逆襲のアクマ(下)
※ ※ ※
「こ、の、や、ろ、う……!」
肩口が焼けるように痛い。鉄臭い血が右腕を真っ赤に染め、バトンを握って持ち上げられない。即座に左手に持ち替え、その場から飛び退いた。
グリッタちゃんの衣装を纏い、魔法少女として活動している間は、ちはるは怪我を負っても徐々に回復し、解れた箇所も勝手に元通りになる。だが魔力を含んだチカラはその範囲外だ。衣装も身体も縫合と自己治癒でしか治せない。
無防備な本体をこちらに晒したところすら自信の表れだと侮っていた。出し抜いてやれば簡単に破れると思っていた。だがそれさえも罠だった。怪物・プレディカは自身と義体とを切り離し、不意打ちでちはるの肩を斬りつけた。
「あはは、あは。あはは! 切れろ斬れろぉ!」
そして、そこだけに集中してはいられない。本体を無くした巨大カマキリは即座に上体を沈め、ちはるに対し水平斬りを放ってきた。中身が無ければ糸の切れた人形になる筈のナマモノが、本体と連携して攻撃を放ってきたのである。
「飛び道具を持っているから勝てると思ったか? そんなもん想定の範囲内なんだよォ」林の中に身を潜めた花菱瑠梨が、散った鮮血を契機に声を上げた。
「ボクたちがどれだけお前を恨んでいたか解るか? 何もかも全部計算済みなんだよ。手足を奪い、血と肉の塊になりながら死んでゆけィ」
大仰な主の声が止み、カマキリたちの猛追が始まる。横移動で躱せばプレディカ本体が刃を振るい、縦移動を使えば顔なしカマキリが巨大な鎌を横薙ぎに振ってくる。反撃を試みんと距離を取るも、人智を超えた魔物のスピードには敵わない。
(ふざけんなマジで……。私何にも出来ないじゃん)
奴らと対等に戦うには『溜め』がいる。溜めを用いない牽制の光弾を幾ら放とうと、本体は鎌で相殺し、大型にはそもそも当てたところで通用しない。
これは自分に向けて張られたメタ中のメタだ。ふたりなら何とかできるかもしれないが、ひとりだけじゃどうしようもない。愚直に約束を守った自分が馬鹿みたいだ。
「クソ虫共がァアアア。人間サマに盾突きやがってからにぃいいい」しかし、ちはるはこの選択を間違ったとは思っていない。憎々しく毒づく自分を、殺意に震えて紅く燃える自分を。無垢なみらに見せるわけにはゆかない。間違えさせるわけにはゆかない。
「ぶち殺す! 殺してやる!! その頭をかち割って、中の液体全部、この草むらにぶち撒けてやるぅうう」
口汚い言葉で自分を鼓舞し、迫る刃を跳ねて躱す。増援を期待できないなら頭を働かせろ。二対一のハンデを撥ね除けるのだ。あの巨体は懐に潜れば何もできない。
(何もかもがプラスにはたらく筈はない。別々になったとしたら、脆くなっていなきゃおかしい)
標的は分離したプレディカひとり。巨大なカマキリに背を向けながらもつかず離れずの距離を保ち、"本体"を討つべくチカラを集束させる。
「ぶっ、殺してやる!」赤黒い魔力が穂先に溜まり、プレディカに照準を合わせた。この一撃であの虫ケラを血溜まりに変えてくれる。魔法少女であることを捨てた邪悪な笑みでいざ放たんとするのだが。
「無駄よ」
プレディカの側もこの行動を読んでいた。懐に潜り背を向けていた巨大カマキリが、プレディカの目配せひとつで視界から『消えた』。
(消えた……? 違う)瑠梨と共にあれが出て来た時を思い出せ。池を波紋を作り、姿を見せたあの瞬間。十年近く前あれの妹と戦った時があった。奴は『匂い』を操り、その姿をぼやかせるチカラを持っていた。それがこの巨体にも備わっているとしたら。
「馬鹿ね。あなたが相手をしているのはだぁれ?」
この迷いこそが向こうの狙いだと気付いたのはこの時だ。自分は今何をしようとしていた? 既に敵は照準の外におり、今から狙っても当たらない。
「ふざっけんな……ぁ」
もっと早くに気づくべきだった。この不利は簡単には覆せない。総ては向こうの舌先三寸なのだと。ちはるが後悔に歯噛みしたその刹那、強い風切り音と共に彼女の背面から鮮血が噴き出し、X字の傷が刻まれる。
「う、げぇ!?」
汚らしい叫びを上げて膝をつき、右の足で倒れまいと死ぬ気で踏ん張る。だがそれも次撃が来るまでだ。顔を上向けたその瞬間、ちはるの目に右の鎌を振り被るプレディカの姿が映り込む。
「死にさらせ、西ノ宮ちはるぅうううう!!!!」
どれだけ怒りを全身に漲らせてもなお、この攻撃は避けられない。鈍化する意識の中、西ノ宮ちはるは匙を投げた。勝って、皆と一緒にピューロランドに行きたかったのに。長年抱えたこの苦しみから逃れられる日が来たと思ったのに。夢は叶わず、死を以て総てを終わらされることになるなんて。
(本当に、それでいいの?)
