おとなになんて、なりたくない
※ ※ ※
『――解らない、か。確かにそうだろうね。私は、君たちとは違う"場所"から来たのだから』
腹を抱え、ひとしきり笑った後。ファンタマズルは相対する綾乃に向かいそう告げる。
『――君たちの言葉でたとえるならば、虚数空間というのが適切かな。たとえばここに一枚の紙があるとする。それだけじゃあ何でもないが、指で穴を開ければ『孔』という空間が出来あがる。私の棲む場所はそういう所だと思ってもらって構わないんだよん』
どうせ、事細かに説明した所で理解できないだろうからね。ファンタマズルは困惑する綾乃を前に淡々と続ける。
『――私はどこにでもいるし、ここにはいない。私自身が誰かを映す鏡、いいや影と言ったほうがいいのかな。幾ら間近にいようとも、触れられないものには干渉のしようがない。退屈で不毛な毎日さ。絶えず世界の何処かで、触れもしない誰かの行く末を視る事しかできないのだから』
ファンタマズルはそこで言葉を切り、軽快な口調を伴って更に続ける。
『――故に、君たち自身に面白くなってもらいたかった。日々持て余すこのチカラを分け見とし、"まほうのアイテム"という形で提供したんだよん。感謝したまえ東雲綾乃。君たちは私のおかげで、常人という枷を外し、ワンランク上の存在になれたのだから』
「何寝言抜かしてんの、あんたは」
ひたすらに悪趣味。ひたすらに自分本位。心の炉に絶え間なく怒りという名の薪が焚べられ、綾乃の脚は奴の方へと一歩踏み出していた。
「誰が感謝するもんか。お前のような外道なんかに!」
無駄だと、頭では分かっていた。
向こうは懇切丁寧に、自分はこの世界には存在しないと説明していたのに。
ああ、それでもなお。この衝動を捨て置ける訳がなく。東雲綾乃渾身の右回し蹴りは、ファンタマズルというモヤを突き抜け、その先で待つ本来の『標的』とかち合った。
「話は終わった?」
我妻アイムは全力の回し蹴りを平手で受け止め、否受け止めてさえいない。不可視のバリアを間に張り、勢いを完全に殺してしまった。
『――私から話すことはもうない。後は君の好きにしたまえ』
モヤが一箇所に固まって、再び白のハットとピンクの外套を作り出す。その言葉はアイムに向けられたもので、綾乃への興味を無くしたのか、あの高揚した雰囲気は失せ、完全に背を向けている。
「おっけー。じゃあ好きにする」
残る気力を振り絞り、それすら不発に終わった今。綾乃に抗う術などない。不可視のバリアに弾かれて、受け身も取れず転がる綾乃の頭上にUFOキャッチャーのクレーンアームめいた物体が出現し、磁力『らしきもの』で彼女を空中に固定する。
「わたしのかわいいお人形さん。さ、ドレスアップの時間よ」
「ちょっ、あんた一体何、をっ!?」
アイムが指を鳴らしたその瞬間、四方八方からマジックハンドが現れ出で、綾乃の装束にまとわりつく。
枝分かれし何又にも増える指が纏う衣装に滑り込み、指の背で持ち上げて。その総てに尋常ならざる圧が掛けられた。
「うそ……。やめやめやめ! まじで止めて! ホントやめて!!」
そもそも抵抗のしようがなかった。指はまほうの繊維を容易く貫通し、ズヴィズダちゃん・改の衣装をずたずたに引き裂いた。後に残るはチューブトップブラにハイレッグショーツだけの東雲綾乃。抵抗する力の一切合切を失った哀れなトップモデルである。
「楽しみだなあ。日本トップモデルの着せ替え人形」
アイムが指を鳴らすと、綾乃をぐるりと取り囲むように、無骨な洋服タンスが迫り出した。ひとりでに戸が開き、中にしまわれたコスチュームたちが顔を出す。
「ひっ、ぃいいい……!」
