あなたの『すき』は誰にも負けない
行くぜ、ダチ公
『聞くよ。だって、それは嘘なんだもの』
「嘘って。何が」
『どうもこうもないよ。あなたの中には、それ以外のものもある』
先程綾乃たちにしたように、グリッタちゃんは右の手をぴんと伸ばし、その手を空へと跳ね上げる。ちはるの心情を切々と綴った窓越しの影絵は消え失せ、代わりにホームビデオめいた録画映像に切り替わった。
――作ってもらって何だけどさあ、この目玉焼きちょっとやわやわすぎじゃない? うまくベーコンとひっついてないよ。
――しょ、しょうがないじゃん。こういう朝ごはん、作り慣れてないんだから。
落ち込んで、何度か死のうと思っていた頃。あの子と出逢って、何年もしなかった料理を始めて。
――悪かったって! 言ってるじゃん! こちとらね、食ってくだけで精一杯なんスよ綾乃さん!
――カネならあたしが都合するわよ。きょうという今日は我慢ならない。あんたのその根性、叩き直してやるんだからっ。
気まずくてずっと会わないようにしていた親友との再会。何のことはない、辛かったのは向こうも同じだったのだ。
――それでは、家主ちぃちゃんのだいたい完治を祝いましてぇ、かんぱーい!
――あ・あーっ! 空きっ腹にアルコールわたるしみ……。
ただの缶チューハイも、みんなで呑めばこんなに美味しいものだったとは。宅を囲み酒を煽り、昔話に花が咲いて。
――私はこれが見たかったんだ。みらならやれると思ってた。良かった。本当に……良かった。
血の繋がらない子どもにゆめを託し、晴れ舞台を笑顔で見守ったあの日。これまで抱えていたもやもやが晴れ、なにもかもが報われたような気がした。
「これ、は……」
どれもこれも、ちはるにとって大切な記憶の一ピースだ。見ないふりをしていたのは辛い体験だけではない。振り返って目を凝らせば、幸せは目の前に転がっていたではないか。
――もぉーっ! 何なの? ホントにナンなの?! 自分から殺すって言っておいて! わたしには殺すなって止めといて、こんなの全然わかんない! わかんないってばわかんない!!
反動で封印が緩んだのか、幸せな記憶の中、割り込み気味に別の映像が割り込んで来た。過去の精算にあの子を巻き込み、邪の道に進ませてしまった自分の罪。向き合わなくてはならない事実。
「みら」悲しげな顔を見て手を伸ばすが、ガラス戸に阻まれて何にもならない。ここに居ては駄目だ。窓を開き、外にゆかなくては。
『どうしたの? 出てゆくんじゃないの』
「それはそう……なんだけど……」
助けたいと思っているのに。一歩踏み出す、ただそれだけの事が出来ないでいる。ちはるにしか見えないし聴こえないが、その背には勝手知ったる友人たちが自分を呼び、戻って来るのを待っているからだ。
「また『あそこ』に戻るのは嫌。大人になったら、もう今までみたいにはいられなくなるもの」
ここはちはるの夢だ。出てゆくとは、自分を総て肯定してくれる理想のセカイを放棄するのと同義。みらが待っているのは分かる。ずっとこのままじゃ行けないことだって理解している。自身にそう言い聞かせてなお、次の一歩が踏み出せない。
『なるほどね』グリッタちゃんは優しくちはるの手を取って。『だったらさ。子供のまま大人になればいいじゃん』
「え……?」
『大人がゆめを見ちゃいけないなんて誰が決めたの?』
大人は確かに不自由だ。選択権の総てを委ねられる代わりに、生活の為これまで謳歌してきた自由を棄てなければならない。
