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エンジェル・ハート

作者: 脱水カルボナーラ

ジャンプの賞に投稿しましたが落選した者です! お蔵入りにするのも勿体無いので、よろしかったら自分の作風の一角を知る手掛かりとして読んでいただけると幸いです。

 恋、それはこの世で最もありふれた奇跡。最も尊い奇跡。本来ならばありふれていてはならないはずのその奇跡は、人々のすぐそばにある。何億もの魂が、たった一つを選んで、惹かれ合う。恋に落ちた人は、まさにその億分の一の奇跡を手にしたことになる。それでも、この世の中に、恋という奇跡は溢れかえっている。

 この奇跡には、からくりがある。いつだって、運命の相手同士は、赤い糸で繋がっている。赤い糸は見えなくても、確かにかたく人々を結びつけて、引き寄せようと作用する。赤い糸はまた気まぐれで、全く動かなかったり、何人もの人を同時にひっぱり寄せたり、ある日突然ちぎれたり、絡まってみたり、いい加減だ。しかし、問題はない。赤い糸が気まぐれなら、誰かが操ってやればいいだけのことなのだから。

 困ったことにその赤い糸は、人間には見えない。人間はあくまで、赤い糸に導かれた運命を奇跡として享受するだけ。赤い糸を操るのは、天使の仕事。これはまだ、私が新人だった頃の話。忘れられない、遠い遠い昔の記憶。

 私は、天使見習いのハニエル。

「すみません、このお店にある薔薇の花を全部、ください」

デパートの花屋に入るや、すぐに有り得ない注文をした。

「は? ぜ、全部ですか」

「はい。お願いします」

「はぁ、かしこまりました」

店員の方は少し怪訝そうな顔をしながらも、客の私に言われるがまま、店中から薔薇の花をかき集めて、両腕でやっと抱え切れるほどの大きさのブーケを作り上げた。

「お代金、十万とんで、八千二百円でございます……」

「支払い、カードで」

軽快にパスワードを打ち込んで、難なく一括で支払いを済ませ、重たい薔薇の花束を受け取った。これで、任務は完了だ。店の出入り口で、すれ違いざまに男性と目があった。この男が、今日のターゲットだ。

「あっ……」

彼は私の抱えている薔薇の花束を見て、この世の終わりを目の当たりにしたかのような絶望の色にその顔を染め、声を漏らした。

「バ、バラって、ありますか」

「当店の薔薇は先ほど全て売り切れてしまいまして……」

「そう、ですか」

男は、呆然と立ち尽くしている。彼は目線を泳がせた先で、小さな、黄色い花々で作られたブーケを見つけた。そのブーケは他の派手で大きなものたちよりも、控えめで大人しげで、少し申し訳なさそうにさえ見えるほどである。

「これ、ください」

「こちらですね、かしこまりました」

男は、結局その小さなブーケを購入して、店を出てきた。これから彼は、二十五になる歳下の彼女に、あのブーケと、指輪を渡してプロポーズを成功させる。予定通り。店先からガラス越しに男の様子を見張っていた私は、任務の成功を確信して、静かに拳を握った。

「僕と、結婚してください」

「えっ……うん、うん」

涙ぐみながら、彼女はオレンジ色の小さなブーケを抱きしめて、頷く。私は結ばれたターゲットを見届けて、夜景に照らされる海浜公園を後にした。

「任務、完了しました」

『よくやった。直ちに天国へ戻れ』

「はい」

電話で報告をしながら、私は人目につかない場所で翼を広げ、水晶のように輝く満月が浮かぶ夜空を、雲の向こうをめがけて翔び立った。ああ、今日の星々はとても綺麗。私はずっと抱えていた薔薇の花束のリボンを解いて、投げた。真っ赤な薔薇は、星あかりに照らされて燃える。今日もまた、私は一組の運命を導いた。

 天国に到着すると、私はすぐさま次の任務について指示があると呼び出され、上司の天使、メタトロン課長の部屋にまで通された。

「ハニエル。見事だ。“薔薇嫌いの女”へのプロポーズを成功させたな。お前ももう一人前になる時が来たようだ。これを見てくれ」

課長は満足げに、私を見て頷きながら、書類を手渡した。二人の男児の写真が貼られている。

「これって……」

「次の任務の書類だよ。この二人は、明後日に幼稚園の入園式を控えている、現在四歳の幼馴染の男児、白土カズマと、木下幸人だ。お前には、この二人の縁を、結んでもらいたい。この任務をこなせば、お前も一人前の天使として認められるだろう」

私の返事は、決まっている。

「同性同士の縁結びは、初めてですが、やってみます!」

「決まりだね。早速任務の準備に移ってもらうよ。今回の任務は、長期戦になる」

課長は、そう言い終わらないうちに左手の指を鳴らした。私の目線が、みるみる下がっていく。瞬きをひとたび終える頃には、私の体は完全に小さくなっていた。

「さて、今回の任務ではお前は文字通り、ターゲットの幼馴染として、彼らの人生の登場人物になってもらう。今君に幼稚園児の体を与えたのは、そのためだ。明後日の幼稚園の入園式でターゲットと出会い、同じ時を過ごし、その中で必ず任務を達成しろ。運命の歯車が持ち堪えられるタイムリミットは、お前たちが中学を卒業する日。できるね?」

「はいっ!」

威勢よく返事する私の声は、ほんの少し前とは全く違う、小生意気な気迫を纏っていた。課長は真剣な表情を緩め、小さくなった私を見下ろして微笑んでから、また神妙な顔で一度、咳払いをした。

「――さて、人間の社会に本格的な潜入をするに今回の任務にあたって、今の姿のお前一人ではとてもじゃないが作戦は遂行できん。そこで今回、任務のサポート役兼、お前の保護者としてもう一人、一人前の天使を呼んである。ラグエル、入ってきなさい」

奥から待ちかねていたように、栗色の艶やかな、波のようにうねる髪をした天使が、そろそろと出てきた。私は、この人をよく知っている。

「先輩!」

昔から本当にお世話になっている先輩、ラグエルさん。使命を神に与えられ給うたその日から、私はこの人に沢山助けてもらったことがある。

「久しぶり。まさかあんたの母親役になるとはね~。ま、家事はできるから任して」

「先輩と一緒に働けるなんて光栄です。よろしくお願いします!」

課長はまた、わざとらしく咳払いをした。

「――とまあ、これくらいだな。では気をつけて行きなさい。必ずや、成功させろ」

「はい!」

私たち二人は、背筋を伸ばして課長に敬礼しながら、仰向けになって雲の縁から身を投げて、天国を飛び降りた。

 耳元で轟く冷たい風。私が間を取り持つ二人の男の子は、一体どんな子なのか。そんなことを考えていたら、雲の海域はとっくに終わって、眼下に私たちがこれから潜入する予定の街が現れた。海と山に囲まれた小さな田舎の港町は、夜九時頃を迎えて少しずつその姿を点滅させて、眠りにつこうか迷っている。私と先輩は顔を見合わせてから、翼を広げて木の葉のようにくるくると回りながら、任務の拠点となる小さな一軒家の軒先に降り立った。

「――もう家具も備え付けてあるみたいね。予算は“常識の範囲内で使え”だって」

先輩は、スイッチを見つけるたびに明かりをつけて、これからしばらく過ごすことになる家を確認している。古めかしくも趣のあるこの家は、ずっと昔に建てられたものらしい。前の持ち主はこの街を去ったが、家の方は穏やかに海を見つめ、山に背後を守られながらずっと家主を待ち続けているとのことであった。

「意外と住み心地も良さそうですね」

「そうねー。細々としたものは明日揃えるとして、今日はもう、お風呂に入ったら早いとこ寝ちゃいましょう。入園式は、明日なんだか

「お風呂入るの、久しぶりです」

「今は人間の体だから、これからは毎日入らないとダメね」

先輩はお風呂のスイッチを押した後、邪魔そうに長い紫色のその髪を束ねて、床に座り込んだ。

「そっか、今回は本当にきちんと、人間を演じなきゃいけないんだ」

「まあ長期の任務は初とはいえ、人間社会に溶け込むことに関してはもう心配ないでしょ? あんたはだいぶ優秀なんだから――と、言ってもやっぱり今回は難しいかも。一緒に幼稚園からターゲットと成長していかなければならないんだから」