ただ衣装を纏うのなら仕事の延長だが、支配者アイムが敵対者にそんなものを着せるはずもなく。トップバッターとばかりに動き出したセーラー服は、その内側でうねうねと触手が蠢いており、主の到来を邪気を放って待ち構えている。
「綾乃ちゃぁあん、あーそーびましょー」
服を着るのではなく『着られる』とはまさにこのことか。触手のうち一本が綾乃の背中に絡みつき、ついでもう一本、更に一本。東雲綾乃という存在を侵食してゆく。
「いやぁあああああ!!!!」
助けて。もう無理、怖い。これまで溜め込んだ活力が総て失われ、渾身の悲鳴もホールの中に吸い込まれて行った。
…
……
…………
『助けないんだ。グリッタちゃんなのに』
その存在を認識した瞬間、ちはる以外の周囲が氷結し、動く雲や風さえも動きを止めた。今の今まで騒がしかった教室が静寂が訪れる。
「えっ、え、え……? わたしがグリッタちゃんなら、あなたは」
『グリッタちゃんだよ。本物の』
明確にそう返されたちはるは、思わず彼女の足元を見やった。グリッタちゃん特有の薄桃色のニーハイブーツはそのままで、影もしっかり床に残っている。
『あなたはニセモノ。私は本物。必要なのはその事実だけ』
"グリッタちゃん"は戸惑うちはるの胸に、ぴんと張った人差し指を突きつけて。
『それに大事なのはそこじゃない。さっき聞いたよね。どうして助けないのかって』
誰しもが静止し、時の止まったこの教室の中で。ちはるとグリッタちゃん以外にも動いている者がもうひとり。教室の端でうずくまり、体育座りで顔を埋めた女の子。ちはるはその存在を知覚していたし、泣いているのも分かっていた。けれど彼女に手を差し伸べようとはしなかった。
「どうして、って」実のところ、ちはるの中に確たる理由はない。あえて理由を口にするなら、それがこの世界の秩序を乱すことだと感じたから、にすぎない。
『胸に手を当てて考えてごらん? あなたの大好きなグリッタちゃんは、目の前に泣いてる子がいたらどうするの?』
「む、む……む」本物が言うと説得力が違う。全く以てその通りだ。グリッタちゃんは泣いてキラキラが失われた子たちを見捨てない。この行為は背信ともいえる。
「なんや、横から出てきてエラっそうに!」
「あたしたちはちはると話をしてるの。ヨソモノは出てってもらえる?」
固まっていた三葉と綾乃が『動き出し』、グリッタちゃんに対し声を荒げる。自発的なものではない。主たるちはるがそう望んだからだ。『やつ』を此処から排除したいという意思の表れである。
『あなたたちは黙ってて』
グリッタちゃんは友人たちに目もくれず、右手をそっと横に薙ぐ。あくまでちはるのしもべたる彼女らに抵抗の術はなく、この空間から煙めいて掻き消えた。
「いいい、いいじゃん。いまここではわたしがグリッタちゃんなんだから。何をするんだってわたしの自由でいいじゃんかさ!」
護ってくれる者がいなくなり、口を突いて出た本音。これもまた正論だ。ちはるの意識の中、他人がとやかく言おうが首を縦に振る必要はない。
教室の外、窓の向こうに晴天に雲がかかり、雷がごうごうと唸りを上げる。それはまるで、不安定なちはるの心情を表しているかのようだ。
『本当に、そう?』
勝手気ままを通そうとするちはるに対し、グリッタちゃんのかけた言葉は優しげだ。非難ではなく慮りを以て、彼女の台詞に待ったをかける。
『あなたはどうしてそんなに動揺しているの? 関係ないって突っぱねるなら、そんなにぶるぶる震えなくたっていいんじゃない』
我を通していい立場のはずなのに。ちはるの声はかたかたと震えていた。まるで、理があるのは向こうの方だと言わんばかりに。
