「お姉様はずるい!」と事あるごとに姉を糾弾する出涸らし令嬢の妹と、「お姉様はずるい!」と事あるごとに糾弾される姉の話
「お姉様はずるいですわ!」
私――アニエス・ウィスタリアは大変怒っていた。
私の姉――リディア・ウィスタリアは、肩を怒らせて抗議してくる私を不思議そうな目で見た。
「ずるい? 私がかい?」
「自覚がないんですの!?」
「……少し考えてみたが、すまない。思い当たるフシはないな。怒っていると言うなら謝罪させてもらおう」
「ほらほら! もうそういう言い方がずるいんですわ!」
私は書類の束を抱えたままの姉の前で地団駄を踏んだ。
「その書類は私が! わ・た・し・が! お父様から言われて書庫から持ってくる途中ですのよ! それをなんでお姉様が奪い取るんです!? それは私の仕事ですの!」
私の抗議にも、リディアはきょとんとした表情を浮かべただけだ。
「なぜって……こんな重いものを大事なお前に運ばせるわけにはいかない、そうだろう?」
リディアは憂いを帯びた目を細めながらそう言った。
同じ血を分けた人間だとは思えないほど、その所作は自然で、そして美しかった。
目先ひとつで城を傾け、指先ひとつで世を傾ける――。
傾城、とはこの姉のためにあるような言葉だと、私は時々思うことがある。
そう、妹の私の目から見ても、姉は美しい。
より詳しく言えば、美しいと言うより、絶世の美男子である。
女性にしては短い真紅の髪。
涼やかで意思の強そうな眉。
切れ長で憂いを含んだ目に、エメラルド色の瞳。
布を巻いて潰しても存在を隠しきれない、豊かな胸。
完成された美貌を絢爛豪華な軍服に包み込み、編み上げ靴を鳴らして颯爽と歩く稀代の洒落者。
そして誰よりも紳士的で、誰にでも分け隔てなく柔和なその物腰。
反面、いざとなればどんな男にも引けを取らない勇猛さを発揮する勇者。
もし天が御使いを地上に降ろすとするならば、きっとこんな人間であるに違いない――。
《ウィスタリアの薔薇》――と、そう称せられるほど完成された美貌を持つ姉の周りには、昔から常に令嬢たちの黄色い声とため息が渦巻いていた。
我が家――武闘派公爵・ウィスタリア家には男子がいない。
そういうわけで姉は幼い頃から徹底的に剣と騎士道とを仕込まれ、やがては華やかな社交界ではなく、規律と誇りが支配する軍で生きることになるバリバリの騎士だ。
そういうわけで、次女であり、姉とは違ってごく普通の貴族子女として育てられた私から見ても、リディアは血こそ近いがあまり理解の及ばない生き物であった。
そう、何を隠そう――この姉がずるいのだ。
そして私はいつもいつも心の底からそのズルさに苛立っている。
今日こそは言いたいことを言ってやろうと、私は肩を怒らせて言った。
「お姉様はいつもいつもそうやって『大事な妹にそんなことはさせられない』『お前が怪我をしたらどうするんだ』などと言って私から仕事を取り上げますのね! そうやってなんでもかんでも取り上げられてきた私の気持ちがわかる!? いくら妹相手だからといってもお姉様は過保護すぎですわ!」
私が言うと、姉は本気で戸惑った表情を浮かべた。
「そうなのかな……? すまない、私はただただお前を思って」
「とにかく! そんな書類の束を持ったぐらいで怪我なんかしませんわ! それは私がお父様のところまで届けます! 返して!」
私が言うと、姉はうーんと少し考え込むような顔つきになった。
顎に指を置き、斜め下を向いて考え込む所作――普通の令嬢ならば、この所作を見ただけで気をやってしまったかも知れない。
だが、もうその手は桑名の焼き蛤、恐れ入谷の鬼子母神、あたりき車力よ車引き。
今日こそはこのずるい姉に負けるものか……と私は無言で姉と対峙した。
「それなら、こうしよう」
ふと――何かを思いついた表情の姉は、書類の山から二枚の書類を取り、そして私に手渡した。
これはなに? と視線で聞くと、姉は涼やかな微笑みとともに私の耳元に口を寄せてきた。
はっ、と私が身構えると、女性にしては低い声が耳元に囁かれた。
