『でも、それってなんかおかしいよ』
※ ※ ※
「は、は、は。一時でも、私を殺せたという夢を視られて満足か? エェ?」
頭が水面に浮き、声のする方へ首を横向ける。霞むその目に映るのは、さっきと同じ巨大カマキリのシルエット。じゃあさっき倒したのは何? 左の目で逆の岸を見やれば、青の魔物は脚だけを残し今も沈黙を守ったままだ。
「保険もかけずに復讐が出来るか馬ァ鹿者がぁあ! オガミの仇はトウロが討つ! これぞ、女王様の創りしバトルアーマー・弐号機だぁあっ!!」
水に浮いたまま上下に揺れる視界の中、ちはるの目に黄色いカラーリングの巨大カマキリが見えてきた。鎌に当たる部分は折り畳まれて鈍器状になっており、同じく頭部にプレディカが収まっている。
「水浴びの時間はもう終わりよ」
閉じた鎌の先端部分から、人の五指を模した突起が出、ちはるを池から引きずり出す。
「今まで散々虫ケラと馬鹿にしてくれたなァ」腕を手前に捻り、ちはるの身体を本体の前まで引き寄せた。虫の息で抵抗する様子さえなく、胸元から腹にまで袈裟の傷が出来、衣装の上半分が赤黒い血で染まっている。
「オガミ。トウロ。お前たちの無念はここで晴らす。見ていなさい」
もう片側の腕を横に引き、ちはるの顔に照準を合わせた。魔力の加護も反撃の心配もない。この一撃で頭部を砕き、速やかにいのちを刈り取ってくれる。
「そうだ。やれプレディカ。やってしまえ!」
最早抵抗は無いと確信したのか。林の中から瑠梨が息を切らせて駆け寄ってくる。
「女王様! どうぞこちらへ。私が、宿願を、今!」
トドメを刺しかけた手を止めて、主の見やすい場所へと移動する。彼女は瑠梨の創造物だ。主がそれを望むなら、自分のちっぽけな欲など二の次三の次。主が喜んでくれるなら、是非その真ん前で。
この気持ちの振れがプレディカの、主たる瑠梨の。そしてここから先の運命総てを分けた。
「その手をどけてよ」
音も匂いも、その予兆すら一切感じられなかった。今そこに何がいて、自分たちが何をされたかも判らない。
西ノ宮ちはるが。この手で握り、四肢を爆ぜさせんとした獲物が消えた。遅れて蒼いペンキめいた血液が草むらに滴っており、閉じた右の鎌が腕ごと無くなっているのに気付く。
「話は聞いてる。あんたらがそうなんだね。グリッタちゃんを泣かせる悪いやつ」
次の瞬間、プレディカの視界から主の姿が消え、草と土ばかりの場面に切り替わる。自身が地に頭を垂れていると分かるのにニ秒の時間を要した。好き好んでこうしている訳じゃない。強烈な外圧が巨大カマキリに伸しかかり、一切抵抗出来ないでいる。
(身体が……動かない!?)
理由を求め、視線をあちこちに彷徨わす。奴は池の真ん中だ。頭頂に虹色のティアラを載せた、主よりも頭一つ小さな金髪の少女が、蒼く血の引いた表情で『浮いている』。
「グリッタちゃんはさ、あんたらのこと殺すって言ってたよ」
みらの声は冷え切っており、相手に対し慈悲どころか興味もない。この二撃で完全に理解した。向こうがどんな手を使おうが、自分は一切敵わない。
「このままでは……まずい……!」
伸しかかる圧が増大し、頑強なる黄色い鎧が悲鳴を上げ始めた。この先に待つのはアーマー共々無様な圧死。この身体は女王の誇りだ。棄てて逃げるなど恥以外の何者でもない。
「なん……何なのよこれは……」
彷徨わせた視界の先に、護るべきその主が呆然と立ち尽くしているのが見えた。敵は『あんたら』と言った。自分が消えればその矛先は間違いなく主に向くだろう。決断を吟味している場合ではない。
「う、あああ、あ!!」
黄色の鎧に自切の命令を下し、脚に筋肉に全力を注ぎ、敵の圧を振り切った。プレディカの身体は斜め上に跳んだ後、放物線を描いてパルテノン多摩エレベーター口の建物に激突する。
操縦者を無くしたアーマーは圧に耐えられず、押し潰されて平たくなった。プレディカの決断があと一秒でも遅ければ、彼女もあそこで青い血溜まりになっていたことだろう。
(こんな伏兵がいるなんて!)主が用意してくれた鎧は二つともオシャカ。対抗手段は何もない。だが、尻尾を巻いて逃げ出す訳にもゆかない。主を守るためには、戦う以外の道はない。
「舐めるなよ小娘ぇえ」手首から先を無くした腕に力を込め、喉を枯らさん勢いで叫ぶ。千切れた箇所に枝葉めいた骨が生じ、肉を纏って元の形を取り戻す。
「死ねぇぇえええええい!」
再び手首の先から生えた鎌を広げ、池の真中に陣取るみらへと飛びかかる。他に打てる手が無いゆえの特攻。彼女が振るうその刃は。何も裂けずに空を切る。
「消、え、た?」向こうは一歩も動いていない。色付きのモヤを斬ったかのようだ。あれそのものが幻覚か? 本体は此処にはいないのか?
