷宮を同時に運営するのは難しい。城の防衛といえども戦争には多くの金がいる。軍隊を養うだけの食料や装備品も必要だし、その保全や整備にも資金がいる。

 そして、迷宮の階層を増やすには資材や魔素が大量に必要となる。

 この地には収入となるものは殆どない。木材と角や牙、毛皮など動物から取るもの。それくらいしか無い。戦争で死んだ者や迷宮の中で命を落とした冒険者の持ち物も迷宮の主の物となる。それを資材にしたり売りに出したりすることも出来るし、財宝の一部に加えることも出来た。

 戦争で得られる戦利品などあまりあてに出来ない。それは極々ありふれたものしか手に入らないからだ。例えば兵士が持つ剣や槍を千本単位で得たとしても財宝としての価値は低い。防具についても変わらない。安物をいくつ集めても宝物にはならない。

 敵をどれだけ屠っても収入と支出はほぼ同じである。

 氷も魔術師と呼ばれた父ロスは、支出を減らすために様々な工夫をしてきた。自らの魔力を使って城壁ののぞき窓から氷の矢が出るような仕掛けを作ったり、母ナミュラと共に新しい魔術の研究をしたり、エサイアスやシミュラに氷の魔法を教えたりなどして支出を抑える努力をしていた。中でもシミュラが見せた動物を操る魔法が大きく成長すれば収支をプラスに持っていくことが出来るはずだった。そうすれば家族は迷宮を失わずに住んだのだ。だが、それは間に合わなかった。


 この迷宮はどうしてこんなにも簡単に攻略が出来てしまうのか。もっとお金があれば平和に暮らせたのにとシミュラは思う。



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 シミュラは四階にたどり着いた時、なぜか違和感を覚えた。この迷宮に直接足を運んだことはない。いくら迷宮の主の娘だとはいえ小さな子供が迷宮に来ることはない。迷宮は遊び場ではない。主の娘でも遠慮なく魔物は襲ってくることもあるのだ。シミュラが迷宮の仕組みを知っているのはかつて父に最深部の一室で観せてもらった記憶があるからだった。それがこの四階はその記憶と違っている気がしたのだ。先に進むとその理由がわかった。

 大型犬ほどの大きさのある蟻が目の前に出てきた時、シミュラは思わず声が出てしまった。

「違う」

 シミュラの声をマリが聞いていた。

「違う?」

「何が違うんじゃ?」

 ニコデムスは依然魔法を使う気配がない。最初の蟻の相手はグスタフがしていた。大きな丸盾が蟻の顎に食いつかれ少しずつ歪んでいく。体を噛みつかれたらただでは済まない。盾をずらして金棒を叩き込むが蟻はめげた感じがしなかった。丸盾に食いついたまま爪でグスタフを引っ掻こうとする。イラリが脇から蟻の胸と腹の結合部を幅広剣で両断する。それでもまだ蟻は動き続けている。そうこうする間に二匹目三匹目と表れ出てくる。

「こりゃまずい」

 ニコデムスが後方へ下がっていく。

 オオカミがシミュラを見る。迷っているシミュラを見続ける。答えを出すのが遅れている。気持ちは焦るばかりだった。

「グスタフ! 上に打ち出せ!」

 イラリの声を聞いてグスタフは蟻を叩き潰すのではなく下からすくい上げるように攻撃方法を変えた。そうしてひっくり返った蟻に向かってイラリが駆け寄っていく。

 イラリは幅広の剣を手にとって蟻の触覚や脚を切り飛ばしていく。関節部分に上手く当てることで両断することが出来た。それを見てシミュラもオオカミたちに指示を出す。二頭のオオカミは協力しあって一匹の蟻の脚や触覚を刈り取っていく。

 シミュラが感じた違和感は虫の種類が違ったことだった。

「ここのボスは大きな蜘蛛だと聞いていたのよ。だから、出てくる途中で出てくる魔物も蜘蛛だって思っていて焦ってしまったの」

「魔物の配置をやり直すには相当なコストがかかると聞いたがの?」

「はい。それに必要な資材を節約するには魔物の種を揃えるのだと師から教わりました」

 本当は父親から教わったのだったが。

「ほおほお、よく学んでおるな。お嬢さんはこの迷宮が欲しいのかな?」

 ニコデムスがシミュラを見上げて聞いた。

「いえ、ここで知りたいことがあったので来ただけです」

「爺さん! 魔法!」

 マリが怒鳴った。蟻が奥からどんどんやってくるのが見えた。一体一体倒している場合ではないようだ。ニコデムスは渋々身の丈を超える杖を縦に構えてその先をくるくると頭の上で回して魔法を唱え始める。

「良いぞ下がれ!」

 ニコデムスの合図でイラリもグスタフも下がり、シミュラも二頭を下げる。

「風刃のウインドストーム!」

 風の刃が動く時、風景が少し歪んで見える。その歪んだ空気が刃になって蟻たちの体を切り裂いていく。十数体が一度にバラバラになって地面の上に転がった。



23


「困ったな」

 その先は少し落ちくぼんで広場となっており、壁中に犬小屋程度の大きさの穴が空いていてそこには蟻の幼虫が蠢いている。その数ざっと三百を超える。中央には小山のような大きな腹を持った蟻がいた。

「あれが女王だな」

「この数はちと無理じゃな」

「ここから矢を撃ち込んでもダメかな?」

「最初の一本で一斉に襲いかかって来るだろうな。普通の大蟻があの硬さだから一撃で仕留めることも無理だろうし」

「じゃあ、引き返す?」

「この次が最深部なんだろ?」

「誰も何も作っていなければそのはず。でも、ここは変わっていたからどうかしら」

「惜しいなぁ」

「財宝一歩手前で引き返すことになるのか」

「それだと完全にマイナスだよね。途中もめぼしいものはなんにも無かったし、こんな貧乏な迷宮も珍しいよ」

「帰るか」

 イラリの言葉に誰も返事ができなかった。決定が下されようとした瞬間、

「少し時間を貰えれば凍結なら出来るわ。凍らせてその隙に下に下がるというのはどう?」

 シミュラは思わず話し出してしまった。

「驚いた。お嬢さんそんなレベルの高い魔法が使えるのか」

「最深部を見て帰るにしてもまたここを通るからな。厳しくないか?」

 ニコデムスがニヤリと笑った。

「ワシの風系の魔法と合わせれば奴らを死滅させることが出来るはずじゃ」

「どうやって?」

 グスタフがニコデムスを見下ろす。

「お主に説明してわかるかどうか」

「爺さん説明してくれ」

「あいよ。冬が寒いのはなぜか。気温が下がるのもあるがそれだけではない。寒いだけであれば身を寄せ合って耐えていれば良い。しかし、本当に怖いのはそこに……」

「風か」

 マリが間から口を挟む。ニコデムスは口をパクパクさせて次の言葉を探している。シミュラがその先を続ける。

「なるほど。凍結と風を混ぜれば蟻は全滅できますね。わたくし、魔法の杖を持っておりませんので少しお時間を頂きますが大丈夫ですか?」

「頼む」

 シミュラはだらりと両腕を下げ、両の手のひらを地面に向ける。地中の水分を意識する。この迷宮は水気が多い。それは父親のロスが氷の魔術師と呼ばれることも関係している。氷の魔法を使うには水が触媒として使われる。迷宮で有利に戦うために水気を多く含ませていた。地下水脈に意識が触ることができれば、それを触媒にすることが可能なはずだ。

「うっ!」

 シミュラは一瞬右手を引き上げた。なにか別のものに触れた気がした。とてつもない熱を感じたのと同時に鋭く痛む冷たさも感じた。黒よりも黒い黒。

「どうした?」

「大丈夫です。続けます」

 間違ったものに触れただけだ。意識を集中させる。水。水。水。それ以外のものは近寄らせない。水の音が頭の奥で響いた。

「おまたせしました。いつでもいけます」

「ワシの方はいつでも行けるぞ」

 シミュラは落ちくぼんでいる広場の方へ息を吹きかける。真っ白な息はキラキラと輝きながら周囲の空気を巻き込み白い靄を生み出す。ニコデムスがシミュラの後ろから杖を出す。

「木枯らし(コールドウインド)!」

 杖の先から風が吹く。シミュラの淡い赤髪を激しく前に吹き流す。その風は真っ白な息に渦を与え大きくなっていく。周囲には霜が降り始め壁に氷が付いていく。異変を察知した蟻たちは縮こまっていく。幼虫たちも動きが鈍くなり、女王蟻の胎動も止んだ。ギチギチと顎を動かすと兵隊蟻たちがその呼びかけに応えて白い風が吹き込んでくる穴へゆっくりと向かっていく。だが、たどり着くことはなかった。兵隊蟻は凍りついた脚が地面から離れない。広場の中で霜柱が立ち上がり氷の柱に変わっていく。氷の柱は蟻を飲み込んで砕け、また新しい氷の柱に変わる。女王蟻も固まったところを崩されまた固められ絶命した。

「もういいじゃろ」

「はい」

 仲間を振り返ったシミュラの髪は蘭の花びらのように凍ってしまっていた。

「あんたを連れてきてよかったよ」

 マリがシミュラの髪の毛に触れる。

「傷んでなきゃ良いけど」

「凍らせたら温度で死ぬだけだと思っていたけど、こりゃすごいな」

「外殻が硬かったせいもあるのかもな。凍って砕けてまた凍ってを繰り返して倒し切るとはなぁ」

「少し先に進んでそこで休憩しよう」



24


 大きな両開きの扉は傷ひとつなくそこにあった。開けば大広間があり、大広間の中央には長い机があり、数脚の席があった。両端に居室や宝物庫、そして、床に外につながる転移魔法陣の描かれた部屋がある。シミュラは大広間の空気を深く吸い込んだ。

「もう最深部とは随分とあっけないもんじゃな」

 ニコデムスが言った。リーダーのイラリが真ん中まで歩いていって椅子を引き出すとどかりと座った。

「ここで終わりなのか? ラスボスは? 財宝は?」

「周りにドアがいっぱいあるからその中のどれかか……」

 マリはぐるっと指を振り回してから最奥の扉を指差す。

「あっちの奥かな」

「つまらんな。ここには強い敵がいるんだと思っていた」

 グスタフも席につこうとした。

 右端のドアが開く。黒い道衣を着た栗毛の男が出てきた。その手には象牙色の長大な杖が握られていた。シミュラはその杖に見覚えがあった。それは氷の魔術師である父ロスの魔法の杖だった。

