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迷宮の主  作者: 大秦頼太
2/3

後編

29


 シビトはナサインの前に滑り込む。モンテールは階段を降りて物陰に滑り込む。ネジフは戦斧を構え、階段の上から周囲を警戒する。ウイカは階段の中段に降りる。

「何だお前ら」

 ネジフが先に相手を発見したようだった。ナサインは左の階段を駆け上がる。シビトもそれを追う。ウイカは物陰に隠れたモンテールに止まっているように合図を送る。

 ナサインは階段の上に広がる広い通路の上に人影を発見する。男女がそれぞれ二人ずつだった。

 ナサインの目は一人の女性に注がれていた。

 白が基調の長衣が風に揺れるたび、青や緑の光を発する。象牙色の長大な杖を持つ長い黒髪の女。ナサインの声が上ずる。

「シミュラ……」

 その言葉をさえぎるようにオレンジ色の髪の女の子がナサインの前に現れる。脇に立つ男たちは戦士のようだったが、幸薄そうな一人は武器も抜かずにぼんやりと立っているだけだった。もう一人の貧相な男は、ネジフに近づいていく。

「うわっ! 目が浮いてると思ったら、人間だった」

「てめえ、ふざけてんのか」

 ネジフが戦斧を振り上げると、貧相な戦士の男は走って逃げていく。

「怖い! 怒った! 怖い!」

 ナサインの前にシビトが出た。ナサインはその影で両手を合わせる。

「お待ちナサイン」

 鋭い美しい響きを持った声だった。

「迷宮の主が、こんなとこまで来た理由は一つじゃないのか?」

 ナサインは両手を広げると黒く長い杖が現れる。シミュラは、声を出して笑った。

「一つじゃないわ」

「ガリクソ、腹が減ったよ。オイラ腹が減ったよ」

 貧相な戦士が幸薄そうな戦士ガリクソの肩を叩く。ガリクソは、その頭を殴りつける。

 ゴン。

「痛い! 殴られたら痛い!」

「だから静かにしてるんだよ」

 シミュラは子犬のようにナサインをにらみつける女の子の肩を押さえると、自身の前にまで手繰り寄せる。

「迷宮の主が変わったのに生きているのね」

 シミュラの視線からナサインは目を逸らして逃げる。

「新しい主がどんな奴か見に来たのよ」

「それだけじゃないだろ?」

「気に入らない奴なら、殺して奪うつもりでもいたわ」

 ウイカは階段を上がりシミュラの姿を見る。女の子がそれに気がつきウイカに小さな舌を見せる。

「カーナ。おやめなさい」

「はいな」

「聞き分けの良い子。本当にカーナは良い子ね」

「へへへ」

 オレンジの髪のカーナはシミュラの手に抱きついた。

「だったら、さっさと下に行けばいいだろ」

 ナサインはシビトの横に立つ。シビトもゆっくりと身構える。シミュラは長大な杖をシビトに向けて、それからゆっくりしゃがむと杖を床に置いた。そしてまた立ち上がる。

「シモンズ王に対してご無礼でしたね」

 シビトはまんざらでもない様子で構えを解いた。

「ナサイン、向こうは話し合いを望んでいるぞ」

 ナサインはそのシビトの変わりように舌打ちを返す。黒い杖を空間に投げ捨てると、杖は霧散する。

「立ち話も、なんですから、この先の部屋で、お話でも、いたしましょうか、シミュラ様」

 一言ずつ言葉を押し出すようにナサインは言った。その提案にシミュラは凍りつくような笑みを浮かべた。

「それがいいわね」

「ご飯! ご飯!」

 はしゃぐ貧相な戦士をガリクソが殴りつける。

 ゴン。

「痛い! 殴られたら痛い!」

「だから静かにしてるんだよ」

「俺はレフスなのに!」

「うん、何で自分の名前を言うのかかわからないね」

「俺が誰なのかわかってないからだよ。殴られ損だよ!」

 貧相な顔の戦士レフスは明らかにわかる嘘泣きを始めた。

 カーナがその両手で押さえた顔に蹴りを入れる。

「えい」

 ゲシ。

「痛い! ちびでも蹴られると痛い!」


30


 ガコン。

 木製の大扉が閉められると、広間の中の空気が動きを止める。

 百人程が入ってもまだ十分に空きがある広間で各々が自由に座り込む。シミュラのために椅子を用意するガリクソ。それに真っ先に座って殴られるレフス。レフスの座った椅子には決してシミュラは座らなかった。そこにカーナが椅子を運んできてとても褒められる。

 一方のナサインたちと言えば、壁に寄りかかりシミュラたちを見ているナサイン。シビトはその側で仁王立ちをしていた。柱の後ろにモンテールは隠れるように座り、ネジフは荷物を枕に寝転がる。ウイカはレフスの座っていた椅子が空いていたので自らの元に引き寄せる。

「王様だったの?」

 ウイカが見上げると、シビトはゆっくりとうなずいた。

「ああ」

「すごいじゃんおじさん」

「昔の話だ。ずっとな」

「内緒だったかしら?」

 シミュラが左手をカーナの目の前に差し出す。カーナはそれに小さく何事か呟いて息を吹きかける。するとシミュラの手の爪に青い細かな細工が浮かび上がる。シミュラはそれを顔の前に持ってくると満足そうに笑った。そのまま右手を外側に出すとカーナが後を回りこんで同じように息を吹きかける。右手には色違いの緑だった。

「カーナは天才ね」

「えへへ」

「あ、ちびが思い上がってるよ! あのちび~!」

 前に踏み出したレフスをガリクソが押さえつける。

「離せー、離せー、話しているのは俺なんですけどー、みたいな!」

「ガリクソ」

 シミュラが長大な杖を広間の奥に向ける。

「はい。シミュラ様」

 ガリクソは暴れるレフスを引っ張って広間の奥へ向かう。

「カーナ」

「はいな」

 カーナは奥に行った二人に向かって手を伸ばす。

「ダマダマダマダマダマリンコ~」

 地面に物が転がる音がしてそれきり音が聞こえなくなった。カーナはシミュラの足元に戻ってきて腰を下ろす。

「せわしないな」

 ナサインが口を開く。

「確かにシビトは王だった」

 シミュラが「まぁ」と口を挟む。

「かわいそう。王様を死人だなんて。失礼ではなくて?」

「あ」

 ウイカが小さな声を出す。シビトを見上げるが反応はなかった。

「え、こいつ死んでるの?」

 ネジフが起き上がった。

「ああ」

 シビトはネジフに笑ってみせる。ネジフは慌てて目をそらすと再び寝転がった。

「ナサイン、あなた本当に最低ね」

 ウイカがナサインをにらみつける。ナサインは首を横に振るが、ウイカの目は怒りに染まったままだった。

「お嬢さん、ナサインは王様を本当に最低な奴から解放したのよ。王様を苦しめていたのは、ミクモと言う魔法使い」

 シミュラの言葉がナサインを救う。

「でも、解放したならおじさんを自由にするべきよ」

 ウイカはまだ怒りをぶつける先を探していた。

「ミクモのせいでシモンズ王はこの世に魂を縛り付けられてしまったのよ。その魂を自由にしたらシモンズ王は魔素に取り込まれてただの魔物になってしまうの。そして、善なる王と呼ばれた名に反する呪われた日々を送ることになる。人助けなの」

「違うね。俺はそんなつもりでシビトを下僕にしてるわけじゃない」

 ナサインの言葉にシビトも反応する。

「同感だ。俺もこいつの下僕になった気は無い。魔物でも構わん。ただの退屈しのぎだ」

「俺も俺も。みすぼらしい骸骨が上の方でウロウロしてるのが目障りでうっとうしくて、うんざりしてた時にワンワン泣き喚く魂と出会ったから退屈だったんでついでに助けてやっただけさ」

 ナサインの言葉にシビトも甲高く笑って答える。

「汚いガキが半魚人よりもひどい濁った目でピーピー泣くのが哀れだったから、力を貸してやっただけだ」

「そして、二人はミクモを倒し、ナサインはこの迷宮の主になった」

 シミュラがナサインとシビトを見る。ウイカもナサインとシビトを交互に見る。

「迷宮の主? 誰が?」

 ウイカはシミュラを見る。

「ナサインよ」

 シミュラの答えを聞いてウイカは責めるような視線をナサインに向ける。

「あんた、あたしたちを騙してたのね!」

 立ち上がろうとするウイカの肩をシビトが押さえつける。

「騙してはいない。俺がこの迷宮の主に戻るためにお前たちを利用しただけだ」

 ナサインは誰とも顔をあわせようとしなかった。シミュラが口を開く。

「さて、一つ聞いておきたいのだけれど、ナサインあなたはどうして迷宮の主の座を追われたのに今もまだ生きているの? 私達が知っているルールでは、普通なら命を奪われて迷宮に亡霊としてつながれるはずよ」

 ナサインは小さくため息をつく。腕を組んで自嘲するかのように笑った。

「まったく俺が聞きたいね。要するにミクモのやつが嘘をついていたってことだろうな」

「どうしてそんな嘘をつく必要があるの?」

 シミュラの問いに答えたのはシビトだった。

「自分が死んだときに家族の待つ場所に行けないことを嫌がる者もいるからな」

「あいつがそんな親切心を出すか? 本当だったとしても言わないだろ」

 ナサインがそう言うとシミュラが冷たく笑った。

「本当に嫌なやつだったわね。いなくなって清々するわ」

 ナサインは少し考え込んでから口を開く。

「俺も死ぬかと思った。シビトをつれていけばあっさり秘宝を借りられるかと思ったんだけどさ、あいつら自分のご先祖様を全然覚えていなかった。態度も横柄でさ、それで頭に来たから秘宝を渡すように要求してやったんだ。もしも渡すことを拒んだら、魔物の軍勢でもって王宮を廃墟にしてやるぞってね。迷宮が奪われたのはその帰りだ。急に寒気のようなものが襲ってきて全身の力を奪っていった。そのせいで精製してた魔素もほぼすべてなくなっちまったからこんなことになったってわけさ」

 シミュラはナサインから目を背けた。

「迷宮の主なんて形だけで何もわからないものね」

 ウイカがシビトの手を払ってナサインの前に立つ。

「笑っちゃうわね。強盗の真似して、転げ落ちるなんて。父さんはどこ? 言いなさいよ!」

「もうわかってるんだろ? 普通の冒険者風情がここまで来れるわけ無い」

「あんたは最低よ!」

 そう吐き捨てるとナサインの頬をウイカの平手が打つ。その炸裂音は広間に響く。

「あんたが父さんを殺した連中の親玉だったなんて! 何が秘宝よ! あんたは、あんたは……」

 ウイカはナサインを掴みながら膝から崩れ落ちる。涙の雫が床に落ちた。

「ナサイン。あなた本気?」

 シミュラの瞳がナサインを捕まえる。ナサインは小さく口を動かす。

「そんなんじゃねえよ」

「ラクドの秘宝は迷宮の渦を閉じることが出来ると言われているわ。でも、その迷宮の主でなければ閉じることは出来ない。そして、一つでも七つでも同時に閉じることが出来る。ただし、一つでも渦を閉じた者は全てを失う。それは古い言い伝えの話よ」

「覚えているさ」

「それでもかまわないとあなたは言った。そして、すべての渦を閉じるとも。だから、ワタクシは次に会う時は敵同士ねと笑ったのよ。覚えてる?」

「あぁ」

「どういうこと?」

 ウイカは顔を上げてシミュラを見る。

「さっきも言ったけれどラクドの秘宝は渦を閉じる力があるのよ。その迷宮の主のみが秘法を使って渦を閉じられるの。ナサインが私の迷宮を閉じるというのなら私から奪う必要がある」

「渦を閉じる?」

 シミュラの言葉にウイカはすぐにナサインを振り返る。

「そう。迷宮の奥には渦があって、あちら側につながっているの」

「あちら側?」とウイカ。ナサインが拾ってやる。

「誰も見た者はいない。白の教団が言う箱の外側、悪しき人間たちの住む世界。ところがこっちの世界にも悪い人間は山ほどいるって話だからな。嘘っぱちさ」

 シミュラがナサインとシモンズ王を見る。

「閉じれば死者が歩き回ることもなくなり、魔物も姿を消すわ。あなたが目指すのはそこでしょう?」

「さあね」

 「こちらにおいでのシモンズ王はこの城の地下に現れた渦を閉じるために自ら兵を率い、この迷宮の中で戦死したのよ。手にしていた秘宝は魔物たちによって迷宮をさまよったそうよ。そして、数十年後にある冒険者によって回収されその国の王に献上された。その頃には、渦を閉じる力があることなんてことは忘れ去られたの」