「この二枚は急ぎの書類だ。この束は私が後から父上の下に届けるから、まずはその二枚を急ぎ父上のところに届けてくれないか。な? アニエス――?」
低い声で囁かれるように言われて、私の眼圧が急上昇した。
そう、何度も繰り返すが、姉はイケメンである。
そしてなんでか、妹の私からしてもいい匂いがする。
目先ひとつで城を傾け、指先ひとつで世を傾ける――そう、姉は絶世の麗人である。
その甘く蕩けるような言葉に、私の脳みそが急激に沸騰した。
「は、はひぃ、届けましゅぅ……!」
私は呆気なく陥落した。
姉は私の耳元から顔を離すと、溢れるような笑みを浮かべ、書類の束を抱えて颯爽と屋敷の廊下を歩いていった。
しばらくその美しい歩き姿をポーッと見送りながら――。
数分後、私はハッと我に返った。
「あああ、またやられた……!」
私は悔しさに地団駄を踏みたい気持ちだった。
今日こそはあの姉の手練手管には屈しまい、今日こそは言いたいことを言うと誓ったのに。
あの雰囲気と美貌に飲み込まれてまた取り上げられてしまった……。
私は慌てて手渡された書類を見た。
『第三十二回 過ぎ越し祭開催のご案内』
『領内で発生中のじゃがいも疫病に注意!』
どう考えても急ぎの書類などではない。
「ずるい……」
私は蕩けたままの頭でそうひとりごちた。
断っておくけれど、私は別に何でも欲しがるタイプのクソ女ではない、と思う。
他人の物を欲しがっては媚びて媚びて媚び尽くして、挙げ句奪い取ったらすぐ捨てる、ワガママ妹にありがちのタイプの人間では、断じてないと思う。
何もかも完璧な私の姉には、唯一、厄介な病気がある。
何を隠そう、ずるいのだ。
しかもズルさのベクトルが違う。
姉・リディアのズルさとは、ああいうズルさなのだ。
そのイケメンな容姿と声といい匂いで、私からああやってなんでも奪い取る。
そして奪い取っては満足そうに微笑み、そして去ってゆく。
そのことに私が苛立ち、過保護すぎるとか子供扱いするなと怒る度に、ああやって圧倒的なイケメンオーラを撒き散らして、私から反論の口を奪い去ってしまうのだ。
「もう……! 絶対に次こそは屈しませんわ!」
キーッ! と私は貴族子女らしからぬ奇声を発して、ハンカチではなく書類を噛み締めながら、今度こそ本当に地団駄を踏んだ。
いつまでもいつまでもあの姉の思う壺に嵌ってやるものか。
「ウィスタリアのじゃない方」「ウィスタリア家の妹の方」「おまけ」などと不本意で不遇なあだ名で呼ばれてきた私の名誉にかけて。
いつか本気であのずるい姉に吠え面をかかせてやる――。
私はそう誓いを新たにした。
それはまだ春になったばかりの3月のことであった。
◆
「それで、魔物が君の村を?」
「はい、もう何人も怪我をしていて……これだともう今年の麦の刈り入れも出来ず、村は飢えてしまいそうで……」
そう言って、平民の少女はシュンと肩を落とした。
彼女の名前はアロア。このウィスタリア公爵領に住む少女であるという。
繰り返し魔物に襲われる村の窮状を、矢も盾もたまらず訴え出に来たのだという。
私はアロアを注意深く観察した。
まだ十五歳程度だろうか、子犬のように愛らしい顔立ちの割には、着ている服も質素で、つぎはぎだらけだ。
頭に野の花を刺したのはせめて公爵家に失礼のないよう、彼女なりに考えた行いなのだろうが、それが却って村の生活の厳しさを連想させてしまって不憫さを煽る。
優雅に脚を組む姉は、ふむ、と考え込む顔つきになった。
確かにウィスタリア公爵家にとっても、収入源となる農作物の刈り入れが出来ないというのは由々しき事態だ。
そして騎士である姉は、ウィスタリアの兵を率い、民の生活の安寧を守るのが仕事でもある。
どうするの? と私がリディアに目配せすると、リディアはため息をついた。
「委細は相解った。しかし、わかっていることと思うが、魔物の討伐はそれを願い出た村の方でも費用を負担しなければならない。遠征費用は領主が七割、後の三割は村が負担するのが習わし――それは理解しているだろうな?」
リディアがそう言うと、アロアの細い肩がびくっと揺れた。
