前編
「ぼくたち、ずっといっしょにいようね」
遠い昔、幼い頃に交わした他愛ない約束。しかし、それは確かに私の心に刻まれ、今日までその言葉を信じて生きてきたのだ。
だから、突然の申し入れに頭の中が真っ白になった。
「こ、んやくはき……?」
目の前には、申し訳なさげに首を垂れた婚約者が立っている。
「ちょっと待って、ノア。今なんて言ったの?」
聞き間違いかもしれない。ひょっとしたら、私の知っている言葉とは別の意味があるのかもしれない。
その真意を汲み取ろうと、私は瞳を精一杯丸くして、幼馴染であり婚約者でもあるノアを見上げた。
向かい立つ彼は目を合わせようとせず、視線を床に落としたまま、しかしはっきりと言った。
「ごめん、カレン……。僕との婚約は、なかったことにしてほしい」
顔をしかめ、苦悶の表情を浮かべる彼を、信じられない思いで見つめる。なぜ彼がこんな泣き出しそうな顔をしているのだろうか。泣きたいのは私の方だ。
「どうしてなの? 私のことが嫌いになった?」
震える声で尋ねると、ノアは眉間に一層皺を寄せて頭を振った。
「違う、カレンは何も悪くないんだ。ただ、僕が本当に好きな人に巡り会ってしまったから――」
「はあ?!」
最後まで言い切るのを待たずに、私はノアの胸ぐらに掴みかかった。
「何言ってんのよ、ノア! そんなの絶対許さないんだからね!!」
「ご、ごめんよぅ、カレン。そんなに怒らないで……!」
これが怒らずにいられようか。他に好きな人ができたから婚約破棄だなんて、そんな理由、納得できるわけがない。だってノアは――。
「どこの男よ! あんたを誑かしたのは?!」
「やめてよ、カレン。僕はいいけど、彼を悪く言わないで……!」
同性愛者なんだから。
* * *
私、カレン・クレスエンドとノアが出会ったのは、ちょうど私が5歳になる誕生日だった。
あの日は誕生日パーティーと銘打ちながら、その実、私の婚約者および友人の候補としてたくさんの令息令嬢が集められていて、その中の一人が彼、ノア・ド・ルセーヌ侯爵令息だった。
我がクレスエンド伯爵家は、絹の一大産地として有名な領地と、お祖父様の代から始めた事業が大当たりしたおかげで、国内でも屈指の資産家として名を馳せている。
さらにはどの派閥にも属さない中立派であるため、取り入っておいて損はないと考える輩は多く、だからこそお父様も常日頃から私の交友関係には目を光らせていた。
つまり、当時の私と親しくなれる機会は非常に限られていたのだ。そのため、この日は数少ないチャンスをモノにしようという貴族諸侯で我が家の庭は溢れかえっていた。
おそらく親に言い含められてきただろう子供達が、私を取り囲みあれこれと褒めそやす。最初はちやほやされて舞い上がっていた私も、段々とあからさまなゴマすりに辟易してきた。
そんな時に、目に留まったのがノアだ。
彼は私を囲む人の輪の中に入ってこれずに、庭の隅でぽつんと花を眺めていた。
「ねえ、何してるの?」
声をかけたのは単純に、一人ぼっちで可哀そうだと思ったからだった。でもこちらを振り返ったノアの顔を見て、私は息を飲んだ。
5歳という幼さにも関わらず、彼はすでに完成された美しさを纏っていた。
優しげな目元にかかる髪は、宗教画で見た天使のようなくすみのないプラチナブロンド。通った鼻筋や薄い唇はとても中性的で、それこそ天の使いがその場に舞い降りたかのごとく、神々しささえ感じられたのだ。
私は一目でこの綺麗な男の子が気に入り、隣に立つと話を続けた。
「お花が好きなの?」
「うん、ここのお庭の花は丁寧に手入れされていて綺麗だね」
そう言って遠慮がちに笑う顔も可愛らしい。それに、他の子供達と違って自分を無理やり売り込んでこないところも好感が持てた。
「それなら、とっておきの場所を教えてあげる。お母様もお気に入りのバラ園なのよ」
そう言ってノアの手を取ると、使用人が止めるのも聞かず庭園の奥に向かって駆け出す。
彼が私の婚約者に決まったのは、その3ヶ月後のことだった。
婚約が決まってからは、親交を深めるためにお互いの家を行き来する日々が始まった。
そうして二人で過ごす時間が増えるうち、ノアが女性を恋愛対象としていないことに、割と早くに気がつくことになる。