「改めて聞くと、とても効率が悪く感じますね。よりによってなんで、幼稚園からなんでしょう」

「今回の任務は特別。このターゲットが恋に落ちなければ、地球の寿命は三百年縮まる計算になるわ。時間をかけても成功させなきゃいけない程、しくじれないってわけ」

先輩の言う通り。私たちは、人間がおとぎ話で語るような、ただ人々の恋を成就させるための、都合の良い存在ではない。

「神様の設計ミスで、私たちがこんなに働かされてるなんて、皮肉ですよね。恋は奇跡だなんてて人間は言うけど、こっちからしたら爆弾となんも変わらないです」

「ちょっと、神様の悪口はあたしの前で言わないで。あたしが怒られんのよ」

先輩はぎょっとして、あたりを見回して居るはずの無い監視の目を警戒しているようだった。

「今は人間なんだからいいじゃないですか! 私は今、“羽田 えり”って名前の幼稚園児です。神様に文句を言うくらい、普通の幼稚園児なら自然ですよ!」

「それより、普通の幼稚園児は、母親に敬語なんか使わないわよ。家の中ではなんでもいいけど、人前ではあたしと親子として振る舞わなきゃなんだからね。あたしは任務の成功よりも、あんたが不自然なことをしないか、これが一番心配」

「だ、大丈夫ですよ! おママさん」

「はぁ……」

先輩が頭を抱えたところで、お風呂が沸いたようだった。

 電気を消し、お互いにベッドに入りながら、私たちは声だけでやり取りをした。

「明日の任務はひとまず入園式に行ってから、ご近所への挨拶ね。あんた乗せて自転車漕ぐのか……」

「はぁ。長い任務になりそうです」

「園児の顔と声で、信じられないことばっかり言うわね」

呆れたような声を絞り出した後、先輩は睡魔に負けてすぐに眠りについたようだ。布団に飲み込まれそうなほど小さくなった体で、今まで背負ったことのない重い責任を負うことに、一人身震いした。

 気づけば、朝になっていた。小さな庭が海から昇る日に照らされて緑色に輝いているのが、寝室の大きな窓からよく見える。しかし私は朝焼けに起こされたのではなく、漂ってくる香ばしい匂いにたまらなくなって目が覚めた。

「おはよう」

先輩はもうすでに、入園式に出席する保護者として、完璧な変装を終えた上で、朝ご飯を作っている最中であった。

「おはようございます。スーツだ!」

「ございますって、あんた、親子に擬態する気あんの? まあいいや――これ、自転車漕ぎにくいんだよね」

「似合ってますよ、先輩」

「はぁ……家の外ではお母さんって呼んで。それはいいの! ほら、これが幼稚園の制服だから、着てみて」

先輩が渡してきたのは、綺麗に畳まれた新品の制服。ハンカチと間違えそうなほど小さく感じるのは、私の心がもう幼児のそれではないからであるが、幼児の体を持っている私は、今これを着ることが出来る。丸くて白い、可愛らしい襟のついた、深緑色のブラウスに袖を通し、短い指でボタンを留め、茶色のチェック柄のスカートを腰にくるりと巻いた。“はねだ えり”と書かれた名札を付けて、髪の毛を可愛らしいゴムでまとめれば、幼稚園児の出来上がり。

「見た目は完璧に園児ね。問題は演技力か」

「失礼な! 上手くやりますよ!」

騒がしい朝は、私の任務への緊張を少しだけ、解してくれた。

 入園式は問題なく終わった。というより、園児はおとなしく座っているだけで役目を全う出来たので、私が不自然な風になるタイミングも無かったというのが正しい。会場では、ターゲットの二人の姿を初めて見た。白土カズマの方は、幼稚園の時点で端正な骨張った顔立ちをしており、皆が初めての環境に借りてきた猫のように萎縮しているのにも関わらず、積極的に話しかけていく溌剌とした男児。もう一人のターゲット、木下幸人の方は、柔らかい面持ちで、いかにもおとなしそうな風貌をしている。私の前の席に座っていたが、彼は時折こっそり何度か後ろの方に座っているカズマの方を、助けを求めるような哀れな視線で見ていた。

「――なるほどね、ターゲット二人の性格は事前調査通り、正反対だってわけ」

四月とは思えないほど、水平線は青く輝いていた。潮の匂いと白い日差しの帰り道を、先輩の漕ぐ自転車は滑っている。

「そうなんです。幼馴染で家が隣同士みたいだけど、それ以外にうまく接近させられそうな点は、今日は見つけられませんでした」

私は揺れる座席にしがみつき、必死に帽子とどことなく感じる悔しさを抑えつけながら答えた。

「幼馴染ってだけで十分なんじゃないかしら? 初日だし、人間の尺度で考えればあと十年も猶予がある。焦らなくてもいいのよ。帰ったら日が暮れる前に、さっさとターゲットの家に挨拶に行きましょう」

「今日挨拶するのって、近所のお家じゃないんですか?」

「そのご近所さんがまさに、ターゲットの家よ。白戸家と木下家は、親同士も年齢が同じで、家族ぐるみで仲がいいの。急ぎましょ」

「えぇ!? 聞いてないです。そんなこと、書類に載ってましたっけ?」

「私だけ一旦先に来て、挨拶とか、根回しはしてたのよ。人間は得体の知れないものが、何より嫌いだから」

「やりますね……」

先輩は幼児の私をまるで気遣わず、下り坂に差し掛かってもブレーキをほぼかけることなく、風を追い越すほどの速さで飛ばした。

 似たような形の家が海を望む三つ子のように並んでいる。表札を見る限り、一番左が私たちの家、真ん中が白土家、一番右が木下家らしい。私たちは着替えてから、まず一つ右隣の白土家に挨拶をしに伺った。

 玄関のチャイムを鳴らそうとすると、右奥に見える白土家の庭が何やら賑やかなことに気づいた。いい香りが白い煙に乗ってやってくる。庭の方からこちらに気づいたのか、二人の女性が手を振りながら近づいてきた。片方は耳が少し出るほどの長さで髪を切り揃え、半分見える耳からは銀色のピアスが覗いていて、もう片方は真っ直ぐな髪を首の後ろほどまで降ろした女性であった。二人とも、左手の薬指に銀色の光が見える。恐らく、この二人がターゲットの両親だ。

「白土さん、木下さんもご一緒で。お久しぶりです。改めて、娘と引越しのご挨拶にと思って!」

「羽田さん! 娘ちゃんも!」

髪の短い方の女性が私の方を見た。

「エリちゃん、ちゃんと挨拶して」

先輩に促され、不自然なほど背筋を伸ばした。

「ハニ――はねだ エリです。よろしくおねがいします!」

わざとらし過ぎただろうか。たどたどしい口調で、視線を泳がせながら挨拶をした。

「かわいー! カズマもこれくらい可愛かったらいいのに」

髪の短い方の女性が、白土カズマの母のようだ。

「幸人もこれくらい、大きな声で挨拶できたらいいんだけどね……」

髪の長い方、木下幸人の母も先輩の方を見ながら、苦笑いをしてみせていた。

「エリもカズマくん、幸人くんと同じ幼稚園ですから、仲良くしていただけたら……」

先輩は白々しく母親のふりをしながら、自然に私とターゲットを近づけようと促す。

「こちらこそよろしくね。エリちゃんママも大変だね、旦那さんが海外に赴任してるんでしょ? うちでよかったらなんでも手伝うからね!」

「そうそう、子供だけじゃなくて私たちも、全員二十八で同い年だし」

「嬉しい! ママ友ができちゃった」

先輩はターゲットの母親二名と、すでにもう仲が良さそうだ。

「あ、そうだ。よかったらバーベキュー食べてってよ。今日うちと木下さんちで、入園祝いしてたんだけど」

「ええ? ご馳走になっていいんですか?」

「もちろん! どうせ食べきれないし、新しいご近所さんの二人の歓迎会も兼ねてね」

「えー、それじゃあお言葉に甘えちゃおうかな。エリちゃん、カズマくんと幸人くんに挨拶してきなさい」

先輩はママ友のふたりに申し訳なさそうな声を出しつつ、私にこのチャンスを逃すなと言わんばかりに目配せした。

「わかり……った!」

私は敬語が出そうになるのを抑えて駆け出した。

 親同士はもう仲が良くとも、私とターゲットは顔を合わせたり言葉を交わしたりしたわけではなかった。子供と仲良くなるには、下手な駆け引きよりも、正攻法と勢いが大事だと、訓練生時代に学んだことがある。この状況での最善の一手は、心から仲良くしようとする意思を見せることだ。

