開幕-善人ヒックスと道化の神の契約
残念ながら邪悪な人間というものは存在する。
そして、邪悪な人間が権力や武力を手にしていると不幸になる人間も必ず出てくる。
それは現代日本でも、そしてこのファンタジーな世界でも適用される法則であるようだ。
哀れな青年ヒックスはそうした邪悪な人間のせいで不幸となった善人である。
彼の不幸は三つに大別できる。
第一に、彼が住む土地の領主が非常に貪欲で悪辣であったことだ。
悪徳領主は、商家であるヒックス家にあらぬ罪を着せた。
そして、ヒックス家を罪人として追放し、その財産を接収した。
第二に、彼の幼馴染みで片想いしていた少女が、勇者の要請によって彼の仲間になったことだ。
その少女は特別な力を持っていて、また見た目が美しかったため、勇者の目に留まったのである。
そしてヒックスは、少女の望みで勇者の仲間として、彼らの乱痴気騒ぎに加担したのである。
勇者の仲間は勇者とヒックス以外は女性ばかりで、彼は非常に居心地の悪さを感じていた。
それだけでなく、ほとんど全ての仲間から疎まれて皮肉や陰口を言われ、一部からは直接的に、肉体的、精神的に著しい迫害を受けていた。
そうした不幸な境遇の結末として、現在、彼は仲間たちが逃げるための捨て駒として敵と対峙していた。
ヒックス君と対峙するは強大な魔物だ。
無機質で、大地の怒りを体現したような巨大な土の人形である。
それは当世の人間の技術力を結集して建てられた教会にも匹敵する巨体を誇り、その巨体への畏怖を込めて呼ばれる名は重魔イノーマシである。
非常に安直であるが、この世界の人間のセンスはこの程度である。啓蒙が足りていない。
この重魔イノーマシ、実は勇者どころか、現在共に行動しているメンバーならばヒックス君とその幼馴染み以外は単騎で勝てるらしい。
しかし、勇者は善人ヒックス君に肉盾になるよう遠回しに命令した。
勇者は自分のハーレムパーティに居座る唯一の邪魔な男を始末したかったのである。
ヒックス君を死に追いやるために彼は弁舌を振るう。
曰く、「イノーマシは精霊が魔物に堕ちたものである」
曰く、「重魔イノーマシはたとえ魔物に堕ちても悪人しか襲わない。悪党の家に生まれたお前がいれば善人である俺たちまで襲われる可能性がある」
曰く、「しかし、俺はお前を本当は善人だとも思っている。だから、無事に単独で戻ってきてお前の無垢を示して欲しい」
二つ目と三つ目で明らかに矛盾している。
しかし、重魔イノーマシが迫ってきていることへの焦りや、最初からヒックス君を見捨てる意図があるために、誰一人としてその矛盾を指摘する者はいなかった。
ちなみに重魔イノーマシが襲ってきたのは、重魔イノーマシが守護していた遺跡に勇者が立ち入ってそこに収められていた財宝を盗んだからである。
流石に性善説を地で行く善人ヒックス君も勇者の戯言を信じなかった。
しかし、やかましく同意する取り巻きの女たちと、自分の生家の誇りのために彼は勇者の言葉に同意した。善人で気弱な彼は同意せざるを得なかった。
彼の生命の恩人で唯一の味方である幼馴染みは反対してくれたが、大勢を変えることは能なかった。
そして勇者たちが逃げ出す中で、善人ヒックス君は独りだけその場に立ち止まって重魔イノーマシと向き合った。
重魔イノーマシは猛然と膝を震わせるヒックス君に突進した。
それは勇者ともう一人の魔法使いが彼に内密に魔物寄せの魔法をかけたことが原因であった。
勇者のあまりの念入り振りに、勇者のヒックス君の幼馴染への執心が見て取れた。
そしてヒックス君はイノーマシに吹き飛ばされて致命傷を負った。
あとは死を待つばかりである。
残酷な運命に弄ばれた人生は17歳と9か月で幕を閉じることを決定づけられていた。
そして文字通りに破れかぶれになり、虫の息なヒックス君の眼前に三つ目の不幸が現れた。
『このまま終わる名も無き烏でいいのかい?』
幼い少年の声である。
声の正体は小さな道化師の格好をしていた。
目元は仮面で隠されているが、その瞳には嘲りの色が浮かんでいる。
それはヒックス君を嘲っているというよりも、この世のあらゆるものを対象にしているようであった。
寂しそうな人だな、と死を待つばかりのヒックス君はその少年を見て思った。
『望むのならば大いなる力をあげよう』
悪辣な笑みを浮かべながら、少年は続けた。
しかし、瀕死のヒックス君が力を手に入れても死を待つばかりである。
力を貰っても使えそうにない。
「君は……? ここは、危ないから、逃げるんだ……」
善人ヒックス君はもはや喋ることもできないが、そう彼に伝えようとした。
彼は自分の死に間際でも他人の身を心配する男なのだ。
底抜けの愚かなまでにお人好しな性分なのである。
『僕は道化の神。どこまでも不幸な君に幸運を届けにきたのさ。何も問題はない。安心したまえ』
その言葉の中に安心できる要素は一つもない。
しかし善人ヒックス君は安堵して、それから問いかけた。
正確には言葉ではなく、思念でのやり取りであるが。
