巣立ちの時がきた
※ ※ ※
「女王様。現状はいま、どうなっておりますか」
ピューロランド元大ホールの更地の下、主の膝に頭を預けたプレディカは、先程から続く不協和音の大合唱の理由を瑠梨に問うた。彼女の顔はアイムによる『制裁』で鼻から上が焼けただれており、最早そこに何があるか感じ取ることさえかなわない。
「なあ、プレディカ」そんな従者に対し、瑠梨は冷えた口調で問い返す。「読んでいた漫画の展開にキレたとして、その漫画を黙らせることが出来ると思うか」
「無理、でしょうね」
「そうか」
抽象的な表現をぶつけられ少々戸惑ったが、プレディカは要点を察し簡潔に返した。彼女の目線の先――、ファンタマズルと対峙する西ノ宮ちはる。彼女はまさに『それを』やっている。暖簾に腕押し、柳に風。否、それ以前の問題か。
「こん、にゃろう!!」
ファンタマズルの頭上に目の細やかな投網が放たれ、ピンクの外套を包み込む。しかしその身体は網をすり抜け、触れることなく地に溶けた。
「まだ、まだあ!」
捕らえられないなら吸ってやる。ピンク色の巨大な掃除機がファンタマズルを吸わんとするが、ノズルを通してダストケースに放られるのは、ここまでに綾乃らが散らした瓦礫ばかり。
『――だから言ったのに。キミたちが何をしようが、私は痛くも痒くもないと』
戦いを挑んで間もなく五分か。威勢よく啖呵を切ったが、その意気も薄れかけていた。
『――みっともなく息を切らせて。その右手はなんだ? 病み上がりにそんな無茶をするものじゃない。君にはもっと私を楽しませてほしいんだ。こんな所で潰れて貰っては困る』
「お前に! 心配される筋合いはない!」
戦いが始まってからずっと、ファンタマズルは一歩もその場を動いていない。そもそもこれは戦いでさえない。ちはるがひたすらに技を披露し、ファンタマズルはそれを他人事のように眺めているだけだ。
『――まだキミには話して無かったね。私はそこにいるのに、ここにいない。目で見て捉えたとして、まほうで捕まえることは出来ないんだよん』
「そんなこと!」事実を突き付けられてなお、ちはるの戦意は一切揺らがず。「やってみなきゃ分からないでしょうが!」
一息と共にペンを走らせ、巨大な椿の華を現出させる。花弁が開き、桃色の輝きが真ん中に集束されてゆく。
「消し、飛ばして、やァるぅう!!!!」
シュテルン・グリッタ・スターバーストの何倍もの輝きだ。一撃のもとに葬り去るつもりか。
『――無駄だって、言ってるのになあ』
他の相手なら瞬殺。アイムにさえ向ければチリ一つ残さないであろう一発。そんなものを前にしてなお、ファンタマズルに動揺はない。
一瞬。眩い光がステージを包み、ピューロランドの奥半分が吹き飛んだ。殺意を以て、怒りを一点に集めてなお。ピンクの外套は傷どころか汚れさえ無い。
『――だいたいね。私はキミたちから感謝されこそすれ、憤怒を向けられる憶えはないんだよん』ファンタマズルは心底落胆したとばかりに嘆息し。『キミたちが君たちのままで居られるのさ誰のおかげだい。私が他者の記憶を弄ってあげたからだろう。あの日、大量殺戮者として司法機関に突き出すことも出来たんだよん』
そうしなかったのは、この存在がちはるたち人間のすることを面白がっていたからだ。罪人として収監されたところで『面白く』なる筈がない。
「どこまでも自分の都合で、私達を……!」
奴はちはるに諦めを促したのかも知れないが、だとすれば完全に逆効果だ。彼女がこの九年間何をしていたか。自責の念に苦しみ、死を選ぼうとさえしていた。みらが居なければ、今この世には存在していなかったかもしれない。そんな人間にビジョンも与えず、生きろとだけ言って放置することが、如何に悪辣であることか。
