きゅう。「なんだか不穏になってきたじゃないですか」(チェス)
その日、私と天使の婚約が締結した。
私が第二王子殿下の側近であることと王命ということから、畏れ多いことだけれど陛下が立ち会ってくださった。天使の父君であるセンヌ子爵は、真っ青な顔色をしていて今にも倒れそうだ。
婚約締結書を読むことは辛うじて出来ているみたいだが、サインの段階で一度書類を破ってしまい、予備の書類を陛下と共に立ち会っていた陛下の側近の補佐様が出してくれた。
だが、その書類に記した名前は震えて書いたことが一目見て分かるほど、波打っていた。さすがに陛下の側近の補佐様も二枚目の予備は無かったようで、そのまま婚約締結が成立した。
そういえば、堅実な領地経営はするものの、目立つこともなく、社交も苦手な父君だと書かれていた。つまりそれって、目立つことは避けたいってことの裏返しだったとか? もしや、この状況は父君にしてみると、息の根が止まる寸前……とかなのだろうか。
いや、今は尋ねない方が良さそうだ。
顔色が悪過ぎて帰らせてあげたい。
婚約締結の内容もおかしなことは書いてないつもりだし、後から文句を言われることもないはず。
王命で、互いの家に利益を齎す婚姻では無いけれども、妻を蔑ろにすることは無い、とか。一夫一妻制の我が国だから、もし後継に恵まれなかったら、親戚から養子を迎え入れる、とか。妻を尊重する、とか。自由は奪わない、ある程度自由に金銭は使用出来る、浮気はしない、などの当たり前な内容だから。
それに納得してくれたから、天使の父君は婚約を結んでくれたのだし、特に何かあるわけじゃないから帰ってもらってもいいのではないか、と思っていたら、陛下もそうお考えになったようで、側近の補佐様が退室の声をかけていた。
センヌ子爵は、顔に赤みが差して陛下に無礼にならないよう頭を下げてから、如何にもホッとした、とばかりの表情で帰られた。やっぱりこの状況は苦手だったのだろう。
「さて、チェス・サンドリン子爵よ」
陛下に声をかけられて、短く応える。
「本来ならこのようなことに王命は出すものではないが、ナチカ嬢のことは叔父上が気にかけておられること。余としても彼女の外見をとやかく言うようなことは無くとも叔父上の発言から興味を惹かれている者が多いこと。そのようなところに嫁がせるのはやや苦労するのではないか、という思いも少しはある。
私利私欲で王命は出すべきものでも同情心で出すべきものでもないが、やはり余が守る国民の一人として、気にかかることは確かだから王命を出した。無論、ナチカ嬢を贔屓するつもりは無い。だから子爵がきちんと彼女を守り幸せにするが良かろう」
「はい。有難きお言葉」
陛下に認められたし、王命を出したくなかったけれど出したことを言われるのは仕方ないとは思うのだけれど、天使の外見に興味を惹かれる……。天使のことを騒ぐ者でも居るのだろうか?
この時の私も、全く天使の外見について、私の認識と世間の認識にズレがあることを理解出来ていなかった。
兎に角、天使のことは私が守り幸せにすればいいだけだ。うん。
「では、婚約おめでとう。下がってよいぞ」
陛下に頭を下げて退室し、第二王子殿下に報告する。ワーデン殿下がうん、おめでとう、と言ってくれた後で、他の殿下の側近たちにも婚約の話をしてくれた。相手が天使だと殿下の口から伝えられると、皆がおめでとう、と口にしながら。
「それで王命なんですね」
「ナチカ嬢は本人にその気が無くても、どうしてもあの外見で目立ってしまうからな。それに前王弟殿下のお言葉もあることだし」
などと同僚たちが言うのを聞いても、懸念内容をこの時も私は全く分かっていなかった。
皆、天使のことを知っているのか、と嬉しいような複雑なような気持ちではあったけれど、まぁ婚約出来たのだから、と気持ちを切り替え、夜会出席について殿下に報告しておこう、と口にした。
「殿下、今夜、ルス伯爵家の夜会に出席しようかと思っています。殿下の婚約者殿であられる海の向こうの国の王女殿下の情報は得られないかもしれませんが、ルス伯爵家は彼の国との交易が多いですから」