「遅れて申し訳ない。上で戦争をしていてね」

 イラリは席から立ち上がり長剣を構える。他のメンバーも距離を取って身構える。黒道衣の男は慌てる様子もない。

「訪問の目的を伺おうか」

 黒道衣の男の問いかけにイラリが応じる。

「もしかして話し合いで解決できる?」

 黒道衣の男は不敵な笑みを浮かべる。

「俺は迷宮の支配なんかに興味はない。でも、財宝にはすごく興味がある。ここにあるお宝をくれたら大人しく帰っても……」

「やはり泥棒か」

 黒道衣の男は象牙色の長大な杖を頭上で回転させる。

 イラリとグスタフは武器を構える。マリは左右を見回し敵の奇襲に備える。

「女は私がもらうわ」

 頭上から女の声が降ってくる。同時に白い塊がマリとシミュラに襲いかかる。オオカミがシミュラを突き飛ばしたおかげでシミュラは無事であったが、マリは足を白い塊に床に縫い付けられてしまう。

 シミュラは起き上がれずに頭上を見上げたまま固まってしまった。

 大蜘蛛はここにいた。以前は四階にいたはずの大蜘蛛。上下逆さまになった人の頭を咥えているのが見えた。その顔には見覚えがあった。

「お母様……」


 黒道衣の男は象牙色の長大な杖を振り回し、金棒を受け止め押し返し、幅広の剣を受け流すと体が泳いでいたグスタフを蹴り飛ばす。

 ニコデムスがイラリに向けて杖を出す。

「軽やかな歩み(クイックステップ)!」

 風がイラリの足元に巻き起こる。イラリはその風に乗って素早く立ち回るようになる。


「降りてこい!」

 マリが単弓で大蜘蛛を射る。が大蜘蛛はその度に腹の先から白い塊を射出して矢を撃ち落としてしまう。それどころかマリの体に白い塊をいくつもぶつけて身動きを封じてしまう。

「お前の血を吸うだけだから、殺しはしないよ。あぁ、もっとも血を吸われたら死ぬんだけどね。男どもは死んでから食うから心配しなくていいよぉ」

 逆さまの顔が甲高い声で笑った。先程から喋っているのもその逆さまな顔だった。

「お母様!」

 シミュラの声に大蜘蛛は逆さまの顔を向けた。

「なんだいお前は? 先に吸われたいのかい?」

「お母様! シミュラです!」

 その言葉に驚いたのはナミュラの顔をした大蜘蛛ではなく仲間たちだった。

「あんた、私たちを騙したのね!」

 マリは頭だけが白い塊の中から出ている。

「これはしくじったのぉ」

 ニコデムスはシミュラから距離を取る。イラリやグスタフも聞こえてはいたが黒道衣の相手で手一杯だった。

「シミュラ? そういえばそんなのもいたかしらね? いっぱい産んだから忘れちゃったわ」

 ナミュラは気にする風もなくシミュラに白い塊を打ち出した。防ごうとしたシュミラの右手首を弾くと白い塊は手首に張り付きその勢いのままでシミュラを床の上に引き倒す。するとすぐに床の上にシミュラの右手を縫い付けて固まってしまう。淡い赤い髪が振りほどかれる。

「安心しなさい。お前もきちんと吸ってやるから」

 ナミュラは音も立てずに天井から壁をつたって降りてくる。

「風刃のウインドストーム!」

 密度を増した空気が刃になって大蜘蛛に襲いかかる。ニコデムスの杖から押し出された風の魔法は大蜘蛛に直撃し、大広間の中を何度か横転させた。

「お嬢ちゃん大丈夫か?」

 ニコデムスはシミュラに駆け寄ると白い塊を剥がそうとする。すでに固まり固くなっている。

「ええい、ワシではどうにもならん」

 

「いけないねぇ。体が大きいと避けられもしない。人と蜘蛛を融合したのは間違いだったかもしれないねぇ」

 起き上がってくるナミュラは人の姿をしていた。粘菌のような紅い物質がうねりながらタイトなドレスに変わっていく。その首元にオオカミが食らいつく。もう一頭は足首を狙った。骨を砕く音がしてナミュラはそのまま床に倒れ込んだ。

「やめなさい!」

 オオカミたちはシミュラの敵に対して自発的に攻撃を仕掛けた。それなのに叱られたことに不満の声を上げた。

「お母様!」

 シミュラの必死な声に応えナミュラはゆっくりと起き上がると首をブラブラと逆さまにしたまま歩き出す。しかし、バランスが取れないのか背中を内側にして手を床につける。

「人間の姿じゃ脆いし、なんなのこれ。完全な失敗じゃないの」

 ナミュラの腕や足が二つに裂けていき蜘蛛の脚部に変わって、背中の中央へ集まりだす。いや、ナミュラの体が大きくなっていくためにそう見えただけだった。体中を紅い粘菌が覆い腹が膨張する。首が大きく膨らんで噛み傷が収縮していくと胸部と一体化して大小八つの目が表れ出る。

「そうかい、お前あのシミュラかい。思い出したよ」

「お母様……」

「あの少しの動物しか操ることしか出来なかった、役立たずのシミュラかい」

 シミュラは黒い道衣の男を睨んだ。

「あいつね! あいつのせいでお母様はおかしくなったのですね!」

 黒い道衣の男は象牙色の長大な杖をただ武器として使うだけだった。イラリとグスタフの間断のない攻撃で魔法を使う余裕がないのかもしれない。

 二頭のオオカミで大蜘蛛の脚を攻撃させて牽制する。ニコデムスは再び魔法の準備を試みていた。オオカミの攻撃が本気でないとみるとナミュラは構わずにマリに向かって行く。

「血が足りないわ」

 ナミュラの前脚がマリの首に刺さる。マリは小さく「あ」と言った。ナミュラは血が吹き出すその穴を逆さまの口を大きく開いて吸い付いた。マリの顔からみるみる内に血の気が引いていく。ナミュラが離れるとマリの首筋はえぐられていた。

「お肉も少し食べちゃったわ。いやあねぇ」


25


 迷宮の主は魔物を使役することが出来る。魔物は魔素によって稼働を続ける。魔素を失った魔物は魔素を補充するまで眠りについた状態になる。魔素が何で出来ているのかは誰も知らない。魔物を動かす素だから魔素と呼ばれているだけだった。

 何らかの実験か魔法でナミュラは魔物化し黒い道衣の男が指示しているのであろう。つまり黒い道衣の男を倒せばナミュラも止まるのだ。

 シミュラは自由のある左手で白い塊を凍らせて砕こうと試みるがダメだった。

「魔力ではそれは崩せないのよ! あきらめてあなたも血をよこしなさい!」

 ナミュラがシミュラに襲いかかろうとしたところにニコデムスが魔法を使う。

「風刃のウインドストーム!」

 風の刃では大蜘蛛の外皮に傷をつけることが出来なかった。吹き飛ばすのが誠意いっぱいだった。

「鬱陶しい風だこと」

 大蜘蛛の体がナミュラの中に収納されていく。分かれていた脚二つが一つにまとまり手足に変わっていく。紅い粘菌がタイトなドレスを作り出す。

「一定のダメージか衝撃を与えると人の姿になるようじゃ。さっきは途中で止めたようじゃがオオカミたちが本気でやれば倒せるのではないか?」

 ニコデムスがシミュラの前にやってくる。

「お母様は操られているだけなんです。あの黒い道衣の男に」

 ナミュラはニコデムスから距離を取る。風の魔法が避けられる距離を保っているのかもしれない。

 シミュラは二頭のオオカミを黒い道衣の男に向かわせる。攻撃に参加させると言うよりは杖を奪い取るタイミングを探っていた。

「返しなさい! お父様の杖を返しなさい! それはお前が持って良いものではない!」

 シミュラが左手を伸ばす。床に張り付いた右腕が悲鳴を上げる。

「シミュラ、私が何者なのか忘れたのかい?」

 シミュラとニコデムスの頭上に氷の矢が降り注ぐ。

「風の防壁ミサイルガード

 ニコデムスの杖が頭上にかざされると風が渦を巻いて氷の矢を弾いていく。

「蜘蛛でない時は魔法を使うのか。これは厄介だな」

 シミュラは右肘を立てて体を無理やり引き起こすと、黒い道衣の男に向かって左手を伸ばす。

「許しておくれ、お前たち」

 シミュラがそう言うと二頭のオオカミの目が赤く光り輝き直線的に黒い道衣の男に襲いかかる。黒い道衣の男は特段あわてた様子もなく二頭のオオカミを象牙色の長大な杖で打ち据える。それでもオオカミたちは引かなかった。杖の両端に噛み付いて動きを阻害するとイラリやグスタフの攻撃も黒い道衣の男に当たる様になる。グスタフの金棒が黒い道衣の男の足を砕き、イラリの長剣が杖を持つ手を切り裂いた。床の上に黒い道衣の男が倒れ、オオカミたちもまた横倒れて動かなくなった。

 グスタフが象牙色の長大な杖を奪い取ると、イラリが黒い道衣の男にとどめを刺した。

「あぁ」

 と弱々しい声を上げながら、ナミュラは大広間を奥へ奥へと後退りしていく。壁に背中が当たるとズルズルと地面に座り込んだ。

「マリ……」

 イラリが白い塊に固められたマリの顔に触れる。

「わたくしにその杖を」

 グスタフはシミュラを見下ろしたまま動かずにいた。

「グスタフ、杖は渡すな」

 イラリがシミュラに近付いてくる。

「お前は一体何なんだ? 正直に言えば命は助けてやる」

 イラリの真っ直ぐな目にシミュラは覚悟を決めた。


26


「氷の魔術師ロスは氷の城と迷宮の主でした。わたくしたちの一族は古くからこの地に住んでいたそうです。争いに敗れてもまた城を取り返したりと長い間この上の城に住んでいたと言います。今から五年ほど前、戦争でもここでも敗れ父は死にました。父の言葉では上の階層で母も亡くなったはずでした。それが嘘かもしれないと思ったのは、最近になって母の声を町の中で聞いたからです。その時は気のせいかと思ったのですが、直後に姿を見ることになったのです。わたくしは母を追いかけました。けれどすぐに見失ってしまい、どうして良いのかわからなくなってしまいました。そんな時、わたくしの魔術の師があなた達のことを教えてくれたのです。ここで母の死の証拠でも見つかれば全てが勘違いだったと納得できたのでしょうが、そうはなりませんでした。母が死んだと言われていた地下四階では魔物が変わっておりましたし、ここで姿が変わった母を見てしまいました」