「わたし、はねだエリ! よろしく。おうちがとなりで、ふたりとようちえんもいっしょなの」

何やら柔らかい素材でできた剣のようなおもちゃを握っていたカズマと、長い木にビー玉をセロテープで貼りつけた杖を持っていた幸人。二人に怪訝そうにしばらく見つめられている間も、根気よくずっと後ろで手を組みながら、笑顔でもじもじと動いていたら、カズマの方が右手を差し出してきた。

「エリちゃん、おれ、カズマ。よろしくね」

カズマの手を握って、ぶんぶんと振り回した。

「カズマくんね! よろしく。じゃあ、そっちがゆきとくん?」

まだ露骨に私に心を開いていないのが、カズマよりも五歩ほど後ろに立っていることから容易に見てとれた。

「よ……よろしく」

幸人は耳を赤くしながら、私の顔をろくに見ずに会釈だけをした。

「ゆきと、はずかしがりだから」

今日幼稚園児になったばかりのカズマが、大人も顔負けの助け舟を気まずそうに出してきた。

「そうなんだ」

私はそう言いながらカズマの横から後ろへ大股で五歩進むと、幸人に手を差し出した。

「ともだちになろ」

少し強引すぎるくらいが、人見知りの子には丁度良い。大体こういう子は、不安なだけなのだから。

「う、うん」

狙い通り、幸人は表情を緩め、まだ顎は引いていたが、黒い前髪越しに私の目を見て少しだけ笑った。ひとまず、今日の任務は終わり――。

「エリちゃんは、ドラゴンのおひめさまだね」

「え?」

カズマが私たちのところへ駆け寄ってきて、作戦会議が始まった。

 カズマが用意した、勇者たちの冒険の物語の最終章。白土家の広い庭は、悪しき魔王との決戦の地。花壇の石畳を渡って、悪魔の集う場所へと駆けてゆく三人の英雄。剣士のカズマ、魔法使いの幸人、そして、竜の血をひく姫、私。

「まおうがいた! まおうはおれがひきつけるから、ゆきとはまほうであくまをぜいいん、ぶっとばして!」

カズマは自分達の親も勝手に配役している。しばらく様子を伺って、親たちが完全にこちらから注意を逸らした瞬間に、私たちは奇襲した。

「やあっ!」

まず幸人が、自分の身の丈ほどの杖をぎこちなく振り回してから、ポケットにしまっていた木の葉をばら撒いた。

「あ、葉っぱと枝が……ちょっと、幸人!」

幸人の放った魔法は、見事に悪魔たちに命中し、服を汚した。カズマがその横を駆け抜け、魔王に斬りかかる。

「まおうたおす! ズバッ、ブシュー」

「こら! 今話してんでしょ」

柔らかい剣で、母の太ももを叩き続けるカズマ。カズマの母は、斬りかかる息子を制止しようと剣のおもちゃを握った。

「うわあ! まおうにつかまった! エリちゃん、いまだよ!」

「えっ。う、うんっ!」

最後に、私がドラゴンを呼び寄せて、魔王を倒すという筋書きだった。しかし、私はドラゴンを呼び寄せたことがないし、二人のように武器を持っているわけでもない。どうしていいかわからなかったが、身を挺して魔王を食い止めているカズマを救うために、私は適当に両腕を天に伸ばして、大いなる存在を呼び寄せた。

「ドラゴン……来いっ!」

丁度バーベキューの後片付けをしている最中で、私が龍を呼び寄せた瞬間に、カズマの父が水を鉄板にかけた。水はすぐに音を立てて湯気になって、虚空へと立ち昇ってゆく。これ以上にない演出だった。

「すげぇ! ドラゴンだ!」

湯気を纏って、竜が空へ駆け上がる。空が割れるような稲妻が走って、裁きの光が今、悪魔たちを滅ぼしてゆく。確かに私たち三人はこの時、巨大なドラゴンを目にしたし、世界の終わりを食い止めた勇者でもあった。

「やったー!」

作戦はうまく行き、勇者たちは飛び跳ねて喜んだ。はしゃぐ子供たちを見て呆れつつも微笑んで、悪魔にされた保護者たちは笑う。


「はぁ……カズマってば、ほんとにバカなんだから。でも三人とも、もう仲良くなったみたいでよかった」

「エリちゃんすごい。幸人があんなにすぐ人と仲良くなるなんて、なかなかないのに」

「エリは結構、人間関係を築くのが上手いところがあると思います」

初対面にして、共に世界を救う幻を追いかけた私たちは、すでに友達に違いなかった。

 幼稚園に入って一週間。ターゲットの二人と私は行き帰りの道が一緒なこともあって、日増しに親しくなった。私自身と二人の関係はある程度固まってきたが、任務の遂行のためには、ターゲット二人の間に、友情を超える特別な感情を持たせなければならない。今日は、二人の関係の発展のために初めて、行動を起こそうと思う。

「ふたりとも、サッカーやろう!」

柔らかい素材でできた、オレンジ色の小さなボールを抱えながら、カズマが向こうから走ってきたが、それを見た幸人は、すぐに眉をハの字にした。

「おしろ、つくろうよ」

「えー! このまえ、おえかきしたじゃん!」

活発なカズマは、幸人の好きな中遊びにはもう辟易していたようで、幸人が丁寧に組み上げたお菓子の空き箱を見上げながらため息をついている。

「ねえ、カズマくん、ゆきとくん。おままごとしよ」

「えっ!?」

私の突然の提案に、二人は持っていた道具を床に落としてしまった。

「きょうはね、キッチンとちゃぶだいをせんせいにいって、よやくしといたの」

普段はなかなか使うことのできない、大人気のおままごとのセットを、今日は早めに登園して押さえておいたのだ。

「ぼくは、なんでもいいけど……」

「で、でも……」

サッカーをしなくて済むと思ったのか、幸人は嬉しそうなのを俯いて誤魔化している。カズマが何か言いたげだが、譲るつもりはない。長い計画の最初のステップに到達するために、今日の計画は必須だ。少し怖い顔をしてみせた。

「いいから。やろ」

「わかったよ……」

これくらいの年頃の男の子は、女の子の押しには案外弱いものだ。いや、それは幾つになってもそうなのかもしれない。これまで担当してきた任務を思い起こして、私は吹き出しそうになった。

 おままごとで大切なのは、配役だ。各々が違和感のない役をあてがわれることで、初めて楽しさと現実味が生まれる。私はすでに、今朝幼稚園に来た段階から、今日の配役を決めていた。

「カズマくんはこいびとのゆきとくんをつれてうちにきたところ。わたしは、カズマくんのいもうとだからね」

居心地が悪そうに、家具のおもちゃに囲まれている二人を前に、私は強引に主導権を握った。

「カズマくんと、ぼくがこいびとって、へんだよ。おとこのこどうしだよ」

「エリちゃんが、どっちかのこいびとになりなよ」

二人の反応は想定内だった。強引に見えても、子供はその時その時の事態に良くも悪くも疑いなく順応できる生き物だから、誰かが主導権を握って場の流れを作ってやれば、どうとでもなる。

