砕けた紙
「それで、わしは魔物に火の魔法を向けたんだ」
ラディは、祖父のヴィグランがしてくれる昔話が大好きだった。
単なる昔話ではなく、魔法使いだったヴィグランが体験した魔物退治の話だ。人間に危害を及ぼす魔物を、ヴィグランが仲間の魔法使い達と一緒に魔法でやっつける話は何度聞いても爽快だった。
その中でも好きだったのは、ヴィグランが魔法使いになる前、つまり見習いの時の話。
ひょんなことから、彼は異世界へと誘われた。そして、そこに棲む竜と協力してばらばらになった地図を探すという話だ。
「……で、まずはその世界にいる魔獣を呼び出したんだ。そこに現れたのは、目もくらむような金色の毛並みを持つ獅子でな」
「じいちゃん、その獅子に乗ったの?」
「ああ、乗ったさ。だが、どんなに速く駆けても、獅子の背中は全く揺れないんだ」
空を駆ける魔獣や、行く手を阻む魔物達。いたずらをする妖精。振り落とされ、湖に落下したところを助けてくれた人魚。動物を喰う植物に、川となって流れる炎。
祖父の話は、好奇心をそそる言葉が山盛りだった。少しずつラディが大きくなり、祖父の話が孫を楽しませるものだったのだと思うようになっても、ヴィグランが聞かせてくれた話を思い起こせばわくわくしてくる。
大きくなったら、ラディは魔法使いになろうと思った。あのわくわく感を自分も体験してみたい。人の話ではなく、自分自身が話の中心となってさらにわくわくしたいと思ったのだ。
そして、十六歳の今。ラディは魔法使いになるべく、毎日修行に明け暮れている。
☆☆☆
葬式の鐘は、いつ聞いても憂鬱な音だ。
晴れていれば、こんないい天気の時にこの陰気な音は聞きたくないと不快になる。曇りや雨、さらには雪だったりすれば、余計暗くうっとうしいじゃないかと、空にさえ八つ当たりしそうになる。
ヴィグランの葬式は、晴れた。からっとした初夏の日差しは、ピクニックにでも出かけて木陰で昼寝でもしたい気分にさせる。気持ちいいに違いない。
でも、現実はあるエリアだけにちょっと湿気た空気が漂っていた。その湿気が墓土をさらにしっとりさせているように思われる。
ラディは祖父が亡くなったという悲しみより、一人前の魔法使いになった姿を見せられなかったという悔し涙にぬれた。
魔法使い協会ロネールの修学部に入った、とヴィグランに報告した時、祖父が本当に嬉しそうな顔をしていたのを覚えている。
ラディが魔法を勉強するようになる頃には、ヴィグランはすでに魔物退治などの現役からは退いていた。だが、先輩魔法使いとして尊敬し、わからないことがあればよく質問をした。
それがある時から「尋ねるのも大切だが、自分で見付け出すことも大切だ」と言って、質問してもほとんど答えてくれなくなったのだ。
それからはラディも自分で調べるくせをつけるようになったが……本当はもっと色々と聞いてみたかった。こんなに早く逝くとわかっていれば、毎日のように押しかけてあれこれ尋ねたのに。
風邪をこじらせ、肺炎を起こしたと聞いてから訃報の知らせが飛び込んだのはわずかに一日後。見舞いにも行けなかった。いや、行くつもりだったのだ。苦しい時に行くよりも、少し落ち着いてからの方がいいだろうと思って。身体がつらい時に会いに行っても、さらに疲れさせてしまうと思ったから。
こんな余計なことを考えず、すぐに行けばよかったのだ、と今なら思う。魔法使いは魔物退治に向かう時は死と隣り合わせだということを覚悟するように言われるが、魔物がいなくても魔法使いであっても、人はこんなにもあっさりとこの世から去って行くのだ。
棺が地中に埋められるのを見届け、ラディは空を仰ぐ。祖父はもう天に着いただろうか。
生前には魔法使いになったことを報告できなかったが、それなら次は一日も早く墓前に報告できるようにがんばろう。
できなかったことをいつまでも悔いたって、時は戻らない。
そう前向きに考える。たぶん、ヴィグランもそれを待ってくれているはずだ。魔法使いではない両親より、祖父のほうが魔法使いになることをずっと楽しみにしていたから。
俺、絶対ロネールで一番の魔法使いになるから。じいちゃん、見ててくれ。
☆☆☆
葬儀が終わると、弔問客は祖母のアリーヌにお悔やみの言葉をかけて帰って行く。他の親族も順次引き上げ、ラディはアリーヌと両親、姉のテルラと祖母の家へ向かった。
「レリーナも時間があるなら、一緒にいらっしゃい」
アリーヌがラディのそばに立っている少女に声をかけた。明るい金色の髪を三つ編みにし、丸い青緑の瞳をした彼女はラディの幼なじみだ。
「……うん」
目の周りや鼻を赤くしたレリーナは、小さな声で返事をした。