31


 シビトがシミュラを見つめる。自分では語らないがシミュラの語りが過去を思い出させるのだろうか。

「ミクモと言う魔法使いが東方から流れて来て、この国の宮廷魔術師となり様々な仕切りをしたそうよ。そして、この城の地下で渦を見つけて迷宮の主になった。丸蟲の巣を城の地下に作り大勢の兵を殺し、王妃を拐い罠を仕掛け、シモンズ王さえも手にかけた」

 一呼吸するシミュラ。

「敗れたシモンズ王の心と体は切り離されたわ。その魂は最下層を彷徨い、腐りゆく肉体は城の中にいる者を誰彼構わずに殺戮した。ミクモはそれをシモンズ王の魂に見せて楽しんでいたそうよ。まったく性格の悪い男なのよ。ワタクシあの男が本当に大嫌いだったから、度々この渦に戦いを仕掛けたことがあるわ。迷宮の主同士の戦いよ。それはもう激しいものだったけれど、シモンズ王には何度も阻まれたわ。腐っていても本当に強かったのよこの人」

 シミュラがシビトを見ると、シビトはまんざらでもない様子で甲高く笑ってみせる。

「フフフ」

「覚えてないくせに威張るな」

 ナサインの鋭い声にシビトは鼻息を荒くする。

「別にいいだろうが」

「ナサインとは知り合いなんですか?」

 ウイカがシミュラに向き直る。シミュラはウイカを見て首をかしげた。

「カーナ」

「はいな」

「このお嬢さんにも息抜きが必要みたい。心が不安定よ」

「あちしにお任せあれ」

 カーナは立ち上がるとウイカの目の前に走っていく。両手をウイカの顔の前で広げると、左の手のひらを突き出して、右手でその真ん中を指差す。

「何?」

 ウイカの目がそこに集中する。

「メイクマメイクマ、キラキラリーン」

 カーナの左手がパレットのように様々な色で満ち溢れる。右手は指ごとに太さの違う筆になっている。カーナはそれを使ってウイカに化粧を施していく。

 ナサインはそれを見てため息をつく。

「毎回思うんだが、この亜法って言うのはどういう理論なんだ?」

「あら、心のケアも立派なことだと思うわよ」

 シミュラが笑う。

「そういうことを言ってるんじゃなくて」

「ナサイン。ミクモは魔素を操るための研究をしていたわ。あなたは魔素を操れる。この二つは密接に関係していると思うのだけど」

 シミュラの瞳から逃げるようにナサインはウイカの顔を覗きこんだ。そして、息を呑んだ。ウイカもそれに気がつく。

「何?」

「何でもねえよ」

 カーナが両手を合わせる。

「次は髪だね」

「髪はいいわよ」

 ウイカが断るよりも早くカーナは後ろに回りこんでウイカを仰向けにする。

「そこのおじさん。椅子をもう一個」

 シビトが自分を指差すと、カーナはしっかりとうなずく。

「何で俺が」

 ぶつぶつ言いながらもシビトは椅子を持ってくる。

「ありあと」

 カーナは椅子に座り、ウイカの肩を膝の上に乗せる。

「お客さーん、大分髪が痛んでますね。シャンシャンシャンプー」

 カーナは両手をこすりながらウイカの髪の毛をかき回す。

「ちょ、ちょっと」

 泡だらけになるウイカの頭。不思議なことに髪の毛以外には泡が広がらない。

「えいや!」

 カーナの気合と共に泡だけが持ち上がり、カーナは左右を見回す。

「ぽい」

 カーナは泡の塊を床の上に投げ捨てる。

「ぶろ~」

 そう言いながら、カーナはウイカの身体を起こす。すると口から吐いた息が強い風になるウイカの髪の毛を吹き上げる。両手を二度合わせると右手はハサミに左手は櫛に変化する。それを器用に使いながらウイカの髪を整えていく。

 シミュラが微笑む。

「ナサイン」

「ん?」

「ドレスを用意してくれる?」

「黒しか出来ないぜ」

「結構よ」

 ナサインは両手を合わせるとそれを左右に開く。開いていくとそこから黒く長い布が流れ出る。

「どんなのがいいんだ?」

「お任せするわ」

 ナサインはシミュラを凝視する。それにシミュラも気がつく。

「ワタクシのじゃないわよ。こちらのお嬢さんの」

「あ、ああ。わかってるよ」

 ナサインはウイカを見る。ちょうど髪のセットも終わったところだった。その変わりようにナサインは思わず見惚れてしまった。

「ナサイン」

 シミュラの声で我に返ると、黒い布をウイカに向けて投げるように巻きつける。

「何するのよ!」

 黒い布はウイカの身体を包むとフリルの付いたロングドレスに変わる。それを見てカーナとシミュラが拍手をした。

「おー」

「ナサイン、上出来よ」

「おう」

 褒められてまんざらでもないナサインだったが、その目はウイカを見つめていた。

「何だよもう、みんなでじろじろ見て」

 ネジフは口を開けたまま動かない。

「鏡がないのもアレね」

 シミュラは長大な杖を拾い上げるとナサインたちから少し離れて杖を振るう。長大な杖は光の粉を振りまきながら残像を残す。それは舞のようにナサインたちの目を釘付けにした。

 コン。

 杖の先が床を叩くと部屋に待っていた光の粉が一気に集まり一枚の鏡を作り出した。

「触っちゃダメよ」

「使い方が間違ってる」

 ナサインはフンと鼻を鳴らす。

「いいのいいの」

 カーナはウイカの手を引いて鏡の前までやってくる。

「これが、あたし?」

 鏡の中に映る自分の姿にウイカは驚嘆する。シミュラもカーナも満足そうにうなずく。

「それで?」

 ナサインは腕を組んでシミュラを見る。

「あんたはどうするつもりさ」

 シミュラは長大な杖をナサインに向ける。シビトが身構える。ネジフも飛び起きると戦斧を探して慌てふためく。

「新しい迷宮の主がつまんない奴だったら殺して奪い取ろうと思っていたけど、またあなたが取るならやめておくわ。二つも管理するなんて大変だし」

「そうか」

 シミュラはウイカの手を取る。

「お嬢さんはナサインと何かあったの?」

「いえ……」

 ナサインは側にあった椅子に座る。シビトが口を開く。

「こいつがその子の父親を殺した親玉だと思ってるのさ」

「そうなの?」

「三年前にこの迷宮に行くって言ってそれっきり」

「……そう」

 シミュラは杖を鏡に当てる鏡は一瞬で光の粒になり杖の中に吸い込まれていく。

「それならナサインではないわ。主が入れ替わったのは二年も経ってない頃だから」

「同じことだろ。どうせ上で死んでる」

 ナサインは言い終わるとハッとしてウイカを見る。ウイカは瞳から大粒の涙を流して広間の奥にかけていく。

「あーあ」

 シビトが冷ややかな視線をナサインに向ける。

「何だよ」

「フ。まるでわかってないな」

 そう言うとシビトは歩いてウイカを追いかけていく。シミュラがため息混じりに微笑する。

「素直にミクモのせいにしておけばいいのに」

「迷宮の主になったら、悪事も全部背負うもんだろ」

「バカね」

「バカさ」


32


 広間の隅でうずくまっているウイカの後からシビトが近づいてくる。

「すまんな」

 ウイカはその言葉からも逃げるように顔を伏せ続ける。

「あいつはああいう言い方しか出来ないんだ」

「知らない」

「せっかくの化粧が台無しになるぞ」

「そんなのどうでもいい」

 シビトはウイカの側に座り込む。

「ナサインはな。家族がいないんだ」

 ウイカはシビトを見る。

「ミクモは人体実験をする目的で各地から奴隷を買ってきた。本人たちの意思を無視して子どもを作らせ魔素を受け入れる人間を作り出そうとしていた。その実験の中で命を落とす者や心を壊す者、魔物に変わる者など様々な者がいた。ここにいる半魚人もカエルも、元々はそんな人間だった。倒されても時間が経てば魔素によって再生される。実験は百何十年と続いた。そんな中、ナサインが生まれた。そして、ナサインだけが魔素を取り込み精製することが出来た。ナサインを渦から魔素を取り出す装置として使われ続けたんだ」

 シビトはウイカの髪をなでた。ウイカもシビトの肩に体を預けた。

「俺はそんなナサインに興味を持ち、ナサインもまた俺に興味を持った。ミクモが迷宮を離れると二人でよく話したものだ。あいつは外の世界がどんなものかを聞きたがった。俺は王だったから、沢山の話をしてやった。なにせ高度な教育を受けていたからな。あいつは外の世界を夢に見て、俺はナサインを利用することを思いついた」

 ウイカの顔がシビトを見る。

「あいつが迷宮の主になったのは、俺があいつをそそのかしたからだ。お前の父親を殺したのは俺かもしれない。だから、あいつを恨むのは間違っている」

「おじさん」

「俺は、この迷宮の渦を閉じたい。だが、俺にはそれは出来ない。ナサインほどの覚悟が俺にはないんだ」

 ウイカは立ち上がる。シビトの手を取り上に引き上げる。

「おじさん、踊ろう」

 引かれるままにシビトは立ち上がり、ウイカと向き合う。

「踊れるのか?」

 シビトの問いにウイカは笑顔を見せる。

「これでも村の祭りでは一番上手いって褒められたことがあるんだ」

「それは失礼」

 シビトがウイカに手を差し出すと、ウイカは一礼してその上に手を乗せる。そして二人はダンスをし始める。軽やかなステップを踏んでいくたびに音楽が聞こえてくるようだった。

「きゃ」

 ダンスはウイカが何かを踏んだことで中断した。

「おじさん、何かいる!」

 身構えるシビトの前にもぞもぞと動く二つの影。それは布のようなもので身体をグルグル巻きにされたレフスとガリクソの姿であった。


33


「ひどいよひどいよ。おいらの出番がこれで終わりだなんて、ひどいよひどいよ」

 床に転がりながら全力で駄々をこねるレフスをガリクソがなだめる。

「帰ったら相手をしてあげるから」

「何で上から目線? 上から言われると超むかつくんですけど、みたいな!」

 ガリクソはレフスの頭を殴りつける。

 ゴン。

「痛い! 殴られたら痛い!」

 ネジフがそれを見て笑っている。

「あいつら、道化師みたいだな。うけるよ」

「確かに面白いですなぁ」

 柱の陰から出て来られないモンテールもそのやり取りが楽しかったようだった。

「じー」

 カーナがそのモンテールの側にやって来て両手を広げて、モンテールの頭をはたく。

「フサフサ!」

「痛い!」

 モンテールは柱の影から躍り出て、カーナを追いかける。

「コラ! 大人の頭を叩いちゃいけません」

 逃げるカーナと追いかけるモンテールを見てネジフとウイカが叫んだ。

「髪、髪!」

 ハモった言葉に気がついて指を指された頭をモンテールが両手で押さえるとモンテールは歓喜した。

「生えてる!」

 モンテールの頭にカーナの手形の形に髪の毛が生えてきたのだ。

「でも、アレはないな」

「ないな」

 ナサインはネジフと笑う。モンテールは飛び跳ねてカーナをまた追いかける。

「もっとやってください!」

 カーナは笑いながらモンテールから走って逃げる。シビトがそれを見て甲高い声で笑う。

「フフフ。これでハゲは一人か」

 ネジフがそれを聞いて目を見開いて怒鳴る。

「俺は禿げてねえよ。剃ってるだけだって、何度言えばわかるんだこの野郎」

 シミュラがナサインの前にやってくる。

「次に会うときは、本当に敵同士かしら?」

「あんたのところは最後にするさ」

「なら、楽しみに待ってるわ」

 シミュラは微笑んだ。冷たくゾッとするほどの美しさだった。

「シモンズ王、今度はワタクシとも踊っていただけるかしら?」

「シビトで結構。踊りでも戦いでも何でもお受けしますよ」

 シミュラはウイカには視線を送っただけで何も言わなかった。振り返るとカーナを追いかけ続けるモンテールをにらみつけた。その表情たるや心臓が一瞬で凍りついてしまいそうほどの恐ろしい貌だった。