「いいからはじめるよ。おかえり、おにいちゃん。あら、そのひとはだれかしら?」

私は包丁のおもちゃでマジックテープで留められた野菜のおもちゃを切りながら、カズマを強制的に筋書きの中に放り込んだ。もうこの役からは逃しはしない。

「えっ? えぇ……と」

カズマがもじもじしだした。頭の中で台本を書き上げて、畳み掛ける。

「ねぇ、そのとなりのひとはだれ? おともだち?」

「ちがうよ、このひとはおれの、こ、こいびとの、ゆきと」

カズマは諦めて配役を受け入れたようだ。幸人の方もカズマが折れてしまって立場がなくなったのか、ため息を一度ついてからら、会話に混ざり始めた。

「こいびとです。カズマくんの」

「こいびと! なら、ごちそうをつくってあげますね」

二人が並んで居心地悪そうに正座をしている前で、私はもったいつけるようにおもちゃの野菜を切ってみたり、鍋に入れてみたり、ケーキのおもちゃをお皿に盛ってみたりした。

「ごちそうができたから、たべましょ。いただきますっていって」

「いただきます」

「おいしいね」

二人は色々な素材で作られた食べ物のおもちゃを手にとってみて、食べるそぶりをして見せてくれた。素直に演技を続けてくれる健気さが可愛らしくて、一瞬任務のことを忘れそうになったほどだ。

「はぁ……おいしかった。おにいちゃん、ゆきとさん。ほんとうにふたりはこいびとどうしなの?」

「えっ? そ、そうだよ」

カズマの方に圧をかけるような眼差しを向けると、彼の方は戸惑って肩を少しすくめながら答えた。

「あいしあって、いるの?」

カズマは今起こっていることが現実の出来事なのか、ままごとの台本なのかいまいち区別がついていなさそうにさえ見えるほどに、戸惑いながら私の問いに答えることしかできていない。

「う、うん」

「なら、しょうめいしなきゃ。ここで、ゆきとさんのほっぺにキスをするの」

「えっ!?」

声をあげたのは幸人だった。驚くのも無理はない。しかし、任務の遂行を確実なものとするためには、友達の一線を超えてもらう体験を、今のうちにしてもらう必要があるのだ。

「そ、それは――」

カズマも無茶な演技の強要には流石に取り乱していた。

「えー、でもこいびとどうしなんでしょう? うちのママとパパも、よくキスをするもん」

「は、はずかしいよう……」

「もう、ちゃんとやってよ」

わざとらしく腕を組んで、露骨に不機嫌そうな顔をして、座り込んで二人を見つめた。

 しばらくの間、沈黙が続いた。その間、二人の関係を疑うという役に入り切っているのか、計画通りにことが進まない焦ったさからくるものなのか、この時の私の顔は幼稚園に置いてある絵本に出てくる、どの悪役の顔よりも恐ろしい面持ちで二人を睨んでいた。その瞬間は、突如訪れた。

「ちょっ、ちょっと」

カズマが耳まで顔を真っ赤にして、幸人の白い頬を手のひらで押し退けた。幸人の方が、カズマの皮の剥けた桃のような頬に、薄紫色の唇をそっと乗せたのだ。まさか幸人がこんな大胆なことをするとは思っていなかったので、ひどい演技で盛り上げることしかできなかった。

「わぁっ! ふたりはほんとうに、こいびとどうしなんだね」

「もうこれでいいだろ! サッカーいってくる!」

カズマは顔を真っ赤にしたまま立ち上がり、途中で躓きそうになりながら逃げるようにボールを抱えて、園庭に走り出して行ってしまった。幸人の方は、落ち着き払ってはいるものの、後から自分のしたことを自覚し始めて顔を真っ赤にした。

「……もう、これしないから!」

私の無茶振りに応えるのはもうこれで最後だと、幸人からは釘を刺されてしまったが、結果として、幼少期に印象深い二人の体験をさせることに成功した。

 おままごとの件があってから、私たちは特に何事もなく、ある時は砂場で山を作ったり、絵本を一緒に読み聞かせあったり、工作をしたり、時には外でサッカーやドッヂボールをするなどして遊んだ。性格が反対の幸人とカズマはたまに喧嘩をしたし、私もカズマと言い合いになることはあったが、不思議なことに帰る時間になれば必ず、三人揃って上履きを脱ぎ、小さな靴に履き替えて園の門を出たものだ。

「ターゲット同士の関係もだいぶ固まってきた?」

市場に出た、獲れたての地魚が食卓に並んでいる。銀色の脂を纏った刺身は、濡れたダイヤモンドのように美しい。私は夕食を飲み込んでから、先輩の質問に答えた。

「もともと仲のいい幼馴染同士ですから、今のところ心配ありません。このまま放っておいても、いつか何かのきっかけで結ばれるんじゃないかってくらいです。私はあくまで、二人の関係の障害を取り除く役に徹しようかと」

「園児の見た目でペラペラと話されると、気味悪いわね」

「仕事をちゃんとやってるだけなのに、ひどい!」

先輩はビールを飲んでから、悪戯っぽく笑った。

「ふふ、冗談よ。でも、今のところは順調でよかった。あたし、今回は難なく成功すると思ってんのよ。心配なのは、あんたの気持ちだけ」

あら汁の中の小骨を、慈しんでいるかにさえ見える面持ちで、優しく箸でつまみながら、先輩が小さな声でつぶやいた。

「え、私が、なんですか?」

「……なんでもないわ、ほら。もっと食べなくていいの? 鯛の刺身をこんなに食べられるのは、港町ならではで最高よ」

先輩は呑気な顔に戻って、またお酒をあおりはじめた。

「はぁ……ほどほどにしといてくださいよ」

「明日土日だしー! 子供のお守りしてんのよこっちは」

「中身が成長してる分、ましでしょう!」

どうしようもない先輩のことはもう放っておこう。私は箸を持ち直すと、刺身を吸い込むように何度も何度も口に運んだ。

 片田舎のこの街では、小学校に進んでもほとんど幼稚園と顔ぶれは変わらず、私と幸人とカズマも、そのまま一つしかないクラスで六年間を共に過ごすことになった。ターゲットの二人はというと、ランドセルを背負うようになって二年目の今となっても、全く変わらなかった。

「二人とも、おそい」

「ごめん、カズマがねぼうしたんだよ」

「えー? ゆきとだって、家出るギリギリまでしゅくだいやってたの、見えたぞ」

いつもの待ち合わせ場所、私たちの家を出てすぐの、海に向かって流れる小さな川の石橋の前で、私は息を切らしながら走ってくる二人にダメ出しをした。

「言いわけはいいの! ほら、いそぐよ」

「は~い」

お母さんの自転車に乗らなくなっても、私たちは行き帰りを共にした。このくらいの年頃になると、男子と女子の、そういった性差を意識せざるをえない場面が増えてくるし、冷やかしめいたたものが内からも外からも現れる時期である。私たちも例外ではなくて、仲が悪くなったり、距離が遠くなったりしたわけではなくとも、なんとなく二人が、二人だけで共有している時間があるのを察することが度々あった。任務とはいえ、もう四年目になる付き合いの私たち。着実にいい方向に進んできているはずなのに、少しだけ、寂しい。

 適度に喧嘩をして、仲直りをして、私たちは仲良く小学校の日々を送った。特に三人ともゲーム機を手に入れてからは、外遊びが好きではない幸人も、カズマに公園や神社での遊びに誘われても、二つ返事で応じるようになっていった。親同士の繋がりがなくとも、小学校に上がってからは毎年、長い休みに暇になればお互いを誘い合って、日が暮れるまで遊んだし、私の家には三年生の時、神社の夏祭りで掬ってきた金魚が、三年経った今も丸々と太ってまだ元気に、思い出の生き証人として金魚鉢で暮らしている。