冷徹な口調でリディアは言った。
「さらに、君の村を襲っているのははぐれオークの集団……ゴブリンやフェンリルと違って、オークは力も強いし知能も高い魔物だ。討伐には危険が伴う。加えて君の村は東の果てにあり、そこに兵を派遣するとなると……遠征の費用も少々高く付くことになる」
それからリディアは兵の食費や駐屯費用、諸々の戦費などを空でざっと計算し、その三割となる金額をアロアに伝えた。
軍事にはあまり聡くない私からしてみても、とてもこんな倹しい生活を強いられている寒村には余るような金額には違いなかった。
リディアが言うと、アロアは「あの……」ともじもじと手を弄った。
「あの……私の村は去年の不作の影響がまだあって、とてもそんな額のお金は……」
「先立つものがなければ戦などできない。それが現実というものだよ」
「お姉様、それはいくらなんでも……!」
「アニエス、為政に下手な情けは禁物だ。悪いが口を挟まないでくれないか」
ピシャリ、と音が聞こえそうな口調だった。
通常、誰にでも物腰柔らか姉にしてみれば、いつになく取り付く島のない口調と言えた。
私が口を噤むと、アロアは小さく震えていた。
そして案の定――泣きそうな顔でアロアは頭を下げた。
「お願いします、リディア様――」
それは必死の声の嘆願だった。
「お願いします。私が何年かかってもその費用は必ずお支払い致します。このままでは村は冬が越せません。私にできることなら何でもします。どうか、どうか村をお救いください……!」
そう言って愛らしい顔を伏せたアロアを、私ですら不憫に思った。
思わず、助け舟を出すつもりで私が口を開きかけた時、ふう、とリディアが嘆息した。
「今――なんでもすると言ったな?」
低い、脅すような声だった。
途端に、アロアがびくっと震え、リディアは組んでいた脚を元に戻して立ち上がった。
アロアがリディアの顔を見上げた。
女性にしては高い方の身長のせいで、リディアがアロアを見下すような格好になる。
「どうなんだ?」
重ねて問われたアロアは、やがて覚悟を決めたような顔で「はい……」と小さく答えた。
その答えに満足したように、リディアがアロアの顎の下に指をかけ、くいっと上を向かせた。
「よし、いい子だ……」
くす、と、リディアが酷薄に微笑む。
その声に、アロアがギュッと目を強く閉じた。
一体何をするつもりなの、リディアお姉様……!?
私が慌てて止めようとした、その瞬間だった。
す……と動いた姉の右手が、アロアが髪に刺していた一輪の花に伸びた。
えっ? と驚いたように、アロアが目を開いてリディアを見た。
驚いている私たちの目の前で、リディアはその花に鼻先を寄せ――そして、これ以上なく妖艶に微笑んだ。
「それでは遠征費用として、君の村からはこの美しい一輪の花を貰い受けることとしよう。これにて交渉は成立だ――」
途端に、リディアの全身から不可視の波動が放たれ、公爵家の応接間に拡散した。
蠍の毒刺に打たれたように身体を硬直させたアロアの顔が、その波動を受け、ぶわあっと真っ赤になった。
その横で、流れ弾に当たった私の顔の方もぶわあっと真っ赤になった。
「アニエス」
「ひゃ――ひゃい!?」
「悪いが、私はこれからオーク討伐の兵を急ぎ興さねばならない。一週間ほど留守にすることになる。その間の父上の秘書を代わってくれるかい?」
「お、おまかせくだひゃい!」
私がレロレロと言うと、よしよしと言うようにリディアは頷き――そしてもう一度アロアを見て、蕩けるようなほほ笑みを浮かべた。
まさかのダメ押し――! 私が手に汗握っている横で、アロアの顔がますます紅潮した。
「さぁ、そうと決まればボヤボヤしてはいられない。戦の準備をすることとしようか。アロア、君はしばらくこの部屋でゆっくりしていくといい。それでは」
そう言って、リディアは颯爽とした足取りで部屋を出ていった。
リディアが消えた後、一瞬の沈黙があった。
「ずるぅ――――――――い! お姉様ずるぅ――――――――――い!!」
私が絶叫すると、うわっとアロアが声を上げた。