「ああ、うざったいなあ」揺れた水面が次第に元の形を取り戻すかのように。ぐにゃりと揺れるみらの身体がプレディカの方を向いた。「もうお前いらない。大人しくしてて」
手の平を広げ、次撃を放たんとするヒトガタカマキリに向ける。瞬間、プレディカの身体が宙に浮き、風切る速度で地面に叩きつけられた。
「ぐ、ぉお……!」
それも一度や二度ではない。生肉をすりこ木で叩くような音を響かせ、プレディカの身体は浮いてぶつけられを繰り返す。骨身が軋み、手足に力が入らない。喰らったのがヒトであったなら、五・六打目でまず間違いなく死んでいる。
「ふざけんなよ。なんで、こんなことになるんだ。悪い夢でも視てるのか……?」
今度こそ。この呪いから解き放たれると信じ、トドメを見たいと駆け寄って。その結果がこれか? 奴がツイているだけか? 自分が運に見放されているだけなのか。花菱瑠梨は急変する事態を飲み込めず、呆然とその場に立ち尽くしていた。
「見ぃぃつけた。あんたが親玉。ハナビシ・リリ」
プレディカが動かなくなったのを見届けて、みらの目が主たる瑠梨の方に向いた。自分より小さな存在に凄まれて、背筋が怖気が走るだなんて。瑠梨は池の上でこちらを睨む少女に対し、何の反応も返せずにいた。
「あんたなんだよね? グリッタちゃんやズヴィズダちゃんをいじめて、苦しめたの」
絹糸のように美しい金髪がふわりと上向き、彼女の浮く足元に波紋が生じ始めた。
「グリッタちゃんずっと泣いてたよ。友達ともずっと離れて暮らしてて。何もかも全部あんたのせいだ」
頭頂のティアラは鈍く朱色の光を放っており、そのオーラが全身を包んでいる。西ノ宮ちはるの時と同じだ。怒りの感情に反応し、暴走し始めている。
「でも。簡単には殺さない」みらが右手を上げ、人差し指を突き付ける。同じように瑠梨の手も持ち上がった。
「足元のキャンパス。絵を描く人なんでしょ。グリッタちゃんみたいに」
どんなに力を込めようと、伸びた腕が戻ることはない。これは何の能力だ? 自分とプレディカは一体何をされている?