「それ以上カーナを追いかけたらお前を消すよ! この腐れ坊主がっ!」

 その言葉とその形相に一瞬でモンテールは逃げ去った。

 カーナは息を切らしながらシミュラの元にかけてくる。

「もう帰る」

 シミュラは優しく微笑むとうなずいた。

「ええ、帰りましょう」

 シミュラは長大な杖を振り、軽やかに舞うと床に杖の先を付いた。すると、透き通る推奨の扉が床から盛り上がってくる。

「それでは」

 扉を開くと真っ先にレフスが飛び込んでいく。

「こんなところ誰が二度と来るもんかー」

 そして、ガリクソが頭を下げて扉をくぐる。

「どうもスミマセンでした」

 シミュラはカーナを押すように扉に入れる。

「またねー」

 シミュラはナサインたちを振り返る。

「それではまたお会いしましょう」


34


「地下四階」

 ナサインが階段を降りてくる。後から続いてくるウイカはロングドレスのスカートを持ちながら降りてくる。ネジフがすそを踏みかけてモンテールと階段を転げ落ちる。ウイカもそれに引っ張られ後ろにのけぞった。

「大丈夫か?」

「ほっといて」

「こんなところで着るもんじゃねえだろ」

 ネジフが文句を言う。モンテールが階段の下に広がるホールに逃げていく。

「いよいよ地下四階ですか」

 モンテールの髪の毛に触れながらナサインは言った。

「ああ。別名、もっとも長き迷宮。歩いて進めば次の階にたどり着くまでに二日三日はかかる」

「誰よ。そんなバカなもの作ったの」

 ウイカがあきれ果てていると、シビトが階段から降りてきてナサインを指差した。

「作ったのはこいつだ」

「俺は承認しただけだよ。元のアイデアはミクモのものだ。あいつはこれに罠と魔物を配置する予定だったんだけどな。俺がカットした」

 ウイカはロングドレスを指差しながら、ナサインに鋭く言葉を吐き出す。

「そうだ。これどうにかして」

「気に入らないのか?」

 ナサインの軽い言葉にウイカは怒気を含んだため息を吐き出した。

「そうじゃなくて、動きづらいの」

「ああ、そういうことか」

 ナサインは少し思案する。

「モンテールもネジフも少し防御力を上げておくか」

 ナサインは両手を合わせてから左右に開くそこから生まれた黒い布をウイカに巻く。黒のドレスは上から包み込まれて革の鎧に変わっていった。続いてモンテールにも黒い布を巻きつける。こちらは着ていた長衣が黒色に変わっただけであまり代わり映えがしなかった。ナサインが黒い布を投げ捨てると布は空気の中に消えていく。すぐに腕を重ねて左右に開く。すると岩のようにゴツゴツした黒い物体がそこに現れる。

「なんだよ、気持ちが悪いなぁ」

 文句を言うネジフに黒い塊を押し当てると、ボコボコ音を立てながら、それは金属の光沢を帯びた黒い鎧へと変わっていく。それを見てネジフは飛び跳ねて喜んだ。

「格好いいじゃねえか」

「こんなもんか」

 ナサインは床に座り込む。ウイカとネジフが体の動きをチェックする中、モンテールは迷宮の奥を覗いていた。

「これをずっと歩いていくんですか?」

「そんなことしないさ。シビト」

 ナサインはシビトに向かって手を出す。

「何だ?」

 シビトにはそれが何を意図しているのかわからなかったようだ。ナサインはもう一度手を出してシビトに呼びかける。

「ん!」

「だからなんだ?」

「鍵だよ鍵。エレベーターホールへの鍵」

 シビトは首をかしげた。

「鍵の管理は自分でやるって言ってなかったか?」

「言ってねえよ。預けただろ?」

「貰ってない」

「渡した」

「渡されてない」

「出せ」

「無い物が出せるかバカ」

「バカとは何だ。主に向かって」

「バカをバカと呼んで何が悪い。このバカ」

「この木偶の坊が」

「俺が木偶の坊ならお前は何だ? ウスノロバカか? ウルトラバカか?」

「また言いやがったな!」

「何度でも言ってやる。バーカバーカ」

「てめえぇ」

 二人の間にウイカが割り込んでくる。

「ちょっと落ち着いてよ。どうしたの?」

「エレベーターホールに入る鍵をシビトが失くしたんだよ」

「失くしたとは何だ。貰ってないものを失くせるか」

「どうせ、酒場かなんかで落としたんだろ」

「もう、子供じゃないんだから、二人とも落ち着いてよ」

「エレベーターが使えないと三日もロスをするんだよ」

「俺は貰ってない」

「渡した」

「無い」

「無いって何だ。やっぱり失くしたのか」

「貰ってない。の無いだ」

「嘘付け」

 シビトがナサインの目の前に立つ。ナサインも負けじとシビトに身体をあわせる。それをウイカが二つに割った。

「ちょっとやめなさいよ」

 ナサインはシビトの胸を突いて強い口調で言葉を吐き出す。

「いいか、俺が魔素の補給を終えるまでに思い出しておけよ」

 甲高い声で笑いながらシビトは余裕を見せる。

「お前こそ、魔素を貯めてる間に思い出すなよ」

「あ?」

 再び顔を向けるナサインとシビトをウイカとモンテールが間に入って止める。

「ナサイン殿、急がねば」

「おじさん落ち着いて」

 ナサインとシビトは互いに「フン」と息を吐き出し背中を向ける。その動きが妙にぴったりだったのにウイカは小さく笑った。


35


 シビトは階段の上を見つめている。ウイカはそれを少し離れたところで座りながら見ていた。ナサインを見れば、周囲に広がる円は太く中心に立つナサインへ黒い煙のようなものが渦巻いていた。

「ネジフ、来い」

 シビトの声にウイカは視線をシビトに戻す。ネジフが目をこすりながら立ち上がる。大きく伸び上がると立てかけてあった戦斧を拾い上げる。

「何だよ?」

「おじさん?」

 シビトはウイカを見ると首を横に振った。

「相手は人間だ。お前は来るな」

「俺は行くのかよ」

 シビトは文句を言うネジフの肩を叩いた。

「信頼してるからな」

「おじさん!」

 ウイカが一歩前に歩み出すと、シビトは手を出して止めた。

「モンテールとナサインを守ってくれ」

 そう言うとシビトは両手を振り上げる。ネジフは驚いて離れる。

「急にびっくりさせんなよ」

 シビトの身体に起きた変化を見てネジフはさらに驚き地面に倒れこんだ。

「何だよそれ」

 シビトの背中から黒い腕が四本突き出る。

「行くぞ」

 問いには答えずにシビトは階段を上っていく。ネジフはゆっくりと起き上がると、荷物袋の中から革の鞘に包まれた短刀をウイカに投げる。ウイカは急に飛んできたそれを慌てて受け止める。再びネジフを見れば、拳を見せニカっと笑っていた。

「上は任せとけ」

 そう言って階段を駆け上がっていった。ウイカは階段の下まで走っていく。その背中からモンテールの声が聞こえた。

「ダメですよ。行っては」

「でも……」

「あの人なら大丈夫です」

 モンテールは地面に跪き両手を合わせて何事か呟き始める。ウイカをチラリと見て力強くうなずいた。

「私には祈ることしか出来ません。けれど、この祈りは彼らに必ず届くことでしょう」

 そう言うとそれ以降の言葉はウイカには理解できないものになってしまった。

「でも……」

 ウイカは階段の上を見つめる。そして、手に持ったネジフの短刀を見つめる。

「!」

 階段の上部から怒鳴り声と悲鳴、金属がぶつかり合う音が聞こえてくる。


36


 階段を上るとシビトの前に兵士たちの姿が見えた。その数ざっと二十人ほどだろうか。下へ伸びる階段ホールへの通路になだれ込んでくるのが見えた。シビトはチラリと階段を見る。ネジフが上がってくるのが見えた。

「ネジフ。階段ホールに来た奴は任せる」

「そうかよ」

「その前の通路にさえ入れさせるつもりは無いがな」

「もう入ってんじゃねえか」

 階段ホールに向かって来る兵士の一人が、悲鳴に似た声を上げた。

「魔物です! また出ました! 人型です!」

 そう言うと兵士は逃げるように通路を駆けて行く。ガチャガチャと音をさせながら通路一杯に弓兵が五人ほど並び列を作る。

「矢に当たるなよ。痛いぞ」

「矢が刺されば痛いに決まってんだろ」

 通路に向かって歩き出すシビトをネジフが文句を言って送り出す。

 シビトは胸の前で前の手を合わせ印のようなものを組んだ。

「アスラ!」

 そう叫ぶとシビトの吐き出した真っ黒な空気が顔中に広がり、耳の後ろに二つの顔が並ぶ。漆黒の彫像のようになったシビトが目を開くと、緑色の目が六つ光を放つ。

「撃て! 撃て!」

 その号令と同時に発射された二十本ほどの矢がシビトに襲い掛かる。シビトはそよ風の中を歩くが如くその中を歩いていく。背中の四本の腕と前の腕二本が流れるように動いて飛んでくる矢を次々に掴んでいく。

「隊長! 矢が!」

 兵士の誰かの声にはすでに涙が混じっていた。シビトの手にはすべての矢が握られていたのだ。

「槍兵、前に!」

 その声を聞いた途端、兵士たちは大混乱になった。通路一杯に弓兵が並んでいたために逃げ出す弓兵と飛び出そうとした槍兵がぶつかり合う結果になってしまったのだ。

 シビトは矢を地面に放り投げて兵士たちに襲い掛かる。

 脇をすり抜けようとした二人の兵士の頭を掴み通路の壁に押し付ける。兵士の頭はかぶっていた冑ごとひしゃげて床に倒れる。弓兵の一人は、叫び声を上げながら弓を振り回しシビトを追い払おうとした。シビトの拳が弓兵を叩き潰す。

 槍兵がやっとのことでシビトの前にたどり着くと、シビトは息絶えた弓兵をそこに投げつけてきた。慌てて避けようとする槍兵の顔面に突き出された手刀が何の抵抗も無く頭を打ち抜いた。

「俺いらねえじゃん」

 それを後で見ていたネジフは階段の隅に座り込んでシビトの様子を観察した。

「あいつ相当むかついてたんだな」

 シビトは怒りを発散させるかのように兵士たちを殺戮している。

「どこが善なる王だよ。魔人じゃねえか」

 六本の腕が兵士たちを掴み上げた瞬間、その影から繰り出される槍がシビトの身体に突き刺さる。シビトは一層怒りに任せ掴み上げた兵士を武器に暴れまわる。

 シビトから逃げるように脇をすり抜け、通路からホールへかけてくる兵士が見えた。ネジフは立ち上がるとその前に立ちふさがった。

「惜しい」

 兵士は後ろに気を取られていたために急に現れたネジフに驚いた。鞘から剣を引き抜こうとするが、体が震えてどうすることも出来ないようだった。

「化け物!」

「バカヤロウ。俺は人間だぞ!」

 ネジフは戦斧を振り下ろす。戦斧は兵士の鎖骨を砕き一撃で絶命させる。

「あれ? 何でこいつら殺す必要があるんだ?」

 ネジフは息絶えた兵士を見て首をかしげた。

「わかんねえからいいか」


37


 シビトが通路を歩いて戻ってくる。その後からついてくる者も近寄ってくる者も誰一人いなかった。

「終わりか?」

 ネジフが声をかけるとシビトは前の手を左右に握り締めて、叫び声をあげる。あまりに大きな声にネジフが耳を塞ぐ。

「うるせえなぁ」

 声と共にシビトの背中から腕が消え、漆黒の面のようなものも剥がれ落ちる。ガシャガシャと音を立てて床の上に転がるそれは徐々に空気の中に溶けて行くのだった。シビトのさらに叫び声は続き、ネジフの前でシビトは素っ裸になってしまう。

「お前バカだろ? 変態か?」

 それから両手を合わせる。体中から黒い靄のようなものが出てシビトの吐く息と混ざる。混ざりあった黒い煙がシビトの身体を覆うと、布地風の服に変化した。さっきまでの殺戮に似合わない普段着のようだった。