『それじゃ。さっきと同じ質問をするよ。どうして、あなたは助けないの?』
グリッタちゃんの姿をした少女は、どこまでもちはるに対し冷淡だった。ピンチに際し助言をくれるあの子とは大違い。
ぽつり、ぽつりと降り出した雨はあっという間に豪雨となり、横殴りの雨が閉じたガラス戸に突き刺さる。黙っていても何にもならない。答えるしかないのだと理解したちはるは、口を開き、絞り出すように言葉を紡ぐ。
「子どもじゃ、いられなくなりそうだったから」
ようやっと吐き出した言葉に、グリッタちゃんは首肯で応え、返答せずに黙っている。続けろという合図だ。ちはるは渦巻く想いをアタマの中で反芻し、言葉という形に変えてゆく。
「なんでかは知らない。でも、あの子を助けたら、わたしはわたしじゃいられなくなる。あそこに戻りたくないから、耳をふさいで蓋をした」
グリッタちゃんという異物を前にし、ちはる自身にかかっていたまほうは既に解けていたようだ。彼女はここが『現実』でないことを認識し、ゆめであることを暗に認めた。
『だから、助けないの?』
「そうだよ。絶対に嫌。寂しくて、貧しくて、誰からも相手にされない外のセカイ。あんなところに戻るなんて死んでも嫌」
急に外が暗くなり、鏡代わりの窓がちはるの心情を映し出す。
物心ついてすぐ母を亡くし、父は仕事でまともに取り合ってくれない。だからグリッタちゃんという偶像にのめり込んだ。
けれど、周りはそうじゃない。自分にとっては永遠だけど、他の子からすればグリッタちゃんは一過性のキャラクターでしかない。一緒に遊んでくれていた友達は、同じことばかり話す自分を見限って、『ふつう』の側に行ってしまった。
それからずっと自分はひとり。ださい、知らない、他に何かないの。他の子たちは歳相応の遊びと付き合いをしているのに、自分はそこには馴染めない。
――泣かないで、ちぃちゃん。
――お顔が暗いと、こころのキラキラが消えちゃうよ?
グリッタちゃんがそう教えてくれたから。どんなに辛くて淋しくとも、ずっと笑って生きてきた。すぐに忘れられるようになった。
まほうの力を手に入れて、友達が沢山できて。今までして来たことがヒトに褒められるのがとっても嬉しかった。自分も、他の人たちの一員になれるんだって思えたから。
けれど、それは結局マヤカシで。父も、親友のゆめも、自分が全部壊してしまった。
好きなものを好きになれず、何年も苦しみ続けた。もう変身したくないのに、生活の為に歌って踊り、奇異の目に曝され続けなくてはならない日々。犠牲になった人々の怨嗟が耳にひりついて眠れない。
首を吊り、手首を切って、何度も『ラク』になろうとした。楽しかったあの頃に戻りたいと思った。そして、やっと辿り着いた。たどり着いたのだ。誰にも疎まれず、自分が永遠に主人公でいられるこの世界に。
「大人になんてなりたくない。ずっと子どものまま、楽しいことだけをしていたいの。外に出たって辛いことしかないんだもん」
過去を思い返す中で、その目にはいっぱいの涙が溜まっていた。目を瞑って背を向けて、ずっと考えないようにしてきたトラウマと向き合って、自分を下支えする『なにか』が壊れたのを感じた。
もう止められない。溢れる涙がこぼれ落ち、声を上げて泣きじゃくる。十年分、いや産まれてこの方ずっと我慢し続けたストレスが、弱い彼女の心を押し潰す。
『それが、あなたの偽らざる本音?』
グリッタちゃんは穏やかな口調で、ちはるの吐き出した思いに対し、たったひとことそう返す。
「ホンネかどうかなんて、そんなの」
『聞くよ。だって、それは嘘なんだもの』
・次回、「あなたの『すき』は誰にも負けない」につづきます。