「この杖は?」

「わたくしの父のものです」

 イラリは目を閉じる。グスタフが杖をどうしようか悩んでいた。

「帰るか。マリを弔ってやりたいしな」

「イラリ、杖はどうする?」

「爺さん使うか?」

「ワシには使えん」

「なら売るか」

 シミュラは左手を伸ばして象牙色の長大な杖に触れようとする。グスタフが引いて避ける。右手はまだ自由にならなかった。

「お願いです。それを返してください」

 グスタフがイラリを見るがイラリは反対した。

「ダメだ。お前はここに残れ」

 イラリはシミュラの非難の声を無視してマリを固めている白い塊に触れる。

「爺さん、これは壊せないのか?」

 ニコデムスが傍に行き調べるがどうも難しいようだった。

 反対側に回り込んだニコデムスがいきなり吹き飛んだ。かなりの高さまで浮き上がった後、頭から床に落ちてそのまま動かなくなった。イラリは長剣を抜いてニコデムスに駆け寄る。グスタフは象牙色の長大な杖をその場に捨てて金棒を身構える。シミュラと杖との距離は二十歩はあった。

 イラリはニコデムスの生存確認をすると、グスタフに向かって首を横に振る。

 今度はマリの体を覆っていた白い塊が砕け、マリの体と共に宙に飛んだ。

 そこに立っていたのは黒い道衣の男だった。

「バカな。とどめを刺したはず」

「それは私が主だからだよっ!」

 グスタフの頭上から黒い影が襲いかかりグスタフを吹き飛ばす。大蜘蛛ナミュラはそのまま体制を崩しているグスタフに突進をして上に覆いかぶさると、執拗に頭を狙って前脚を振り下ろし続ける。

「良くも騙したな!」

 イラリがシミュラに向かって長剣を振り上げて息巻き走ってくる。その前に黒い道衣の男が立ちふさがる。振り下ろされる長剣を前に恐れもせずに間を詰めると左腕でイラリの両手首を受け止め、右手はイラリの腰をまわり短剣を引き抜いて奪い取った。イラリは黒い道衣の男を蹴り飛ばすと長剣を捨てて幅広の剣に持ち替える。

 シミュラは象牙色の長大な杖に左手を伸ばす。届くはずのない絶望的な距離だった。

「お父様……。力を貸してください」

 象牙色の長大な杖は静かに横たわるだけだった。

 大蜘蛛ナミュラが逆さまの顔をシミュラに向ける。

「あいつの始末が終わったら、お前の血を吸ってやるからね」

 大蜘蛛ナミュラは壁をつたって上に登っていく。

 シミュラの左手が床に落ちる。頭を床に擦り付ける。淡い赤髪が震える。

「なぜ……、どうして……。せめて理由を教えてください。お母様……」

 剣戟の音の他に聞こえるものはなかった。


27


 ちりちりちり……。


 シミュラの左手の指先に何かが触れた。それは左手の作る影の中にいた。黒よりも黒い黒。人差し指と中指の間からシミュラの中に入り込んでくる。

 シミュラは左手を持ち上げて振り払おうとした。しかし、そこには何もいなかった。目の前には父の杖が前と変わらない位置で転がっている。

「答えてくれないのなら、答えさせるしか無いのね」

 シミュラは再び杖に向かって左手を伸ばす。同時に左手から入り込んだモノがシミュラの淡く赤い髪を黒よりも黒い黒に染め上げる。

「来なさい。ハシュケイオン」

 象牙色の長大な杖は溶けるようにシミュラの左手の中に滑り込んだ。シミュラはそれを握り込むと先を右手首の白い塊に当てた。瞬間、白い塊は輝く粉になってしまう。

 シミュラは杖を右手に持ち替えると黒い道衣の男に狙いを定める。

「お父様の杖をホウキのように使って……」

 象牙色の長大な杖を振り上げると、数本の大きな氷柱がそこに生み出される。

「氷のアイスランス!」

 氷柱は黒い道衣の男に向かって飛んでいく。最初の二本は上手く躱すが、そこから伸びた氷筍に足や道衣を巻き込まれ三本目が体に突き刺さり、その後次々に襲い掛かってくる氷柱にグシャグシャにされてしまう。

「お前……、味方なのか?」

 イラリがシミュラに呼びかけるが彼女は無視した。その視線の先には大蜘蛛がいる。

「なんで出来損ないのお前にそんな魔法が使えるんだ?」

「理由をお聞かせてください」

「お前なんかに!」

 大蜘蛛の腹から白い塊が射出される。シミュラが杖をひねると白い塊はシミュラに届く前に輝く粉へと変わってしまう。

「お前なんか!」

 再び大蜘蛛の腹から白い塊が撃ち出される。これでもかと言うほどの数だった。しかしそれもシミュらには届かず輝く粉になってしまうのだった。

「降りてきて」

 シミュラは杖を横に振るうと柄尻で床を叩いた。

雪崩アバランチ

 シミュラの前に山のような量の雪が大蜘蛛を巻き込みながら落ちてくる。山になった雪は不安定で周囲にも広がるがシミュラの前では光の粉に変わる。

「こんなバカなことが」

 雪山の中から這い出してきたのは紅いドレスのナミュラだった。

「なんでお前なの? なんで」

 雪の上を膝まで埋もれながらナミュラは降りてくる。途中、足を取られ雪の上を転がってシミュラの前に倒れ込む。

「お前なんて……」

 シミュラに向かって伸ばした右手が光の粉に変わってしまう。慌てて右手を引くがナミュラの手首から先はすっかりなくなっていた。切り取られたのではない。その証拠に傷口からは血が出ておらずただ紫色に凍っていた。

 見下ろすシミュラにナミュラは懇願した。

「お願い殺さないで」

 シミュラは一筋の涙を流した。そしてゆっくりとナミュラに近づいていく。

「あなたを許します」

 ナミュラの体はシミュラが近づいた分だけ光の粉に変わっていく。肘の先まで粉になった時、ナミュラはシミュラから逃げるように体を引きずって下がっていく。

「あなたがわたくしを愛しているなら、あなたはわたくしの側に来れるはず」

 左足のつま先が消え、膝が消え、右足も消える。左腕でシミュラから逃げようとする。

「お前を愛しているよ。だからこんなことはやめておくれ」

 けれどシミュラは立ち止まらなかった。腰も背中も肩も光の粉に変わっていく。

「わたくしは愛していたのですよ」

 ナミュラは光の粉になって消えた。

「お前一体なんなんだ」

「側に来たら死ぬわよ。あなたはわたくしの味方ではないのだから」

  近づいてくるイラリにシミュラは言った。イラリは怯む。

「俺をどうするつもりだ」

「帰るんでしょ? だったら、好きにすればいいわ」

「お前は?」

「この迷宮を壊すわ。こんな物があるから争いが無くならないのよ」

「出来るのかそんなこと」

「さあ? でも、帰るなら早いほうが良いわ」

「お、俺を雇う気はないか?」

「あなた、わたくしのために死ねる?」

「それは……」

「やめておくわ」

 シミュラが歩くとそれに合わせて彼女の周囲の雪山も消えていく。

 大広間の最奥の扉の前に立つと扉はシミュラが立つと自然に開いていった。目の前には白い空間がどこまでも広がり、階段が下に向かって伸びている。階段を降りきった先で白い光を飲み込む黒い渦が見えた。下の方から風が吹き上がって来る。階段を降りていくと長い黒髪を波打たせた。

「あれを壊せばここは消えるはず」

 象牙色の長大な杖の先を黒い渦に向ける。杖の先端が輝きその光が渦の中心に吸い込まれていく。

「消えろ」

 強く願うたびに杖の輝きは増していく。

「消えろ!」

 渦はシミュラの魔力を飲み込みながらどんどん大きくなっていく。黒い渦の中にもっと黒い渦が見えた。

「こんな物があるからいけないのだ。皆ただ平和に健やかに暮らしたいだけなのに」

 杖に込める力が増していくにつれて最も黒い渦の動きが鈍くなる。

「止まれ。止まって跡形もなく塵となれ」

 シミュラの願いも虚しく、渦は動きを止めることはなかった。杖は光を失っていき、シミュラは力なく後退すると階段の上に座り込んだ。

「渦を消すことさえも出来ない。どうしてなの。そんなに平和が憎いの? 戦争がなければ妹もあんな死に方をしなかった。父もあんなふうな最後にならなかった。母や兄も狂いはしなかった。ここで命を落とした者たちも、動物も、みんな生を全うできた。争いを捨てるということはそんなに困難なことなの?」

 渦は問いかけには答えない。

「他人の物を欲しがらない。他人を傷つけたりしない。たったこれだけのことさえわたくしたちには難しいことなの? 動物や植物を殺して食べることで生きていく。それが人間の性質であるならば、それは生き物として仕方がないのかもしれない。けれど、誰かが持っているものを欲しがることは違う。弱い者を虐げることも違う。争いが生まれるのは強い欲望に支配されそれに負けてしまったからよ。わたくしは争いのない世界を作りたい」

 渦の中から放たれた黒い光がシミュラを差す。

「人を殺し奪う者をすべて殺してしまおう。争う心を持つ者をすべて殺してしまおう。そして最後に自分が死ねばこの世界は争いのない世界になるだろう」

 それが自分の意志なのか黒い渦の意志なのか分からなかった。


 シミュラは迷宮の主となった。


28


 目を開く。見上げる天蓋ベッドの天井は代わり映えがしないので今がいつなのかよくわからなくなる。迷宮の主となってから先、自分の時間が止まってしまったようにも感じる。氷を使っての城壁の補修、新しい道具の開発、魔法の再発見などをしてきた。攻城戦ではギリギリの勝利が続いた。迷宮は魔力の半分を割いて入り口を氷で塞いだ。動物を操り戦場を駆けさせた。毎日が作業のようで頭の中は濁っていたし、心は乾いていた。冬場に大群が来て夜の内に木材と大石を運んできたこともあった。吹雪の中に指揮官をオオカミたちに襲撃させて崩壊させた後、木材や石を奪い取り資材にした。資材があれば修繕や建築などはどうにかなった。最深部の渦の前で決定をすれば自動的に修繕も建築も完了までやってくれる。どういう仕組なのかはよくわからない。この城や迷宮は生き物なのかもしれない。資材は栄養で必要なものが揃っていればあとは勝手に成長したり治したりする。そんなイメージかも知れない。

