55.5.記録者の遠視-傲慢
天才ニースンク・アローの最初の記憶は母の胎内から始まった。
己という存在を自覚した時、ニースンク——ニースが初めて抱いた感情は畏敬であった。
既に胎児の己よりも遥かに脆弱な存在としか思えない母が、己の生命力を削りながらもニースを己の中で育もうとしていることに彼は震えた。
愛とはかくも偉大なり! 己が産まれんとする世界はかくも素晴らしきか!
そうした畏敬の念からニースは母であるジョセフィーヌ・アローと同じく女性として産まれようとしていたが、ジョセフィーヌは腹の子が男児であることを願ったため、男として産まれることを選択した。
特別な存在であるニースは特別な力があった。
ニースはどうやら人間の感情と思考、記憶を読み取ることが出来るようであった。
それはおそらく生命の采配を司る遥か偉大なる存在の思し召しか、それとも無作為に割り当てられた配分の帰結なのかは知る由もなかったが、とにかく彼はその生まれ持っての力を存分に行使した。
そうは言っても、胎児であるニースに読み取ることができる対象は母であるジョセフィーヌだけであったが。
そうしてニースは母の知識と感情、記憶を読み取って数多くの発見をした。
己と他人を比較して、常に心を波立たせる愚かしさ。
他人からの評価を気にして、本来の自分から乖離した自己を振る舞う愚かしさ。
己の弱さを隠すために他人を心の内外を問わず卑しめ攻撃する愚かしさ。
他人の幸福によって自己の幸福への自信を喪失する愚かしさ。
おお! 愚かなり人間!
人間という存在の愚かさと脆弱さ、それから生じる醜悪さ。
ニースは己の誕生はこうした悲劇から人間を救うためであると考えるようになっていた。
胎児にしてあまりに特別な存在、人間の中で考えられる限りでも最高峰の出自、そして人間の弱さを知る力は、彼に救世主へと至る道を示唆していると。
そして彼は、母の懐妊から二ヶ月にして産まれてきた。
異様な成長速度ではあったが見るからに未熟児であった。
しかし、己の肉体的な自立を確信して彼は世界に踏み出さんとしたのである。
母の嘆き、周囲の嘆きと暗い歓びを味わいながら、産道を経て彼は待ち望んだ世界に飛び出た。
——苦しい。
産まれて最初に知覚したのは寒さと暗闇だった。
一泣きして、自発呼吸を可能にするのにも困難を伴った。
痛覚は未発達で、それでも魂は生命活動の苦痛に悶えるのを自覚した。
身体を動かすのにも多大な困難が伴った。
――これが生命か。
――母よりも己は遥かに脆弱で愚かな存在であったのか。
――おそらく私は今、世界で最も愚昧で矮小で脆弱な人間であるが、なるほど、これは苦しい。
――生まれし世界はかくも苦痛に満ちている。
――それならば、私は、この世界の全てを我が力の全てを使い果たしてでも救わねばならぬ。
そう決意して彼は奮闘して立ち上がろうとした。
未だに世界に光は宿らず、生命を蝕む寒さを感じながら、やがてニースは立ち上がった。
「我、人類を救う者である」
残念ながら、未熟な発声器官のために周囲が理解可能な言葉を紡ぐことはなかった。
周囲にとってはあまりに衝撃的な誕生であったが、その後もニースはアロー侯爵家だけでなく、中央貴族たちを騒がせ続けた。
ニースはあまりに天才であった。
齢一つにして、王国の共通語であるヤルゴン語と魔法を行使する上で用いる古代精霊語を修めた。
齢二つにして武の鍛錬を初めて、竜気と霊気を発現した。
齢三つにして、王国魔法学院に入学した。
齢五つにして、魔道具に革新的な機構を作り上げ、魔法理論をより数理的に精緻化し、失伝魔法として知られる『フラッシュレイ』を再現した。
これにより学士号を授与され、更に霊勲章を授与された。
余談であるが彼が称賛された魔法研究は片手間の産物であり、彼自身は植物及び農耕についての魔法応用の研究を主に行なっていた。
しかしそちらはほとんど評価されなかったどころか、「君らその貴重な能力を非効率に浪費している!」と学長に呼び出されて説教される程だった。
齢七つにして王国騎士団第一師団に入隊した。
十五で除隊するまでに大龍勲章と七つの小竜勲章を授かり、これは王国騎士団でも異例中の異例であった。
齢十一にして名代としてアロー領の飛地である『ウェザー』で実権を奮った。
ウェザーはやがて魔道具産業の新たな集積地となった。
齢十五にして宗門に入り、以降は聖令教の厚き信徒として活動を開始した。
同時期にアロー侯爵家の次期当主の座を新たに産まれた弟に譲り、王国騎士を辞任した。
魔物討伐、貧者の救済、信仰篤さのために多大な献身を果たす姿から、三十にして聖人に指定される。
ニースは非常に華々しい経歴の果てに、俗世の煩わしさから、教えと人々のために尽くす聖人となったと周囲からは思われた。