「なぁに今のイケメンな手口! 結局無料で人助けしてんのと一緒じゃない! 今日に限ってなんかやたら冷酷な事言うと思ったらそういうことだったのね! 一旦突き放しといて最後にみんな持っていくこの手練手管! こんなん絶対好きになっちゃうじゃない! ずるい! さすがずるいぞリディア・ウィスタリア! お姉様ずるい! ずるぅ――――――――い!!」
私は頭を掻き毟って、床をバンバンと叩き、しばらくずるいずるいと絶叫しながら転げ回った。
いい加減落ち着いてきたところで、私は唇の端からタプタプと流れ出た涎を拭った。
「んぷ……うぇろはぁ……!」
「だっ、大丈夫ですか……? 突然、あの、大丈夫ですか……?」
「えっ!? ああ、大丈夫大丈夫。すみませんね突然取り乱したりして」
思わず年下相手に敬語になりながら、私は握り拳を握り締めた。
「私はリディアという姉をまだまだ見くびっていたようね……これではあの姉から一本取るなんて夢のまた夢だったんだわ……! いつかあなたに必ずや吠え面かかせてやるから……! 見ていなさい、見てなさいよお姉様!」
「あ、あの、本当に大丈夫ですか……!?」
アロアにだいぶ心配されながら、私はそう決意を新たにしたのだった。
もう夏も近づいた、6月のことだった。
◆
美しい銀色の髪。
鋭さの中にも、どこか温かさを感じる翡翠色の瞳。
勇猛果敢と恐れられた父王譲りの勇猛さと、無駄なく完成されたしなやかな肉体を併せ持った麗人――。
今、隣の部屋で実に屈託なく姉のリディアと歓談している青年は、姉に負けず劣らず、美しく、そしてしなやかだ。
私はその実に楽しそうな二人の笑い声を隣の部屋で盗み聞きしながら、ハァ、とため息をついた。
ファリオン・デュランダル王太子――。
姉のリディアを見初めた美貌の王太子である。
ファリオン王子は諸外国にもその噂が聞こえるほどの美男子で、しかもウィスタリア公爵家とは代々良好な関係を築いている。
そんなわけで私たち姉妹は物心付く前からファリオン王子とは兄妹であるかのように育ち、いずれはそのどちらかが彼と家族になるだろうことを予感していた。
事実、社交界で姉のリディアとファリオン王子が一緒にいれば、周囲にはため息が渦巻き、将来はきっとお似合いの夫婦になるだろうと羨望の声が上がる。
一方、私は――。
私は何度目かのため息をついた。
それに引き換え、私は「ウィスタリアのじゃない方」の令嬢だ。
リディアのような、天が与えたとしか思えない美貌も、外を圧倒する叡智も、冴え渡る剣の腕も、何ひとつ持っていない。
そんな私が王太子に見初められないのは当たり前だけれど。
だからといって――流石に何も感じないほど、鈍感なわけではない。
くすくす……と、リディアの鈴を転がすような笑い声が聞こえた。
それと併せて、ファリオン王子の低い笑声も聞こえてきて、私の心にちくちくとささくれが立った。
私だって、と思う。
私だって、公爵家の子女なのに。
私だって、ファリオン王子に恋をしたっていいはずなのに。
けれど――「じゃない方」の私にはそんなことが言えるわけがない。
はぁ、と私はため息をついた。
「ずるいなぁ――」
私はそう独りごちた。
それは姉のリディアに向けてのものではなかった。
美貌も、賢さも、強さも、なにひとつ自分には与えてくれなかった、私を創り出した何者かへのぼやきだった。
◆
「アニエス――最近顔を見せてくれなかったじゃないか。体調でも優れないのかい?」
ファリオン王子が、ちょっと意を決したように言った。
あのリディアとのお茶会の後、ファリオン王子にどうしてもと誘われて、庭を歩いていた時のことだった。
リディアとのお茶の後、ファリオン王子は必ず私と会話しようとする。
ちょっと庭を歩こうとか、お茶を飲もうとか、そういう話をしたがる。
無論――最近の私はそれをなにかに理由をつけて断っていた。
遂に来たか、と内心のため息を押し殺して、私はふいと横に視線を逸らした。
私たちは、日が暮れるまでどろんこになって遊んだ、もうあのときのような子供ではなかった。