「少し、使いすぎた」

「やりすぎだろ」

「ああ」

 シビトは後ろを振り返ると潰れた兵士たちの姿を見る。

「何かこう、下から湧き上がる闘争心みたいなものを感じて、興奮しすぎたみたいだ」

「俺も少しわかるな。なんかこうよ、高揚? したな」

「おじさん!」

 ウイカが階段を上ってくる。目の前の惨状を見て口を手で押さえてうずくまった。シビトはウイカの視線を通路からさえぎるように階段へ向かっていく。

「下に行こう」

「なんか落ちてるぞ?」

 ネジフがシビトがいた場所を指差す。それを見てシビトの表情が固まったネジフが戦斧でそれを手繰り寄せる。

「何だこれ? 鍵か?」

 ネジフの脇からシビトが黒い鍵を拾い上げる。

「なんだ?」

 その動きがとても早かったので、ネジフにはかえって不審がられてしまった。シビトはウイカを支えながら階段を早足で歩いていく。その後からニヤニヤしながらネジフが歩いてくる。

「それ、あれだろ?」

 シビトは舌打ちをする。

「だからなんだ」

「お前、バカで変態だな」

 とうとうこらえきれなくなったのかネジフは階段の途中で座り込んで大笑いをする。

「お前、面白いな」

 ウイカがシビトの体から離れて階段の隅で嘔吐する。

「んだよ、汚ねえな」

 ネジフが笑うのをやめて階段を降りていく。シビトがウイカの背中をさすってやると、ウイカは口をぬぐって立ち上がる。

「ごめん。あんなの初めて見たから」

「気にするな」

 シビトはウイカに手を貸しながら階段を降りていった。


38


 シビトたちが降りてくると、モンテールが手を叩きながら近づいてきた。

「やあ、やあ、どうでした?」

 ネジフが笑いながらモンテールの肩を叩く。

「もうひでえんだよ。グチャグチャ。やりすぎてやんの」

 そして思い出したように地面に転がりながら笑い転げる。

「そんなに面白かったんですか?」

「面白くなんか無いよ」

 ウイカは不機嫌な様子でモンテールの側を通り抜ける。シビトも同じく不愉快そうに壁際まで歩いていく。

「私の祈りがいけなかったんでしょうか?」

 シビトはチラリとモンテールに目を向ける。

「何?」

 モンテールは申し訳なさそうに口を開く。

「私も何かお手伝いしたくて、戦意高揚の祈りをしていたのですが……」

 ネジフとシビトが顔を見合わせる。

「ハゲ、すげえなぁ」

「ハゲは今はお前だけだ」

「うるせえ、俺はハゲじゃねえよ。剃ってるんだよ」

「迷惑だったでしょうか?」

 シビトは甲高い声で笑う。

「フ。あんな奴ら相手に無駄な魔素を使ってしまった」

「でも、鍵が出て来て良かったじゃねえか」

「あ、鍵あったの?」

「おお、それは良かった」

 笑い合うネジフたち三人を複雑な表情でシビトが苦笑いする。

「そうだな」

 吐き捨てるように言うと、シビトは魔素を集めているナサインを見る。

「クソ、あいつの勝ち誇った顔を見ると思うと、腹立たしいな」

 ネジフが白い歯を見せながらシビトに近づいてくる。

「こいつ、今気が付いてないのか?」

「超集中状態だからな、触られてもつねられてもわからない状態だ。この時に攻撃されたら意識を取り戻すことも無く死ぬだろうな」

 ネジフの笑みが悪魔的に大きくなる。

「じゃあ、こいつに渡しちゃえよ」

 シビトが唖然としてネジフの顔を見る。モンテールが慌てて飛んでくる。

「ダメですよ。そんなこと。ねえ?」

 モンテールはウイカを振り返るが、ウイカはすぐに目をそらした。シビトがネジフの肩をつかむ。傷口に触ったのかネジフが身をよじる。

「冗談だよ。怪我してんだぞ」

「あ、すまん」

 シビトはすぐに反対側の肩を叩く。

「お前は真の友達だ。良く言ってくれた」

 シビトとネジフが同時に口を大きく広げて笑顔になった。

「だめよそんなこと」

 そう言うウイカもついには耐えられなくなってお腹を抱えて笑い転げる。モンテールはその場から逃げるように壁際に走っていく。

「私、何も見てません。聞いてませんよ」

 シビトは魔素を集め続けるナサインの後ろから近づくとナサインのズボンのポケットに黒い鍵をそっと差し込んだ。

 戻ってくるシビトの顔には改心の達成感があった。ネジフと拳を重ねあうとシビトは面々を呼び寄せ口を開いた。

「これから先、ナサインはお前たちに選択を迫るだろう」

「選択?」

「何を洗わせる気だ?」

「選ぶってことですよ」

「なんだよ。そう言えよ」

「地下五階には竜がいる」

 ネジフが思わず下を見る。

「竜? ドラゴンか?」

 シビトはうなずく。

「ふざけた野郎だが、流石に竜だけあってその力は尋常じゃない。戦いに巻き込まれれば、お前たちはほぼ確実に死ぬ。俺も守れる保証がないからな」

 三人は唾を飲み込む。

「今のうちから考えておけ」

「考えておけって、今更戻れって言うの? 来た道を戻ってなんて不可能だわ」

「そうですよ」

「怪我が治るまでいたら、腹が減って死ぬぞ」

「安心しろ。エレベーターホールには転移装置もある」

「え?」

「てんいなんだ?」

 シビトは腕を組んで眉間を押さえる。

「外に移動できる魔法みたいなものだな」

「転移ですか」

 モンテールが何度もうなずく。その横で、ウイカが首をかしげる。

「そんなものがあるなら、わざわざ降りてくること無かったじゃないの。バカじゃないの」

「お前たち本当にバカだな」

 ネジフが便乗してシビトを非難する。シビトは首を横に振る。

「転移装置は一方通行だ。下から上に飛ぶことしか出来ない」

「不便ね」

「まぁ、そういうことだ」

 風が巻き起こり、シビトたちはその先に立つナサインを見る。ナサインは黒い円を左右の手に吸収し終わると目を開ける。


39


「見つけたか?」

 ナサインはシビトに近づいてくる。服装が変わっていることに気が付いたのか、一瞬眉にしわを寄せる。シビトが手を広げて見せると、その動きに合わせてネジフは肩を震わせながら荷物袋に向かって歩き出す。ウイカはシビトの背中に回って震える身体を隠した。モンテールも何食わぬ顔でナサインの後へと歩いていく。

「ご覧の通りだ」

 ナサインの目が左右に泳ぐ。

「魔素を纏うのをやめてみたんだが、見つからなかった」

 ナサインは見下ろすシビトの視線から目を外した。腕を組みながら深い呼吸をする。

「落としたか」

 その声にネジフが咳き込んだ。しかし、ナサインは気に留めなかった。

「落とすわけが無い」

 シビトの力強い言葉が、ナサインをうならせる。

「あのなぁ……」

 そう言って腰に手を当てたナサインの動きが止まる。目が左右に泳いでいる。眉がピクピク動き、ぎこちなく笑い顔を作ろうとしている。

「……んまぁ、落とした可能性もあるだろうけれども、今更それを探しに行くこともないだろうな。どこにあるかわからないものを探すなんて、時間がかかって仕方が無いだろうし……」

 ナサインの声が徐々に小さくなっていく。

「もしかしたら、鍵をかけ忘れてるかもしれないからな。うん。まぁ、後で俺が見てくるかな。うん。そうだな」

「歩くしかないか……」

 シビトの言葉にナサインは両手を振る。

「いや、鍵を作るって言うことも試してみてもいいと思うな」

「そうか?」

「後向けよ。まずは魔素を補給しよう」

「ああ、頼む」

 シビトがナサインに背中を向ける。ナサインはその背中に両手を当てる。

「一気に行くぞ」

「わかった」

 ナサインの目が真っ赤に光り腕から黒い風が生まれシビトの背中に吸い込まれていく。全身を震わせながらシビトの肌が黒味を帯びていく。

 両手を勢い良くシビトの背からはがすと、ナサインは荒い呼吸を整える。真っ黒に身体を染めたシビトの肌は徐々に色が戻っていく。

「さて、帰りたくなった奴はいるか?」

 ナサインは声をかける。

 見れば全員がうつむいてしまっている。ナサインは首をかしげた。

「どうした?」

「俺が話した」

 シビトが魔素を噴出して身を包む鎧を形成させる。

「そうか」

「しばらく考える時間をやってくれ」

「わかった」

 ナサインはゆっくりと後ずさりしながら壁際による。

「どうした?」

 シビトが近づこうとすると、片手でそれを制する。

「いいんだ。考えている間にエレベーターホールの鍵を確認してくる」

 そそくさと壁に突き出た突起を触ると、ナサインの背後の壁が開きナサインは吸い込まれるように中に進んで行った。

 しばらくすると、声が聞こえてきた。だいぶわざとらしい響きだった。

「あー、クソ!」

 そして、走りながら片手を振り回して戻ってくる。

「あったぞ、鍵があった。いやぁ、鍵をさしたままにしてたんだな危ねえ危ねえ」

 それを見てウイカがうずくまって笑う。ネジフは荷物袋に頭を入れて笑い転げる。モンテールは足をつねり上げ何とか笑いをこらえていた。

 シビトは唇の端を吊り上げて甲高い笑い声を出した。

「ほらな。何か言うことは無いのか? 散々人を疑っておいて、あるだろう? ほら」

 ナサインは軽く舌打ちをする。

「悪かったよ」

「フフ。わかればいい。次から気をつけろよ」

「お、おう」

 あっさりとしたシビトの言葉にナサインは少し拍子抜けしているようだったが、ことが済んだことに満足しているようでもあった。


40


 八角形の広いホールには通路への入り口が二箇所あり、その二つが直線で結ばれていて、中央には光の柱が一本だけ天井にまで伸びていた。床には様々な色のタイルが敷き詰められていて、その模様は鳥のような絵が描かれていいるのがわかった。

「これがエベレーターホール?」

 ウイカがホールの中を見回すとナサインが後から訂正する。

「エレベーターだ」

 振り返ってナサインを蹴ろうとするウイカの間にシビトが割って入ってくる。

「真ん中の光に入れば外に飛ばされる」

「ドラゴンは?」

 ネジフが奥の出口を覗き込むが、そちらは暗く何も見えない。

「エレベーターに乗って五階に下りれば見られる」

「見てえけど死ぬのは嫌だな」

 ネジフの後からモンテールが顔を出す。

「いやあ、きれいな部屋ですね」

「竜と言ってもここのは古の知識を蓄えていたりするわけじゃない。そういう知的なのを想像してたいらがっかりするからな」

 シビトがネジフに笑いかける。ネジフは腕を組んで考え込んだ。

「あたしは行く」

「エレベーターを降りたバルコニーから見てる分には、危険は無いかもな」

「なんだよ。じゃあ、俺も行くぞ」

 全員の目が、モンテールへと注がれる。

「あの、これどこに飛ばされるんでしょうか?」

「上の城だ」

「祈りながら行ったほうがいい」

「何故ですか?」

「骸骨が待ち受けてるかもしれないからさ」

「私もドラゴンを見てから帰ります」

 モンテールの返事の早さに一同は笑い声を上げた。だが、ナサインの笑みはすぐに消えた。

「俺が死んだら、エレベーターに飛び乗れよ」

「何でだよ?」

 目を見開いてネジフが言うと、ナサインは暗い眼をして応えた。

「シビトがお前らに襲い掛かるかもしれないからだよ」

「え」

 シビトはウイカの視線に気が付きうなずいた。

「呪縛が解ければ、この俺も迷宮の魔物になるだろう。お前たちを執拗に追って行って全員を殺すことになる」

 ネジフが震え上がる。

「冗談じゃねえぞ」

「竜と戦うしかないの? 他に道は?」

「無い。そういう風に作ったからな」

「バカじゃないの」

 ナサインはにらみつけてくるウイカに片手を上げて制しようと試みる。

「まさか自分が攻めにまわるとは思わなかったんだよな」

「マヌケね」

「……」

 ナサインはエレベーターへの入り口に歩き出す。

「エレベーターの操作は簡単だから、特に説明することも無いかな」


41


「地下五階」

 鎖に吊り下げられた金属の円柱が岩の壁を下りてくる。円柱の外側は金網に囲まれている。闇が広がる空間にぽつんと突き出た岩場に円柱が接地すると、金属のきしむ音がして開かれた扉からナサインたちが降りてきた。