レリーナは祖父母の家の隣に住んでいる。ラディは一筋違う通りに住んでいて、よくヴィグランの所に入り浸りっていたのだが、その時に彼女と顔を合わせるうちに仲よくなった。一つ下の彼女もラディと同じようにヴィグランの昔話を聞き、わくわくしたものだ。ラディがロネールに入った一年後に、レリーナもロネールに入学することになる。
ラディと一緒にいることが多かったので、ヴィグランやアリーヌにすればレリーナも孫のようなものだ。レリーナの祖父母はすでに他界していたため、彼女の方でも自分の祖父母のように慕っていた。恐らく、実の孫のテルラよりもずっとなついていただろう。だから、今日の葬儀も当然のように参列していた。
祖母の家に戻ると母のセリーンとテルラがお茶を入れ、ようやくみんなが一息つく。
雑談のような思い出話のような会話を聞き流しながらお茶を飲み干し、ラディは立ち上がった。
「ラディ、どこ行くの?」
テルラが部屋を出て行こうとする弟に声をかけた。
「じいちゃんの部屋。前に魔法道具を何かやろうって言ってくれてたから」
「お葬式が終わったばかりでしょ。今日でなくてもいいじゃない」
「別にどうしても今ほしい訳じゃないよ。ただ、何をくれるつもりだったのか気になるだけ」
「あ、あたしも行く」
同じようにレリーナが立ち上がり、テルラは軽く肩をすくめたがそれ以上何も言わなかった。
二人はヴィグランの部屋へ入る。整頓された部屋には棚が並び、その棚には魔法書や背表紙に難しそうなタイトルが書かれた本などがずらりと並んでいた。ヴィグランと話をする時はいつもリビングでしていたので、この部屋に入ったことはほんの数える程度だ。
あまり見慣れない部屋は祖父の知らない面を映しているようで、微妙に緊張する。だが、特別何と言うのではないが、祖父の雰囲気と同じ空気が漂っているようにも思えるのだ。
「おじいちゃん、何をあげるってことは言わなかったの?」
「うん。古くていいなら、そのうち何かやろうって。そのうちがいつなのかも、その何かが何なのかも全然言わなかった。大抵の物なら、魔法道具の店で新しくて性能がいい物が手に入るけどさ。中には昔の物の方が価値があるって言うか……いい物があるかも知れないだろ。じいちゃんがやろうって言うくらいだから、案外いい物じゃないかなって」
手紙か、もしくはメモのような物に書かれていないだろうか。ラディも言ったが、魔法道具なんて物はお金を出せばだいたいの品は手に入る。だから、別に今すぐほしいのではない。ヴィグランがラディにくれようとしていたのは、特に何でもない物なのかレアな物なのか。それが知りたいだけなのだ。
……もっとも、それは単なる口実で、祖父を感じたいだけなのだろう。
「レリーナにもやるって言ってたぞ」
「え、そうなの? あたし、聞いてなかったけど」
「何を話してた時だっけ。忘れたけど、この話が出たのは一回だけだったしな。俺も何をくれるんだって、あんまりせっつかなかったから……じいちゃん、忘れてるかも」
話の流れでそう言っただけで、ヴィグランはそんな雑談の中身など忘れている。
その可能性は高い。多額の遺産を狙っている訳でもないので(そもそもどれだけの遺産があるかなんて知らない)それならそれで別に構わなかった。
祖母も両親も魔法使いではない。雑談のことはともかく、祖父が持っていた魔法道具は、ラディと同じく魔法使いを目指している姉のテルラ、もしくはラディの物になるだろう。テルラなら、そんな古い物はいらないわ、とでも言いそうだ。あれこれとたくさんの物を祖父が持っていたという話は聞かないので、あったとしても大した数ではないだろう。形見分けとしてもらうのにちょうどいい。
机や棚の引き出しを開けて見たが、それらしいことを書かれたメモの類はない。ついでに言えば、魔法道具もこれといって目新しい物は見付からなかった。もちろん、もらえれば十分に役立つ物ばかりだから、このうちのどれかだったのかも知れない。
「おじいちゃん、魔法書もたくさん持ってたのねぇ」
「うん。昔は開いても中身がさっぱりだったけど、今なら読めるよな」
世界には、魔法使い達で作られた「魔法使い協会」が組織されている。そこには魔法使いを育成するための修学部と、修学部で学んで正規の魔法使いになった者に仕事を斡旋する職務部がある。
ラディ達の住むルーヴェンの国にもいくつかあり、ここファヌの街にその一つであるロネールがある。ラディもレリーナも、ロネールで修行する見習い魔法使いという訳だ。
クラスは初心者、中級、上級とあり、さらにそれぞれ二つのレベルが存在する。今のラディは中級クラス2に進級したところだ。中級の二段階目のクラスで、上級クラスへ上がるために日々魔法の練習をしている。上がるためにはテストを受けてそれに合格しなければならない。パスできなければ、そのクラスに残留となる。単に授業を受けていればいいだけではないのだ。