しかし、実際にはニースは最初から全て人間を救うことを目的として、一貫してそれを達成するために行動していたのである。
幼児であったニースはよくアロー家が所有する庭園を訪れた。
母が趣味で育てる花卉は美しかったが、彼はそれよりも地に深く根付き青々と茂る樹木を気に入っていた。
植物にも感情があるが、それは人間や他の生物よりも遥かに微弱で、しかし記憶は確と刻まれている。
彼は植物を美しい生物であると考えていた。
人間の辿り着くべきは此処ではないかと。
その思いは二つの存在を知ることで、より強さを増していった。
齢七つの時に、後の剣聖であるアレクセイと邂逅した。
異様に強い老いた野蛮人が野山から降りて来たというのが当時の周囲の評であったが、ニースは一目でアレクセイの本質的異常を見抜いた。
あらゆる生命を斬り殺し、その魂を喰らうことで位階の極地に辿り着いた者。
そして位階から外れたモノ。
あらゆる魂がアレクセイを押し上げていき、アレクセイは位階の極地に到達する。
そして、何かの拍子にその位階の階梯から抜け出してしまったのだ。
——『亜神』。
アレクセイという存在を分類するならばその呼び方が適切なのだろう。
あまりに強き存在は、ニースの救い等は不要であった。
そして、ニースは人間の底知れない可能性を確信し、己の果たさんとする使命を果たすことが不可能ではないことを示していた。
人間には素晴らしき可能性がある。
しかし、このアレクセイは決して人間の目指すべき存在ではない。
彼の在り方は果てなき闘争心であり、それは救われていることからは遥かに隔絶していた。
アレクセイの心は常に闘争にのみ傾いていた。
弟子を取るのも、弟子の中から有望な剣士が生まれたら、麦を収穫する農夫のようにその首を刈り取る為である。
人間が目指すべき強さでは、物語を持たない強さではないのだ。
ニースはそう確信していた。
そして、齢十五にして出逢ったのが、彼と方向性で軌を一にするもう一つの亜神である。
それはこの国の創始者であり、ニースの祖先である。
王国を陰から支配する歴史上の存在であり、王国を盤石にして、人々が魔物や魔人族に脅かされることなく生きる場を守るために尽力する存在である。
その心は常に王国と民の繁栄に傾かられていた。
人類が過度に発展したり、窮乏したりせずに、安定した状態を維持することを心から望んでいたのである。
創始者は、その精神性から確かにニースの祖先であると、ニースは確信していた。
そして創始者もまたニースを非常に見込んでいた。
彼はニースに現王家であるマーシャル家に代わる王朝を興さないかと密かに提案した。
王国をより良くしていくためにニースの力を借りたいと。
その為にもまずは勇者となって武勲を再び立てよと。
しかしニースは固辞した。
創始者もマーシャル家も王国を維持する上では良くやっているとニースは考えていた。
しかし、それは人間を幸福にするには程遠い。
ニースは嘘を、盗みを、殺人を、哀しみを、憎しみー、この世界から消したいのである。
それには人間という存在を更新しなければいけない。
人間には物語が必要である。
しかし、各自の個別の物語は衝突と闘争を避けられない。
それならば全ての人間が一つの物語に包摂されるか、あるいは、あたかも一つの幸福な物語を形成するように調整することが必要である。
それを実行するためには王国を維持、繁栄させるだけでは足りないのである。
王位は一見己の目的を達成するための手札になりうるように思われたが、おそらくこの創始者が常に傍にいるようになれば達成は困難であろう。
協賛を得ようにも創始者はニースの目的に力を貸すとは思えなかったのだ。
考え抜いた結果、魔物にすら変貌を遂げる必要があると彼は判断した。
そうして、ニースンク・アローという『人間』は滅び、人間の幸福を傲慢に実現しようとする『魔物』が誕生した。
ニースがその精神と魂が変容する前に、己の行動律を定めた行動に沿って動く傲慢な怪物である。
重魔スペルビアは常に己の考える人間の幸福を実現する為に機械的に計算を弾き行動をする。
しかし、そのアルゴリズムを定めたニースはどれだけの天才であっても、人間であり、人間は根本的な誤りに独りでは気付くことが出来ない存在である。
ゴミを入れればゴミが出てくる。
故に重魔スペルビアは常に誤った行動律の下で誤った判断を下していくのだ。
どこかの青年は、この記録を知ればこう言うのだろう。
「お前が本当に救いたかったのは、全人類とかでなくて、母親と自分だったんじゃねえの」
しかし、おそらく彼はニースについての記録を知ることはなく、そして、ニースは既に存在しない。
存在するのは、ニースという人間の虚ろに過ぎない重魔スペルビアである。
故に彼らの対立は免れないのである。