「グリッタちゃんがあんなに苦労してるのに、ひとりだけ画を描いて過ごせるだなんてムシが良いにも程があると思うんだよね」
だから・と言葉が続き、花菱瑠梨は次の展開を理解した。やめろ、それだけはやめてくれ。加害者の都合の良い言い訳が彼女に届く筈もなく。
「お前の手なんか、こうしてやる」
まるでトンボを捕まえるように。みらは張った指をぐるぐると回す。それに呼応するかのように、瑠梨の右手が無理矢理七百二十度に捻じ曲がった。
「あっ、あが……アアアアアア!!」
予備動作なく放たれた一撃。瑠梨の手の平は完全に逆を向いており、血が通わず蒼く変色し始めている。
「痛い! 痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い!! ふざけんな畜生、ふざけんな!」
魔力による拘束から解き放たれ、左手で右を押さえて倒れ込む。『矯正』の名目で痛みを与えられたことなら何度もある。背中にはみみず腫れや切創、煙草を押し当てられたことさえあった。
だが、どれも体面を気にして目に見えるところに受けたことは無かった。隠すと違和感のある手は特に。そこを極められ、瑠梨の目から苦悶の涙が零れ落ちる。
「痛い? ねぇ痛い? そぉだよね痛いよね。けど、グリッタちゃんたちはもっと辛い目に遭ったんだよ。毎晩枕を濡らして苦しんでるんだよ。申し訳無いって思うでしょ? 謝りたいって思うよね? どう、どう? ほぉら言ってごらんよ。ごめんなさいって」
みらの顔は今に至ってなお冷ややかだ。冷淡な顔で鼻をすすり、腕を押さえて苦しむ瑠梨を見下ろしている。ちはるに謝れ。シンプルな理由だが、常日頃彼女の苦しみと向き合っているみらにはこれ以上ない行動原理であった。
「当事者でも無いくせに、代弁者気取ってしゃしゃり出て。ふざけんじゃない、死んだって謝るもんか」
痛みに身を捩ろうと瑠梨の答えは変わらない。みらの言は一方的だ。奴のせいで自分がどれだけ苦しんだのかを全く考慮に入れていないのだ。首を縦に振るはずが無い。
「そっかあ」みらの側もこの程度で心が動くフェーズはとうに超えている。瑠梨の言葉に淡々と応え、左手の人差し指で足元の水をくるくると回す。
まるで綿飴を絡め取るように。池の水はみらの左人差し指に集束し、ひとつの形を成してゆく。彼女が左腕を大きく振り上げた瞬間、瑠梨の視界が不自然にたわんで歪んだ。そこにあるのは青空ではない。みらの手に収束された水が巨大な鎚を形成していた。
「じゃあ、死のうか」
影は公園の草原だけでなく、パルテノン多摩の建物区画をも覆っている。逃げて済む問題でないのは火を視るよりも明らかだ。
「じょ、女王様ぁ……あ」頼みの綱のプレディカは全身打撲で倒れ伏し、顔を上げることすら叶わない。本格的な”詰み”だ。ひ弱で腕を負傷した瑠梨に出来ることは何もない。
池の水で作られた鎚が振り上げられた。諦める他道は無い。瑠梨は怯えに引きつった表情のまま、その瞬間を待ち受けていたのだが―-。
「駄目だよ、みら」
収束・凝縮されていた水が爆ぜ、周囲の土を泥濘に変える。瑠梨は降りてきた水に飲まれ、パルテノンの階段付近まで押し流された。
だが、死んではいない。みらが中途で鎚を解除し、水に戻したからだ。何故そうした? 答えは彼女の目線の先にある。流されうつ伏せになっているが、今この瞬間まで、瑠梨の前には盾として立ちはだかったちはるの姿があったからだ。
「グリッタちゃん! 無事だったんだね」水を吸い寄せ、空になった時。底を伝ってここまで来たのか。多く血を流したのだろう。手足は蒼く、遠目に見えるくらいかたかたと震えている。
「どいてよ。グリッタちゃんの代わりにそいつ、殺すから」
「だから、駄目なんだって」
ちはるは苦悶の表情を浮かべて振り返り、今にも閉じてしまいそうな目でみらを視る。
「あなたに、人殺しをさせたくないの。それだけは絶対に駄目」
「そんなヨマイゴト言ってる場合? グリッタちゃんぼろぼろじゃん! 自分でやれないくらいフラフラじゃん!」
確かにそうだ。否定しようがない。返す言葉もない。瑠梨と戦い、殺すと言ったのは自分だ。だが今その口約は果たせそうにない。
「判ってる。分かってるよ。けど……」
