奴隷の行方 22~奴隷船オロール号
奴隷船オロール号はゴレ島の西の桟橋につけていた。
全長100メートルはあろうかという巨大帆船だ。
オロールは、このゴレ島から初めて北アメリカのルイジアナに200人の奴隷を送り込んだ。
それは人手を要するサトウキビやタバコ、綿花といった類の作物栽培に従事するアフリカ人奴隷であった。その帰りの船だ。
オロールの甲板の下は2層に分かれ、船底は貨物専用、2階は奴隷収容の為の間だ。しかし貨物用の船底は高さ3メートルの巨大倉庫。それに比べ奴隷の間の高さはわずか1メートル半。
甲板のすぐ下に奴隷の間を設けたのは、死体を海に投げやすいからだった。
ゴレからアメリカ大陸に向かう船内は、ここに200人~400人もの奴隷がぶち込まれる。それは膝を抱えて座った人間の上に更に膝を抱えた人間が座るという、隙間の無い空間。汚物と異臭はその隙間を流れる。それが大西洋上で6週間余りも続くのだ。
サールとバンジャマンは翌日の朝から、一日がかりの輸出手続きに追われた。
偽の許可証はポルンの入った木箱に貼られた。
アキーの実が梱包された多くの木箱の中の3つばかりをバンジャマンが買い取った。ドクロの印字のされた軍事用のアキーではあったが、顔見知りの海兵に「食用だ」とポケットマネーを渡すと、それで事は済んだ。
エストレーの2階の一室に放り込まれていた2人の奴隷の背中には、「マルセイユ」という張り紙がされた。荷物と同じ扱いだ。
東の空に薄っすらと白い三日月が浮き出てきた。上空には風があるのだろう、渡り鳥の群れの様な筋雲がその月を隠しては燈らせ隠してはまた燈らせ、流れ去っていった。
サールとバンジャマンは船の見える崖の上から、オロール号を見下ろした。
西からのオレンジの夕日はオロールの巨大な影を海面に浮かせた。
影となった蒸気船の甲板には、ポルンの木箱にロープを巻き付けるバブエと操縦士の姿が見えた。
オロール号の上には多くのフランス人船員がいた。ゴーという音と共に蒸気タービンが回るとそのロープは巻き上がった。
木箱は振り子さながら左右にグラグラと揺れ、小さな蒸気船を下にした。
バブエと操縦士は蒸気船から。
サールとバンジャマンは崖の上から。
その様子を見守っていた。
オロールに渡る木の桟橋。サールの目に数人の人影が映った。
前後を船兵に挟まれた丸裸の2人であった。日没間際の太陽はこの褐色の肌を橙色に変え、足枷の鉄球はゴツゴツと桟橋の板を叩いた。
「バンジャマン殿。見えますか?あの2人。これで全て出揃いました。」
※実は日本、安土桃山~戦国時代。ポルトガルをはじめとするヨーロッパ商人と大名達によって日本人を(奴隷として)多額の取引きで世界中に売り飛ばしていました。
この後の江戸幕府による鎖国令は、キリスト教布教によるバテレン追放よりも、この奴隷問題が大きな原因だった様であります。長崎の出島以外の出入りを禁止し、日本へのヨーロッパ人の侵入を未然に防いだものだと言われております。