姉はますます美しく、賢くなり、それと競うようにして、ファリオン王子も強く、かっこよくなっていった。
私だけが、唯一私だけが――世界に取り残されたかのように、凡庸で、地味で、そして卑屈に育った。
今や私は「じゃない方」の妹――私のようなイモい娘が、輝くような美貌を持ったこの王太子と一緒にいるところなんて、考えただけで寒気がするようにさえなっていた。
私はちょっと返答に困ってから、ぼそっと言った。
「……別に、そんなわけじゃありませんわ。ただ、殿下とお姉様の仲を邪魔しないように心がけているだけです」
自分で言っていても棘のある物言いに聞こえた。
案の定、えっ? とファリオン王子はちょっと驚いたように私を見た。
「それは――どういう意味だ?」
「残酷な事を訊きますのね。わかってるくせに――」
皮肉げに微笑んだ私に、ファリオン王子は私の前に回った。
「アニエス、今の言葉を説明してくれ。どうして僕とリディアの話になる。僕は君の話をしているんだ」
ファリオン王子に、私は視線を合わせようとしなかった。
「僕とリディアがなんだって? 僕は君と会話がしたいと言ってるんだ。それなのに最近、君は満足に僕の前に姿すら見せてくれない。その理由はリディアに関係があるというのか。どういうことだ?」
ちょっと怒ったように、ファリオン王子が問い質した。
ああ、この王子様は本当に一途で不器用だ。
一途で、不器用で、そして――私の気持ちにはいつだって鈍感だ。
私は目線を背けながらぼそぼそと言った。
「わかっておりますでしょう? 姉のリディアと比べて、私は地味でパッとしない出涸らしの妹ですわ。そんな私があなたのお隣にいるだけで、どれだけ惨めな思いをするか――考えたことはありますか?」
「な――」
ファリオン王子が絶句した。
一度本心をぶちまけてしまうと、もう止まらなかった。
私は唇を噛み締め、責めるように王子を見上げた。
「私はずっとお姉様が――リディアが羨ましかった。リディアなら、あなたの隣りにいても誰もが赦してくれる。一方私はどう? あなたの側に立つことすら誰も赦してはくれない。お前には不釣り合いだ、そこを退け、姉に立場を譲れと――みんなそう言うことでしょう……」
驚愕の表情を浮かべるファリオン王子の顔が、白くぼやけた。
やっぱり、この人は気づいていなかったんだ。
私が抱える劣等感にも。
私が抱いていた思いにも。
その絶望を感じながら、私はわなわなと震えた。
「私だって――私だって、あなたと恋がしたかった! あなたの隣に立っても誰にも文句を言われない人間に生まれたかった! ずるい、ずるいですわ、お姉様もあなたも……! 私にはなにひとつ許されなかったのに、私にはあなたの隣に立つことすら赦されないというのに――!」
遂に感情が爆発してしまい、わっと私はその場にしゃがみこんだ。
わんわんと顔を覆って泣きわめく私の姿は――きっと無様で、これ以上なく見苦しかったに違いない。
「アニエス……」
そっと、ファリオン王子の手が肩に置かれた。
耐えられなかった。
その僅かな重さも。
そこから伝わる温かさも。
全てがお情けでしかない、この状況そのものが。
私はその手を鋭く振り払って、わけもわからず走り出した。
◆
「アニエス――!」
公爵家の廊下で、驚愕の表情を浮かべるリディアとバッタリ出会ってしまった。
リディアは滅多になく取り乱したような表情で、私の肩を抱いた。
「凄い悲鳴が聞こえたぞ。何があった、アニエス。説明しろ」
姉は美しい顔を凍らせて鋭く問い質した。
こんな表情を見られたくなかった。
少なくとも――この姉にだけは。
「お姉様には関係ありません! 離してください!」
私は涙声で身体を捩ろうとした。
途端に、私の両肩を抱いた手に信じられないぐらい強い力が入った。
「アニエス!」
リディアの一喝に、思わず知らず身体が竦んだ。
リディアは鬼のような表情で言った。
「ファリオン殿下か? そうだな?」
断定する口調で質されて、私は口を噤んで俯いた。
私の無言から何を悟ったのか、リディアはぐっと奥歯を噛み締めた。