 岩場には二十人ばかりの人間が座れるスペースがあり左右には下へと伸びる階段が続いている。

 ナサインは岩場の先端から眼下を見る。

「ロンドー!」

「ちょっと」

 ウイカがナサインの手を取って後ろに引く。

「何だよ?」

「何を大きな声を出してるのよ」

「いるかどうか確かめたんだよ」

「何が?」

 ウイカがそう言った瞬間、地の底から火の柱が吹き上がってくる。闇の中に明かりが広がり、円形の大穴の中にいることがわかった。

「地下四階からだとこの真下に出てきて、この炎に焼かれる」

 ナサインとシビトが階段に向かう。

「こんな暗くちゃ見えないわよ」

 ウイカの言葉にナサインが手を上げる。

「俺が死ねば装備の魔素がチリになるから、それで判断してくれ」

「お前、戦えるのか?」

 ネジフがすぐにナサインに声をかける。ナサインは笑った。

「自分の身を守るくらいなら問題ない」

「私は何を祈ればいいのでしょうか?」

「自分たちの安全を祈ってろ」

 シビトがモンテールの側にまで戻り、肩を強く叩く。ナサインがすぐに呼び戻す。

「行くぞ」

「ああ」

「おじさん、頑張って!」

「おう」

 ナサインはシビトと拳を重ねる。


42


 階段を下りきると強い横風が二人に吹き付ける。暗闇の中に熱気と異臭が立ち込め、足元のぬかるんだ地面が疲労感を増加させる気がした。

「深遠なる闇の世界から、一筋の炎が英雄たちに襲い掛かった」

 大穴の中に響く声がすると、そのすぐ後で炎が降り注いだ。

「シビト!」

 広がる炎の中シビトは六つの腕を突き出して、炎を受け止める。その後方にいるナサインは両手を広げて炎をに黒い矢を打ち込む。それを左右に引き裂くと炎は大穴の壁面に縫い付けられる。

「シビト? そうか、ナサインか」

 低い声の正体が炎に照らし出される。巨大な横穴の中に寝そべっていたのは、六本の足を持つ山ほどに大きなトカゲのような動物だった。

「自己紹介はいらないぞ。ロンド!」

 ナサインは両手を胸の前で合わせる。その間にシビトが竜ロンドに突進していく。それを見たロンドは前足を地面に叩きつけるように起き上がると後ろ足で二足歩行を始める。

「我が名はロンド。闇の中で矮小なる人間にその愚かさを知らしめる迷宮の魔竜なり!」

「名乗りはいらん!」

 シビトが地面を蹴ると竜ロンドの身体を駆け上りその鼻先に拳を叩き込む。

「シビトの攻撃は魔竜ロンドに3のダメージを与えた」

 竜ロンドには応えた様子も無く鼻先に捕まるシビトを振り落とす。

「魔竜ロンドはシビトを振り払った。シビトは地面に無様に激突した」

「残念!」

 シビトは地面に着地するとすぐさま竜ロンドの後ろ足を蹴りつける。

「シビトの攻撃は魔竜ロンドにダメージを与えることは出来ない」

 低いロンドの声が実況のように穴の中に響く。

「魔竜ロンドは長く美しい尾を使って辺りをなぎ払った!」

 ロンドの尾がその言葉通り、地をなぞるようにナサインに襲い掛かる。

「こっちも準備できたぜ」

 ナサインは合わせた手を胸を引き裂くように広げる。左右に避けた闇よりも深い黒が広げた隙間からあふれ出てきた。

 ズン。

「そして、ナサインは死んだ」

 ロンドの尾はナサインの立っていた周囲の泥を吹き飛ばし土を巻き上げた。泥が地面に落ちきると黒い塊が竜ロンドの尾を受け止めている。黒い塊はロンドの体の半分ほどの大きさがあった。

「魔竜ロンドは一瞬理解に苦しんだ」

 ロンドが首をかしげていると、そこにシビトが駆け上がってきてロンドの目玉に拳を突き立てる。ロンドは頭を下げて前足で目をぬぐう。

「シビトの攻撃は魔竜ロンドの輝く瞳に当たった。ダメージ2。魔竜ロンドは火炎を吐きかけた」

 ロンドは大きく息を吸うと口を開いて紫色の息を吹きかける。その瞬間、口を閉じると歯と歯が打ち合い火花を散らす。そして紫色の息が一気に燃え上がる。

「シビトは魔竜の紅蓮の炎によって燃え尽きた」

 ロンドの低い笑い声が響く。ロンドは炎の勢いが弱まるとナサインとシビトの姿を探した。穴の底には大きな黒い塊があるだけだった。

「魔竜の偉大さの前に、奴らは逃げ出すことしか出来なかった」

「そのうっとうしい説明をやめろ」

 ロンドは黒い塊を見下ろす。

「魔竜ロンドは怪しい塊を踏み潰した」

 ロンドは黒い塊に向かって歩み寄ると前足を塊に叩き付けた。黒い塊はゆっくりと横に倒れる。

 ドン。

 ロンドはもう一度、塊に前足を叩きつける。その前足を黒い腕が受け止める。

「魔竜ロンドの攻撃をデカイ腕が受け止めた。なんだこれ?」

 黒い塊が見る見るうちにシモンズ王の似姿をした巨大な人形へと形を変える。腕は六本で三面の顔を持つ巨大な像の前面には憤怒の顔があった。その開かれた口の中にナサインの上半身が見えた。

「少しばかりデカイと思って悪戯が過ぎたな」

「魔竜ロンドは少しも驚かなかった。それどころか紅蓮の炎を……」

 シモンズ像の拳がロンドの顎にめり込む。

「ぐう、魔竜ロンドは10のダメージを受けた」

 その口からボロボロと牙が地面に落ちる。シモンズ像はそのままロンドの首を掴み穴の中に引き倒した。

「魔竜ロンドの攻撃! 美しい尾をデカイシビトに巻きつけて締め上げた!」

 シモンズ像は滑り込んでくるロンドの尾をかわすと背中側に潜り込んで持ち上げる。

「ずるい。そっちばっかり攻撃して」

「こっちはそれどころじゃないんだよ」

 そのままシモンズ像はロンドを壁にぶつけると、地面に両足をどっしりとつけてロンドを押し付けた。

「魔竜ロンドは身動きが取れない」

「お前は、後でしつけてやるからな!」

 ナサインはシモンズ像の口の中で怒鳴り声をあげると、両手を複雑に動かしてから大きく手を叩いた。

 シモンズ像の背中の腕が伸びてロンドの顔や尾を押さえつけて穴の側面に突き刺さった。ナサインはそれを確認すると、両手を開いて拳を握り締める。

 ピシ。

 突如シモンズ像の首に亀裂が入り、シモンズ像の頭部が床に転げ落ちる。

 ズン。

 三面の顔の一番上になった口から、ナサインが這い出てくる。シモンズ像の頭部から降りると、両手を当てて息を吐きかける。ナサインの目が赤く変わりシモンズ像の頭部が溶けて消える。完全に溶けて消えるとその底に裸のシビトが倒れていた。


43


「ナサイン! 何がどうなってるの? おじさんは? あの大きかったのはオジサンなの? あの竜はあのまま?」

 ウイカが階段を上って来たナサインに矢継ぎ早にまくし立てる。ナサインは階段を上りきると座り込んだ。そして、肩で激しく息をしながらエレベーターを指差しながら言った。

「お別れだ。みんな今までありがとう」

 ウイカの顔が曇る壁に縫い付けられた竜とシビトの首なし像を見下ろした。

「おじさんは死んじゃったの?」

 ナサインは首を振った。

「下で寝てる。魔素が足りなくて補給するのが移動してからになる。だからここには来ない」

 ナサインは呼吸を整える。

「次に魔素を補給したら、あの竜が自由になる。そうなるとこの迷宮を攻略するまで戻ることは出来なくなる。この先は俺も知らない迷宮が増えているはずだ。だから、お前たちをもう守れない」

 モンテールがナサインの前にやってくる。ナサインの手を取ると、モンテールは自分の額に強く押し当てた。

「どうぞご武運を」

「ああ、モンテールも元気で。これ持って行け」

「いいんですか?」

「ああ、俺には必要ない」

 ナサインからカンテラを受け取ると、モンテールはエレベーターに向かう。

「待ってろよ」

 ネジフがモンテールを呼び止める。そこからナサインに呼びかける。

「良いみあげ話が出来た。ありがとう」

「みやげだよ。ネジフがいて楽しかったよ」

「助かったよの間違いだろ」

 ナサインが指差すとネジフは両手でナサインを指差した。

「ウイカさん」

 モンテールがエレベーターの中から声をかける。ウイカはエレベーターに歩み寄る。

「じゃあな」

 ナサインはゆっくりと立ち上がりエレベーターに背中を向けて階段を降りていく。数段降りるとエレベーターが上に登って行くのが見えた。

「あーだるい」

 壁にもたれかかりながら階段を降りていく。降りきるとシビトの側に人影が見えてナサインは身構えた。

「ほら、そっち持って」

 それはウイカだった。

「何やってんだよ」

 立ち尽くすナサインの問いに答えることもなくウイカはシビトを抱き起こそうとしてもがいている

「おい」

「迷宮の主になるんでしょ? だったらあたしは戻れるわ。早く手伝ってよ」

「ああ、ただその前に」

 ナサインは壁に押さえつけられたロンドを見上げる。

「おい、ロンド。この迷宮の主は誰だ?」

 頭上から低い声が降り注いでくる。やや息苦しそうだった。

「魔竜ロンドは口を割らない。それが高潔なる私の信念だ。この迷宮の主ブルフルもこの美しき忠誠心をきっと喜んでいることだろう」

「ありがとよ!」

 ナサインはウイカの逆に回りシビトの肩を持ち上げる。

「ブルフルか。あの野郎……」

「知ってるの?」

 ウイカもシビトの肩に潜り込む。

「ああ、元奴隷の雑用だ」

 ナサインとウイカはシビトを担ぎながら、巨大な横穴の奥へと歩いていく。

「前は奥まで行けば最深部へ続く階段があった。おそらく新しく出来た地下六階があるはずだ。扉を抜けたら魔素を貯める」

 ウイカはシビトの顔を見る。うなだれたままの頭、全身の力は弛緩して両足は地面に引きずられている。

「おじさん生きてる?」

「魔素が切れて動けないだけだ。大丈夫だよ」

 ナサインは前を見続ける闇が三人を包み出すと目の前にアーチ状の扉が見えた。扉は暗闇の中でぼんやりと紫色に輝いていた。


44


 紫色の扉を閉めると、ナサインは震える手で黒い炎を生み出した。それを地面に向かって投げつける。周囲に紫の扉の光が広がる。壁は光沢を帯びていてそれぞれが紫の光を反射した。

「黒い石が光ってる。これも魔素なの?」

「反射してるだけさ。これは黒曜石って言う石」

 ナサインは床に両手を広げる。光をさえぎるように魔素が地面に円を描く。

「ロンドには扉は開けられないが、尻尾で叩くことぐらいはするかもしれない。まぁ、開かないだろうけどな。しばらく一人になるだろうけど、寝て時間でも潰すといい」

「わかった」

 ウイカの返事を聞かずにナサインは両手のひらを下に向けて高音と低音の二音を吐き出す。

 ウイカはシビトを見る。仰向けになっているシビトに荷物の中から大きな布を取り出してかぶせる。

 ドン。

 地面が揺れる。何か大きなものが落ちたようだった。

「竜が落ちたのかな」

 紫色の扉を振り返り耳を澄ます。大きな何かが歩み寄ってくる音が聞こえる。

「竜がこっちに来てるんだ」

 ウイカの手がネジフの短刀に触れる。

「返すの忘れてた」

 ネジフの短刀を手に持つと鞘から抜き放った。黒く紫に光る世界の中に白いきらめきがあった。その光を見つめながら、ウイカは刃に映る自分の顔を見つめた。

「父さんは農夫だったのに何で迷宮に来たんだろう? 違う。父さんは冒険者だよ。疲れてるんだよ」

 返事をくれるものは誰もいなかった。ウイカは周囲を見回す。シビトの側に歩いていくとその顔を覗きこみながら腰を下ろした。短刀と鞘を床に置き、手をシビトの口元にかざすと首をかしげて、今度は耳を胸に押し当てる。