 私は、巨大な台風が来た五年生の秋、停電した暗い家の中で、街が壊れないか不安で仕方なかったあの夜に、同じく不安そうな顔で避難所にやってきた二人を見つけて、お互いの恐怖を紛らわすように、嵐の音をかき消そうと、ずっとくだらないことを喋ったあの夜が一番楽しかった。

「二人も来たんだ」

「うん。家、無事だといいんだけどなあ」

「はじめてだよね。こんなおっきい台風」

小学校の体育館の床は、まだ秋の初頭とは思えないほどに冷たい。寝袋に入って芋虫みたいになりながら、私たちはどうにか風を食い止めてくれている窓の呻き声にしばらく耳を澄ませていた。

「もう、五年生だね」

なんとなく沈黙が嫌で、私から話しかけた。

「今さらすぎるだろ」

カズマは、いきなりのことに鼻を鳴らして笑っていた。

「でも、本当にもう五年生なんだ。意外と早いね。ぼく達、あっという間に大人になっちゃうんじゃない?」

幸人は笑わずに、思いのほか真剣な顔で、口を尖らせて将来を思い描いているようだった。

「私も、カズマも幸人も、大人になったら、けっこんしてるかな」

「ケッコン、かぁ……おれが、ケッコン……」

「カズマが一番、そういうのおそいだろうね」

「幸人に言われたくねぇよー!」

「式には絶対に呼んでね。おそくても、ずっと待つからさ」

「もう、気が早すぎるでしょ」

「そうかな。ぼくはエリがぼく――だれかとけっこん式でドレスを着てるの、想像できるよ」

「えっ? 何言ってんの、もう」

幸人が珍しく冗談を言ったので、私はすっかり驚いてしまって、笑うまでに時間がかかった。結婚の話で今盛り上がっているついでに、幼稚園の時したおままごとで起こったことの話を、今すれば二人がお互いに意識し合うだろう。頭の中でそう計算をしたが、なぜかその話をする気にはなれなかった。この時二人が、あの日のことを覚えていたのかも、もう知る術はない。

 気づけばターゲットの二人は、もう八年来の友人になっていた。人間の体で感じる時間は、今までとは全く違う、何か質量を持った重苦しい物体のようで、今はまだ辛くなくても、気づけば胸の奥につかえて、なくなることはない。知らなければ、もう少し楽だったかもしれない。

「おーい、エリ! 早く!」

私たちは今日で、小学校を卒業する。いつもと違うしっかりした装いのカズマが、俯いて上の空だった私を呼んだ。幸人も卒業式の看板のところに立っている。

「今行くよー!」

人間の体をもらってから、どうしても振り返ることの方が多くて、前を向くのが難しいと感じる。同じ地元の中学に進学することが決まっていたのに、卒業式の時の写真では、三人ともどこか晴れやかな面持ちとは程遠い、梅雨の空のような微妙な笑顔を浮かべて、気まずそうに立っていた。

 ついに私たちは、中学生になった。制服を着て入学式に向かうのは、変な気分だった。

「もう中学生か……部活、決めた?」

「僕は美術部に入るよ。カズマはどうせサッカー部でしょ?」

「当たり前だろ、エリはどうすんの?」

「まだ決めてない。今日入学式なんだし、ゆっくり決めるよ!」

任務の期限まであと三年。もう時間は残されていない。上の空だった私は、適当な誤魔化し笑いを二人に向けた。

「ターゲットはもう、あんたも一緒に歩んだ人生の一幕の中で、生涯の親友になっていることは確かね。でも肝心なのは二人が恋に落ちること。ちょうど人間が恋を享受し始めるのは小学校の高学年から中学生の時期の間。ここからが正念場」

昨日先輩に念を押された私は、中学の入学式への緊張感に加えて、心の隙間に不安が押し入ってきてとてもそわそわしていた。

 下駄箱の前に、名前とクラス分けが書いてある大きな紙が貼ってあった。中学は、小学校よりも人が多くなるらしい。

「俺たち、同じクラスかなあ」

私たちはお互い、それぞれの名前を、見知らぬ名前の中から一生懸命に探した。

「あ、俺一組だ!」

カズマが最初に自分の名前を見つけたようだ。私の方も一度見たはずの列をもう一度見ると、見落としていた名前があることに気づいた。

「私も一組だ」

「おお! 幸人は――」

カズマが訊ねる前に、幸人は首を横に一度振った。

「僕、二組だ。まあ、家近いし!」

幸人の少し長い前髪の奥から、大粒なのに細い目が、少し寂しそうな色を纏って潤んでいるのが見える。ずっと三人でいられるものだとなんとなく信じていた私は、裏切られたようなやるせない気分になって、幸人の寂しそうな目を見ることができなかった。

「いやー、結構寂しいな。週末とか遊ぼ! 休み時間も会えるしな! じゃあまた終わったら門で待ち合わせな」

「うん」

幸人は足早に教室の方へ向かって行ってしまった。

「バラバラになったの、初めてだな。いっっっつも一緒だったのに」

カズマが、強がるときに見せる、こめかみに皺を寄せた笑顔を向けてきた。幸人と観に行ったサッカーの大会で、カズマのチームが負けた時も同じ顔をしていたのを思い出す。普段は呆れるほどに明るいカズマが、この顔を見せるのは余程のことで、私もたまらなく切なくなった。

 ターゲットのクラスが別になったことで、任務の先の見通しもだいぶ悪くなってしまった。

「俺、朝練あるから水曜以外一緒に行けない。ごめん。幸人にも伝えておく」

カズマは最近、部活の友達といることが多い。少しずつ大人に近づいていくにつれ、端正になってきた顔立ちに加えて、あの持ち前の明るい性格もあって、すぐに周りに人垣を作るほどの人気者になり、何処となく近寄り難い存在になってしまったカズマは、クラスが同じ私とも少しずつ関わることが減り、部活のこともあって、入学して一月が経つ頃には完全に私たちと一緒に登校しなくなった。

「僕らもクラス違うし、カズマ抜きで二人っていうのも違う気がするから、もう学校は一緒に行かなくていいんじゃないかな」

突然、幸人にそう切り出された時、私はただ、同意することしかできなかった。

「そうだね」

こうなってしまってからの私は、任務のことに対する危機感はそれほど感じず、むしろ既に呆然と大切な何かを失ってしまったような焦りを感じて、あの石橋に差し掛かるたびに息が止まりそうなる。

 また潮風が湿っぽくなって、山からは雨が降り注ぐような季節がやって来た。中学生になって初めての体育祭が近い。二クラスしかない私たちの学年は、隣のクラスに絶対勝とうとお互いに燃え上がって、練習していた。

「おう、まだ帰ってなかったのか」

教室に居残って係の女子達とクラスの応援旗を作っていると、泥だらけのユニフォーム姿で、カズマが忘れ物を取りにやって来た。

「今終わったところ。私は色塗りを手伝っただけだけどね」

私は赤いペンキで汚れた手を見ながら答えた。係の他の二人は、カズマが入って来てから、露骨にそわそわし始めて、前髪をいじってみたり、あえて背中を向けて話しかけてもらいたそうにしている。いつの間にかカズマは、この学校の王子にでもなったらしい。

「手、洗うから、どいて」

私はなんとなく腹が立って、この教室から出たくなった。

「俺も顔洗いたい」

「あっそ」

「待ってよ!」

廊下に出て、蛇口を捻る。鉄臭いぬるい水に、ペンキと汗の匂い。石鹸で誤魔化すように洗う。手のひらにこびりついたペンキは、赤赤として落ちる気配がない。諦めて水を止め、ハンカチで手を拭きながら右を向くと、カズマは頭から水を被って、犬みたいになっていた。