「神さまなら、私でなく、ラファータに。彼女のこれから先の運命に祝福を与えてください。死にゆく私はどうなってもいいから、彼女が悲しむことがないように……」
ラファータというのは彼の幼馴染みの懸想相手だ。
今にも息絶えそうな死にかけヒックス君はそれでも他人の相手をしているのである。
もはや恐ろしいまでの愚かさである。
お前が死んで、彼女が悲しむことがないと本気で思っているのか。
……それに、道化の神の加護なんぞ、ろくでもなさそうだが大丈夫だろうか。
『ラファータね。彼女はこのままだと絶望に苦しんで、苦しんで、苦しむことになるね』
意地の悪い笑みを浮かべながら道化の神は告げる。
もっと具体的に言えという感じだが、見るからに性格が悪そうなこのクソガキに期待するだけ肩透かしを食らうだけだろう。
しかしヒックス君の瞳に嘆願の色が宿る。
「彼女には、天寿を全うして欲しいんだ」
『ふむ、天寿、天寿、ねえ? それは今のままでは叶わないな。さて、ジョーリ・ヒックス君、彼女を救う力が欲しいか?』
「欲しい」
道化の神の言葉にヒックス君は即答した。
『如何なる犠牲も払うか?』
「僕の全てを捧げる」
彼の宣言には一切の迷いがなかった。
道化の神は邪悪な笑みを深めた。
『よろしい。それではここに契約を結ぼう』
鈍い光が道化の神の手から漂うように飛び出て泳ぐようにヒックスの体に辿り着いた。
光が入り込むと共に、ヒックスの体が嘘のように元通りに復元されていった。
まるで時間が巻き戻ったかのような回復である。
「……こ、これは……凄いです! 神さま!」
「そうだろう、そうだろう。さあて、それじゃあジョーリ・ヒックス君。君に選択肢を二つ与えよう』
道化の神は意地の悪そうな顔をしたまま提案をする。
これはろくでもない選択を強いられるのは明白だった。
『一つ、特殊な力を手に入れてこのまま勇者やその他のくそったれどもを見返してやる。二つ、幼い頃からやり直して不幸な人生を修正する。さあ、どっち?』
この神があまりに性格が悪いのはここまでの流れて明らかである。
この神に強力な力を貰っても間違いなくそれを凌駕するデメリットがつくのだろう。
たとえば、ラファータという幼馴染の代わりに別の親しい人間が不幸になるだとか、未来を変えれば変えるほど不幸になる人間が増えるだとか。
そうした悪辣で遣る瀬無い出来事が起きてもおかしくない。
そして、過去に戻るとか、確実に大きなデメリットがあるだろう。
ただでさえハードモードであるのに今度はルナティックモードに突入だとか、過去に戻ったのは良いが、未来は一切変えられないだとか。
そうした底意地の悪い罠が潜んでいるのではないだろうか。
「こうして生命を繋いでもらっただけで、もう十分です。本当にありがとうございます。これ以上はこの身に過ぎたものでしょう。私でなくラファータの行末に幸いを与えてあげてください」
お人好しヒックス君は道化の神の底意地の悪さを看破したわけではなさそうだが、神の提案を退けたのは正解だったように思われた。
ラファータの将来に道化の神に祝福させるのは絶対にやめた方がいいとは思うが。
『素晴らしい! なんて神が好む回答だ。その謙虚さ、配慮、高潔さ、まさに加護を受けるに相応しい器だよ』
しかし道化の神はどこまでも厄介な神である。
聞く耳を母親の胎の中に置いてきたのだろうか。
「あの、お気持ちだけで充分です。早くラファータと、勇者様の下に戻りたいのですが」
ヒックス君はまだ彼らに従うつもりらしい。
勇者に捨て駒にされ、ハーレム要員に疎まれて馬鹿にされて、懸想しているラファータとは結ばれそうにもない。おそらく再び虐げられ、死の淵に追い込まれるだろう。
それでも彼は構わないのである。
愚かな青年である。
どこまでも愚かで真っ直ぐな青年である。
しかし道化の神はやはり聞く耳を持たずに話を進める。
『さあ、そんな君には神として恩寵を与えなければいけないね』
「えっ、ですから、あの……」
――唐突に『俺』は有名な『木こりと泉の女神の話』を連想した。
木こりは鉄の斧を泉に落とした。
泉の精は金の斧と銀の斧を木こりに提示する。
木こりは正直に申告する。
正直者の木こりは金の斧と銀の斧を手に入れる。
さて、最初に落とした鉄の斧はどうなったのだろうか。
『君には強力な力を授けて過去に戻してあげるよ。さらに大判振舞いで現在にも戻って来られる親切設計だ!』
「いや、ですから私はそれよりもラファータの幸運を……」
しかし、ヒックスが言葉を続けることは能わなかった。
『俺』の意識がヒックス君へと急速に引き寄せられて、その中に押し込まれた。
俺は夢うつつの中で驚きともに納得していた。
本来ここにいるはずの無い自分の意識が、このやり取りを観測していたのは、この為だったのかと。
――善人ヒックスは大きく分けて『四つ』の不幸に苛まれた。
一つ、悪徳領主に一家が罪人であると濡れ衣を着せられたこと。
二つ、屑勇者に片思いの幼馴染みを狙われたこと。
三つ、クソガキの邪神のオモチャにされたこと。
そして、四つ目。
代理人である『俺』に自分の生涯の全てを塗り潰されること。
『それでは喜劇を開幕しようじゃないか』