「ああ、あの夜会に出席するのか。ルス伯爵家から招待状は届いたが、私は欠席の連絡をしたんだ。確かアンディーが出席するんじゃなかったか」
殿下に報告すれば、そのように仰った。
私の同僚であるアンディーを見れば、やや無口な彼は頷くだけ。仕事は出来るし、機転も利くし、性格が悪いこともないやつなので、あちらで落ち合うことで話をした。
大抵の夜会はパートナーと共に出席するもので、ルス伯爵家の夜会もそうだ。アンディーは婚約者と出席するようだ。私は事前に母上に打診し、了承を得ているので、今回は母上と出席する。
ああでもそうか。
今度からは、こ、婚約者のナチカ嬢と出席することが出来るのかっ。
改めて婚約出来たことを実感した。
まぁそれはそれとして、この時までは呑気にそんなことを考えていられた。
ワーデン殿下もアンディーも他の同僚たちも、そして私も、ルス伯爵家の夜会であんなことになるなんて思ってもいなかった。
「母上、また新しいドレスですか」
「当たり前でしょう。あまりドレスを着回すことは出来ないのですよ。同じドレスばかりというのは、我が侯爵家に金銭的な余裕が無い、と見られるのですからね。ところで、最初に口にするのはそんなことではないでしょう。淑女教育同様、紳士教育としてパートナーに対するマナーがあるはずです」
夜会に出席するためと、婚約締結の話をするため、やや早めに王城から帰り、父上に報告していたところで母上が現れ、新しいドレスを目にした。
ついボヤいたら母上から小言をもらってしまったので、慌ててお似合いですよ、と言っておく。父上は綺麗だ、と微笑んでいた。母上も父上の微笑みに満足そうに笑んで、エスコートするよう、私に催促してきた。
そんなアレコレのあと、馬車の中で婚約締結の話を母上にして、母上もひと安心だわ、などと言いつつ。
「それにしても、ルス伯爵家、ね」
ポツリと溢した。その温度の低い声に、なにか、と視線を向ける。
「いえね。確か、伯爵のお嬢さんが海の向こうの国へ語学勉強しているのよ。していた、かしら。その帰国を祝う夜会なのだけれど。お兄様から未確認の情報だけど、と教えてもらったのが、そのお嬢さんが王女殿下に気に入られていた、というものなのよね」
母上は元々公爵家の出。お兄様とは公爵である伯父上のことか。伯父上が未確認ながら教えて下さったその情報は、どんな流れを生むのだろう。
「気に入られていた、ですか」
「そうよ。それ以上のことは分からないけれど、友人だった可能性もあるわね。ただね、語学勉強期間が終わっただけ、と言われてしまえばそれまでだけれど。来年には殿下の元に輿入れされるわけでしょう? このタイミングでの帰国。考え過ぎならいいのだけど」
「母上、やめてください。なんだか不穏になってきたじゃないですか」
母上の話に頬を引き攣らせてしまうが、でも確かに王女殿下のお気に入りというルス伯爵令嬢が帰国したタイミングが、ちょっと気に掛かった。
いや、考え過ぎだ。語学勉強期間が終わっただけだろう。
我が国に学院はあるが、必ずしも子息子女全員が通う必要は無い。特に跡取りは後継者教育が忙しくて通う時間が無いので。
というのも、我が国の学院は王都にあるのではなく王領ではあるが、外れなので通うのなら寮生活になってしまう。そうなると跡取りは領地経営の一環として領地に滞在することもあるので、通っていられない。
休学は可能だけれど復学しなくてはならず、後継者教育に、学院の勉強に、領地経営に……なんて時間がいくらあっても足りないので、跡取りは通わない者が多い。
通うのは文官科を目指す子息子女に、士官(騎士ということだが)を目指す者たちは学院の士官科。王城の執事・侍女を目指すのなら学院の執事科・侍女科。
我が国に語学科は無いから外交官を目指すのなら王城の文官として仕事を始めてから、外交官の下で語学を勉強していくか、他国に語学勉強をするために出るしかない。
そう考えると、ルス伯爵家の令嬢は外交官を目指している、ということになるのだろうか。
少し遠い彼の国にまで語学勉強に行ったのなら、その可能性が高そうだ。
お読みいただきまして、ありがとうございました。