「何してんの」

「これ、気持ちいいんだよ」

水を浴びたカズマは、満足げに頭を拭いている。こいつの鼻は、いつの間にこんなに高くなったのだろう。慌てて目を逸らした時に、隣の教室から嫌な感じの声が聞こえた。

「お前さ、でしゃばってこんなの作ってないで、練習もっとしろよ。今日の練習もお前が遅かったせいで負けたんだろ」

嫌な予感がして、私がそっと教室の中を覗こうとする前に、カズマがタオルを捨てて二組の教室に走っていった。

「カズマ!」

二組の教室では、私たちのクラスのそれよりもずっと繊細で凝った、美しい青い鳥の絵が描かれた応援旗が床に広げられていて、その先の窓辺の方で幸人が、体育着姿の二組の男子二人に詰め寄られるようにして俯いていた。あの二人組は、確かサッカー部の男子だ。

「いくら旗を頑張って描いたってさ、結局お前が足遅いせいで負けるんだよ。お前、いらない」

教室に駆け込んできたカズマには見向きもしないで、俯く幸人の顔を、歪めた針金みたいな曲がった口の男子は覗き込んだ。

「やめなよ」

なぜ、声をかけたのか自分でもわからない。ただ、目の前の光景が、許せなかった。

「は? 一組の人じゃん。関係ないだろ、お前」

怖い。子供は時々、大人のそれよりもよっぽど純粋な、真っ黒なものを瞳に宿していることがある。そこに一切の理由がないから、大人よりも恐ろしい。喉も手も、気付いたら震え始めていた。

「いらないだのなんだの言ってるくせに、休んだら休んだで、文句言うんでしょ。勝ちたい勝ちたいとか、みんなで団結とか言ってるくせして、嘘ばっかりじゃない」

「はぁ、俺たちこいつに話してたんだけど」

興醒めしたような、心底不快そうな顔を向けられて、私は訳がわからない程に腹が立った。

「その顔、何? 何様のつもりなの。こんなに丁寧に旗を作ってる人が、クラスの人達のこと、考えていない訳ないじゃん。幸人の方があんた達よりもよっぽど、クラスのために頑張ってるよ」

幸人はその間も、ずっと俯いていた。泣いたら負けだ。私は恐怖と怒りで震えているのを悟られないように二人を諌めた。

「お前うざいな。羽田だっけ? ゴミとゴミ同士、お似合いだな」

ああ、ダメだ。こんなに理不尽な目に遭っていることが許せなくて、この状況をひっくり返す力もないことが悔しくて、どうしようもなくなって、涙が視界をぼやけさせた。

「お、おい、待てよ、何だよ。落ち着けって。カズマ」

嫌なやつの胸ぐらを掴んだカズマは、言葉こそ発さなかったが、これまでに見たことのないほど怖い顔をしている。嫌な奴らの方も、カズマが人気者なのを知っているから、途端に媚びるような醜い苦笑いをして、その場を収めようと必死だった。

「カ、カズマ、放してくれよ」

「もういいよ、やめて」

幸人はそう言うとそそくさと鞄を抱えて、皆の間を申し訳なさそうにすり抜けて、その場から走って逃げていってしまった。

「お前ら――」

カズマは胸ぐらを掴んでいる男子の顔に拳を向けたかと思えば、苦しそうな顔をして腕を下ろし、手を離した。

「な、なんだよ。もう行くぞ」

「お、おう」

二人組は幸人が行った方向とは反対に、廊下を走って行ってしまった。

 あの後はお互いに居た堪れなくなって、成り行きでカズマと一緒に帰った。

「幸人、大丈夫かな」

先に一人で帰ってしまった幸人のことが、少し不安だった。

「あんまり、俺たちが下手に声かけても嫌かもしれないよな。何も、してやれないのかな。悔しいな、悔しい」

日は傾いて、やっと湿った風も許せるようになってくる時間、ぼそぼそとうめくカズマの顔は魔法がかかったように橙色に縁取られて、もの悲しく彩られていた。

「俺は何も出来なかったけどさ、お前、カッコよかったよ」

「何言ってんの、追い払ったのはカズマでしょ」

いきなり言われて、私は照れ隠しも兼ねてすぐに遮った。

「でも、幸人を助けたのはエリの方だろ。俺、なんも言ってやれなかった」

カズマは口をつぐんで、声色を暗くして絞り出すように呟いた。

「カズマが飛び出していかなかったら、私見てみぬふり、してたかもしれない」

「そんな訳ない。エリなら一人でも助けに行ってたよ」

「やめてよ。買い被り過ぎ」

「そうかな。エリは、強いし、優しいじゃん」

「急になんか、キモい」

私は呆れたように笑って、カズマの言葉を気にしないようにわざと嘲った。

「本気だよ、俺」

「えっ?」

本気、という言葉がどういう意味なのか、私は分かりかねてカズマの方に目を向けた。

「本当にそう思ってる。幸人だってそうだよ」

「そういう、意味ね」

「ん、どういう意味だと思ってたの?」

カズマは石を蹴りながら訊いてきたが、私はそれを無視した。心の底から、何の含みも意図もない、純粋で無自覚な質問だと分かっていたし、私自身がこの気持ちを説明できるという自身が全くなかったのだ。

「――俺さ、幸人のこと、好きなんだ」

思わず立ち止まった。うなじに汗が伝うのを感じる。背中がじりじりと痒くなる。

「そりゃびっくりするよな。タイミングも変だし。でも嘘とか、冗談じゃなくて、本気なんだよ。俺、ずっとずっと、幸人のこと好きだったんだ。優しくって、いつも後ろから見ててくれる感じがして、俺みたいなうるさい奴、絶対嫌いなのにな。もうずっと一緒に育ってきたけど、今思い返せば、幸人のことばっかり考えてたんだ。それこそ幼稚園の時、一緒に遊んだ記憶も、あいつの唇の柔らかさも全部、思い出して、その時に胸がこう、がーってなるんだ、それで俺、俺――いや。なんでもない」

取り返しがつかないような気まずい顔をして、カズマは丸くした目を四十五度に傾けている。

「そ、そっか、そうだったんだ」

「ごめん。男が男に、なんて変だよな。やっぱり聞かなかったことにして」

「変じゃない。絶対に。大丈夫だよ、応援する、私」

考えるより先に口が動いて、喉が震えていた。私はただ、カズマの気持ちを、カズマ自身が否定することが何よりも悲しくて、許せないし、そうさせたくないのだと思う。

「お前、やっぱり強いし、優しいよ」

カズマの笑顔は、夕日の水平線に溶けてなくなりそうなほど弱々しく見えたし、同時に何よりも強く輝いているようにも見えて、眩しかった。

 家に帰って、先輩に挨拶をした後、自室に入って扉の前でへたり込んだ。任務は半分達成されていたのだ。しかし私の今の気持ちは、私は長期の任務がついに、大きく進展したことに対しての喜びとは程遠い。何か、違う。高揚感ではなく、むしろどこまでも、底のない生暖かい泥の中に溺れていくような感覚がする。私は今、なぜこんなにたまらななく苦しいのだろう。何もわからない、苦しい。先輩に相談しようか迷ったが、気が進まない。これは、私一人で抱えなくてはならないものな気がした。

 運動会は結局、二組が私たちのクラスに勝った。幸人の描いた旗は快晴だったあの日の空よりも青々と美しく、目にした皆が見惚れていたし、幸人が運動会をきっかけにいじめられたりすることは、杞憂に終わった。それでも、幸人は私とカズマを見た時に、どこか逃げたそうな顔で会釈をして立ち去ってしまうし、あの日以来まともに話していない。

「最近、幸人と一言も話してねえんだよな」

幸人が心配だったし、カズマがここまで寂しそうな顔をすることも滅多になくて、私まで落ち込みそうになった。

「ねぇ、三人で今度、帰らない? 幸人には私から声かける」

「いいのか? ありがとう、頼むよ。俺が言おうとしてもきっと、避けられちゃうだけだからな」

「やっぱり、避けられてるの?」

「うん、なんとなく。あんなことあったし、気まずいんじゃないかな」

カズマはまた、寂しそうに少し遠くの方を見ている。

「そ、そっか……」

幸人への気持ちを打ち明けられてから、カズマと、幸人の話をするときに、どんな顔をしたらいいか分からない。それはカズマへの心配とか、配慮とかだけではなくて、もっと私自身の方に何か引っかかるものがある感じだった。

