彼女の目的
ラディは教えられた呪文を唱えた。すると、目の前に前脚から血を流すウサギが現れる。逃げることもできず、小さな身体は細かく震えて。
ラディはそばにしゃがみ、手をかざしながらまた別の呪文を唱えた。しばらくすると傷も血も消え、ウサギは何事もなかったかのように跳びはねながら去り、ふっと消える。
基本は何とかできてるみたいだな。
幻影のウサギが消えるのを見て、ラディは小さく息を吐いた。
今は二回目の治癒魔法授業である。魔法実技の練習場であるフィールドでは、ラディのクラスメイト達がそれぞれ傷付いた対象を出し、それにむけて治癒魔法をほどこしていた。
現実なら傷が消えても血の跡が消えるはずはないのだが、そこは幻影。魔法が確かに効いていることをわからせるために、消えるようになっている。
ただし、失敗すればそのまま、ひどい場合はさらに傷が深くなって出血が増えるという、余計なリアリティありすぎの幻影だ。
治癒魔法は、魔法の種類としての難易度はそれほどに高くない。基本的な魔法ができれば、十分な効果を得られる魔法である。
ただし、失敗すれば命に関わる、という点で魔法使い達にプレッシャーを与え、精神の強くない者は挫折するのだ。そのため、上級クラスになってから習う、というカリキュラムがどの魔法使い協会でも取られている。
ラディも半ば脅されてる気分になるような座学を受けて緊張したが、前回も今回もどうやら調子よくできているようだ。数回にわたって幻影を出したが、今のところ失敗はしていない。
ここでつまづいてる訳にはいかないもんな。カロックに行ったら、いつケガするかもわからないんだし、ちゃんと習得しておかないと。自分の時はもちろんだけど、レリーナが万一ケガしたりしたら、すぐ治せるようにしないとな。
ラディは週一回の割合で、異世界のカロックへと呼ばれている。そこに棲む大竜ジェイが受けている試練の協力者として、幼なじみのレリーナと共にカロックの地図のかけらを捜しているのだ。
その行く手には毎回しっかりと魔物が現れ、レリーナと一緒にその魔物を排除している。ラディは一度死にかけたことがあるが、その時はジェイが助けてくれた。だが、そこまでひどい状態にならなければ、自分で何とかできるようにしたいと考えていたのだ。
そのためにも、この治癒魔法はしっかり自分のものにしなければならない。
「順調のようだな、ラディ」
担任のフェラドが声をかけてきた。ラディがつまづくことなく治癒魔法をかけているのを、担任はしっかりチェックしている。
「対象を動物から人間に変えてみろ」
「え、もう?」
それはこの魔法にかなり慣れた見習いがすることだ。クラスメイトの中にはすでに対象を人間にして練習している者もいるが、それは残留組。つまり、授業で治癒魔法を何度も練習している見習い魔法使い達である。
その残留組でもまだ動物を対象にしたりする中、進級組のラディがもう人間を相手に魔法を使えと言われたのだ。
「あれだけできてるんだ、人間が相手でもやることは同じなんだから、早いうちに慣れておいた方がいい」
「はぁ」
確かに、対象が人間だろうと動物だろうと「治癒魔法」として唱える呪文は同じ。生物であれば、全てに通じる魔法なのだ。
一足飛びのような気もしたが、カロックで実際に使うとなれば自分に対してかレリーナに対してだ。火の中に入ったり、魚に喰われても平気なジェイがケガをするとは到底思えないので、ラディが近い将来この魔法を使うとすれば自分達二人。
自分に向けて失敗する分にはあきらめもつくが、レリーナ相手の場合はそうもいかない。女の子に傷を残すようなことがあってはならないし、ここは早めにこの魔法に慣れておくべきだろう。
すでに、人間の幻影が現れるための呪文は習っている。ラディはその呪文を唱え、目の前にひざをすりむいた小さな女の子の幻影が現れた。
この程度なら、本当にありえそうだよな。
黒髪をおさげにした女の子はまだ五つくらいだろう。大きくすりむいたひざからは血が流れている。たぶん転んでケガをした、という設定だ。今後、カロックに行っている間にこういったケガをすることは十分に考えられる。
動くのに支障がなければ、あまりこの魔法に頼りすぎるのはよくないと教わった。本人の持っている自然治癒力が落ちる恐れがあるからだ。しかし、カロックではどんな小さな傷もどこで命取りになるかわからない。だから、この程度の傷であっても、完全に治癒をほどこさなくてはいけないのだ。
大きな目に涙をためてこちらを見る女の子に、戸惑いに似た感情を覚える。相手は完全にラディに頼り切っているのだ。それでがんばろうと思える人と、プレッシャーになって失敗してしまう人がいる。
幻影では涙をためてこちらを見る程度だが、現実の子どもなら泣きじゃくる声が聞こえるだろう。そこでプレッシャーに負けてはいけないのだ。