「シュミラさま朝ですよ」

 この声はカペラだ。ドアの向こう側で返事を待っている。起き上がって両手を広げる。ナイトガウンがするりと落ち、青白い肌の上に白い長衣が滑り込んでくる。シミュラが袖を通すとドアに向かって指を鳴らす。揺れる長衣は光の加減で青や緑に見えた。ドアが開きカペラが飛び込んでくる。

「シュミラさま」

 青い髪の女の子。カペラは親を失った。この城に住む者はほとんどが親がいない。戦争が長引いたり攻め手が敗北すると近隣の村々が襲われる。戦争継続のための食料だったり、敗戦後の稼ぎを確定するための行為だった。金や食料を出さないと命を失うので逆らって殺される者もいた。ノースフロストよりもっと南東の町では奴隷商売も盛んなので北の子供が南に売られていくことも珍しくはない。シミュラはそういう子供たちを拾っては城で育てていた。

 カペラの生まれた村もそんな中の一つだった。周辺の村が敗残兵たちに襲われた後、村の大人たちは殺され子供たちだけが繋がれて連れ去られていく途中だった。

 シミュラはトナカイの背に乗り、後ろにはオオカミの群れを従わせて周辺で敗残兵を探している最中に出会った。あっという間に敗残兵を制圧すると子供たちを開放した。村に戻ろうとする子供、町に行きたがる子供と様々だったが、村を見れば家も焼かれ大人は殺されている状況だったし、ノースフロストは子供を世話してくれる町ではない。南東の町フローズンリバーでは奴隷商人たちに狙われてしまう。そこでいつものように氷の城で子供たちを一時的に預かり、別の村へ送る調整をし、行き場のない子供は大人になるまで面倒を見ることにした。

 最初の頃は大変だったが、カペラの頃は大体のことに経験があったし、ここに残った子供たちも協力してくれたのでなんということはなかった。読み書きを教えてあげるものもいるし、裁縫が得意な子もいる料理が得意だったりする子もいた。ここへ来たばかりのカペラは何をやっても上手く行かないので日々イライラしていた。シミュラが付ききりで相手をしていると他の子供から影でいじめられる。すると一層シミュラにベッタリになってしまう。そうなるといじめはエスカレートしていく。とうとうカペラは我慢の限界を迎えいじめっ子に向かってこう叫んだ。

「もうやめて! 近づかないで!」

 するとそのいじめっ子はカペラに近づくことができなくなってしまったのだ。それを知ったシミュラはカペラに亜法使いの話をした。亜法使いには想像力と好奇心が大切で、怖いことや苦しいことは楽しいことや嬉しいことで塗り替えることが出来ると教えた。

 カペラに対する嫌がらせがやんだわけではなかったが、それからのカペラは以前よりも明るくなったように見えた。このところは同じ子供たちのおねだりに辟易しているようだったが。


29


 ノースフロストの町の設計し建設を仕切っているのは、教団と呼ばれる組織だった。信徒は建築もするが兵士としても優秀だという。ここを拠点にして本格的に氷の城を攻め落とそうとしているようだった。

 作業員たちは寡黙で仕事中に話はほとんどしない。酒を飲むにしても黒い道衣を着ている仲間同士でしか飲まず、女を買うことがなかった。酒場や女たちのテントはあてが外れたとがっかりしているようだった。

「教団の連中がここに本格的な町を作ろうとしたのには秘密がある」

 そんな噂を聞いたが、それを知るのには至難の業だった。話しかけてもあいさつ一つ返さないし、すぐに教団の仲間同士で固まり合って疑いの目を向けてくる。

「こんなに打ち解けない連中は初めて見た」

 サースが町外れのテント酒場で酒を飲んでいると、商売女たちが盛り上がっていた。小さな石を手に盛り上がっている風に見えた。小指の先程の小石。酒場の光のせいなのか一瞬それは金色に輝いて見えた。

「じゃあさぁ、川で石を拾ったほうが儲かるっていうのかい?」

「たまたまよ。春の洪水の後に来た連中がめぼしいのは拾って行っちゃったんだから、こんなのまぐれに決まってるわ」

「でもさぁ、こんなんじゃ秋までいられないよ」

「あの連中がここを支配したらさ、川で拾うこともできなくなるんじゃない?」

「そうなったらここはおしまいね。次はどこで働こうかしら」

 サースは寄ったふりをしながら女たちの会話に耳をそばだてる。

「ベアラングの連中、最初仲間を助けてたらしいけど、塊を見つけた途端に仲間よりも金の粒を探すことに夢中になったそうよ」

「あたしでもそうするわ」

「あたしだってそうよ」

「ねえ、まだ金はあると思う?」

「もう拾いつくされてるわよ」

 サースはそれほど酔っていなかったが、金という単語を聞いたとき酔いが冷めていくのを感じた。

 教団という組織が大掛かりで町を堅固なものにしようとしていること。洪水の後に川で見つかった金の話。氷の城をどうして攻め続けるのかもわかったような気がした。

「(ここには金の鉱脈があるんだ。今までそれは予想に過ぎなかったから誰もここに拠点を作ろうだなんて思わなかったんだ。それが洪水で鉱脈の一部がはがれて金が流されて川底に溜まった。そして、軍隊の生き残りが証拠を持って帰還した。埋蔵している証拠を手に入れたから町は建設されて、これ以降の攻城戦は本格的なものになる)」

 サースの手が震える。

「(フローズンリバーを目指そう。あちらで軍隊を揃えてここを落とせば、ここに氷の城を頂点にした王国が出来る)」

 サースは口元をほころばせた。


30


「畑を作りたい」

 カペラが言った。シミュラは驚いた顔をする。

「迷宮の中に畑を作るの?」

「うん」

 シミュラの問にカペラは笑顔で答えた。

「ダメ?」

「ダメじゃないわ。そうね。面白いわね。迷宮の中に畑があったら、そこに来る人達はお家に帰りたくなるかも」

「違うの。畑があったら、パンがもっと食べれるでしょ!」

「カペラ、あなたは本当に頭がいいのね!」

 シミュラに褒められるとカペラは恥ずかしそうにモジモジするのだった。

「では、新たに出来る九階は畑としましょう。まず真ん中に大きな道を用意します。これは侵入者が畑にいたずらしないようにするため。ここを通らなくても最深部に行けるように階段は繋いでおきましょう。お城から直接行き来できるように転移魔法陣も用意しなければ。こちら側はお庭が良いかしら? 魔物は不可侵、と。」

「ふかしんって?」

「畑に入ってこられないってことよ。魔物は畑を汚してしまうの。そうだ、小川も用意しましょう。水も独立させたほうが安全だし」

「雪は大丈夫? 寒くない?」

「地面の中は温かいのよ。後は光と水だけど、それは外の光を持って来ればいいわね」

「どうやって? あたしがやるの? 亜法使う?」

「氷を丸めると光を集められるの。それと氷を鏡のようにして使うと光を導けるの。その二つを上手く使うのよ」

「シュミラさまって何でも知ってるんだね」

「今まで読んだ本のおかげよ。カペラも沢山の本を読んで知識を集めなさいね」

「そしたらシュミラさまみたいになれる?」

「わたくしよりも詳しくなれるはずよ。世界には沢山の本があるのだから」

 瞬間、カペラの顔が曇る。

「世界の本なんていらない。シミュラさまの側にいる」

 抱きついてきたカペラを見下ろすシミュラの顔がこわばる。

「ずっとここにいていいのよ。本は誰かに買いに行かせれば良いのですから」

 ゆっくりとカペラの頭を撫でてやる。

「カペラがいなくなったら、誰が畑の面倒をみるの?」

「虫嫌い。大きくて気持ち悪いんだもん」


31


 夜。季節は夏から秋に向かっている。徐々に風が冷たくなってきている。今見上げる星たちもまたしばらく灰色の雲に隠される。城壁の二段目で空から草原へ目を移す。

「もうじきあの子は亜法使いでなくなってしまうな。他の子と比べるとずいぶん早いように感じるが、あの子の育った環境だろうか。亜法使いとしても力が弱い。想像力が乏しいようにも思える。本を読んであげても自分から読もうとしない。あの子の願うお菓子は甘さが薄く、大きさも小さい。パンを作る小麦粉を出したときも粉が緩かった。木材も細いし石も小さかった。他の亜法使いの子たちはもっと簡単に亜法を使ったし、質も量も濃いものだった。どの子も失敗を恐れなかったが、カペラは違う。極端に失敗を嫌っている。そう言えばあの子は、他の子たちより不安が強いような気がする。あたくしがあの子を不安にさせているのかもしれない。あの子に一日も早く畑を作って上げなくては。一緒に畑仕事をすればあの子の不安を小さく出来るかもしれない。後は明かりの問題だけだ。ここの光は弱い。冬は仕方がないとしても、春と秋に光が弱いのは致命的だ。どうすれば良いのか」

 草原の奥に明かりが見える。侵略者が作る町の明かりだ。こんな得るものが何もない地に人間の命や資材を送り込んで一体何が目的なのだろうとシミュラは思った。

「わたくしも同じようなものか」

 戦争を悪としながら自分自身も戦争に参加し、多くの人間や生き物を殺した。直接命を奪うのが嫌だから遠くから氷の矢を射掛け、氷の槍で敵を粉砕した。トナカイで敵兵を轢き殺し、熊で蹂躙し、オオカミで噛み殺した。魔物を使いたくないのは、魔力を通じて感触や臭いに触れるような気がするからだった。

「もし兄が、エサイアスが生きていたらどんなやり方をしていただろうか」

 城を追われた後、エサイアスはなんの躊躇も見せずに村々を襲った。まるで作物の収穫のように人々を狩っていった。もしそのままの勢いで城を取り戻して主になれたとしたらどんな治め方をするだろう。再び城が落とされた時や物資が足りなくなった時の事を考えて周辺の村を豊かにするだろう。それは慈愛でもなく統治するためでもなくまた刈り取ることを考えてだ。