ずっと切り捨てるべきものだと思っていた。高校時代ですら忌避されてきた趣味だ。大人になったら忘れてハイさよならと別れを告げるのが世間の認識。逆行し続ける自分はおかしな人間なのだと思い続けてきた。
『よそはよそ。うちはウチ。好きにやればいいんだよ。他人の目なんて関係ない。あなたの人生はあなただけのものなんだから』
窓の外でざんざん降りだった雨が失せ、雲の切れ間に陽光が挿し込んだ。ずっと、誰かにそう言ってもらいたかったのかもしれない。自分自身に言い聞かすだけでなく、他者にそう思ってもらいたいと。自分はどこまで行ってもこんな人間なのだと。どうせ・きっとと口を閉ざし、諦念のままに生きてきたちはるにとって、この一言は何にも代えがたい『救い』であった。
「けど、そんなことしたら、わたしはまた……」
自由とは、その責任を自らが負うということだ。もしもまた、受け容れられず独りになってしまったら。そう考えてしまうと足がすくむ。
『そうだね。だったら』その答えを読んでいたのか、グリッタちゃんは人差し指を彼女の唇に当て、自らの言葉を上から被せる。
『発想を転換しよう。あなたが少数派だっていうなら、自分が喧伝してオンリーワンになればいい。他の人たちが認めないっていうのなら、その道でイチバンの存在になればいいんだよ』
考えてみれば、簡単なことだった。
発想の転換とはまさに言い得て妙である。自分は爪弾きなんかじゃない。この業界の先駆者、パイオニアなのだ。
(待って。だとしたら)
納得しかけ、顔を上げた所で、ちはるの脳裏に以前みらとした話が過ぎる。
『うっわ、何このぼろぼろ。と言うかびりびり?』
「そうよ。今は無い。着れなくなったの」
『でも、いつものドレスは普通に着れてるじゃん。ラブリンは駄目なの?』
「そうね。なんでか知らないけどいつものはぴっちり来るの。だから今も使ってる」
高校生だったころに産み出したもう一つのドレス・ラブリン。自分では着れないからと、みらに渡したあの衣装。
必要に駆られ袖を通したが、瑠梨との一戦以降魔力を失い、ただの服と成り果てたあの衣装。
どうして着れなくなったのか。その理由が渋谷での一件にあるのなら納得がゆく。だが同時に疑問も一つ。同じまほうの装束でも、グリッタちゃんのドレスはどうして今なお普通に着れていたのだろう。もう嫌だと投げ出して、生活のためイヤイヤ続けていたというのに。
『自信を持っていいと思うよ。どんなにつらくても、嫌になってもあなたはずっとグリッタちゃんで居続けた。その“スキ“はきっと、セカイのどんなヒトにだって負けない』
「そっか……そう、だったんだ」
父が死に、祖母も死に。子どもでいられなくなって。無理矢理大人になったから、とっくのとうに無くなっていたと思っていた。
けれど本当はそうじゃなくて。自分の『好き』はあの頃から微塵も揺らいでいなかった。三つ子の魂百までとはよく言ったものだ。自分は、昔から笑えるほど何も変わっていなかったのだ。
「グリッタちゃん。ありがとう」
頬を張り、緩んだ気持ちに喝を入れ。教室の隅で泣きじゃくる女の子の前に立つ。もう恐怖はない。しゃがみ込んで手を伸ばし、少女の頬にそっと触れる。
「泣かないで。私はもう、大丈夫だから」
『ふえ……?』
言葉につられ上向くその顔には、その他大勢の住人同様写真が貼られており、中の顔を覗い知ることはかなわない。けれど、ちはるにはそれが何か解っていた。
写真の端を抓み、ゆっくりと剥がしてゆく。捲れたその先にあったのは、母と死に別れ、いつも一人で泣いていたあの頃の自分。幼き日の西ノ宮ちはるその人だ。
「もう忘れないよ。わたしは私。今までもこれからもずっと」