リディアは私の肩を離し、つかつかと何処かへ歩いていこうとする。
その背中から凄まじく尖った殺気が放たれているのを見て、私は慌てて言った。
「おっ、お姉様――!?」
「ファリオンめ――よりにもよって私のアニエスを泣かせるとは……! いくら王太子と雖も許さん! 鉄拳制裁してくれるわ!」
その一言に――私は今までの絶望も忘れて、大いに慌てた。
誰にでも物腰柔らかなこの姉は、反面、一度言い出したら絶対に退かない。
殴ると決めたら、たとえ海を越えようが地の果てまで行こうが、必ず追い詰めて鉄拳を食らわす――そういう人だった。
思わず、私はツカツカと歩いていく姉の腰のあたりに取りすがった。
「お姉様! お姉様おやめください! 殿下を殴るなんてやめてください! 違います、これは違いますの――!」
「何が違うというのだ! お前とファリオンめが一緒にいて、そしたらお前が泣き喚いて帰ってきたのだ! ファリオンのほかに誰を疑う!?」
「違います! お姉様、私は、私はただ、お姉様がずるいから泣いているんです!」
「は――はぁ!?」
私の悲鳴のような一言に、リディアがぎょっと私を振り返った。
悲しさや悔しさとは違う涙と鼻水がズルズルと私の穴から漏れ出してきた。
「違う、違うんですの、お姉様……! 私はずっと、お姉様が羨ましかった! 美しくて、鈍感で、よく私を子供扱いするのに、いつも誰よりも優しくてカッコいい、ずるいずるいお姉様が……!」
私の告白に、リディアは美しい顔を硬直させた。
「ファリオン王子にはお姉様こそがお似合いだと思ってた! 私だってお姉様とファリオン殿下の仲を応援したかったのよ! でも出来なかった……私だってファリオン殿下が好きだから! だから一番ずるいのは私なんです! 大好きなお姉様やファリオン王子が幸せになることを認められない、ずるいと思ってしまう自分がズルくて、私は、私はそれが嫌で……!」
もはや意味不明の言葉を喚きながら、私は再び声を張り上げて泣いた。
その言葉を聞いて、リディアの美しい顔が奇妙に弛緩した。
それは、妹の私ですら初めて見る表情――。
いつも隙なく美しく、彫像のように完成されているリディアの表情から、すとんと何かが抜け落ちていた。
あんぐりと口を開け、放心したように視線を散漫させて、この世の誰よりも情けないような表情を浮かべていた。
私はその表情を見るのが辛くて、私は引きつけを起こしたように叫んだ。
「ごめんなさいお姉様……! こんな不出来で嫉妬深い妹をお許しになって!」
私は両手で顔を覆い、わっと叫んで走り出した。
そして自室に内鍵をかけて閉じ籠もり、ベッドに顔を押し付けて泣き喚いた。
◆
「大きくなったらどっちが私のオムコさんになる?」
「もちろんわたしよ」
「いいや、ぼくだ」
「わたしの方がお似合いだもん!」
「なにを! ぼくのほうがきみより背が高いんだぞ!」
「そんなひょろひょろじゃ、かいぶつにたべられちゃうもんね!」
「きみのほうこそ、そんなにチビじゃおうまさんにのれないぞ!」
「なによ!」
「なにを!」
「ダメ! けんかしないで!」
「え……」
「う……」
「わああああん! ふたりがけんかするところなんて見たくないよ! 私はふたりともオムコさんにする! だからけんかしないで!」
「あう……」
「ほ、ほんと?」
「ほんとうだもん! 私はふたりとずっといっしょだもん! 絶対にはなれないもん! わああああん!」
「も、もう泣かないで、アニエス」
「そうだよ、ごめんねアニエス」
「ひっぐ……ふたりとも、もうけんかしない?」
「しないよ」
「しないとも」
「わぁ、うれしい! ふたりとも、ずっとわたしと一緒よ!」
「うん!」
「もちろんさ!」
「やったぁ! ファリオ、お姉ちゃま、やくそくよ! おおきくなったらぜったいにわたしのオムコさんになってね!」
◆
「ファリオン王太子からお前宛に縁談が届いている」
この、顔も声も極めて不景気な父――ウィスタリア公爵からそう言われた時、私は卒倒しそうになった。