経験者だからわかる。チカラを持った人間がその境界を踏み越えたら、二度と昨日までの自分には戻れなくなる。父を殺し、多くの人々のいのちを奪った。時を重ね、ほんの少し前を向けるようになったけど、振り返ればずっと呪いに苛まれて続けている。
「お願い。ここは引き上げて。あなたはこの争いに関わらないで」
「じゃあ」みらの顔に浮かぶのは困惑だ。「そいつどうするの。殺さなきゃいけないんでしょ。放っとくの?」
「それは……」満身創痍の中、ちはるの頭の中にはみらを止めることしか考えていなかった。「私が絶対何とかする。だからお願い。アヤちゃんの居るおうちに帰って」
「そんなの。絶対におかしいよ!」
ちはるが万全ならばそれも受け容れられただろう。だが今は違う。このまま戦えるだけの気力はもう残っていない。何とも出来ないのに何とかすると言い張る矛盾。
「グリッタちゃんやっぱり変。殺す殺すって言っておきながら、今はそいつを護ろうとしてるじゃん」
「違う。そんな、つもりは」
本当に、そうか? 疲労の末混濁する意識の中、吐き出した言葉に問い掛ける。あの殺意に嘘はない。否、その言葉そのものが嘘だったのではないか。花菱瑠梨を殺したい程憎んでいる反面、友達として再び迎え入れたい気持ちも同じくらい大きかった。
「そんな……つもりは……」
もう、自分で自分がわからない。渋谷のステージで騙していたのを明かした顔と、部室の中でぎこちなく微笑む顔とが交互にフラッシュバックしている。
(お父ちゃん、お母ちゃん。アヤちゃん、わたし、どうしたらいいの)
憎んでいたのか愛していたのか。ぐちゃぐちゃの感情が押し寄せて止まらない。殺して・殺されてすぐなら怒りが先に立ち、躊躇いなく復讐を果たせていただろう。だがあれから九年が経った。お互い生きる為、沢山の理不尽と折り合いを付けてきた。
きっとそれは瑠梨も同じなのだろう。偶然重なったその目は困惑と怯えに満ちていて、戦意など微塵も感じられなかった。
「もぉーっ! 何なの? ホントにナンなの?! 自分から殺すって言っておいて! わたしには殺すなって止めといて、こんなの全然わかんない! わかんないってばわかんない!!」
みらにとって西ノ宮ちはるは過去の記憶無き自分を迎え入れてくれた母であり、かけがえのない家族であった。その母を痛めつけ、殺すとまで言いのけた存在だ。ちはるが出来ないというのなら、自分がやるのが筋というもの。
だからこそ、疲弊したその姿で待機を求める事由がみらには理解出来ない。きっと五体満足で懇切丁寧に説明したとして、背景を知らなければ解ってはもらえないだろう。
稚児にとって、わからないとは特大のストレスだ。良かれと思ってしていることを止められて、みらの興奮は臨界点に達しようとしていた。
「もぉ、グリッタちゃんきらい! 全部きらい! 何もかもみぃーんな、大嫌い!!」
ティアラに漲らせた魔力が変質し始めたのはその時だ。赤黒の光に他の差し色が加わり、鮮やかな虹の輝きへと変貌してゆく。
『――ははは。いよいよだよんアイム。さあ見せてくれ、まほうのチカラのその果てを!』
パルテノン多摩の最上部にて、唯一この事態を把握し、手を叩いて喜ぶ者の姿あり。ピンク色のシルクハットに白の外套を纏った怪人は、時折その光に飲まれ消えながらも、称賛の拍手を惜しむことはなかった。
ティアラから発せられた光はみらの全身を伝い、彼女自身を一大発光源として多摩市全体に解き放たれた。善も悪も建物も動物も人間も。そこに在るもの総てが虹色の輝きに呑み込まれてゆく。
「そうだ。思い出した。わたしの名前は……」
彼女は如何なる願いもカタチに出来るまほうのティアラを与えられながら、『忘れる』ことでその行使を拒んだ。真に何でも出来ることの怖さを知ったから。親たちはその時良い顔をしなかったから。
「みら……何を言ってるの?」
眩い光の発火点で、西ノ宮ちはるは変質しつつある『娘』の姿を見た。お古と貸し与えたワンピースは虹色の輝きと混ざり、ティアラに合うシースルーの綺羅びやかなドレスへと形を変えてゆく。
「わたしはもう、『みら』じゃない」
光が失せ、多摩の街から音が消えた。生きとし生ける者はパルテノン多摩の方を向き、今ここに誕生した"女王"に頭を垂れる。
ペンを持つちはるも、キャンパスを得た瑠梨も。他の総ての能力者もみんな、彼女の前座だったのだ。爆心地に座すふたりの能力者は、そのことを唐突に理解する。
「アイム。我妻アイム。それがわたしの本当の名前」