ラディは軽く深呼吸をして、呪文を唱える。さっきまで動物の幻影でやっていたように、女の子にも同じように手をかざした。魔法はしっかり効果を現し、女の子の傷は見る間に癒えていく。
傷が消えると女の子は笑いながら走り去った。元気になって遊びに行った、というところだろうか。
「なかなかやるじゃないか」
ラディが大きく息を吐く横で、フェラドが教え子の肩を叩く。
「人間相手って、こんなに緊張するんだ……」
やることは同じはずなのに、対象の姿形が変わるとこんなにも意識が変わってしまうものなのか。本当にレリーナ相手に使うことになったら、手が震えてしまうかも知れない。
「慣れだ。個人差もあるからすぐとは言えないが、慣れれば気負うことなくできるようになるさ」
「難しい魔法じゃないのに、すごく疲れますね……」
「少し休んでからでいいから、続けろ。手応えを掴んだら、早いうちに自分のものにしてしまえ。今と比べものにならないくらい、楽になるぞ」
「はい」
口で言うのは簡単だ。しかし、フェラドや他の魔法使い達だって同じ壁を乗り越えて来ている。だからこそ、こういう言葉が出るのだ。
フェラドが他の生徒の様子を見に行き、ラディは言われた通りに少し休むことにした。
「ラディ、もう人間相手の練習なの?」
そう声をかけてきたのは、クラスメイトのミュアだ。よく話す……と言うより、話しかけてくる女子だ。一時は一緒に自主練習をしていたこともある。
元カレ・アーディ(本人は別れたつもりはないらしい)が現れての小さないざこざがあってすぐに彼女との自主練習はやめたが、その後も特に懲りることなく話しかけて来るのだ。
美人に分類される容姿ということもあり、普通の男子であれば、彼女は自分に気があるのでは……なんてことも考えて喜びそうなもの。ラディも何となくそうなのかなと思ったことはあるものの、たぶん違うな、と冷静にすぐその考えを否定していた。
ミュアは誰とでも愛想良く話すし、笑顔を向ける。その笑顔はラディに対しても同じなのだ。それに好きなら離れた場所からじっと見ていたり、なんてこともしそうなものだが、そういう視線は一切感じたことがない。自分が鈍いからかな、と何でもない素振りでミュアがいる方を見たりしたこともあるが、彼女の視線は全くこちらに向けられていなかった。ただの一度も目が合ったことがない。
愛想の良さが俺にも向けられただけのこと、だな。
ラディはそう結論づけた。
元カレに言いがかりをつけられた、という面倒くさい過去もあることだし、ミュアは一般的感覚から言ってもかわいいが、ラディはあんまり興味がない。
なので、彼女にこうして話しかけられても、他のクラスメイトに声をかけられるのと気持ちは変わらない。
「動物相手が順調だったから、やってみろって」
「早いわねぇ。進級組で人間相手なんてそうそういないわよ」
確かに、ラディと同じ進級組のクラスメイトは動物相手でも四苦八苦している。
「残留組だって、人間相手はちゅうちょしちゃうのに。ねぇ、ラディ。もしかして家でも自主練習してたりするの?」
「え? 家ではやってないよ。さすがに何かあった時に危ないから」
正規の魔法使いならともかく、見習いが魔法使い協会の敷地外で魔法を使うことは原則禁止だ。攻撃魔法以外ならその限りではないが、それでも練習するのはこのフィールドにしなさいと言われる。ラディも家で練習するとすれば、結界か防御の壁くらいだ。
「そう。同じクラスなのに、ラディはめきめき腕を上げてるもの。寝る時間以外はずっと練習してるんじゃないかしらって」
「まさか。そんなことしていたら、身がもたないよ」
ラディは苦笑する。闇雲に練習を続けても、疲れがたまってしまうのでかえって術がうまく発動しなくなる。何事も程度が大切なのだ。
「そう? 私も自主練習はしてるけど、上達が遅いのよね。いやになっちゃう。……ああ、ブラッシュみたいに上級の使い手がそばにいれば、もっとがんばれるのになぁ」
「じゃあ、先生に個別授業でもしてもらえば?」
「え?」
「先生だって、人に教えるくらいなんだから上級者だろ」
「そ、それはそうだけど……」
不服そうなミュアのことは気にせず、ラディは次の対象を出すべく呪文を唱えた。
☆☆☆
「ラディ、ちょっといい?」
そう言って昼休みに声をかけてきたのは、クラスメイトのカーミルだ。暗い赤の髪を軽く一つにまとめただけの特に目立つことのない女の子で、言ってしまえば地味な子である。ラディとはあまり話をしたこともない。
ラディはマイズと食堂から戻って来たのだが、マイズはトイレに行くと言うので先に教室へ戻った。ラディが一人になるのを見計らっていたようだ。
「いいけど」
