8.過去-平穏な日々
今日は午前からシーフィアとラファータと共に街外れの小高い草原の丘を訪れていた。
付き添いとしてヒックス家の長兄も一緒で、彼はいつものように柔和な笑みを浮かべて、幼い俺たちを見守っていた。
この長兄は現在15歳で、俺の知るヒックス君にも年齢が近いため、何となくヒックス君と重なるところがある。
ラファータも長兄にはそれとなく視線を向けることが多い。
この年頃はやはり年上の優しいお兄さんに憧れてしまうものなのだろうか。
これはヒックス君的には望ましくないだろう。
12年後にはヒックス君は長兄によく似た男になるから少し待つんだラファータよ。
草原は非常に心地が良い場所であった。
穏やかな風が草葉を揺らし、青い空と白い雲のコントラストが美しい。
それは一枚の絵画のような光景だ。
美しい景色は人間の心を穏やかにするものだ。
無言で景色を楽しんでいると、シーフィアが駆けて草葉の中に倒れ込んだ。
痛い思いをして泣いてないかと少し心配しながら見守ったが、幼い少女はくすぐったそうに笑っていた。
――この世界は美しいな。
「こんな時間がいつまでも続いたら良いのに」
ラファータはぽつりと呟いた。
俺もそう思う。
しかし、本当はここにいるべきなのは代理人でなくて俺であるべきで、俺の出る幕ではないのだ。
世界はほとんど完璧だが、俺のせいで世界は完璧にならない。
ヒックス君も同じように空を見ているのだろうか。
雨に打たれたり、風に吹かれたりしていないだろうか。
俺たちと同じ時間を過ごしているのだろうか。
道化の神は何も語らなかった。
俺が、自覚がないだけでヒックス君本人であるとは思わない。
俺は、空っぽを固めたような人間で、ヒックス君のような中身のある人間ではない。
たとえ本当に俺自身が空虚な存在だろうと、そうではない何者だろうと、正直興味が無い。
人間は己がなりたいものになっていくのだ。
意思が行動を生み、行動は習慣を形成し、習慣は人格を変容させていく。
内発的な動機は重要であるが、外界の情報に触れて、それはアメーバのように形を変えて表出する。
世界を救いたいと考える人間は、偉大な発明家になるかもしれないし、もしかしたら恐ろしい殺人鬼になるかもしれない。
何者であるかは、内発的動機に大きく関わると思うが、それは全てではないし、仮に全てだとしても、理性を以って行動を客観的或いは間主観的な善へと向けていくべきだろう。
俺は自分が何者であろうと、ヒックス君とラファータを助けることが定められているし、それを行うことが嫌でないと思っているし、シーフィアみたいな可愛いらしい女の子が不幸な目に遭うのを見過ごしたいとは思わない。
それならば、もっと強くなるしかない。
竜気と魔法をもっと研ぎ澄まして、この先で降り掛かる脅威に備えるしかない。
それに死に戻りといってもやはり死ぬことは辛いし、出来るだけ死なないようにしたい。
本来ならば一回で充分過ぎるくらいだし、出来れば一回も味わいたく無いものだろう。
ヒックス君、君が早く戻って来られるように俺は強くなってやるさ。
とりあえずあの強力な魔物を倒すのが目下の目標だ。
麻袋で草滑りをしたり、草を使って引っ張り合いをしたり、昆虫を見つけて観察したりしている内な穏やかな時間は過ぎて行った。
……それにしても平和だ。
十二年後でも、二十年後でも、更にその先でもシーフィアやラファータたちがこうした平和な時間を過ごせるようにしなければいけないよな。
その頃には彼女たちは母親になっているかもしれない。
今度は子どもたちを連れて、もっとたくさんの笑顔がこの場に満ちているのかもしれない。
明るい未来は現在への希望をくれるものだ。
希望は人間に活力を与えるものだろう。
一通り遊んだところで昼食を食べながら談笑をする。
ちなみに食事は挽いた小麦を水に溶かしてから薄く伸ばし、そこにチーズやら煮豆やらを詰めて巻いたものだ。
まあ、ほぼブリトーだな。
「お兄ちゃんはね、ぶじゅちゅをがんばってるんだよ!」
シーフィアが、自分のことのように誇らしそうに言う。
「……すごいね」