「お前みたいな奴に! アヤちゃんも、歌唄さんも、みらだって! みんなみんなみんな、お前なんかの為に!!」
もう、勝てるかどうかなんてどうでもいい。この勝手千万な存在を一刻も早く駆除しなくては。ちはるの目が憎悪に狂い、栗色の髪色が紅く燃える。
「ちはる、駄目だよ。そんなんじゃ……」
本来諌めるべき綾乃は立ち上がることさえ出来ず、無理に無茶を重ねる幼馴染を視ていることしか出来ない。包帯で負傷を覆っても、古傷の痛みを抑えるアンカージャッキは既にない。よしんばむりくりで飛び込んだとして、ちはるより更に下位、蹴ることしか出来ない彼女には、この騒乱を見ていることしかできないのだ。
『――聞き分けのない娘だ。いいかな、はっきりと断言しよう。どんなイマジネーションを用いようと、キミが私に触れられることは万に一つもない。私とキミとでは、棲んでいるセカイが違うんだ』
※ ※ ※
「女王様。あなたは、奴を漫画にお喩えになりましたね」
プレディカは長い沈黙の後、意を決して口を開いた。か細くたどたどしい声であるが、確実に言葉を紡いでゆく。
「理の外に居るのは奴だけじゃない。既に描かれた筋書きが気に入らないなら、破いてしまえばいい」
「何……だって?」
「私は貴方様に居場所と妹たちを与えられ、此の世に現出したイレギュラー。私なら、奴の喉元に喰らいつけます」
「何を……言ってるんだよッ」
瞳孔が開き、吐く息は荒く、心拍数は増大の一途を辿るばかり。いのちがすり減るこの状況下、花菱瑠梨は驚くほど冷静に、配下の言うことを呑み込んでいた。
ファンタマズルは自分たちのこの世からレイヤー一枚隔てた場所に居る。西ノ宮ちはるが何をしようと届かないのはその為だ。それは今こうして体を横たえるプレディカも同じ。キャンバスの中、瑠梨の作った幻想・グレイブヤードの住人で、主とは長らく会話をする事しかできなかった。
両者の違いは何か。プレディカらヒトガタカマキリは喰らった人々から存在格を奪い、此の世に留まる資格を得た者たちだ。別の次元から現れた存在と定義するなら、理屈の上では彼女と奴に大差はない筈だ。
「馬鹿野郎。そんなことをしたら」
聡明なる創造主瑠梨はこの仮説を受け容れると同時に、その先にある未来を把握していた。何が起こり、よしんば勝利したとして、プレディカはまず間違いなくこの世界から消え失せる。
「お前はボクのすべてだ。プレディカのいないセカイになんて、生きてたってなんの意味もない!」
「私は、間もなく死にます」その言葉を聴いたうえで、プレディカは一切揺らがずそう答え。「下半身の欠損、鼻から上のこの火傷。わかるのです。もう長くないと」
ちはるに連れられ、ここへと来た時点で、瑠梨は続く運命を察していた。解っているからこそ認められないのだ。プレディカは自身が産んだ最高傑作にして、身寄りを失った瑠梨にとっての母である。手放すことなど絶対に出来ない。
瑠梨の心情を察したのか、プレディカは不意に「ありがとう」と告げて、言葉を紡ぐ。
「私は女王様の子で幸せでした。貴方様のお世話が出来たこと。妹たちを与えてくれたこと。感謝のしようもありません」
彼女はここで言葉を切り、手探りで瑠梨の頬を探し当て、震える手でそこに触れる。焼けただれた全身とは裏腹に、その手は冷え切っていた。
「もしも貴方様が我々のことを想ってくださるのなら、誇りを、誉れを取り戻してください。私たちグレイブヤードの民は奴の娯楽などではなく、勇敢で聡明たる花菱瑠梨様の子であったと。死した妹たちに胸を張って伝えたいのです」