うちに遊びに来ると、おもちゃのお人形を見て瞳をキラキラと輝かせる。兵隊ごっこよりもおままごとが好き。乗馬はするけど、それよりも本を読むのが好きな男の子だった。
見た目が可愛い人って好きな遊びも可愛いのね、としか思っていなかった私は、ある日我が家の護衛隊長を熱い目で見つめる彼を見て何気なく質問した。
「ロブのことが好きなの?」
「ええええっ?!」
その時のノアの狼狽えようといったら。顔を真っ赤にして眉毛をハの字に下げる様子が可愛くて、私は思わず吹き出した。
「やだ、そんなに焦らなくても。本人にばらしたりしないわよ」
くすくすと笑う私を、ノアは呆然とした顔で見つめた。
「気持ち悪くないの?」
「気持ち悪いって、何が?」
当時の私は恋愛の何たるかもよくわかっていなくて、世の中の色ごとの大多数が男女の間で起こる物だということを知らなかった。
だから、ノアの慌てる様子を見ても、ほのかな恋心がばれてしまったことを恥ずかしがっているとしか思わなかったのだ。
今思えばひどく無知で無神経な小娘だったと思う。だけど、その時の私の反応はずいぶんと彼を救ったらしい。
「ありがとう、カレン」
うっすらと涙を浮かべて私の手を握るノアを見て、この笑顔を守ってあげたいと幼心に思った。
それから私たちは、お互いの盾になることに決めた。
婚約者がいる限りは、他の異性に擦り寄られる回数は格段に減る。
婚約関係を続けることで私は財産目当てのしょうもない男達を遠ざけることができたし、ノアもまた、その美しさに惹かれて近づいてくる女達を断る口実ができた。
それに、私という婚約者がいる彼を同性愛者だと見抜ける人間はそれほど多くなかった。ノアは一生それを隠し通すつもりらしいので、私との結婚はちょうどいい隠れ蓑というわけだ。
そうして、私達は二人だけの秘密として表面上の婚約者であり続けた。ただ、偽りの婚約者と言っても、私とノアの信頼関係は嘘ではなかったはず。
婚約して1年後にお母様が病気で亡くなったときも、ノアは一緒になって泣いてくれたし、新しいお義母様が来て不安なときも、側にいて肩を抱いてくれた。
彼が失恋するたびに、二人で泣いたり、怒ったり、ケーキをやけ食いしたりもした。
そうやって私たちの間には友情というより相棒とでもいうべき強い絆が出来上がったのだ。
――と、思っていたのに!!!
12年の歳月を婚約者として共に過ごしてきたけれど、まさか今になって裏切られるとは思わなかったわ。
「もう私は17なのよ? 今から新たな婚約者を探そうとしたってロクなのが残っているわけないじゃない……」
思わず頭を抱える。
「あんたみたいに優しくて野心がなくて、しかも三男でしがらみなく婿に来てくれる男なんてなかなか見つからないのよ?」
その場にしゃがみ込んだ私を見下ろして、ノアが諭すような声を出す。
「カレンは可愛いし、しっかりしてて素敵な女性なんだから引く手数多だよ。婿取りにさえこだわらなければね」
「それは譲れないのよ!」
がばっと顔をあげてノアを睨みつける。
「もし他の家に嫁げば、この家はギルバートに乗っ取られるわ。そしたら私、二度とこの家に入れなくなっちゃうもの!」
せせら笑う彼の顔が容易に想像できて、思わず頭にかっと血が上る。
「それだけは絶対に阻止しなくちゃ!」
「ギルバート、そんな子じゃないと思うんだけどなあ」
「甘い、甘いわよノア! あの子の仮面に騙されちゃだめよ!!」
ギルバートとは、私の二つ下の義弟だ。
お母様が亡くなって2年後にお父様が再婚、後添えとしてやってきたシャーリー様の連れ子が、当時6歳のギルバートだった。
シャーリー様自身はとても優しい方で、初めこそ緊張したけれど打ち解けるのに時間は掛からなかった。むしろ問題は、義弟の方だったのだ。
ギルバートは非常に賢く、人当たりも柔らかで、すぐにお父様も使用人たちも彼に夢中になった。
だけど私にはわかっているのよ。あれは表向きの顔なんだって。
いつもにこにことしているはずなのに、私にだけは一向に懐かず、距離をとっている。もちろん、周りに人がいるときは仲のいい姉弟のふりをしていたけれど、目の奥ではちっとも笑っていない。