「わたくしには出来ない」

 エサイアスと同じことをできれば戦いは優位になるだろう。だがそのやり方では孤独の果てに敗れ去るような気がしてならない。

「孤独を埋めるために子供を拾ってる女が何を言う」

 今のシミュラを見たらエサイアスはそう言うだろう。

「だが、兄は死んだ」

 エサイアスはこの城を攻め死んだという。

「でも、母は生きていた」

 母ナミュラは迷宮の主になっていた。

「おそらく父を殺したのは母だ。あの日、大広間の扉を叩いていたのは大蜘蛛になった母だったのだろう。母は四階の魔物と融合し、敵を迎え撃とうとした。いや、敵軍を呼び込んだのも母だったのかもしれない。二人の間に何があったのかはわからない。でも、仲が悪いとは思わなかった」

 シミュラはふたたび草原を見る。薄闇の中でも動物たちが動いているのがわかる。氷の城壁が夜の僅かな明かりを反射して草原を薄く照らしている。

「兄も死んでいないのかもしれない。兄の杖は城の中で見つからなかった。誰かが持ち去ったのであればその時点で兄は生きていないはず」

 シミュラはフッ笑った。

「仮に生きていたとしてももう百五十歳を超えているはず。とても生きていまい。どうして自分の年を忘れてしまうのだろうか。わたくしは迷宮の力で不老になった。世の中も同じではないことは理解している。それなのに自分のことになるとこれだ。未だに二十歳そこそこの娘の気持ちで生きている時があるな」

 シミュラは西の山を見る。それから氷の城壁を見る。思いついたように頷いて見せる。

「氷の壁に光を反射させて、それを西の縦穴に落ちるようにすれば地下畑の採光の問題は解決しそうね。縦穴も少し広げたほうが良いな。うむ、その方が良いだろう。これなら畑は上手くいくはず」


32


 骸骨兵たちが立坑を削り横幅を広げる。完成後は氷の板を角度をつけて何層も配置する。普段はその氷の板で封じておき、採光と守りを兼ねさせて、敵を襲う時は氷の板を解かして骸骨兵を繰り出す計画である。立坑を広げる際に出た石などは九階を作る時の材料にする。

 立坑は迷宮に地下で通じている。一階とニ階はいくつかの部屋で分けられており廊下や室内を骸骨兵が彷徨く。広い空間にして野戦のように冒険者を数で押しつぶせないのは冒険者の数が少ないために骸骨兵同士が命令を忠実に守ろうとした結果、味方同士で絡み合うからだった。

 冒険者のレベルが低ければ骸骨兵で体力などを削ることも可能だが、一撃で屠ってくるような者が相手に出てきた場合、魔素の無駄になる。そのため、相手の力量を測った後は罠と謎掛けが時間稼ぎの重点に置かれる。意味のない砂時計や考えている最中に骸骨兵を投入することで侵入者を焦らせてミスを誘うことも出来た。

 地下三階も大体似たようなものだが、中央にある部屋でテーブルゲームに勝たなければ四階への扉の鍵が開かない事になっている。氷の魔術師ロスが得意だったテーブルゲームでここ十数年前はルールを知らない冒険者も増えていたが、近年は攻略本なるもののせいであっという間に勝敗が決することも珍しくない。

 地下四階は蟻の巣。地下五階は五両の戦車が走り回る楕円形の地下闘技場である。戦車というのは鉄製の荷車を魔物が引くという簡単な形式だが、荷車の上には弓を撃つ骸骨兵、斧槍を振るう骸骨兵、御者の骸骨兵の三体がセットになっている。荷車を引く魔物は大狼、大鹿、大猪、象鳥、巨大馬の五種である。シミュラをシムラと呼んだ阿呆使いチャロの案と亜法が使われている。冒険者が闘技場に入ると、競技が開始されて戦車は闘技場を数周する。どの戦車が一番になるかを当てることができれば次の階に進むことが出来るが、ただ待つだけだと戦車に轢かれるし、骸骨の弓兵も冒険者を狙って矢を射かけてくる。

 地下六階は水面に明かりが浮かぶ。水面の下はすぐに床になっているが、人一人が歩くだけの幅しか無い。更にその床は迷路のようになっている。反射して明かりがたくさん見えるので水中にある道を踏み外すことになる仕掛けである。道を踏み外したり水面を激しく叩くとそこから水が凍り始めて冒険者を凍らせる。阿呆使いテリエラによる発案と協力のフロアだった。彼女はシミュラをシーラと読んだ。

 地下七階は長い廊下の果に二つの扉が有り、一つは次の階、一つは城の外に繋がっている。入り口の扉で出される謎掛けに二択で答えるのだが、問題が出題されたときに扉に触れた手が制限時間内に正解の扉に触れなければ回答者として扱われない。体力と知識が試されるところなのだが、出題のいくつかは古くなっており答えがその当時の答えであることは注意しておかなければならない。シンラとシミュラを呼ぶルールという亜法使いが居眠りしながら考えた階である。

 地下八階は円形闘技場で二十体の骸骨兵(弓兵含む)との集団戦、骸骨騎士との個人戦、魔物になったハイイログマとの戦闘、二つの頭を持つ獅子の魔物との戦闘、氷の巨人二体を引き連れた鋼鉄の鎧を着た巨人の組み合わせがおり、これらすべてに勝てば次の階に進めた。シミュラのことをシミリャと呼ぶ亜法使いの名はサース。戻ってきたサースが亜法使いだった頃考えてシミュラと共に作り上げたのがこの階層だった。ここを制覇したものはまだいない。

 新たに誕生した地下九階は田園風景だった。大きな道が一本奥まで伸びていて一番奥には三階建ての屋敷があった。ずっと天井にある氷の結晶たちが立坑から差し込んだ光を反射、増幅させて迷宮の外の明かりと連動し昼夜を分ける。迷宮の端々から滝のように水が落ち小川を作り、緩やかに風がフロアの中を流れる。この階は冒険者たちの望郷の念を誘うことだろう。この階に寄らなくても下の階へ行ける。そうしたのはここが荒らされてしまうことが嫌だったからに他ならない。また魔物を引き入れてしまえば畑が汚れてしまうことも心配だった。


 ただ、このことが大きな亀裂を生むことになることをシミュラはまだ知らなかった。


33


 九階にある地下農場は村が五つは入るほどの広さがあった。手伝いに呼んだ子供たちの中で男の子らは畑仕事に目もくれず小川で遊んでいた。農業指導をする大人もほとんど経験がない。今年はとりあえずやって見るだけだねとのんびりした調子で土いじりをする。畑の土を耕しているとまだまだ石や木片、布切れ、金属片、動物の骨も混ざっているのでそれを取り除くのも一苦労だった。それでも土は意外と力がありそうで期待を高めた。

「木くずは燃やして灰にするから道の方に投げておきな」

 マイラはがっしりとした体型の女性で四十は超えている。普段は城で洗濯などをしている。子供の頃は夏季に一家総出で避暑地に行き父や兄は魚を捕り母や姉妹でベリーの採集をするのが慣例だった。シミュラとは三十年前に知り合いそれ以来氷の城で暮らしている。

「金属は金属、石は石でまとめておくんだよ」

 シミュラも子どもたちに混ざって土の中に手を入れて遺物を探した。

「ヘンミンキ、ニコ。金属が埋まっていると危ないわね。何か良い案はない?」

「元は刃物ってやつもあるでしょうからなぁ」

 ヘンミンキは六十過ぎだろう。シワも多く髪も薄い。細身だが背中の筋肉は厚みがある。普段は城で使う薪などを集めて薪割りなどをしている。シミュラと出会ったのは五才を過ぎた頃だ。

 ニコは三十代の背が低い栗色の巻き毛の男。両手を上げて「どうにもならない」とアピールをする。ニコが氷の城で生活を始めたのは十三歳の頃だった。誰もニコの声を聞いたことがない。