次女オガミ、三女トウロ。自らが産み出し、主のために散って行った妹ふたり。自分たちは紙の上の幻想ではなく、この世界で、花菱瑠梨に生を受けたと。その証を遺したいと。
「プレディカ」瑠梨は目にいっぱいの涙を溜めながら、従者の言葉を遮れずにいた。彼女にもようやく理解できたのだ。自らが産み出したのはもう子どもの頃の願望ではない。独自に意思を持ち、この世に根を下ろした『生き物』なのだと。
「私たちが居なくなったって、貴方様は前を向いて生きて行ける。長く目の前で視て来た私が保証致します」
解っているさ。解っているとも。他に道がないことくらい、でなきゃ犬死なことくらい。最初から全部理解している。巣立ちの時が来たのだ。彼女がここまで導いてくれた。最後は、自分の意志で。自身の声で。子を送り出してやらなければならない。
「行けよ」相手には見えていないと解っていながら。瑠梨は目を伏せて、絞り出すように口を開く。
「必ず勝つ。だから安心して眠れ。妹たちに……よろしくな」
「かしこまりました」
プレディカは火傷で崩れかけた顔に笑みを作り、震える手で主の頬に触れた。これ以上言葉はいらない。瑠梨は歯を食いしばって涙を堪え、眼前に立つ人物に対し声を張り上げる。
「おい、お前。おい……おいってば!」
無力で手をこまねいているのは瑠梨や綾乃だけじゃない。ちはるに便乗し付いてきたものの、どうしようもない動乱に指を咥えて見ている人間がもうひとり居る。
「お前だよ関西弁! 桐乃三葉! 答えろ、答えろっての!」
「あ、あ?!」
敵に、しかも関西弁呼ばわりされて腹が立たないわけがない。三葉は即座に駆けつけて、瑠梨の首根を掴んで持ち上げる。
「誰が関西弁や! うちは愛知の産まれ、三河の……」
「そんなことはどうでもいい」悠長に問答している時間はない。「ボクの言う通りにしろ。西ノ宮ちはるを勝たせてやる」
「は? 何や急に」
「同じことを二度も言わすな。勝たせてやるって言ってんだ!!」
その瞳は零さんと押し留めた涙で潤み、声は疲労と哀しみでがらがらに枯れている。奴のことは気に食わない。気に食わないが、倒せるという言葉と嘘のないその佇まいは十分に信の置けるものであった。この気迫に賭けてみる他ない。桐乃三葉は藁にもすがる思いで首を縦に振った。
※ ※ ※
『――キミという子は、諦めってのを知らないのかい? 時にはそれは美徳となるが、大多数はこんな無駄な足掻きでしかないんだよん』
「うっさい! とっ、とと! くた! ばれ!!」
もう、ちはるに理性的な振る舞いは期待できない。無から生えた巨大な拳が、更地となったピューロランドをめちゃくちゃに殴り続ける。彼女とてそれが無意味であることは解っている。理解しているが認めたくないのだ。自分はあのクソ野郎には勝てないと。
『――こうなると、この体質を呪いたくなるんだよん。触れない代わりに触れられもしない。干渉さえ出来れば、キミたちを即座に黙らせられるのに』
西ノ宮ちはるは十年に一度の逸材だ。こうも遊べるオモチャはそうそういない。こんな壁打ちで肉体や精神を否定させ、腐らせてしまうのはあまりにも惜しい。
「ふざけんな、ふざけんな、ふざけんなぁああああ!!!!」
尤も、奴の説得をちはるが聴く訳もなく。壁打ちとは言い得て妙。今や打つ壁もなくなり、崩壊したランドの地ならしをしているだけなのだが。
「許さない! お前なんか、お前なんかぁああああ」
あの時、ゆめの中で得たアドバイスは。みらを見送ったあの気持ちは、邪悪の前に失せてしまったのか? 彼女はもう、力尽きるまでずっと修羅の復讐者でい続けるのだろうか?