こちらをじっと観察するような、冷たい目を向けてくるのよね。
それでも初めの頃はそんなに仲が悪くはなかったのに。ある時を境に、急にギルバートは私に対してよそよそしくなった。
で、気づいちゃったのよね。この子は、うちの財産を狙っているんだって。
小さいうちはわからなくても、成長すればこのクレスエンド家の資産がいかに莫大なものかを思い知ることになる。それを目にして、心が動かないはずがないもの。
でも私がノアと結婚して伯爵家を継げば、彼の出る幕はない。だから虎視眈々とチャンスを狙っていて、事あるごとに私たちの結婚の邪魔をしようとしてきた。
あの子の巧妙な嘘のせいで、私とノアがどれだけ大げんかしてきたか。今思い出しても本当に腹が立つ。一つ間違えば、けんか別れしてしまってもおかしくなかった。
まあ、結局今になって婚約破棄を言い渡されているんだから、ギルバートが動かなくてもこうなる運命だったのかもしれないわね。
とはいえ、あの子の思い通りにするのは癪に障るのよ。やっぱりノアとの婚約は継続しなくっちゃ。
私はノアを説得するべく、声のトーンを落とすと代替案を出した。
「ねえ、相手は誰なの? もしその方が忘れられないっていうのなら、私が囲ってあげてもいいわ」
これまでの経験上、ノアが好きになる相手は自分の家の庭師とか、町医者の息子とか、平民が多かった。
今回もそうなのであれば、応援してあげようと思う。そしてもしノアの恋が叶ったなら、私と結婚してくれることを条件に、二人のために屋敷の離れに愛の巣を建ててあげてもいい。
私の言葉に、ノアのガラス玉のように透き通った瞳がこれでもかと見開かれる。
「何を言ってるの、カレン」
「あなたは夫の務めさえ果たしてくれればいいのよ。社交に一緒に参加してくれれば、領地の運営は私に任せて、恋人と仲良く過ごしてくれて構わない」
絶句するノアを見ながら、私はもう一つの重要なことを思い出した。
「あとは子供ね」
「こ、ども……?」
たどたどしく問い返すノアの瞳を覗き込み、私はぴんと人差し指を立てた。
「まずは一発試してみましょ! 一発で世継ぎができれば、もう閨にも来なくていいわ」
「ちょっ、カレン! そういうことを大声で言っちゃだめだったら!!」
ノアは顔を真っ赤にして私の口を押さえる。そして、潤ませた瞳を切なげに伏せた。
「僕の好きな人はとても手の届かない方だもの。囲うだなんて、不敬になるから間違っても口にしないで」
「不敬? ちょっと待ってノア、あなた誰をお慕いしてるの?」
「……」
「ノア、正直に言って」
「お、王弟殿下……です」
王弟殿下?!
私はこの日何度目になるかわからない衝撃に目をひんむいた。頭がくらくらする。いくらなんでも、王族だなんて。
「そんなの無理に決まってるじゃない! 気持ちを伝えることすらできないわよ?!」
「わかってるよ。だから僕は文官になって、少しでもお側であの方のお役に立てればいいと思っているんだ」
「いいえ、ノア。あんたはわかってない。そんなに雲の上の方ならなおのこと、私と形だけ結婚して、密かにお慕いすればいいじゃない」
「ダメだよ、僕はもう愛のない結婚なんてできない。カレンにも、本当に好きな人と結婚して欲しい」
頬を染めてどこか遠くを見るようにつぶやくノアにムカついて仕方がない。まったく、無駄に色気をふりまいてんじゃないわよ。
私は両腕を組んで力いっぱい頬を膨らませた。
「なによ、私はちゃんとノアが好きよ?」
「だから、そうじゃなくてね……」
「嘘つき! ずっと一緒だよって言ったくせに!!」
「え、そんなこと言ったっけ? 小さい時の話だし、時効にしてよ……」
困り果てて身体を縮こまらせるノアを見ていると、これ以上責めても仕方がない気がしてきた。
意外と頑固なところのある彼が意志を覆すことはないだろう。
このままでは平行線なので、大きくため息をつくと私はしぶしぶ婚約破棄に了承した。
「わかった。でも、私に次の婚約者が見つかるまでは、とりあえずキープでいてよ」
「キープって……婚約者以前に、僕たちは友達だよね?」
ノアの都合のいい言い分に、自分が情けなくてうっかり涙が出そうになった。