「シュミラさまー」

 カペラがカエルを拾ってきた。シミュラは「うっ」として両手で視界を遮る。

「カペラ、逃してあげなさい」

「カエル嫌い?」

「嫌いではありません。得意ではないのです」

「ふうん」

 シミュラは楽しそうなカペラの顔を見て軽く微笑んだ。

「楽しい?」

「うん!」

「じゃあ、誰かが怪我をしたら可愛そうだから、畑の中の金属を見つけられるかしら?」

「きんぞくってナイフ?」

「鎖や板、釘なんかもそうね。あそこにまとめているから見に行きましょう」

 シミュラが道の方へ歩き出すと、カペラがシミュラの手を握った。瞬間、シミュラは怖気が振るった。引きつった顔でカペラを見下ろす。

「どうしたの?」

「いいえ。なんでもないわ」

 そうは言ったもののシミュラの声は震えていた。


 木片、石類、金属らしきもの。キレイに分別されている。カペラは金属をまじまじと見る。

「きんぞく。わかった。これを見つければ良いのか。光らせれば良い?」

「そうね! それが良いわ。そうして頂戴」

「うん!」

 カペラは畑に向かって小さな両手を伸ばす。

「きんきんきんぞく、ぴかぴかぴかー」

 カペラの両手が握って開いてを繰り返すと土中の金属が鈍く輝き出す。

「こりゃあ、便利だ」

 ヘンミンキが笑った。

「なんだよ。どうせなら集めてくれりゃあ仕事が減ったのに」

 側で見ていた男の子ハッリが馬鹿にした。カペラの顔が曇る。金属の輝きも鈍る。それを見たシミュラがカペラの頭を撫でてやる。

「あなたは天才ね」

 カペラはうつむくが金属たちの輝きが強くなった。

「自分に出来ないことを素直に褒めることが出来ない人間はここを出ても苦労するだけよ」

 ハッリにそう釘を刺すとシミュラは金属を拾いに畑の中に戻っていった。他の子供たちもそれに続いた。


34


 シミュラは地下農場から急遽氷の城へ呼び戻された。敵襲かと象牙色の長大な杖を握って城壁の一段目に向かった。

 モンティが先に城壁の下を見下ろしていたが、シミュラが来たので状況を説明する。

「サースがごろつき共を連れてやってきました。中に入れろと」

「ありがとう」

 シミュラも城壁の下を見る。

 サースが城壁を見上げてシミュラとモンティを見る。背後には百人ほどの風体の悪い男たちがそれぞれ思い思いの武器を携えて控えている。

「サース、ここがどんなところか知っているはず。何故事前に連絡もなく兵隊を城に入れようとするのか」

「これは侮辱だ! 俺はシミュラ様のために兵隊を集めてきたのに城に入れないなんて。彼らは味方だぞ!」

 サースは下から叫ぶ。

「この城は町ではないのですよ? 兵隊を住まわせる場所など無い」

「だったら迷宮に用意すれば良いじゃないか。九階を作れるくらいの余力はあるはずだろう?」

「九階はもう作りました」

「作った? 何を?」

「畑を作りました」

「畑? 敵が来るのに畑? 何を考えているんですか? あなたは!」

 サースはシミュラを非難した。しかし、シミュラは冷静に返す。

「お前にはわたくしに意見する資格はないはず」

「俺はこの城のために戦う兵隊を連れてきたんだぞ! 城に置いておけないなら、その新しく作ったという畑に待機させる。畑ならテントを張るのも構わないはずだ」

「許しません」

 氷のような冷たさを見せるシミュラにサースは口を歪ませる。

「では、ここにキャンプを作ってもよろしいですか?」

「少し離れたところになさい。子供たちが恐れます。それと、」

 シミュラの目が厳しさを増す。

「後で広間に来なさい。説明を聞きます」

 シミュラは城壁を離れた。

「大将」

 サースの後ろから兵士が声をかけた。

「想定内さ。さて、許しも出たことだし、我々は東にキャンプを作るとしようか。いろいろと準備もあることだしね」

 サースは兵隊を連れて城の東へ向かった。

 モンティは城壁の上から目でサースたちの行方を追う。サースは兵隊を城の東へ導いていく。今年は雪解けの水の氾濫の心配がないとは言え、川の直ぐ側にキャンプを張るのはあまり良い案とは思えなかった。それよりも彼らはテントや大きな荷をはじめから城の前まで運んでこなかった。城への入場を断られるためにわざと城壁の前に兵士を並べたのではないか。そんな考えがモンティの頭に浮かんだ。しかしそれはすぐに思い過ごしだと忘れ去られた。


35


 サースは悪びれもなくシミュラの前に立って説明を始めた。

「百名は今は少ないかもしれません。ですが、最初から千、二千の兵を連れてきても食料などの問題も出てくるでしょうから試してみないことにはなんとも言えません。これでもここの状況を判断したのですが、配慮に欠けたことはお詫びいたします」

「わかってくれれば良いのです。ここの子供たちは親を殺されたものばかりだ。それが分からぬお前ではなかろう?」

「はい。申し訳ありませんでした。兵にはここへは近付けさせませんのでご安心を」

「そうしてくれると助かる。必要なものがあればこちらでも用意しよう」

「ありがとうございます。では、我々は人間の兵隊で東の入り口を防衛します。砦でも建設しておきます。川で飲水や食料調達なんかもさせますから、雪を解かすのは程々に願います」

 広間でサースの報告を受けたシミュラはサースがあっさり引き下がったことが気に入らなかった。城から離れた東側にキャンプを張ったサースの軍はそこから川を上りかける地点で砦の建設を始めるという。たしかに東の迷宮の入り口の辺りに砦が建てば防衛にも便利だろう。軍隊が城攻めを仕掛けて来た時、陽動で迷宮が狙われることも多々ある。それで兵隊が百人。装備も揃っていない風だった。

「なにかある。いや、サースはここで育ったのだ。変なことはしないはずだ。誰よりもこの城のことを考えている子だし。でも、わからない。何がしたいのだろう。どうして困らせるようなことをするのだろう」

 畑仕事も上の空になっていた。そんな中でも子供たちは元気だった。木の棒や金属の棒を拾って魔法使いごっこをしている。カペラもそこに混ざって遊んでいるのが嬉しかった。カペラは自分の杖を輝かせていたり、それを羨ましがる他の子の杖も輝かせたりするのを見て微笑ましく思う。他の子に言われて嫌々亜法を使うことがなくなってきた。光り輝く杖がずらりと揃う中でも、カペラの杖の輝きが鈍いのは彼女らしいと感じてしまう。

「カペラ、今度あなたの杖を見せて頂戴」

 とお願いしてみるもカペラは、

「魔法使いたるもの自分の杖をやすやすと他人に見せるわけにはいかんのじゃ」

 などと言って絶対に見せてくれない。

「どこでそんなことを覚えたのです?」

 軽く笑ったシミュラに向かってカペラは満面の笑みを返してくるのだった。その顔を見ているとシミュラの心のなかにある不安は消えていくようだった。


36


 棒を拾った。ぼんやりと輝く棒切れだ。それはみんなで集めた金属の中にひっそりと転がっていた。ひと目見てこれを魔法の杖にしようと思った。

 私が魔法の杖を持つとみんなも魔法の杖を欲しがった。魔法の杖は輝いている方がかっこういい。だから、みんなの棒を輝かせてあげた。すると私の魔法の杖はみんなの杖より輝きが鈍かった。でも、それで良いんだ。だって、これは本物の魔法の杖だから。

 この杖があれば、私が大人になって亜法使いじゃなくなっても大丈夫だと思えた。そう思うとなんかとても安心して亜法も上手く使えるようになった。畑にいろんなものを植えてみた。パンがなる木を作ったけどすぐ虫が来ちゃうからすぐにやめることにした。ケーキの木も同じだった。虫を消しても良かったけどマイラが虫はいなきゃ美味しいものは作れないと言ったから許してあげた。新しい植物はむずかしいので早く育つように亜法を使った。種はヘンミンキが村からもらってきたり山で集めた。サースが遠くの町で買ってきてくれた種もあった。

 甘い果物もいっぱい作った。小麦も作った。苦い野菜も出来た。ゴマフとアイニは朝から晩までずっとパンを焼いている。みんなが汗だくで笑っていて畑を作って本当に良かったなって思った。

 もうすぐ冬が来る。サースが言うには春にはまた敵が攻めてくるという。食料をたくさん作って兵隊さんをいっぱいにしてここを守ってもらう必要があるって言っていた。兵隊さんは怖い。優しい顔をして笑いかけてくることもあったけど、目の奥が笑っているように見えなかった。

 いろんな物が沢山育つので、それだったら牛や豚も育てようという話になってそれをサースに話したら町に行ったついでに買ってきてくれた。

「カペラは天才だね。俺は最初、戦う場所に畑が出来るなんて信じられなかったんだけどカペラはもっとずっとずっと先のことがわかっているのかもしれないね」

 サースが褒めてくるのがうれしかった。シュミラさまに褒められるのが一番うれしいけどサースは二番目かもしれない。だから、二人の仲がちょっと悪いことが嫌だった。私がハッリを苦手だなって思ってるのと同じだから、私がハッリと仲良くやっていければ二人もきっと気がついてくれると思う。

 サースも畑仕事を手伝ってくれた。シュミラさまもうれしそうだった。

「シミュラ様にさ、ここに村人を住まわせたらどうだろうって言ってみたらどうかな?」

 自分で言わないの?

「俺はシミュラ様に嫌われてしまったからね」

 そんなことないよ。

「大人って難しいんだよ。村の人がここに住めば収穫も増えるはずだし、野盗や兵隊に襲われることもないだろうしね。平和で安全に暮らせる場所があったら、俺たちみたいな子供は嬉しいだろ?」

 うん。でも、サースが言ってたっていうよ。その方が良いもん。

「そうだね。カペラは本当に天才なんだな」

 亜法で人の心を変えることはむずかしい。亜法を使えば何でもできると言われてるけど自分の気持ちを超えたことは出来ないと感じる。子供の部分の私が望むことと大人になっている自分が望むことはズレがある。私は知っている。もうじき私の中の亜法が消えてなくなることを。


37


 秋の中頃、村人を迷宮の畑に招き入れることになった。近隣の村々に声をかけ、二百名以上の村人が地下農場に住むことになった。屋敷の近くに村人たちの家がどんどん建っていく。地上と行き来するために転移魔法陣に村人の登録が行われ転移魔法陣自体も利便性が求められた結果、屋敷の外に再配置された。

 東の砦も順調に建設が進んでいるようだった。ただそれは表向きの話だった。兵士として連れてこられた者たちの半分は川で作業をしている。大きな皿を片手に目をギラつかせた男たちが必死に川をさらう様子が見られた。彼らは砂金を取って集めていたのだった。

 やや川下のキャンプのテントの中では、集めた金の粒の計量が行われていた。粒を持ち込んできた労働者に対して重さを測った後に焼きごてで印を押された札が渡される。

「もうじき冬が来る。まだまだ稼げるぞ」

 その言葉を聞くと皆必死になって働くのだった。そこにサースがやってくる。

「オスモ、どうだ?」

 計量していた男オスモに話しかけると、オスモは満足そうにズシリと重い革の袋を見せた。

「こんなすごい川見たことねえ」

「そうだろうな。ここは誰も取ってこなかったから全部残ってるはずだ」

 サースは下唇を噛む。

「下の畑でも金が出た。地下水脈を辿ってきたみたいだ。こっちのほうが多いが向こうは粒がデカい。いずれあっちでも掘らせてやるから焦るなよ」

「大将の仰せのままに」

 オスモはうやうやしく頭を下げてみせた。

「穴は下に掘るなよ。魔物が出てきたら城の関係者でも関係なく襲ってくる。横から上に向かって掘るんだ。いいな」

「わかってまさあ」

「村人とも上手くやれそうだ。助かるよ」

「そいつはどうも。畑仕事が出来るってやつは珍しいんですよ。そっちで食えなくて兵隊になった奴が多いんでね」

「春が楽しみで仕方がないな」

「まったくでさあ」

「教団の方はどうだ?」

「ノースフロストの建設はもうじき終わるようですな。全くとんでもない連中でさあ。あんな大工事をやってのけちまうんだから」

「冬に攻めてくるというのはあると思うか?」

「五分、いや三分ってところですかね。攻城兵器がなけりぁあの城は落とせないでしょうし、それがあったって負けてるんですからね」

「ソリで引いてくるとか」

「やるんならバラして現地で組み立てでしょうな」

「金が目的なら真っ直ぐここに来るかもしれないぞ?」

「水や雪崩の警戒をしてるからこっちには来ませんでしょう」

「こっちに来ることも考えておこう。火はいつでも使えるようにしておけ」

「はい大将」


38


 地下の農場の迷宮側には人が誤って迷宮に行かないように大きな扉を設置した。村に住む大人たちが小川に沿って迷宮側までやってくるからだった。

「金が出たのは喜ばしい。だが、そのせいで村の男達が畑仕事を怠けるようになったのは嘆かわしいことだな」

 金は比重が重いので小川の端まで流れてくることはない。水は滝の下で渦を巻くが多くの金がその周辺で発見される。農作業をほったらかしにして小川を探している者はそれを知らない。