「なあ、本当にこれでいいん?」
「つべこべ言うな。ボクを信じろ」
提案に乗り、協力の手を握った三葉だったが、早くもそのことを後悔しつつあった。何をすらのかと尋ねてみれば、焼け爛れて自分では動けないヒトガタカマキリに肩を貸し、二人して持ち上げているこの絵面だ。
「これが、ちぃちゃんの勝ちとどう繋がるって言うんや」
「黙ってろ。気が散る……」
花菱瑠梨の目は真っ直ぐにファンタマズルを見据え、タイミングを見計らっている。一体何を? あれがあらゆる干渉を無力化することくらいわかっているだろうに。
「いいか。合図したらプレディカをぶん投げろ。やり直しナシの一発勝負。勝たせたいなら気を抜くな」
「投げろってアンタ……投げる!?」ヒトではないとはいえ、成人女性をふたりで? 投げろ? あいつに? 続く答えの素っ頓狂さに、三葉は思わず二度問い返す。
「アンタこれ仮にも」
「お前の話を聞いてる暇はない。構えろ、来るぞ!!」
その前後にあったやり取りを知らねば、瑠梨が何故その道を選んだのか理解出来ないだろう。乗りかかった船だ。他に手がなく、深く聞くなというのなら。乗ってやるのが人の情け。
「声を合わせろ、せぇ……のっ!」
「どっ、せぇええええい!!」
消耗したプレディカは羽根のように軽かった。それが元々此処とは違う住人だからなのかは分からない。狙いは此方を完全に無視した白のシルクハット。担いだそれを二人揃って振り被り、勢いよく上手に放る。
『ーーんん?』
死にかけのヒトガタカマキリは放物線を描き、ファンタマズル目掛けて落ちてゆく。何か迫って来ているな。西ノ宮ちはるの搦手か? 何が来ようが関係ないが。
奴のこの認識が、花菱瑠梨という存在への理解不足がこの先の運命を分けた。十分に余裕を持って躱せたはずのそれを、ファンタマズルは微動だにせず受け止めたのである。
『――ナン……なん、なンだ?!?!』
まさかそれが、自身にとっての『銀の弾丸』になるとは夢にも思うまい。プレディカの焼け爛れた脆弱な身体は、ファンタマズルのピンクの外套の中へ吸い込まれ、無機質なそのカラダを変質させてゆく。
『――ナにを、なニをした!? な、ナ、菜、奈、那、鳴』
それまで薄く宙に浮いていたファンタマズルが地に降りた。足先までスッポリと覆った外套の先に足が生じ、コートの裾から手が生えて、目深な帽子が跳ね除けられ、ヒトのような顔が現れる。美しい赤毛に妙齢の女性。プレディカ――、否その前身となった瑠梨の母にそっくりだ。
奴が紙に開けた穴で、干渉出来無い存在だと言うのなら、紙を印刷して製本してやればいい。似たような場所に居て、存在格を経て此の世に居座っていたプレディカを取り込んだことにより、この瞬間ファンタマズルは『受肉』したのである。
『――ここ、こんな、バカ……馬鹿な! ウぅ腕が! 足が! 顔が! なんと、なんということを!』
それまで喜か無でしか感情を表さなかったファンタマズルが、はじめてここで不快感を顕わにした。新たに得たその顔に尋常ならざる怒気を滲ませ、歯の根をぎりりと軋ませている。
「今の……どうして」
激情に駆られ、爆裂しかかっていたちはるは、背後から割り込んで来た存在を目にし、一瞬その手を止めた。合一の瞬間、消えゆくプレディカは仇である自分に向かい『微笑んだ』のだ。
「何をぼぉっとしてるんだ西ノ宮ぁ!」戸惑うちはるに、嗄れた声で瑠梨が吠えた。「奴はプレディカを取り込んで此の世に顕現した。『顕現』したんだ! もう奴は部外に逃げられない! 攻撃が当たるんだ! いいか、当たるんだ!」
堪えていた涙がこぼれ落ち、みっともない鼻声になるのも構わずに。ただひたすらいま起きていることをちはるに伝えんとしている。
「ボクの未来とプレディカたちの意志! 全部お前に賭けたんだ。勝て、畳み掛けろ! どっちが上か、あのクソ野郎に思い知らせてやれェ!」
言っていることはサッパリとわからないが、ただ少なくとも、瑠梨があの化け物と今生の別れをしたことだけは理解できた。
(手前勝手な。私にばかり色んなものを背負わせてさあ)
自分にそれを叶えてやる義務はない。はた迷惑もいいところだ。けれど、その心意気だけは受け取った。このままではいけない。自分はなんだ? グリッタちゃんの後を継ぐ魔法少女じゃなかったか。
(やってやろーじゃんよ。私は、魔法少女なんだから)
思い出せ。グリッタちゃんの衣装を纏い、怖さや怒りを『なり切る』ことで振り捨てていたあの頃を。今ならやれる。私ならなれる。相手が何だろうが関係ない。ちはるは悪しきものを心の奥に押しやって、敵に人差し指を突き立てる。
「とうとう姿を現したな、ヤミヤミたちの頭目よ! ヒトのゆめを上澄みだけ掬って捨てる大悪党! この西ノ宮ちはるが、フラチな悪を成敗してくれるぅ!」
・次回、『もう、大丈夫だから』につづきます。