「死人……」

 顔を上げるとナサインが見えた。

「ナサインが死ねばおじさんは解放される……」

 ウイカは短刀を持って立ち上がる。

「魔素を集めている時に攻撃されても、ナサインは気が付かない。そのまま死んでしまう」

 ウイカは短刀をナサインに向ける。喉、胸、腹、わき腹、太もも。短刀はそのまま地面に向けられ、ウイカはシビトの側に置いてあった鞘を拾う。

「寝よう。起きてると変なことしそうだ」

 短刀を鞘に納めると扉の近くの壁に背中をつけて座り込む。膝と胸の間に短刀をしまいこむと足を抱えるように眠りに付いた。


45


 ナサインの周囲から黒い円が消える。同時にナサインは膝を落とす。片手で胸を押さえて乱れた呼吸を押さえ込もうとする。

「……」

 地面の上に座り込んでシビトとウイカを見る。シビトの元にまで四つん這いで向かうとその体を返しうつぶせにさせる。右手を背中に乗せるとナサインの目が赤く光りだす。その光は弱く、何度も光を失いかけるがナサインの手からシビトへ流れ込む魔素には変化は無かった。

 しばらくするとシビトの体が反応し、手をが動き顔が動き目が開く。シビトがゆっくりと起き上がると、ナサインの手がずれてナサインの目の光が消える。

「全員帰ったか?」

「……一人付いてきた」

 シビトはため息をつきながらウイカを見る。両手を握り締め魔素を噴出し、身体を包む鎧を作った。

「ブルフルだ」

「ん?」

「迷宮を奪ったのはブルフルだ」

 ナサインが床に寝転がる。シビトは甲高い声で笑った。

「フフフ。どおりでハゲに縁があるはずだ」

「ふざけてろ」

 ナサインは仰向けになって二、三度頭の位置を変更させる。

「行かないのか?」

 シビトは大きな布を拾い上げウイカの元まで歩いていくと、その身体を包み込むようにかけてやる。

「返事くらいすればどうだ?」

 ナサインは返事をする代わりに右腕を枕にして寝返りを打った。シビトは舌打ちをすると、階段ホールの奥へ向かっていく。

「ブルフルか。ちょうど良かった。俺はあいつが嫌いだったんだ」

 拳をあわせながらシビトが甲高い声で笑った。

「フフフ。後の毛も抜いてやるぞ。あの野郎」

 一向に返事をしてこないナサインをシビトは何度も視線を向ける。

「なんだ? 変なものでも食ったのか?」

「少し眠くなっただけだ。静かにしてろ」

 ナサインは右腕に顔をうずめるように丸まった。

「フン。のんきな奴だ」

 シビトは腕を組んでナサインの背中をじっと見る。

「魔素の補給の後は……」

「おじさん!」

 ウイカがシビトに向かって走りこんでくる。そのままの勢いでシビトの胴にウイカが抱きついた。

「良かった」

「鼻水はつけるなよ」

 シビトがウイカの肩を軽く掴むと、ウイカは顔を上げて涙をぬぐった。

「バカ」

「じゃあ、行くか」

 ナサインが起き上がると、ウイカは荷物を拾いにシビトから離れていく。シビトはそれを見送りながらナサインに向かう。

「いいのか?」

「ああ、問題ない」


46


「地下六階」

 ナサインが先頭に立ち階段を降りていくと左手の黒い炎が大きく燃え上がる。暗闇をいくら吸っても周囲は明るくなっていかない。

「ここに来てダークゾーンか」

 舌打ちをするナサインの後からウイカが近づいてくる。

「ダークゾーン?」

「光が存在しない魔法の空間だ」

「どういうこと?」

「普通の人間には何も見えないってこと」

 シビトが二人の前に歩み出る。

「俺の出番だな」

「おじさん、見えるの?」

「見えん」

「じゃあ、だめじゃん」

 甲高い笑い声が暗闇に広がっていく。

「フフフ。耳を使うんだよ。こうやってな」

 チッ、チッ、チッ。

 シビトは細かい舌打ちを繰り返す。ナサインは左手の黒い炎を消した。

「よし、それで行こう」

 ナサインはシビトの手を左手で掴み、ウイカの左手を右手で握る。

「ちょっと!」

 ウイカが声を上げる。

「何だよ」

「何で手を握るのよ」

「見えないんだろう?」

「あ、ああ」

 チッ、チッ、チッ。

「ここからしばらく真っ直ぐだ」

 シビトの声が前方から聞こえる。足音とシビトの舌打ちが暗闇の中から聞こえてくる。

 チッ、チッ、チッ。

「右に曲がっている。右の壁を触って来い」

「キャァ」

「どうした?」

「いてっ。急に止まるな」

「何か踏んだ」

「それはわからない」

「あ」

「なんだ?」

「何よ?」

「お前、シビトの背中に触れ。それで俺の右手を持ってくれ」

「何でよ」

 舌打ちの音が聞こえる。

「ダークゾーンが切れても、炎が出てないと見えない」

「ああ」

 ウイカはすぐに続ける。

「炎を近づけないでよ?」

「触っても人間は燃えない」

「そうなの?」

「フフフ。魔素は燃えるから尻が出るかも知れんぞ」

「そんなことしたら補給してる時に悪戯するからね」

「しねえよ」

「いいか?」

「待って」

「いいぞ」

「いいわ」

「よし、行くぞ」

 チッ、チッ、チッ。

「少し広い空間だな。いや、壁は無いから俺のすぐ後ろを歩け」

「何?」

「おそらく道が狭い」

「広い空間なのに狭いの? どういうこと?」

 チッ、チッ、チッ。

「いいからすり足で行くぞ」

「風を感じるわ」

「シビト。止まれ」

「何だ?」

「炎が見えるようになった」

 ナサインが左手を前に出すと周囲が完全な闇から薄暗く変わってくる。シビトとウイカの足元がシビトの肩幅程度の広さになっている。足を踏み外せば両脇の深い溝に吸い込まれていくことになる。

「何よこれ」

 ウイカの足が後ずさりし体勢を崩すと、ナサインとシビトが同時にウイカを引き戻す。

「落ち着け」

 ナサインがウイカを座らせる。シビトは前を向く。

「行くぞ」

「待て」

 ナサインは左手の黒い炎を地面に置いた。シビトが振り返って眉をひそめる。

「何をする気だ?」

「いいからしゃべってろ」

 そう言うとナサインはダークゾーンの中に入り込む。

「しゃべり続けてろ」

 暗闇のベールの中からナサインの声が聞こえてくる。

「しゃべり続けろって、そんな急に言われても」

「帰ったら、どうするんだ?」

「え?」

「ナサインが迷宮の主になったら、お前はどうする?」

「どうするって、どうしようかな」

 ウイカはダークゾーンを見る。

「おじさんはどうするの?」

「俺か? 俺は戦うだけだ」

「どうして?」

「そうするしか出来ないからな」

「逃げちゃえば?」

「逃げることは出来ない」

「ナサインがいるから?」

「いや」

 シビトは前方に目を凝らしている。

「この渦は、俺の全てを奪ったからな。決着は自分でつけたい」

「そうか、王様だったんだもんね」

「ああ」

「シモンズ……」

「ん?」

「おじさんは、奥さんとかいたの?」

「ああ。子供もいた。一人だが」

「へー、可愛かった?」

「普通だ」

「何だよ普通って。あれ? もしかしておじさん照れてるの? 可愛いなぁ」

「普通は可愛いだろ。だから普通だ」

「ああ、そういうことか」

 ナサインが暗闇の中から何事も無かったかのように現れる。

「何かあったか?」

「それはこっちの台詞」

 立ち上がるウイカがナサインの右手に握られている物を見て悲鳴を上げる。

「何を持ってきてるのよ!」

「あ?」

 ナサインは右手を持ち上げて、数回うなずく。

「ああ、やっぱり骨か」

 ナサインは骨を持ち上げると背中の黒い空間からその先がごっそりと出てくる。ナサインはそれを足で分解すると一番太い骨を三本残して残りは溝の中に突き落とした。しばらくすると底から水音が聞こえた。

「そんなもの何するのよ」

 ナサインは骨を突き出すようにして自信たっぷりに言い放った。

「たいまつにするに決まってるだろ」


47


 細い道はまっすぐ遠くへ伸びている。下から吹き上がってくる生温い風がシビトの持った骨の先端の黒い炎を揺らす。シビトの腰には太い骨が二本くくりつけられていた。

「見ろ」

 シビトが声と左手を上げる。ウイカとナサインは立ち止まりシビトの隙間から前方を覗き込む。

 道は真っ直ぐ、右と左の三つに分かれていた。シビトは三つに分かれた道の中央に立ちナサインとウイカを振り返る。

「さあ、どっちに行く」

 ナサインは左右の道を見比べる。

「あの親父の考えそうなことだけどよ。たぶん、全部途中で切れてるな」

「まさか」

「ま、そういう奴だな」

 ナサインはシビトを指差す。

「真っ直ぐに行くぞ」

「言うと思った」

 再びシビトが歩き出すと、ナサインが何気なく後ろを振り返る。

「うわ」

 ナサインたちを追いかけてくる骸骨の姿があった。灰色の長衣に身を包み左右に大きく体を揺らしながら近づいてくる。

「シビト!」

 ナサインはシビトに声をかけるが、すぐにシビトの返答が返って来る。

「こっちもだ」

 足元に左手の炎を置くと、ナサインは両手を合わせ左右に開き黒い棒を手にする。長衣の骸骨は口に赤い宝石のようなものをくわえていた。

 ナサインと顔を合わせると骸骨は首をかしげた。そして、顔を元に戻すと両手を振り回しながら不安定な足場を気にすることも無く踊り始める。

「まずい!」

 ナサインは足元の黒い炎を蹴り上げた。骸骨が口を開く。

「『火球(ファイアボール)』」

 前に突き出された骸骨の手から生まれた人の頭ほどの大きさの火の玉が黒い炎とぶつかり溝の中に落ちていく。骸骨はまた首をかしげた。

 ナサインは黒い棒を振り回し、骸骨の足元を払う。しかし、骸骨はそれをするりとかわし再び踊り始める。ナサインは棒を右手に持ち、左手で黒い炎を骸骨に向けて撃つ。

「『火球(ファイアボール)』」

 骸骨の放つ火の玉とナサインの放つ黒い炎は再び共に溝の中に消えていく。

「ナサイン!」

 ウイカの叫びが聞こえた。振り上げた杖で、骸骨を上から打ち据える。骸骨は細い道に倒れるが、空気に膨らんだ布を叩くような感触に思わずイライラが募る。

「ナサインってば!」

「取り込み中だ!」

「あっち側にも来てるの!」

 振り返れば骸骨の踊り子が左右の道からもやってくるのが見えた。

「冗談だろ」

 ナサインに左手に黒い炎を出し、骸骨たちの踊りを見極める。その足を後からつかむのは、先ほど殴った骸骨の手だった。

「気持ちが悪いんだよ!」

 右手に持った黒い杖の先が骸骨の顎を強打する。すると、くわえていた赤い宝石が外れ溝の中に転がっていく。途端に骸骨は動きを止めた。

「何?」

「ナサイン!」

 ウイカの声に顔を上げると、火の玉が発射され迫ってくるのが見えた。とっさに右手側にいる骸骨から撃ち出された火の玉に向かって黒い炎を投げつける。黒い炎は火球に吸い込まれるように飛んでいくと二つの炎は混じり合って溝の中に吸い込まれるように落ちていく。

「シビト! 口の中の赤い宝石を狙え!」

「ナサイン!」

 今度は左手側にいる骸骨が踊りを踊っている。左手に炎を出して骸骨の前に躍り出る。放たれる火球に向かって左手を突き出し、黒炎が火を吸った瞬間に黒い炎を投げ捨てる。

「後ろ!」

「クソ! 忙しすぎるんだよ!」

 再び振り返り左手に黒い炎を出す。

「またこっちも!」

 ナサインは右手に握る杖を上方に捨てると、右手にも黒い炎を発現させた。打ち出される骸骨の火の玉に合わせて黒い炎をぶつける。

「シビト、まだか?」

「すまん。こっちも手一杯だ」

「ナサイン! こっち!」

 ウイカが手に何かを握って左手側の骸骨に向かって走り出した。黒い炎を両手にナサインは火球の処理に当たる。ウイカに向かって放たれる火球に黒い炎をあわせる。抱き合って落ちる二色の炎に照らされて、ウイカの振るった骨が骸骨の顎を打ち赤い宝石を跳ね飛ばす。骸骨は力なく床に倒れ、溝の内へ滑り落ちていく。