「俺が幸人に告白したいって言ったら、助けてくれる?」

「どうして、そんなこと聞くの?」

ただ、うんとだけ答えれば良かっただけなのに、変な意地が邪魔をした。

「例えばだよ。友達じゃなくなるの、怖いんだ。幸人と」

「協力、するよ。する。うん、する」

「そっか、ありがとう」

私は何故か、カズマの前から走り去りたくなった。

 その夜、私は救いを求めるように幸人に、明日一緒に帰らないか、とだけメッセージを送った。

「わかった」

いいよ、とも、嫌だ、とも言わないのが幸人らしい。カズマにも幸人が誘いに乗ったことだけ伝えて、ベッドの中に潜った。近所の、ずっと同じ学校に通う幼馴染と約束をしただけなのに、何故か会ったこともない他人に会うような気持ちだ。カズマと幸人だけではなく、私まで何かが違う気がする。ただ、また、昔みたいにみんなで集まって帰るだけなのに、物凄く嫌な予感がした。

 結論から言うと、嫌な予感は当たった。

「あ、幸人」

校門の前で二人を待っていると、幸人がどこか申し訳なさそうに目尻を細めながら、こちらに歩いてくるのが見えた。

「ごめん、お待たせ」

「カズマも後少しで、来ると思う」

やっと涼しくなってきて、セミも殆どが力尽きて居なくなってきた頃で、今日は何故か校門の周りに私たち以外の人もいなくて、嘘のように静かだった。

「あの時、ありがとう。本当に」

「えっ? ああ、あれは、私が許せなかっただけだから、気にしなくていいよ」

「ううん、二人が居なかったら、僕、もう学校行ってなかったと思う」

「大げさだよ」

「いやいや、ありがとう」

「お礼はいいよ。ただ、あいつらにむかついただけ」

しばらく、全く音のしない時間があった。

「ねぇ」

「何?」

友達にすら目を向けて話すのが苦手で、いつも足元を見ながら話している幸人が、今までに見たことのないほど、真っ直ぐに私と目を合わせた。


「そ、その。えっと、だから、エリのそういう、真っ直ぐなところとか、優しいところとか、頼もしいところとか、僕、それにずっと甘えてきちゃったけど、けど、いや、だからずっと、エリのそういうところが、好き」

「えっ?」

息も絶え絶えになりながら言われて、よく聞こえなかった。いや、理解したくなかっただけなのかもしれない。

「今言わないと、もうチャンスないかなって。ごめん。でも、好きなんだ。ごめん、どうやって、こういうの、もっとかっこよく、ちゃんと出来たらいいのに。ごめん」

違う。これは、駄目だ。幸人がこんなに真っ直ぐに、人に想いを伝えるのを初めて見た。冗談ではないことだけは確かだ。でも、これは、違う。私は、幸人の目線が耐えられなくて、視線を逸らした。この前見たカズマの寂しそうな顔が頭に浮かんで、息ができなくなりそうだ。苦しい。こうなってはいけない。

「ごめん、ただ、伝えたくて……。ごめん。嫌だったら、忘れて」

幸人の耳は血の気が集まって桃の皮みたいになっていた。

「謝らないで、謝らないでよ」

絞り出すようにそれだけ言った。頭が痛い。息が苦しくなって、自分がどうしたいのかまるで分からない。何も見たくなくて遠くを見たら、いつの間にか目の前にカズマが写った。

「なあ、今の、どういうことだよ。エリ」

聞かれていたようだ。

「あっ――」

何も答えずに私は、二人の前から逃げた。ごめんなさい、ごめんなさい。私は二人の気持ちを踏み躙った。

 走って、走って、走り続けて、その先で私の感情が追いかけてくるような気がして、また走って、ずっと何も分からなくて、頭が真っ白なはずなのに、そのうちに涙が溢れ出して止まらなくなった。二人は追いかけてきていない。追いかけてきてくれるわけがない。当然だと思う。家に帰っても北側の窓を見れば隣の二軒にも明かりが点いていて、二人のことを考えると思うと怖くて仕方なくなった。カズマの気持ちはどうなる。私は幸人になんと伝えればいい。

「嫌だ、嫌だ」

三人で遊んだ神社の境内に隠れて、しばらく泣いた。意味も分からずに。これからのこともこれまでのことも考えて、泣いてしばらく経って落ち着いてからも、どこにも居てはいけない気がして、家に帰るのも億劫だった。

 あれから私たちは、ただの近所に住んでいる同級生になってしまった。連絡も取らなくなったし、話すことも勿論、無い。全て粉々になってしまった。私たちが元通りになる最後の機会を、私が足蹴にして壊したのだ。あの日、あの後に二人の間に何があったのかは分からない。けれども、今度はカズマが話しかけてきた幸人を避けるのを見た。これも私が、私が二人の間にやってきたせいなのだ。ただ時間だけが、私を責めるようにどろどろと流れていった。気づけばもう中学三年生の十一月。海の色も空の色も灰色になる頃に、私は忘れていたことを思い出させられた。

「もうだいぶ時間もないけど、ターゲットの様子はどう」

夕食を食卓に置きながら、先輩に何気なく聞かれたから、頭を殴られたような気分になった。

「あ、」

「どうしたの?」

「なんでも、ないです。なんでも」

私は席を立って、ここでもまた、逃げた。

 天使としての使命も果たせず、友達としても向き合わず、私は何がしたいのだろう。北の窓から見える隣の窓の明かりが気まずくて、目を閉じることしか出来なかった。

「ハニエル、具合悪いの? 大丈夫?」

扉越しから、心配そうな先輩の声が聞こえる。

「大丈夫、大丈夫です」

先輩に返事をしたのか、自分に言い聞かせたかったのか。暗い部屋の中で、小学生の時の三人の写真が私を責めるようにいつまでも見つめていた。

 いよいよ寒さも厳しくなってきて、独りの帰り道の景色は、黒と灰色に染まってあまりにも淋しい。あの石橋の袂に生えている細長い木が丸裸になっていて、何もかも取り返しがつかなくなってしまったような気がする。辛うじて一枚だけ残っている葉が、今か今かと潮風にさらされて落ちるのを待っているのを見た。私みたいだ。

「ただいま、です」

「おかえり」

先輩はあれきり、何も聞いてこなくなった。私に失望したのかもしれない。教科書とノートを広げて、宿題を始めた。最近はずっとそうだ。壁から急かすように見つめてくるカレンダーも、机の上の集合写真も見たくなくて、私は人間のふりをした。日に日に字が汚くなっている気がする。しばらく解く気もない問題を睨んでいると、窓が木枯らしで震えるのと同時に、もう何ヶ月もろくに見ていなかった携帯電話の画面が光った。

「久しぶり。これから三人で話さない? 橋のところで」

信じられないことに、幸人からだった。今更、何を話せばいいのか。勇気を出して自分の気持ちを告白した二人から逃げた私が、どんな顔をすればいい。返事をする気は、起きなかった。