ちなみに、レリーナは中級1まで来ている。すぐに追い越されるんじゃないかと中級2でもたもたしているラディはひやひやしたが、初心者から中級にクラスが上がると急に授業も難しくなるのでレリーナもそう簡単には進級できないでいた。
初心者クラスにいた頃は、呪文の読み方一つをとっても怪しかった。高度になれば、呪文は当然ながら難解になり、初心者の目から見れば外国の古語にも等しい。つまり、さっぱりわからない。
ラディは見習い魔法使いの中でも中の上まできた、というところ。ヴィグランの持っていた魔法書が多少難解であっても、どうにか呪文を読むくらいはできるレベルにまで達しているのだ。
「姉ちゃんなら、全部読めるんだろうな」
テルラは上級2だ。彼女が次に受けるのは進級テストではなく、魔法使い認定試験。これに合格すれば、晴れて一人前の魔法使いとして認められる。先に入学していたテルラは、魔法使いと呼ばれるまであと一歩のところまで来ているのだ。スタートの時期が違うと言っても、そんなことで負けていられない。
たとえ中級クラスでも、個人の勉強の量によってはこういう呪文も読めるようになる。魔法が発動するかは実力次第だが、読めない訳ではないのだ。ヴィグランが「自分で調べろ」と言ったのは、自分がいるクラスのレベルに甘んじる必要はない、ということだったのだとわかったのは、つい最近である。
「んー、読めなくはないけど、発音が難しそうだな。この辺りの魔法書はかなり上級編ってことか」
ラディは別の魔法書も手に取って、ぱらぱらとページをめくる。使い込まれた魔法書は手垢で多少の汚れはあるが、丁寧に扱われていたようできれいなものだ。
「上の段にある魔法書なら、もう少し簡単なんじゃない?」
よく使う物は目の前の段に、あまり使わない物は上の段に。おおらかで細かいことにはあまりこだわらないヴィグランだったが、こういうところはきっちりしている。
「あー、そうかも。簡単な魔法なら、いちいち魔法書を開かないし」
ラディは手を伸ばし、一段上の棚から魔法書を引き出した。すると、魔法書と一緒に紙が一枚落ちてくる。
「何だ? 魔法書のページ?」
古い本のページが外れ、それが出て来たのかと思った。とにかく、掴まえようと手を伸ばすが、ひらひらと舞う紙はラディの手をすり抜ける。
そして、次の瞬間。
ラディとレリーナはありえない物を見、ありえない音を聞いた。
ラディの手をすり抜けた紙は、床に落ちた途端、がしゃんという音をたてて砕けてしまったのだ。
それを見聞きした二人は思わず「ええっ?」と声をあげてしまう。
落ちたのは、紙のはずだ。紙以外の物であんなひらひらした落ち方をする物を他に……たぶん知らない。せいぜい木の葉くらいか。その紙であるはずの物が落ちた床には、ジュータンが敷かれているのだ。落ちて壊れるにしても、粉々になるまでの衝撃にはならないはず。
それなのに、紙は床に落ちた途端、まるで石版か何かのような音をたてて砕けてしまったのである。
「ラ、ラディ……今落ちたの、紙よね?」
「そのはずだけど。あんないい音たてて壊れる紙なんて、魔法道具にだってないぞ」
二人して床にしゃがみ、それぞれが砕けた「紙」のかけらを一つ拾い上げた。
「分厚いわ。陶器、でもなさそう。だいたい、落ちてる時は紙だったのに、どうして落ちたら石のかけらみたいになってるの」
「紙じゃなく紙っぽい物だとしても、あの落ち方とその後の音は絶対結びつかないよなぁ。さっきまでぺらぺらだったのに、いきなり厚くなるのも妙だし」
白っぽい灰色のかけらは、これだけて見ていれば落ちた時の音を出してもおかしくなさそうな素材だ。石の板のようなもので、指の関節一つ分の十分な厚みがある。こんな物がひらひらと舞いながら落ちるなんておかしい。
「何なんだ、これ」
さっぱり見当もつかない。
だが、わからないことはこれだけではなかった。
二人が拾い上げた以外のかけらが、不意に宙に浮かび上がったのだ。そのことに驚いている暇はない。その光景を声もなく見ていた二人の身体も、ふわりと浮き上がった。
「きゃっ。ラディ!」
「レリーナ!」
二人は手を伸ばし、お互いの身体を掴まえる。だが、そんなことくらいで足が床に着くことはない。
何が起きているのか訳がわからず、怖くなったレリーナはラディにしがみついた。そんな彼女を、ラディも抱き締める。不安がらせないようにと言うより、そうすることでラディも不安から逃れたかったのだ。いくら魔法使いの見習いでも、こんな状況は怖い。どうにかしようにも、ここでどんな魔法を使えばいいのか。
二人の身体が宙に浮いて抱き合うまで、恐らくはほんの十秒程度。その後、周囲が白い光に包まれ、ラディとレリーナは思わず目をつぶった。