 シミュラやサースが見ていることにも気が付かずに血眼になって砂金を見つけようとしている。

「この際、本格的に採掘をして見たらいかがでしょうか?」

「やらぬ」

 シミュラは間髪入れずにサースの意見を却下する。サースも負けじと食い下がった。

「どうしてです。収入が増えれば兵を雇うことも容易です。その後に町を支配できれば維持費もかかります。金の採掘はすべきです」

 遠くで子供たちが遊んでいる。カペラがサースに気が付き手を振る。サースが振り返すとカペラが笑った。シミュラは作物の横に生えた雑草を抜いた。

「黄金がいくらあっても食べる物がなくては冬は越せないのですよ」

「食料なんて買えばいいじゃないですか。ここにある金で腐るほど買い集められますよ」

 引くことを知らないサースをシミュラは見上げた。ゆっくりと立ち上がるとサースの法を向いた。

「サース、あなたはここを地獄に変えたいのですか?」

「まさか、軍を俺に任せてくれればここは地上の楽園になりますよ」

「あなたはまるでわかっていない。大きすぎる富が何を引き寄せるのかも」

「敵なら俺が倒してみせます」

「敵とはなんです? あなたの敵とは」

「俺の敵はこの地に攻めてくる奴らです」

「あなたはここに国を作ろうと思っているのですよね?」

「はい。シミュラ様の求める平和の国です」

「ここには他所の国の軍も数多くやってきます」

「はい。全部やっつけてみせます」

「その後はどうするつもりですか?」

「当然、攻め込んできた国にやり返してやります。敵をすべて倒せば平和が完成するのです」

「あなたは私の若い頃によく似ている。ですが、そんなものが本当の平和なのでしょうか? 大きな力を持つだけではいけないのよ。バランスこそがいちばん大切なの」

「あなたのようなやり方では敵がいなくなる訳がない!」

 にらみ合う二人を村人たちも遠目に見ていた。

「サース、これ以上あなたを置いておくことは出来ません。春になったらあなたの兵をすべて連れてここを出ていきなさい。今までの事、感謝しているわ」

 去っていくシミュラの背を見送りながらサースは拳を握りしめる。


39


 河原は石だらけで地面も空も灰色な上に気温までぐっと下がってきて誰もが憂鬱になっていた。さらにそこへ追い打ちをかけるように少し前から雪が降ってきた。サース軍のキャンプはテントを畳み始めている。本格的に雪が降ってくればテントも埋もれてしまう。フローズンリバーまで撤退をするという命令が出されていた。ただ計量担当のオスモのテントだけは今も日常のままだった。中ではサースとオスモが話していた。

「シミュラの杖を封じなければ勝ち目がないな」

「しまってあるところがところが分かれば取ってこさせるぜ? どうする大将?」

「いや、あれは多分そういうものじゃない。一応、アテはあるんだけどね」

「そうか。で、本当に半分を町に帰すのか?」

「まさか、夜に戻ってきてくれ。春が来るまで冬眠だな」

「帰ったと見せかけるのか」

「ノースフロストの酒場の話だとそろそろ攻め込んでくるはずだ」

「冬だぞ? あいつら頭がおかしいのか?」

「だから教団なんかに入っているんだろ? 幹部連中が贅沢してるとも知らずに下っ端は貧しさを喜び合って教主を崇拝してるんだからさ。まったく気持ち悪い連中さ」

「言いますね。大将」

「ここの連中もおんなじだ。シミュラ、シミュラってどいつもこいつも吐き気がする」

「わしらも似たようなもんですがね。カネカネカネって」

 オスモがニヤリと笑うとサースもつられて笑った。

「確かにそうだが、一番ありがたみがある。力もね」

「ちげえねえや」

 声を出して笑い合う二人のテントに兵士が入ってくる。

「オスモ隊長、サース様に面会です」

 オスモが笑うのをやめる。

「面会? 誰だ?」

「女の子であります」

「女の子だあ?」

 サースが手を上げた。

「行くよ。我軍の勝利の女神様だ」

「大将、大将も若いからあれですが、子供はダメですぜ」

「大丈夫さ。これでも分別はある方だからね。大人になるまで待つさ」

 サースはテントから出ていく。すぐ近くでカペラが待っていた。手をこすりながら息をあてている。サースは近くにいた兵隊に命じて防寒具を持ってこさせる。

「ここに来て大丈夫なのかい? 寒いし、城まで送るよ」

 防寒具を肩にかけられてカペラは袖を通す。

「急いできたから」

 サースとカペラは城に向かって歩いていく。雪が二人の足跡を消す。

「カペラっていくつなんだい?」

「十二。もっと小さいと思ったでしょ?」

「うん。五歳くらいかと思った」

「あははは。でも、気持ちはそうかも」

「亜法使いだもんね。もしかして」

「え?」

 カペラはサースの顔をのぞき込んだ。

「急にが伸びたのは亜法で伸ばしてたり?」

「違うよ。勝手に伸びたんだよ」

「秋から冬にかけて頭一つくらい急に伸びるなんて珍しいんじゃないか?」

 笑顔で話しかけるサースに対しカペラは真面目な表情だった。

「ここを出ていくの?」

 サースは肩をすくめる。

「シミュラ様に嫌われてしまったからね」

「私もシミュラ様にお願いするからここにいて」

「カペラ……。俺はここを守りたいけどシミュラ様がそれを許してくれないんだ。みんなとは争いたくない」

「そんなのヤダ。間違ってる」

 カペラは涙をこぼす。

「シミュラ様は正しいんだよ。俺の代わりに守ってあげてくれ」

「サースがいなくなるなんて嫌だよ」

「おれもカペラと離れるのは辛いな」

「え?」

「でも、ここに残ればシミュラ様は俺を生かしておかないだろうな」

「そんなこと……」

「俺はもう敵認定されてしまってるはずだ」

「ヤダよ。そんなの」

「俺と、来ないか?」

「……どこに行くの?」

「温かいところで、砂浜があるところなんてどうだ?」

「私が、亜法使いだから?」

 サースは首を横に振った。

「君が君だから。もうじき亜法使いじゃなくなっちゃうって気づいてるんだろ?」

「うん。そうしたら、ここを出ていかなきゃいけない」

「そうじゃないとシミュラ様に嫌われてしまうから」

 カペラはサースを見る。

「どうして?」

「俺も亜法使いだったからね。君と同じさ」

 カペラはサースの懐に入り込んだ。サースはカペラな頭を両手で抱えてやる。カペラを見下ろすその瞳は残酷なほど冷たかった。


40


 シミュラさまと私たちは違う。シミュラさまはこれからもずっとこの地を守り続ける。私たちは大人になって歳を重ねてやがて死ぬ。亜法使いの私がここにいられるのは亜法使いだから。もうじき私は亜法使いでなくなってしまう。大人になんてなりたくない。マイラもアイニも私と同じで村が無くなってここで暮らし始めた。彼女らは今はもう大人の女だけど亜法使いだったわけじゃない。亜法使いだった名残があるのは迷宮のフロアだけだ。誰もが皆忘れられたくなくて必死で自分というものをそこに刻みつけた。そんな中、サースは戻ってきた。それはどうしてだろう。もしかしたらサースは私を迎えに来たのかもしれない。思えばサースが来てからというもの私の心配が減った。怖さが減った。亜法の力が以前より格段に強くなった。シミュラさまではなくサースに出会うために私は亜法使いになったのかもしれない。サースは私に砂浜を見せたいと言ってくれた。寒いところが嫌いな私の心を知っていてくれるのはサースだけなのだ。畑を作りたかったのは、外がとても寒かったからだし、とてもひもじかったからだ。冬の中頃になると魚の干物は尽きてアザラシの脂肪もほとんどなく父についてウザギを狩りに行ってもテンに罠を壊されてしまったり散々だった。お腹が減った毎日が続いて木の枝をかじって飢えを凌ぐこともあった。異国の兵士たちが来て父や母を殴り殺した。ここが寒いところだから。もし、いっぱいの食べ物があれば異国の兵士を椅子に座らせて一緒になって笑顔で食事ができたかもしれない。いや、わざわざ兵士は家にやって来ないだろう。ここが暖かければ畑だって一年中出来るのだから。

「敵襲! 敵だよ! 敵が来たよ! 早いところ地下農場に避難するんだよ!」

 マイラが子供たちの部屋を回って声をかけた。

 ゴォーン。

 城が揺れて鈍い音が響く。外はまだ暗い。氷の壁や雪が光を反射しても昼間のような明るさはない。それでも真っ暗ではない。

 ゴォーン。

 再びの揺れと低音。窓の方で城壁の二段目に立つシュミラさまの姿が見えた。他の子供たちが怯えないように私が守ってあげなきゃいけない。私の亜法を強くしてくれる魔法の杖を手にとって廊下に出る。何人か光る杖を持って出てきていた。暗い廊下を歩くにはそれはすごく便利だった。みんなに声をかけて食堂の脇から外に出て畑への転移魔法陣を目指す。城の城壁が崩れているところがあった。そこから外が見えるのがすごく怖かった。もしかしたらあそこから敵が現れるかもしれなかった。

「無事か?」

 暗闇から声がして一瞬ビックリしたが、それはすぐにサースの声だとわかった。嬉しくなって飛びつくとサースは頭を撫でてくれた。

「転移魔法陣はまだ生きてるか?」

「今みんなで行くところ」

「よし、行こう。後ろは俺が守る」

 サースの言葉は何よりも頼もしかった。転移魔法陣でみんなを先に送る。サースを待っていると村人を数人引き連れてサースがやってきた。

「よし、行こう。最深部の部屋からシミュラ様を援護できるかもしれない」


41


 雪上に投石機がずらりと並ぶ。順次弧を描いて向かってくる大石に向かって象牙色の長大な杖を向ける。

反社鏡ミラー!」

 空中に鏡が生み出されて大石を吸い込むと吸い込んだ勢いそのままに鏡から敵軍の投石機めがけて大石が吐き出される。複数個同時に処理することが出来ずに城壁を壊されるが、投石機の数は徐々に減っていった。