「助かった!」

 ナサインは右手側の火の玉を打ち落とし、そこにウイカが骨を棍棒のように使い宝石を落とす。

「こっちも終わった」

 ナサインの前に現れたシビトの両腕から煙が上がっていた。

「嫌な野郎だ」

「同感」

「ほんとね」

 三人は顔を見合わせて笑った。


48


「どうする? 戻るか?」

 目の前の道は切り取られたかのようにきれいに存在していなかった。距離にすると三十歩先に再び道が見える。

「何か仕掛けがあるんだろうな」

 ナサインは床に座り込んだ。

「俺が前に行く」

 ウイカが首をかしげる。

「こんな狭いところで入れ替えなんて無理よ」

「これでもか?」

 ナサインが身を低くすると、それをまたいで越せそうではあった。

「そういうことね」

 ウイカとシビトはナサインを越えて後ろに回る。

「何で自分が行かないのよ」

「こいつがデカイからだ」

 シビトを勢い良く指差しながらナサインは立ち上がる。前方の道を見ながら手を胸の前で合わせる。

「魔素をそんなに使って大丈夫か?」

 シビトの言葉にナサインの小さな笑いだけが聞こえた。ナサインの突き出した左右の手から二筋の糸が対岸の道の端を捕まえる。ナサインは手の中の糸を足元につける。再び両手を合わせ黒い塊を出現させると、それを糸に沿って押し出した。手を細かく動かし、黒い塊を導いていく。塊は両側の糸と反応を起こしながら奥まで進んで行った。ナサインは左手に黒い炎を出すと、足元の魔素で出来た吊橋の黒い板を踏んで先の道まで歩いていく。

「行こう」

 ふらつくナサインをシビトが後ろから支えてやる。

「悪いな」

「気にするな」


49


 ナサインは目を開いた。世界が回っているのを感じた。

「どうした?」

 声はかすれていた。

「なんだ?」

 シビトの声が聞こえた。身体は思うように動かなかった。起き上がろうと力をこめても鉛よりも思い空気がそこかしこにまとわり付いているようだった。

「まだ寝てたほうがいいわ」

「どうしたんだ?」

 かすれる声にイライラした。ウイカの声が聞こえた。

「倒れたのよ」

 誰が? と、一瞬思ったが、それが自分自身のことであることを理解するのはそれほど難しくはなかった。

「そうか」

 ナサインは体の力を抜いた。そうすると気持ちまで楽になるようだった。

「ここは?」

「階段ホールだ。地下七階があるのかは確認していないが、次が最深部だと助かるんだがな」

「本当だな。コストを考えれば七階はないと思いたいけどな」

 シビトが笑い声を上げるとナサインもそれに合わせた。空気を多く吸い込みすぎて咳き込むと誰かが身体を横向きに変えてくれた。

「短期間で魔素を取り込みすぎた。精製の限界が来たのかもな」

「平気なの?」

 背中をさすってくれたのはウイカだった。

「不純物が溜まってるだけさ」

「そんなもの捨てればいいじゃないの」

「簡単に言うなよ。物凄い毒みたいなもんなんだぞ。魔物だって殺せる濃度だ。こんなもの渦にぶち込むのが一番なんだ」

「そっか。じゃあ、早く行くしかないね」

「そう言う事」

 ナサインは両手を数回握り締めてみる。身体に力が戻ってくるのを感じた。

「魔素を補給していくか」

「いや、俺が何とかする」

 身体を起こすとシビトが拳を見せて笑っていた。

「お前に心配されるようじゃ、いよいよ終わりかもな」

「フフフ。人の優しさを素直に受け取れないとはな。やはり器の小さい人間だな」

「次で最後さ」

 ナサインは膝に手を付いて立ち上がる。シビトの手から黒い炎の点いた骨を奪い取った。

「時間と資材を見ると七階はないよ」

「何故、言い切れる?」

「さっきの通路は材料が足りなかったから、道が無かっただけだ」

「ほお」

「ほんとなの?」

「推測」

 ナサインはニヤリと笑った。ウイカがナサインの背中を叩いた。

「バカ」


50


 深い青い壁面と床。どこまでも先が見通せる。三人ほど並んで歩ける廊下の両脇にはいくつもの扉が並んでいて、その廊下の最奥にも一枚の扉が見えた。

「良かったな。七階はなかったようだ」

「あぁ」

「ナサイン。わたし(・・・)どうすればいい?」

 左手に黒炎を燃え上がらせる骨を握り締めて最奥の扉を凝視するナサインをウイカが後ろから見つめる。その手にはネジフの短剣が握られていた。二人の肩をシビトが軽く叩く。

「ま、落ち着いて行くぞ」

「ああ、わかってる」

「うん」

 ナサインたちは廊下を進んでいく。左右の扉が開き中から緑色の人間が膨らんだ身体を震わせながら近づいてくる。

「シビト」

 ナサインの声を待つまでも無く、シビトは緑色の人間を叩き潰す。ゆっくりと手を伸ばしてくるもう一体を蹴り飛ばし頭部を破壊する。こぶし大の二つの黒い石が床の上に転がると、シビトはそれを拾おうとする。

「いい。必要ない」

 ナサインはその横をすり抜けるように歩いていく。

「何よアイツ、感じ悪いわね。シビト(・・・)」

「緊張してるのさ」

 シビトはナサインを追いかける。

 次の扉が開く。両手に長剣を持った鎧に身を包まれた騎士だった。よたよたとナサインに近づくと、長剣を振り上げてナサインに向かって振り下ろす。その腕をシビトが掴み、ナサインが鎧の騎士の胸に手を当てる。瞬間、黒い煙が騎士の鎧の隙間からあふれ出し、騎士は地面に転がってバラバラになった。

 次々に扉が開く。中から現れる幾多の魔物たち。しかしどの魔物もナサインとシビトを攻撃を受け床の上に黒い石を落として動かなくなった。

 扉はついに最後の一枚になった。両開きの大扉だった。

「いよいよだな。シビト」

「ああ」

「いいか?」

 ナサインはウイカを振り返る。ウイカは真剣な眼差しでナサインにうなずき返す。

「わたし(・・・)は、ナサインを信じてる」

「任せとけ」

 ナサインとシビトは共に扉を押し開ける。両開きの扉は、美しい金属の響きを上げながら開かれたのだった。


51


「ようこそ。お待ちしておりました」

 赤い絨毯が敷かれ、その上に長いテーブルが置かれており、左右にはきらびやかな装飾の背の高い燭台が等間隔に八本置かれていた。長テーブルの奥に一人の男が椅子にゆったりと座り黄金の杯を手に微笑んでいた。前髪から頭頂部にかけて髪の無い目の細い男だった。着ているものと言えば、テラテラとろうそくの明かりに反射する白い長衣と首に下がっている金色の首飾りがやたらと目につく。

「ブルフル」

 ナサインとシビトが室内に入っていく。

「あぁ、ナサインさん。てっきり死んだと思っていました。良かった。本当に良かった」

 ブルフルは杯を持ったまま手を叩いた。中に入っていた液体がブルフルの長衣を汚す。

「ああ、汚してしまった。でもまあいいでしょう。着替えはいくらでもある」

 ブルフルはそう言うと手に持った杯を投げ捨てた。杯は液体を振りまきながら床の上を転がった。

「まったく。これほどの富を独り占めしていたとは、ひどい人ですねぇ。ナサインさん。富を築いて人に与えない者はただの守銭奴というのですよ」

 ブルフルはゆっくりと立ち上がると、机の影から短い錫杖を取り出すと、それをナサインに向けて怒鳴り声を上げた。

「シモンズを飼いならしたからと言って、貴様が最強ではないことを思い知らしてやる!」

 そのままの勢いで振り上げた錫杖を長テーブルに叩きつける。テーブルの上に穴が空き、そこから棺が浮かび上がる。棺の蓋が重苦しい音を上げながら開かれていく。

「準備が済むまで待ってることは無いよな」

 シビトはそう言うと、ブルフルに向かって走り出す。唸りを上げる拳がブルフルの頭部を粉砕する。

 はずだった。

 シビトの腕を掴んでいたのは、青白い少年のか細い手だった。割れた爪が肉体の生々しさを残し、その肌には血が通っていないことを教えてくれた。シビトはブルフルから少年の顔に視線を移す。しかし、そのまま顔面を殴られシビトは壁に激突した。

「シビト!」

 青白い少年がナサインの前に姿を現す。十五、六くらいのきれいな金色の髪をした若者だった。端正な顔立ちをしており、その顔にどこか見覚えがあった。

 少年はナサインに向かって飛び掛ってくる。ナサインの繰り出す黒い手のひらを軽やかに回避すると、少年はその伸ばされた手首を爪で切り裂いた。鮮血が飛び散り、ナサインが小さな悲鳴を上げる。

「く」

 ナサインの首筋に突き出された少年の手刀を今度はシビトが掴んで止めた。

「シーダ」

 シビトが呟くように少年に向けて寂しそうな目を向けた。ナサインは床に転がりながら左手で右の手首を押さえる。左手を離すと右手首には黒いリストバンドが巻かれていた。どうやらそれで止血をしたようだった。ナサインは両手に付いた血を身体にこすり付けて拭い去る。

「ブルフルは俺がやる」

「こっちは任せろ!」

 シビトが少年の両手を掴み壁に押し当てる。少年は体の軽さを生かし、シビトの胴に何度も鋭い蹴りを入れる。鎧がひしゃげるほどの攻撃を受けてもシビトは勢いを殺すことなく少年を壁に激突させた。

「ナサインさん。あなたには失望しました」

 ブルフルは錫杖を構えた。下部は鋭く尖っている。

「霊廟を荒らしやがったな」

 ナサインが両手を合わせ手を開くと黒い棒が現れる。

「あなたがミスをする日をずっと待っていたんですよ」

 ブルフルの突進をナサインは黒い棒で払う。ブルフルはそれを飛んでかわすと、そのままナサインに体当たりをした。互いに腕を押さえながら床の上を転がる二人。

「お前は私を騙した。その報いを受けさせてやるぞ!」

「勝手についてきて、勝手に報酬を期待してただけだろうが!」

 ナサインはブルフルを蹴飛ばす。左手で胸を押さえる。

「そろそろ限界か? 魔素を取り込みすぎたようだな」

 ブルフルが笑う。

「向こうも決着が付くだろう。私が特別に改造した王子様を王様は気に入ってくれるかな?」

「貴様!」

 ナサインは膝を突いて、呼吸を乱す。

「シーダァー!」

 シビトが叫ぶ。少年の細い腕がシビトの胸から刺さり背中まで突き抜けていた。血は流れ出てはいない。シビトは少年の腕に拳を打ち落とす。

 ボキィッ。

 少年の腕は肘の辺りで間逆に折れた。それでも少年は顔色一つ変えずに、シビトの首に空いている手で突きを繰り出してくる。身をよじりながらそれをかわし、シビトの拳が少年の顔面を狙う。しかし、打ち抜いたのは壁だった。

 シビトの顔に迷いが浮かんだ瞬間、少年の手刀がシビトの左目を抉った。

「ぐあ」

 シビトは左腕を少年との間に入れてっ刺さっている腕ごと少年を引き剥がした。シビトの胴に空洞が開いていた。

 シビトは震える両手を合わせる。そのまま両腕を広げて拳を握り、いくら力んでも何の変化も起こさなかった。

「アスラ!」

 少年の右手がシビトの脇腹に突き刺さり、胸に空いた穴とつながる。

「ナサイン?」

 右目でナサインの姿を探す。横たわるナサインにブルフルが錫杖を突き立てようとしていた。

 少年の手がゆっくりと引き抜かれていく。同時にシビトは力なく地面に足をつく。胸に空いた穴の中に少年の手と黄金に輝く石が見えた。

「ウイカ、逃げろ……」

 シビトはウイカの姿を探した。しかし、ウイカは部屋の入口の側にはいなかった。それどころか誰の目に留まるでもなくウイカはすでにブルフルの後ろに立っていた。手にはネジフのナイフを握り締め、ブルフルの喉を表情一つ変えずに切り裂いたのだった。

 ブヒュヒュ……。

 ブルフルの喉から空気と血液が漏れ、血はあっという間に部屋の中に雨を降らせた。ブルフルの瞳からは生命の力が消えていく。同時に、少年の動きが止まりボロボロと肉が落ち骨が崩れていった。シビトが床の上に倒れこむ。