「うん。今から行く」

カズマが、チャットの画面の上でそれだけ返事をした。

「待ってる」

段々と脈が速くなっているのを感じる。幸人は、何故今になって、こんなことを言い出したのだろうか。私は震える手で画面を見つめていることしか出来なかった。

「エリは、どうする?」

画面にそれが表示された時、幸人に、目の前で聞かれたような気さえした。どうすればいい。随分と前から考えることを諦めていた臆病者の私に、返事は出来なかった。

「来れたら来て。二人で話してるから」

なぜ、私に手を差し伸べてくれるのだろう。ずっとこの言葉を待っていたような気がして、自分の卑怯さに胸が痛んだ。

 期待か、好奇心か。私は背中を焼かれるような衝動に押されて、家を飛び出した。向こう、いつもの場所で二人が話しているのが見える。毎日同じ学校に通っていたはずなのに、ひどく懐かしくて、どこか遠い場所から、二人が帰って来たようにさえ感じる。景色が寂しかったのは、冬が近づいてきたせいではなかった。どうやって声をかけよう。二人の表情がわかるくらいの距離まで歩いたところで、私の希望めいた都合のいい気持ちは、すぐに失せた。カズマが、見たことのないような顔で笑っているのが見えたからだ。あんな顔は、本当に一度も見たことがない。いつも不器用そうに笑う幸人は普段通りそうなのが余計に羨ましかった。カズマが幸人への気持ちを私に打ち明けた時も、私の知らない顔と声で話していたのを思い出す。自分の心の奥から、私の声が聞こえるのを、必死に塞ぎ込んで聞こえないフリをした。カズマの美しく何よりも眩しい笑顔が、私を何だか、何かに負けたような、何かを取り上げられたような、覆されたような気持ちにする。そのまま引き返せばよかったのに、馬鹿な私は物陰に隠れて、石橋のところで昔みたいに話す二人の話に耳をそばだてた。

「――なんか、意外と話せたな。二年ぶりくらいなのにさ」

他愛もない話がひと段落ついたのか、照れくさそうにカズマは、一旦幸人から目を逸らしている。

「そうだね。前みたいに……僕たち、別に変わってなかったね。カズマには一回無視されたけど」

「はは……それは、ごめん。本当に」

二人は暫く、黙った。

「僕、僕さ、あの時、失恋したんだ。っていうか、見てたよね。エリのこと、困らせちゃったな」

幸人が気まずそうに、それでもこれを言わなければ死んでしまうとでも言いたげなほど、切実に切り出した。名前を呼ばれて、私は声を抑えるのに必死だ。私も、私だって。私だって――。

「俺も失恋、したよ」

カズマは目を逸らしたまま、幸人を励ますように、幸人に縋るように声だけで返事をした。

「そう、なんだ。そっか」

「誰か、聞かないの?」

「カズマのことだから、聞いたら聞いたで嫌がるんだろ」

「ははは、そうだな」

カズマはまた、寂しそうに笑う。あの声は幸人のためのものだ。私のものではない。

「――エリ、来ないね」

「来て、欲しいよな」

二人はしばらく笑った後で、またいきなり私の名前を呼んだ。

「もう一回、メッセージ送ってみる」

幸人はかじかむ指で文字を打ち始めた。

「幸人って、強いよな」

「え?」

「俺、見習わないと。エリのことも、幸人のことも」

「カズマは、たまに変だよ」

「うるせえ」

幸人が呆れたように細い前髪を触りながら笑うと、私のポケットの中で携帯が震えた。

「待ってるよ」

送られてきた言葉は、たったそれだけ。たった五文字で救われた私は泣きながら、二人の方へずるずると歩き出した。

「あれ、もしかしてちょうど歩いてきてた? 気づかなかったや」

幸人は画面と、酷い顔で泣いている私を交互に見て、苦笑いをした。

「来てくれたんだな」

何を話したらいいか分からない、どんな顔で二人の前に立てばいいのか分からない。それでもここに居させてもらえるなら、何よりも、幸せなのだと思う。

「ありがとう」

謝ろうと思っていた。自分が楽になるために。泣きすぎて、頭が痛い。咄嗟に出た言葉は、自分でも予想外で驚いた。

「――で、幸人はなんで、今日いきなり連絡くれたんだ?」

私が泣いているせいで、気まずくなるのを嫌がったのか、カズマは話題をうまく逸らした。

「ああ、二人に伝えなきゃって思ったことがあって。何となく、今日話さなきゃ一生、話せなくなる気がして」

「何だよ、伝えることって」

「僕、東京の高校に行こうと思うんだ。寮に、入ろうと思う」

「そう、そっか。三人でいられるのも、あと三ヶ月か」

カズマは目頭をこすりながらぼそっと呟いた。

「仲直り、出来たかな」

私たちはやっと、そこで三人揃って、笑った。

 あの日はそれから何を話したかはもう覚えていないけれど、私たちはまた一緒に学校に行くようになって、それからの残りの日々は驚くほど穏やかに流れていった。今日は中学の卒業式。任務の期限の日。私はあの仲直りの日から、私が何かするまでもなく、この日に任務が成功することを確信していた。

「――ほら、行って来なよ」

「お、おい、まだ心の準備が」

卒業証書の筒をカズマからひったくり、誰もいない校庭で待たされている幸人の方へ、カズマを突き飛ばした。これが、最初で最後の仕事。仕事だから、何も考えなくていい。カズマの手が震えているのがわかる。私まで息が詰まりそうだ。遠くで、カズマが歯切れ悪く何かを言ってから、幸人に右手を差し出すのが見えた。

「あ」

幸人がカズマの手を握り、カズマはその瞬間に左腕で目を覆った。カズマの本気に、勇気を出して応えた幸人は、今度は困ったようにカズマの背中をさすっている。私の使命は、達成された。

 晴れやかな気持ちで、家に帰ってきた。

「先輩、やりました」

「ええ。たった今上から報告があった。運命の歯車の軋みは元に戻ったわ。よくやったわね。長い間、お疲れ様」

晴れやかな気持ちというのは、嘘だ。

「はい、はい……はい」

「頑張ったわね。沢山」

何故だ。今になって、はっきりと辛くて、胸が痛くて、悲しくて堪らなくなった。

「どうして、こんな、私」

手のひらに落ちてくる涙が燃えるように熱い。頭の中で何度も、カズマと幸人が手を繋いだ瞬間が、コマ送りで繰り返される。

「それが、恋よ」

先輩は、そう言いながら優しく私の頭を撫でてくれた。

「恋は神様だけのものだったの。昔はね。神様は手違いか気まぐれか、人間にもその奇跡を与えてしまった。何よりも尊くて危ういものをね」

先輩のスーツは、私の涙で濡れてしみが出来てしまっている。

「でもね、与えられたのは人間だけじゃない、天使も同じだったの」

「天使も?」

「そう。ハニエル、あんたはね、恋をしたの」

「そっか、そうだったんだ。それを私は、仕事だって、仕事だって言い訳して、本当は、嫌だった。嫌だったのに。でも、カズマが泣くのはもっと嫌だった!」

ぐちゃぐちゃになった気持ちが、そのまま溢れ出てくる。もう、一人でしまっておくのは無理だと思った。

「言い訳なんて、してないでしょ。あんたは一人の人間として、悩んだし、途中で任務のことなんて、すっかり忘れてたじゃない。好きな人の幸せを願って、友達がいなくなるのが怖くて、散々悩んだ結果でしょ? あんたは、立派よ。天使としても、人間としても」

先輩が全て見ていたかのように、頭を撫でながらそんなことを言うので、涙が止まってちょうど鼻の奥が痛くなり始めた頃に、また目が潤んだ。カズマの眩しい笑顔が浮かぶ、寂しい笑い声が聞こえてくる。色んな顔をして、幸人のことを考えているカズマ。あれほど愛される幸人が羨ましい。心の底から。

「今回の任務はね」

先輩は少し迷ってから、続けた。

「今回の任務は……あんたがターゲットに恋をするのも、想定内のことだったの。あたしも昔、同じような任務をやった。あんたみたいに、散々泣いたし、散々悩んだ。だから手に取るようにわかんのよ、あんたが、一人で何考えてたのか」

「先輩もだったんですね」

いじらしい声で、鼻をすすりながら先輩の胸に顔を埋めた。

「一人前の天使の条件は、恋が何か知っていること。こんなに痛くて辛くて、尊いものの運び手として、私たちはこれまでも、これからもこの星を飛び回るの」

「そんなの、馬鹿みたい。くだらない」

「まったく、くだらないわね」

空元気の悪態は本当に虚しくて、また泣く。大好きな二人が、ずっと幸せでありますように。



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