 投石機を失った部隊は残骸の中からそれぞれの獲物とカンジキを取り出すと、城の前の雪原を突破しようと雪の上を二列縦隊となってやってくる。

「杖がもう一本欲しいところね」

 シミュラは鏡を消すと今度は氷の槍と矢を放つ。

 敵軍は氷の槍に跳ね飛ばされても氷の矢で仲間が倒されてもお構いなしに突き進んでくる。

 城壁二段目のシミュラのすぐ近くに大石が炸裂して、破片がシミュラの脇を打つ。城壁の上に倒れ込むも次の大石は鏡で跳ね返すことに成功した。

 象牙色の長大な杖を立ててすがりつくように立ち上がると投石機はすべて破壊できたようだった。思いの外近くにいた敵軍に氷の矢を放つ。それでも敵軍はひるまない。風に乗って歌のようなものが聞こえた。

 シミュラは杖を横に振るうと柄尻で城壁を叩いた。

雪崩アバランチ!」

 一段目の城壁が崩壊して敵軍を一気に飲み込んでいく。城門もなくなり城の守りはなくなったに等しいがもはや攻め込んでくる者は雪の中に埋もれた。

 ホッと息をついたシミュラだったが瞬間悪寒に襲われる。

「誰かが最深部に入り込んだ」

 城壁の二段目が崩されたため回り道をして最深部への転移魔法陣のある寝室へに向かう。

「城攻めの最中に迷宮を攻略しに来たのか? いや、迷宮に侵入者を感じることはなかった」

 廊下を二つ曲がり階段をかけ登り、寝室の扉を開け隠し扉より転移魔法陣に乗り転移を開始する。到着した部屋からすぐに扉を手をつく。

 大広間に通じる扉を開くと最奥の扉にサースが手をかけるところだった。シミュラの姿に気がつくと罰が悪そうな顔をした。

「まさか敵をほったらかしにしてきたんですか?」

 大広間にはかつて長いテーブルがあったが今はもう何もない。大広間はただの大広間になっている。入り口の方にはまだ数人が立っているように見えた。

「敵はもう倒したわ。そこから離れなさい」

「どうしてそんなに強いのに敵を根絶やしにしないんですか? あいつらは生きてる限り俺たちの居場所を狙ってくるのに。それじゃあ安心して寝られないんですよ」

「あなたたちの親を殺した敵と同じことをしろというの? こちらから攻め込んで村や町を襲えば、あなた達と同じ子供たちを生むのよ」

「なんだよそれ」

 サースは最奥の扉に触れた。シミュラがかけてくる。

「俺の親を殺したのはあんただよ」

 静かな口調だったがシミュラの足を止めるのには十分だった。

「あんたが逃した敵が俺たちの村を襲ったんだよ。子供が欲しかったんだろ? 親は邪魔だもんな。自分の言うことを聞く子供が欲しかっただけなんだあんたは。寂しかったんだろ? 当然だよな。こんなところで一人きりで暮らしてさぁ、誰も来ないもんな。あんたは孤独が嫌だったから敵を逃して村を襲わせたんだろ?」

「やめて!」

 シミュラが象牙色の長大な杖を振り上げる。その瞬間、サースが最奥の扉を押した勢いで床に倒れ込んだ。

「やめてシミュラ様! カペラ、助けてくれ!」

 シミュラは「なにを?」とサースを見る。その後ろから走り込んでくるカペラが見える。自身の魔法の杖をシミュラに向けて叫んだ。

「だまだまだま黙れ杖!」

 途端に象牙色の長大な杖はシミュラの手を離れてドスンと床の上に倒れる。それに引きずられるように体制を崩したシミュラをサースが蹴飛ばした。

「よくやったカペラ」

 サースは胸に飛び込んできたカペラの頭を撫でてやる。

 床上に転がりながらサースとカペラを見るシミュラ。

「カペラ?」

 シミュラの背中の上に村人が乗り、シミュラの腕をひねり上げて起き上がらせる。

「あなた見たことがある。村に移住して来た人ね」

 村人は無言だった。代わりにサースが答える。

「スルホは俺の部下だよ。村人になってもらったんだ。転移魔法陣を使える仲間が欲しかったからね」

「村人を移住させようと思ったのはこういう思惑があったのね」

「あなたは百年前の人だから、今の流れについていけてないんです。このままでいれば俺たちはまた家族を失う」

「シミュラさま」

「カペラ、サースに酷いことされなかった?」

「されてないよ。喧嘩をするのをやめてほしいの。二人には仲良くしてもらいたい」

「カペラ、サースの考えとわたくしの考え方はまるで違うのよ。どちらかが諦めるしか無いの」

「俺はそうは思わない。シミュラ様だってわかってるはずだ」

 サースは最奥の扉に手を触れる。扉は開かない。

「鍵がかかってる? いや、違うか。その女を連れてこい」

 スルホがシミュラを引きずるようにサースの側に連れてくると、サースはシミュラの右手を取って最奥の扉に触れさせる。すると最奥の扉はゆっくりと開いていく。扉のその先には階段が下に向かって伸びていて、さらに下には大きな渦が見える。

「これでどうすれば良いんだ?」

「わたくしを殺せば良いのよ」

 サースはシミュラの長い黒髪を掴んで引っ張る。

「言え!」

「わたくしを殺しなさい」

 サースにはシミュラの言葉が届いていないのか、それともシミュラが自分を殺せと言っているのがただの挑戦的な態度なのかわかっていないようだった。

「スルホ、とりあえず一番下まで下がって見ろ」

 サースが命じるがスルホは怯えた様子で渦を見ている。

「おい!」

 サースがスルホの頬を叩くとキョトンとした顔でサースの方を見る。全身から汗が吹き出している。

「一番下まで下がって見てこい」

 スルホは小刻みに頷いて階段を降り始めるのだが、思うように足を動かせなかったのか階段を踏み外して渦を取り巻く空間に投げ出されてしまう。空中で止まったスルホが安堵した顔をサースに向けたが、すぐにスルホの体はねじ切れて粉々になり空間の中に消えて無くなってしまった。

「カペラ! カペラ!」

 サースの呼びかけにカペラは怯えた。魔法の杖を抱え込むようにしてサースを見る。

「カペラ、シミュラに亜法をかけろ。どうやれば俺が迷宮の主になれるか喋らせるんだ」

 血走った目でカペラを見る。カペラはサースの言う通りに亜法をかける。

「しゃべしゃべしゃべーる」

 サースがシミュラを見る。シミュラは悲しそうな顔をしてカペラを見つめていた。

「もう一度だ!」

「シミュラ様ごめんなさい。しゃべしゃべしゃべーる!」

 カペラの亜法ほとんど鳴き声だった。魔法の杖を突き出してシュミラに向ける。

「あぁ、やはりエサイアスは死んでいたのね」

「何? それはどういう意味だ?」

「あの杖はわたくしの兄が持っていた杖」

 サースはカペラが突き出している鈍く光る短い杖を見る。

「杖? あの杖がどうするんだ? 言え! カペラ!」

「しゃべしゃべしゃべーる!」

 カペラの絶叫。シミュラが左手をカペラに伸ばす。

「おいで、ユーカヤック」

 カペラの魔法の杖が溶けるように鈍い光に変わってシミュラの左手の中に滑り込む。その光を持ってシミュラはサースの手を払い除け突き飛ばした。最奥の扉の前でシミュラはサースを見下ろした。鈍色の短い杖がシミュラの手の中にあった。

「カペラ、心配しないで」

 サースを見下ろしたままカペラを気遣うがカペラはぐしゃぐしゃな顔で泣いている。

「カペラ、なんで俺を裏切った!」

「違う。違うよ……」

 座り込んで次の言葉を見つけられないカペラに変わってシミュラが続けた。

「違うわ。カペラがあなたのために亜法が使えなかったのはあなたがカペラを信じていなかったから。わたくしがもう一つの杖を取り戻せたのはただの偶然。あなたは勝負に勝っていたのに自らそれを手放したのよ」

「そうさ。俺は勝ってたんだ。カペラがミスをしなければ俺がこの迷宮の主になっていたんだ」

 シミュラは右手でサースの頬を叩いた。

「カペラの亜法を奪ったのはあなたよ。あなたも亜法使いだったのに忘れたの? 不安や恐怖は亜法の力を奪うものじゃないの。人のものを羨むのはもうやめなさい!」

 サースはしばらくは黙ってうなだれたままだったが、シミュラから逃げるように立ち上がって大広間の扉の方へ戻っていく。

 シミュラは最奥の扉を閉じる。

「カペラ」

 差し出したシミュラの手をカペラは振り払ってサースを追いかけた。

 二人が大広間から出ていくのを見送ってシミュラは象牙色の長大な杖を拾い上げる。鈍色の短い杖はシミュラの左腕に蛇のように巻き付いて腕輪に変わる。


42


 東の砦の軍隊はサースが敗れたことで計画が頓挫したため、雪の上を南東の町フローズンリバーへ帰って行くことになった。しかし、春にシミュラから招かれて再び金の採掘を続けることになった。手に入れた砂金の総量の五分を土地代として徴収することでオスモが快諾したのだった。

 象牙色の長大な杖はしばらく沈黙したままだったが春を迎える頃、再び魔法を扱えるようになった。

 この冬以降、シミュラと教団との長い戦いが始まる。ただ、これ以降氷の城は食料自給力や金の採掘で財力が飛躍的に向上した。さらに氷の城壁が一枚前方に増えたこともあり難攻不落になった。十年も経つ頃には地下農場も町として発展していき地下農園も三層に増えた。そして、氷の城を守る民が生まれ育つようになった。魔力によらない兵器の扱い方を覚えたり、オオカミにソリを引かせた戦車兵なども生み出された。中でもトナカイ騎兵は子供たちの憧れになった。


 その頃になると誰もが二人の元亜法使いのことを忘れてしまった。ちょうど西から旅の夫婦が移住してきて地下農場に居を構えた頃でもあった。そして、この夫妻のもとに誕生した子供が新しい亜法使いになった。





     了


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