驚き戸惑う自分を抱き締め、穏やかな口調でそう呟く。幼いちはるは輪郭がぼやけて光となり、『いまの』ちはるに吸収されていった。
『うんうん。これでもう、大丈夫』
「そうだね。きっと、そう」
気が付くと、ちはるの姿は高校時代のグリッタちゃん衣装ではなく、黒のレディーススーツに変わっていた。慣れないながらに化粧をし、無理矢理社会に溶け込もうとしていた今の自分。ここがゆめであることを認め、過去の自分を受け容れて。やっと本来の姿に戻ることが出来た。
『つらくなったらまたいつでも戻っておいで。お説教して送り帰してあげるから』
「そうだね。また、いつか」
ゆめの中のグリッタちゃんに背を向けて、ぐっと教室の引き戸を掴む。思い出の中の教室が崩れ、暗闇の中へ溶けてゆく。
『行ってらっしゃい。わたしの大切な――』
引き戸を開けて出て行く刹那。送り出しにとかけられた言葉。”それ”はもうグリッタちゃんのものではなかった。暖かくて、懐かしくて、もう一度聞きたかった。けれどもう聴くことのない声。
なれど、彼女はもう振り返らない。今後ろを見てしまったら、せっかくの決意が揺らいでしまうから。
(ありがとう。もうちょっとだけ頑張るね)
振り返らず声にも出さず。感謝の気持ちを胸に秘めて。西ノ宮ちはるはこの楽園を出、地獄たる現実へと駆け出して行った。
…
……
…………
「起きろよ、起きてくれよ! お前しか、お前しかいないんだ……」
「えぇ加減にせぇ。お前、ほんま」
これまでずっと蹲っていたと言うのに、どこにこんな力が眠っていたのか。すがる瑠梨を引き剥がさんとし、桐乃三葉は他人事のように独り語ちる。
自身の所業を棚に上げ、助けてくれと騒ぎ倒すこの女。その目には一体何が見えているのだろうか。気にはなるが、確かめてみる気にはならない。
「どけよ関西弁。邪魔するな」
「うっさいわ。誰が関西弁や」
やっと自分のことを気に留めたか。三葉はまとわりつく瑠梨に蹴りを入れ、そのまま床に叩きつけた。
「邪魔すんなって言ってんだろ……。ボクにはもう、こうするしかないんだ」
「もうえぇ。何もかも聞き飽きたわ」
話し合いで解決するような相手じゃない。もうこれ以上綾乃やちはるを辛い目に遭わせるわけにはゆかない。ちはるのベットを右横に置き、頭側に瑠梨。足側に三葉。相手が続いて何をして来るか。アイコンタクトで互いに理解していた。
「ぶっ……」
「殺したらぁ!!」
爆ぜるような勢いで地を蹴って、右の腕を大きく振り被る。この一撃で意識を刈ってやる。鏡合わせとなった互いに臆することなく、ふたりは勢いのままに拳を解き放つ。
「おぉ、おう……おはようございまし……」
その真中で眠る西ノ宮ちはるが目を覚ました。左右で起こる圧を感じ取り、起き上がって右を見る。
「えっ」
「え?」
殺意を以て拳を振るう両者は異常事態に目を剥き、互いにそちらを見た。筋肉の動きは正直だ。目が動けば首が、肩が、腕の軌跡がずれていく。
三葉にも瑠梨にもそうする意図は全くなかった。総ては偶然の産物だったのだ。ふたりの拳は勢いづいて本来の標的から離れ、ようやっと現世に帰ったちはるの右頬と左後頭部に突き刺さる。
「ぐぉ……うげぁ!!」
三葉の拳が正とすれば、瑠梨の拳は負となるか。プラスマイナス双方の圧を一点に喰らい、ちはるの意識は再び夢の世界に飛ばされた。
「あっ」
「ちゃあ……」
それまで命を奪わんと争っていたふたりは、糸の切れた人形めいて倒れ込むちはるを目にし、呆けた顔を見合わせた。互いの憎しみは、いつの間にか消え失せていた。
次回、『私は”好き”をあきらめない!』につづきます。