「ウイカ?」

 ナサインは顔にかかったブルフルの血を拭う。ウイカはナサインの上に乗ったブルフルの身体を引き剥がすと、自らの後ろに投げた。

「助かった。ありがとう」

「ナサイン」

 ろうそくの明かりを背中にしているウイカの顔はどんな顔をしているのかわからない。ナサインは懸命にその顔を見ようとした。

「わたし(・・・)は信じてたわ。フフフフフ、ハハハハハ!」

 ウイカが笑い声を上げた瞬間、笑い声と共に膨らみ始めた腹部が強烈に盛り上がり黒い革鎧を破壊した。ウイカのお腹を裂いて、何者かが現れようとしていた。

「うそだろ……」

 身体を起こそうとするが、腕には力が入らずにナサインはブルフルの血ですべり床の上に転がる。

 ウイカが地面に倒れる。代わりに姿を現した男の姿を見て、ナサインは床の上を這うようにシビトの元に向かう。

「シビト! 起きろ! 奴だ!」

 ウイカの中から出てきた男は、裸のままブルフルの身体をつかんだ。

「いまいましい豚め。小ざかしい真似をしてくれたな」

 裸の男はブルフルの身体をまさぐり、水晶の鍵を見つけ出した。無造作にブルフルを投げ出し、長テーブルの奥に向かった。

「シビト!」

 ナサインはシビトの身体に開いた穴に手を入れて金色の石を奥に押し込む。それから穴に手を当てて魔素を注入する。シビトの体が跳ね上がり、目が開かれる。

「ウイカはどうなった?」

 シビトは立ち上がる。ナサインを拾い上げると、ウイカを探す。腹部が裂け、血まみれのウイカを見てナサインを引きずりながら駆け寄る。

「ミクモを追うぞ」

「何が起こった?」

 ナサインはウイカを見ようとしない。

「この女もグルだった。放っておけ!」

「何?」

「こいつがミクモをここに連れ込んだんだよ!」

 ウイカの体が痙攣を起こす。シビトはナサインの肩をつかむ。

「痛えな! 加減しろよ」

「止血しろ」

「何?」

「今すぐ傷を塞げ」

「……どうせ、助からねえよ」

 ナサインはシビトすら見ようとしない。シビトはナサインの顔を無理やり自分に向ける。

「やれ。やらないとお前は後悔する事になる」

「後悔だと?」

「やらないなら、俺ももう力は貸さん」

「……クソ」

 ナサインはウイカの腹部に手を当てると魔素を放出して傷口を塞ぐ。

「よし」

「ミクモを追うぞ」

「行けるのか?」

 ナサインはウイカを見つめる。

「主になれば、こいつを超回復できる。逃げたら、こいつは死ぬ。行くしかねえだろ」

「素直じゃないな。最初からその予定か」

「うるせえ」


52


 ひときわ広い空間。主の部屋から数段下がるところに地の底に渦が広がっていた。白いシャツとズボンに身を包み、青いガウンを羽織ってミクモは両手を渦にかざしていた。

「ナサイン。無理をするな。死んでしまうぞ」

「死んだはずだ」

「死んださ」

「お前は誰だ!」

「ただの魔法使いさ。死んでも生き返っただけさ。どうしたんだ。そんなに驚くことじゃないだろう?」

 ナサインは右手をミクモに向ける。

「やめておけ、それ以上は本当に死んでしまうぞ」

「こっちを向け」

 ミクモはため息をつきながらナサインを振り返る。

「旅をしてきた仲間じゃないか。わたしはお前を信じていたんだ」

 ミクモはナサインに向かって歩いてくる。

「早く主に戻らせてくれないか? 君はもう死ぬ。生きているわたしに道を譲りたまえ」

「お断りだ」

「しょうがないな。なんだ? 何が望みだ? あぁ、もしかしてあの女か? あれももうじき死ぬ。それに回復させたところで君たちの事なんて覚えていないぞ」

「どういうことだ」

 シビトがナサインの前に立つ。

「シモンズ王。彼女は君に惚れていたようだが、それはわたしの記憶操作によるものだ。あぁ、ナサイン。残念だったね。君は振られたようだ。いや、そうだ。あの女を回復させてやろう。ついでに記憶をいじって君に好意を抱くようにさせてもいいぞ」

 ナサインは両手を胸の前で合わせる。腕を開くが、黒い光が左手から右手に移っただけで何も現れ出なかった右手は指先まで黒ずんでしまっている。

「残念だ。もう限界のようだな」

 ミクモは右手に青い光の玉を発生させる。シビトが駆け出し、ミクモに殴りかかるが、ミクモの突き出した青い玉がシビトの腰を粉砕する。シビトはそのままの勢いで地面に転がった。

 ナサインは両手と膝を付き顔をうなだれる。

「約束してくれ」

「何をだ?」

 ナサインは声を絞り出す。地面に汗が流れ落ちる。

「ウイカは助けてやってくれ」

「断る」

 ミクモが即答するとナサインはミクモを見上げた。

「嘘だ。いいだろう」

 ミクモの手に再び青い光の玉が生まれる。

「あの女は生かして、ロンドにでもくれてやる」

「言うと思ったぜ」

 ナサインはゆっくりと祈るように両手を組んで頭を垂れる。

「さよならだ」

 ミクモの右手がナサインの頭に青い光の玉を当てようとすると、その動きが止められる。シビトが片足で立ち上がりミクモを羽交い絞めにしていた。

「しつこい男は嫌われるぞ。王様!」

 ミクモは右手の青い光の玉を手首を返しシビトの頭に押し当てる。シビトの頭は青い光に粉砕されていく。ナサインが顔を上げた。

「お前がしつこいんだよ!」

 ナサインは両手をミクモに向かって突き出した。両手をミクモの身体に当てるとナサインの目が真っ赤に光る。

「何を?」

 ミクモはナサインを見下ろす。ナサインの右手の黒ずみがミクモの胸に移動していく。そして、ミクモは胸から真っ黒にただれていく自分の身体の異変に気が付く。

「ナサイン? 何をした?」

 ナサインは応えることなくミクモに魔素を注ぎ続ける。胸の皮膚が黒く剥がれ落ち、空気の中に消えていく。それは全身に広がっていく。

「説明しろ! ナサイン!」

 ナサインの目はなおも赤く輝き続ける。ミクモの足が二つに折れる。腕が崩れていく。頭が地面に落ちていく。ナサインの手はミクモの身体を突きぬけ、シビトの身体に頭からぶつかる。ナサインとシビトはそのまま床に倒れこんだ。

 ナサインの目から、赤い光が消えていく。

「あー、すっきりした」

 ナサインは立ち上がると、渦に向かって歩き出す。渦に向かって両手をかざす。

「死んでるよな?」

 振り返るナサインはミクモの顔を見てドキッとする。

「何でこっちを向いてるかな」

「あの女は元には戻らんぞ」

 ミクモの口が開く。ナサインは苦笑いをする。

「まだ生きてるのかよ」

「死んだ人間ではない。例え死んでシモンズのように生き返らせても、記憶は存在しない。このわたしが作ったものだからな。お前にはまた負けたが、傷は残してやったぞ。フフフフフ、ハハハハハ」

「シビト! 潰せ!」

 ナサインの声にシビトが左腕で身体を起こし、右手を振り上げる。振り下ろした拳はミクモの頭スレスレを通過し、床にヒビを入れた。右手はもう一度振り上げられる。

「待っているぞナサイン。貴様がこちらに降りて来る日を!」

 シビトの拳がミクモの頭を叩き潰した。


53


 頭も足も胸も元通りになったシビトは、ベッドの端に座りウイカを見つめている。ウイカは部屋の隅に置かれたベッドの上で静かな寝息を立てていた。小さな窓からは明るい日差しが差し込んでいた。

 そこにナサインの姿はなかった。

「良かったな」

 シビトはウイカの頬をなでてやる。すると、ウイカはその手を払って寝返りを打った。シビトは軽く笑ってベットの脇に置かれた荷物を見る。革の四角いカバンが二つ置かれていた。

 シビトは立ち上がり出口に歩き出す。

「おじさん」

 振り返る。シビトの顔には驚きと期待に溢れた表情が浮かんだが、それはすぐに曇ってしまう。

「もう、食べ過ぎ。うちは稼ぎが少ないんだよ。畑だって小さいんだし……」

「寝言か……」

 小さくうなずきながらシビトは部屋を出て行く。

 ドアがきしんだ音を立てて閉ざされた。


54


 ナサインは渦に向かい手を振ったりまわしたり突き出したりしている。

「良かったのか?」

 後ろからシビトが近づいてくる。ナサインは振り返りもしない。

「どっかのバカな王様が兵隊を皆殺しにしやがったからな。おかげで全面戦争に突入だよ。その準備をしなきゃな」

「そりゃあ、大変だ」

 ナサインはなおも手を動かし続ける。

「いいのか?」

「しつこいな。ミクモの影はすべて消した。それでも思い出せたなら、エレベーターで降りてくるさ」

 甲高い声でシビトが笑う。

「フフフ」

「何だよ。気持ちが悪いな。その笑い方、本当にやめてくれ」

「奇跡を信じているからこそ、転移装置をいじって、エレベーターを最深部にまで通したんだろ? 鍵にドレスのおまけまでつけて」

 ナサインは顔を真っ赤にする。

「うるせえな!」

「これだから童貞は困る」

「てめえ、ふざけんなよ!」

 振り返ったナサインは言葉を飲み込んだ。赤いロングドレスに包まれたウイカが立っていた。前に作った黒いロングドレスの色違いのものだった。

「な、なに?」

「ナサインが泣いてるって言うから、急いできたのに反応が薄いわね?」

 ウイカが笑っていた。その後ろからモンテールとネジフも顔を出した。

「ここが渦の中心ですか。いやあ、なんとも不思議な空間ですな」

「んだよ。もっと喜べよ」

 ナサインはウイカたちに向かって歩き出すが、その足取りはおぼつかないものだった。倒れそうになったところにウイカが支えに入る。

「一体どうして?」

 ナサインの顔を見て、シビトが胸を張った。

「帰る途中でふざけた魔法使い、いや、あの亜法使いに会ってな。あのチビが言うには、お使いに出たんだが、何を買ったらいいのかわからなくなって途方に暮れていたそうだ。本当に阿呆だな。まぁ、女物のなんかこうふわふわしたものだと言うんだが、俺もわからなくてな。こいつなら知ってると思ったんだが、記憶がないということを話したら、あのチビすごいノリノリで記憶を戻してくれた。モドモドモドモド~ってな。フフフ。なんだ、モドモドモドモド~って言うのは」

 シビトは甲高い声で笑って見せた。ウイカが自分の目から落ちた涙を拭いた。

「ありがとう。ナサイン。おじさん」

 ナサインは、眉を寄せる。

「作られた記憶なんてダメだろ。戻してもらえ」

「お断り」

 ウイカはきっぱりと言ってのける。

「こっちの自分も本物だし、今までの自分も本物よ。別の誰かじゃない。あたしはあたし」

 しっかりと強いまなざしをナサインに向けるウイカにナサインも笑顔になった。

「良くわかった。じゃ、客も来た事だし、食事でもどうかな?」

「おお、それいいな。早く用意しろよ」

「化け物は出てきませんよね?」

「そうだ、ナサイン」

 振り返ったウイカにナサインはドキリとする。

「とりあえずは友達ね」

 そう言うとウイカは主の間へと駆けて行った。

「振られた」

 ネジフが笑いながら、出て行く。モンテールはナサインの腕を軽く叩いた。

「大丈夫ですよ。きっと誰かいいお相手が見つかりますって」

 そう言ってネジフの後を追っていった。

「あの時、ミクモに何をしたんだ?」

 シビトが渦を振り返る。ナサインも釣られるように渦を見た。

「魔素を精製した時に貯まる毒を流し込んでやっただけさ。それだけ」

 ナサインは渦に背を向けて歩き出した。

「俺も亜法使いになろうかなぁ」

「無理だな」

 シビトが後ろから付いてくる。

「生粋の魔素使いだからな」

「いや違う。お前は、阿呆だからだ」

 ナサインの右拳がシビトの脇腹を打つ。甲高い笑い声でシビトが応える。

「何だそれは、全然痛くもない。図星か? フフフ」

 二人は主の間へと消えた。


                                    終


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