え? え? え? と私は三度ほど間抜けに訊き返し、それから酸欠の金魚のように口をパクパクさせ、最後に、うぇ? と意味不明の呻き声を上げた。
「お姉様に、ではなく?」
「いいや、お前にだ」
「お姉様でしょう?」
「何度読み直しても違う」
「いやだって、リディアお姉様は――」
「お前、大丈夫か? なにか悪いものでも食べたんじゃないのか?」
父は真剣に心配する声で言った。
私が口を噤むと、フゥ、と呆れたようなため息をついて、父は言った。
「少し考えればわかるだろう……リディアはこれから王国の騎士団に入る身だぞ、縁談なんぞ来るわけがなかろうに。ひょっと子供でもできようものなら騎士団には入れんのだからな」
「いや、でも……だからって私が……」
「ファリオン王子たっての御願いということだ。もしこれを断るようなことがあるなら屋敷より手ずから引きずり出してでも……と書いてある。お前、王子になにかしたんじゃないのか? これじゃ縁談と言うより脅迫文と一緒だ」
父は机の上の羊皮紙を見ながら私をじろりと睨めつけた。
私がぶんぶんと首を振ると、まぁいい、と父は言った。
「まぁ、昔からお前はファリオン殿下が大のお気に入りだったからな。小さい頃は王子とリディアを一緒に婿に取るとかなんとか言っとったし。殿下もよくよく細かいお人だ、あんな小さな頃の約束を律儀に守るとは――」
嬉しい、というよりは、その執念に呆れた、というように父は言った。
それでも……とまごついている私に向かって、父はハエでも追い払うかのように掌を振った。
「まぁ、一応お前の返事も答えねばならんのでな。一晩猶予をやる。それまでに色よい返答を考えておけ。お前には申し訳ないがこれは断れんぞ。断ろうもんなら鉄砲でも大砲でも持ち出してきそうな雰囲気だからな?」
そう言って、父は最後の最後、フフン、と口元を歪めた。
よく見れば姉にそっくりなその所作に――私は夢うつつで父の前を後にした。
◆
「お姉様! リディアお姉様!」
私は大声で先をゆくリディアを呼び止めた。
おや? というように、リディアは武人らしく、実にスマートな所作で振り返った。
「どうしたアニエス。父上に会うのではないのか?」
「一体アレはどういうことです!? 何故私のところにファリオン殿下からの縁談が来ますの!?」
私が言うと、姉は困ったように眉尻を下げた。
「何故、って……どうして私に関わりのあることだと? ファリオン殿下がそう願ったからそうなった、それ以外に何がある?」
「嘘ですわ! きっとお姉様がなにかしたに違いありません!」
私はあくまで疑う口調で姉を詰問した。
「だって、だってファリオン殿下はずっとお姉様のことを見初めていたはず――! だから私は必死になって身を退こうと――!」
「身を退く、か。身を退こうとする人間があんな風に泣き喚いたりするのかな」
その一言に、私の顔がぼわっと赤くなった。
リディアは皮肉げに苦笑した。
「私がファリオン王子のお気に入り、それはちょっと違うと思うぞ。私は確かにファリオン王子と懇意にさせてもらっているつもりだ。だがそれは――そうだな、いうなれば第一夫人と第二夫人の関係だよ」
「何を――おっしゃいますの?」
「要するにだ。昔からファリオン殿下はお前しか見ていない。お前があんな風になったからやっと決意が固まったのだろう」
何から何まで、わけがわからなかった。
私がぽかんとリディアを見ると、リディアは言った。
「最近のお前はファリオン殿下を見るなり、コソコソ逃げ回っていたからな……てっきりファリオン殿下はお前に嫌われたのだと、そう思っていたらしい。だがそうではなかった。そうではなかったと、お前の口からやっと聞けた」
「う……」
「今まで気の毒なぐらい王子は必死だったぞ。いつもお前に会う前にぼそぼそと、お前の気を惹く方法だの、喜ぶ贈り物の種類だの、私なんぞがわかるわけがないことまでいちいち相談していたからな――」
ファ!? と私は奇声を発した。
ということはつまり、ファリオン王子が公爵家に足繁く通っていたのは、リディアではなく私に会うため!?