ラファータが俺を見ながらシーフィアに相槌を打った。
しかし、5歳のラファータは物静かな子だな。
確かに、ヒックス君の記憶でも内気で恥ずかしがり屋な女の子だったとは思う。
しかし、何か違和感があるんだよな。
その正体は中々掴めない。
俺は直観があまり優れている方ではないからな。
「それに、エミールお兄ちゃんは、おとーさまのおてちゅだい、がんばってるんだよ」
エミールというのは、ヒックス家の長兄だ。
ヒックス君とは歳が10だけ離れていて、今は15歳の少年である。
シーフィアはヒックス君以外には名前をつけて兄呼びしている。
最も年齢が近く、一緒に行動することが多いからだろう。
「はは、シーフィアはよく見ているね」
長兄はそう言って、柔和に笑う。
「うん! それにね! えっとね! ロベルトお兄ちゃんは、いっぱいおともだちがいるし、マーチンお兄ちゃんは、おべんきょうをたくさんがんばっているんだよ!」
シーフィアは長兄の褒め言葉で嬉しくなったのか他の兄についても言及した。
「シーちゃんには素敵なお兄ちゃんがたくさんいるんだね」
「うん!」
「私には兄……兄弟がいないから、羨ましいな」
今のラファータはこの世界のご時世では珍しい一人娘だ。
息子一人でも珍しいのに、娘だけというのは本当に不思議だ。
「ラファータちゃんも僕の妹みたいなものだよ。僕のことをお兄ちゃんと思ってくれていいよ」
長兄が、優しい笑顔でそう声をかけた。
おい、イケメン過ぎるからやめてくれ。
俺がヒックス君だったら絶対に嫉妬しているぞ。
いや、この時のヒックス君はまだラファータに恋愛感情がないから同じように「自分もラファータの兄弟だよ」って言うだろうか。
うーむ、しかしヒックス君の恋愛を考えると兄弟的な意識というのは恋愛の対象から外れてしまうのではないだろうか。
いや、逆に背徳感があって盛り上がるか? いや、それはそれで彼らの今後が心配だ。
「そうしたらラーお姉ちゃんだね!」
「ふふ、そうだね。シーちゃんもエミールさんもありがとう」
少し悶々と考えている間にこの会話は流れてしまったらしい。
いかんな。やはり恋愛は俺には無理だ。
誰か、強力な味方が必要だ。
「……それで、ジョーリは武術が好きなの?」
ラファータはそう問いかける。
以前にシーフィアにも聞かれたが、どうだろうか。
最近は竜気を覚えたり、魔法を使ったりすること自体は達成感を覚えているのは否定できない。
しかし、痛いのも苦しいのも嫌いだから、それを必然的に伴う武術も、好きとは言い難い。
「まあまあ、かな。痛いのは好きじゃないけど、やり甲斐はそれなりにあるよ」
「……そう」
ラファータは少し考え込むような仕草をした。
あまり子どもらしくない仕草だった。
「ラファータのやりたいことって何かある?」
「……私のやりたいこと?」
ラファータはきょとんとした。
今度は年相応な雰囲気だ。
ラファータは12年後の現在では聖女としての使命に目覚めているようだったが、今のラファータはどうなんだろうか。
やはり多くの人を救いたいと思うならば、ヒックス君の恋心的にはやや不利だが、ラファータにその道を進ませたいとヒックス君は考えるだろう。
それならば、それに合わせて戦略を立てる必要があるだろうか。
ラファータが聖女にならないとヒックス家が処刑を免れることが出来ない可能性もあるしな。
「……私は……わからないよ……なにも……」
ラファータは何だか辛そうな顔で答えた。
自分の癒しの力には気付いていると思うが、今は扱いに悩んでいるのだろうか。
もしかしたら家族にもこの力のことを聞かされたりして悩んでいるのかもしれない。
「シーはね! これからもこうしてみんなとあそびたい!」
俺たちの会話を聞いていたシーフィアが手を挙げて元気よく答えた。
ヒックス家のお姫様は可愛らしい。
「そっか。うん、これからもこうして遊ぼう」
その為なら、悪徳領主だろうが、屑勇者だろうが、全部ぶっ飛ばしてみせるさ。
「たとえ……私は……」
ラファータが何か呟いた気がしたが、俺は聞き取れなかった。