そのやや険しい表情からして、告白といった艶っぽい話ではなさそうだ。
「廊下でいいの?」
「いいわ。こんな場所での立ち話に聞き耳をたてる人もいないでしょ」
「それはそうだろうけど……何?」
何か文句を言われるようなことをしただろうか。そんなことを言われる程に関わることはなかったはずだが……。
話の内容が想像できないし、相手の雰囲気にラディは心の中で少し身構える。
「ミュアには気を付けた方がいいわよ」
その言葉に、ラディはしばらくきょとんとなる。
「えーと……ミュアの何に?」
ミュアと一緒に自主練習をしていた頃、マイズから彼女に気があるのかといったことを尋ねられた。その後でアーディが現れて……。もしかして、似たような話だろうか。
ミュアの方からよく話しかけてくるので、彼女とラディは仲がいいと思われてるのかも知れない。ラディにそんな気はないが、他人から見たらあれこれ余計な想像をかきたてたくなる、ということもある。
「あの子、ブラッシュの大ファンなのよ」
「ああ……そうだろうな。よく名前が出るし」
何かにつけて、ブラッシュが教えてくれたら、だの、ブラッシュがいてくれたら、なんてことを言っている。
「気が付いてるの? しっかりしないと、利用されるわよ」
「利用? 誰が……って、俺がか」
話の流れからして、ミュアがラディを利用しようとしている、ということか。しかし、今までそんなことを感じたことはない。
「わかってるの、わかってないの?」
「えーと、ごめん。カーミルの言いたいことがわからない」
ラディが正直にそう言うと、カーミルは小さくため息をついた。
「ラディはブラッシュと……友達ってことでいいの?」
「うん、そうだけど」
「だから、ミュアに目を付けられたのよ」
カーミルによると、ミュアはブラッシュの大ファン。まぁ、これはミュアに限らない。見習い魔法使いの女子で彼のファンだと言う子は多いだろう。容姿端麗で魔法の腕もあるとなれば、女子が放っておかない。
ただ、ミュアの場合、他の子より少々執拗な部分があるらしい。
ブラッシュと知り合いだという人物に次々と接触し、ブラッシュに自分を紹介するようにもっていこうとしている……という噂があるのだ。何とかしてブラッシュに近付こうと必死なのだと。
その中の一人が彼と友人であるラディ、ということになる。
「一緒に魔法の練習をしていたでしょ。その時に丸め込まれたんじゃないかって思ったけど、まだラディにちょくちょく接触しているのを見るとうまくいってないのかしらって。いきなり切り出すと警戒されたり断られるから、少しずつ外堀を埋めてって感じでやってるのかもね」
「……」
埋めるような外堀なんてあったかな。
カーミルの話がどこまで本当かわからない。彼女自身も「噂がある」という程度で話しているし、その噂とやらが事実に基づいてか悪意を込めて流されたかはラディに判断ができない。
しかし、納得できる部分もある。さっきカーミルにも言ったが、ミュアと話をしていてふいにブラッシュの名前が出ることが度々あった。時に自然に、時に不自然に。どうしてここにその名前が? と思ったことも一度や二度のことではない。
カーミルの話が本当なら、ミュアはラディの前でブラッシュの名前を何度も言うことで、自分がブラッシュに興味があることをラディに認識させようとしていたのだ。頃合いを見て、ラディを仲介者としてブラッシュに紹介してもらおうと……。
「ミュアは自分がかわいいってことを利用して、色々と男の子を利用してるのよ。ラディも自分に好意を持たれてるって思ってるなら、違うからね。ミュアはあなたの後ろにいるブラッシュが好きなんだから」
カーミルの言い方には、どこかトゲがある。ミュアのやっていることの真偽がどうであれ、彼女のことが気に入らないようだ。恐らく、この二人は容姿も性格も正反対の位置にいる。
「俺はミュアに対して、クラスメイトだって以外の感情はないよ」
ラディが戸惑うふうでもなく、淡々と言うのでカーミルも少し毒気を抜かれた顔になる。
「そ、そう……。それならいいけど」
「ま、そういう話もあるんだってことで聞いておくよ」
そこまで話して、戻って来たマイズの姿が見えた。
「今のって忠告、だよな? そういうことで聞いておくよ」
「気を付けるのね。あまりあからさまに断ると、今度は逆恨みされかねないわよ」
「もうされたよ、元カレって奴に」
アーディは一度ラディに因縁をふっかけて来たが、その一度で終わっている。その時以降、何もされてないし、言われてもいなかった。邪魔されたくないミュアに釘を刺されたのかも知れない。
「ラディ、カーミルと何の話?」
戻って来たマイズが、お気楽に尋ねる。
「熱狂的なファンは怖いなって話だよ」
ラディの言葉に、マイズはきょとんとなったのだった。