あのリディアとファリオン王子の楽しそうな歓談は、全て私の気を惹くための恋愛相談だったというのか。
自分がとんでもない勘違いをしていた可能性に思い至って、私は口をあんぐりと開けた。
「ま、今回の縁談はなるべくしてなっただけだよ。私は何もしていない。したことと言えば、お前が部屋に引き籠もった後、男らしく覚悟を決めろとアイツのケツを蹴り飛ばしたことぐらいさ」
ケツは蹴ったんだ……ケラケラと笑いながら言う姉の声に、私は「でっ、でも!」と食い下がった。
「そっ、それなら……! 何故お姉様は私にそのことを伝えてくれなかったんですか! ファリオン殿下から私のことで相談を受けているって、一言言ってくだされば、私だってあんな風には……!」
そう、姉がそういう相談を受けていたことを私に伝えなかった事実。
その事実を握り潰し、私の耳に入らないように厳重に秘めていた、その理由。
それこそ、リディアがファリオン王子に密かに思いを寄せていた証左ではないのか。
私がそこまで言った途端だった。
やおらリディアの手が、す……と私の頬に触れた。
まるで恋人にするようなその所作に、私がドキッとした、その途端。
リディアは少しだけ寂しそうな表情と声で、言った。
「それは――だって、悔しいじゃないか。私だって可愛い妹をそう簡単に人手に渡したくはなかった。それが理由と言えば理由かな――」
低く、喩えようもなく妖艶な声。
姉の全身から凄まじい色気が噴出し、私の全身の肌がビリビリと震えた。
その瞳が妖しい光を放ち、私の魂を一気に飲み込んでしまったかのようだった。
心臓が見えない手に握り潰されたかのように収縮し、眼圧が急上昇し、涎が噴き出し、息が止まった。
あ、あう、と私が喘ぐように息をすると、リディアは愛しい者にそうするように、親指で私の目の下をさすった。
目先ひとつで城を傾け、指先ひとつで世を傾ける――。
リディアは再び艶然と微笑むと、名残惜しそうに私の頬から手を離し、サラリと私の髪を弄った。
「まぁ、ファリオン王子は色よい返事を期待していると思う。しっかり答えてあげるがいい。頑張るんだぞ、アニエス」
そう言って、姉はカツカツと編上げ軍靴の踵を鳴らし、颯爽と去っていってしまった。
まるで心を奪われたかのように、私はだらんと全身の筋肉を弛緩させ、その後姿をいつまでも見送り続けた。
「お姉様、ずるい――」
やっと、私の喉がそう絞り出した。
そう、私の姉はずるい。
たぶん、世界一ずるい人だ。
誰よりもズルくて、カッコよくて、優しくて、そしていい匂いがする、大好きな私のお姉様――。
「流石お姉様、ずるい、ずるいですわ――」
私は、また一本取られた事を悟った。
いいや――多分一生、私はあの姉に翻弄され続けるのだろう。
私が心よりそう悟ったのは、もう間もなく夏も終わりを迎えようとする、8月の暑い日のことだった。
ここまでお読み頂きありがとうございました。
空前の「お姉様、ずるい!」ブームと聞いてやってしまいました。
書き上がるのに半月かかる難産な作品となりましたが気に入っていただければ幸いです。
もし気に入っていただけましたら、下の★★★★★から是非評価お願い致します。
【VS】
もしよければ、これらの連載作品もよろしくお願い致します。
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