頭の中に巣食う別の自分が、弱気な答えに否を乗せる。載せられたからなんだ。事実どうしようもないじゃないか。
(ホントウニ、ソレデ、イイノ?)
これまでの出来事が走馬燈のように脳裏に現れては消えて行く。グリッタちゃんに憧れた頃。コスプレをし、痛い目で見られた頃。ご当地の魔法少女として、親友と共にあきる野の星になったこと。口うるさくて子どもだけど、愛おしい妹が出来たこと。走馬燈の中のみらが、自分に向かって微笑んだ。
「う、ああああああ!!」
とっくに限界だと思っていた身体が動く。歯を食いしばって両の手でバトンを掴み、胸の前で真剣白羽取りめいて構え、必殺の一撃を受け止めんとした。
「そんなものが何になるゥ!」
無論。そんなもので魔力を帯びた鎌を防ぐことなど出来るはずもなく。筋を見極め唐竹割にされるように。実に二十年近く連れ添ったグリッタバトンは、真っ二つに斬り捨てられた。
「あ」
それで完全に防ぎきることは出来ず。ちはるの衣装は胸元から腹の辺りまでに傷がつき、切り口から血が滲む。
「あぁ……」
眼前のプレディカはこの一撃が致命のものでないことを見抜いていた。振った鎌を引き戻し、最後の一撃に向けて構えを取る。
「あ、あ、あ」
糸の切れた人形のように垂れ下がる自分の手を見た。返り血のついたピンクの手袋。鉄臭くなった衣装。真っ二つにされたグリッタバトン。
「そっか。中には何も入ってないんだ」
力なくそう呟いた言霊が、現実味のないこの絵面に実を入れた。怒りの炉に燃料がくべられ、全身に漲る朱のオーラが蒼に染まる。
西ノ宮ちはるの中で、決定的な何かが切れた。
「な、に……?!」
三度目の正直と、振ったはずの鎌が何も触れずに空を切った。なぜこのタイミングで外すのか? 否、外したのではない。刃があって然るべき場所から、刃物そのものが消えている。
プレディカの記憶に九年前の地獄が蘇る。炎に飲まれ、子どもたちを根こそぎ殺され、下半身を切り裂かれたあの時。乗り越えたものだと思っていた。今こうして怒るちはるを制したことで、圧したものだと思っていた。
「ぐぁ、アアアアアぁ!!!!」
見通しが甘かったのは果たしてどちらか。九年という歳月の中、相手を舐め腐っていたのはこちらも同じだったか。手首から先が削ぎ落とされ、青色の血液が噴き出す様を見、プレディカは唐突にそう理解する。
「お、オおおオお」
真っ二つに割れたバトン双方の穂先から、限りなく黒に近い赤の光が溢れ出している。それはちはるの鼓動に呼応するように脈打っており、彼女がバトンを手放せば野に放たれてしまいそうな程不安定だった。
九年前のあの日、怒髪天を衝く怒りは全身の毛穴から放たれ、渋谷公民館を破壊し尽くした。あの時と同じだ。だが今回は怒りを両の手の平に集め、折れたバトンという一点から放出している。
意図してそうした訳ではない。怒りで我を忘れた瞬間、ちはるの目に映ったのがプレディカであり、あの巨大カマキリだったというだけ。視たそのままを模倣したのである。
「おオ、おぁぁぁぁああ!!!!」
プレディカの手から刃を奪ったちはるは、振ったその反動で本体の抜けたカマキリに向き直る。右手には逆手に持った黒赤の光。逆袈裟に振った光の刃は一瞬で刀身十メートルまで伸び、左半身を小削ぎとる。
抵抗する暇さえなかった。反撃しようと動いた時には、残る右側も刃に裂かれ、青の血を噴きながら巨大な化け物は脚だけの肉塊となり、動かなくなった。
「た、お、し、た……?」
アドレナリンで抑えられていた痛みと疲れが解き放たれ、ちはるの身体がくず折れる。体を預けた足元の草は急速に茶色く変色し、土を残して枯れ果てた。
激情から引き出した火事場の馬鹿力もこれまでだ。起き上がらんと全身に力を込めるも、動いてくれたのは頭だけ。肩から下は脳からの命令にストライキのバリケードを張っている。
「あれ?」
その動く首で周囲に目をやる。蒼い巨大カマキリは胴の部分から体液を噴き出して突っ伏している。それはいい。千切った鎌手が錆びた鉄みたいなカスを吐きながら空気に融けている瞬間を見た。それもいい。
(『本体』は、どこ?)情けない叫び声を上げ、文字通り打つ手を失ったプレディカは何処だ? 苦心して身体を横向けると、青い血の跡だけが林の先に続いているのが見えた。
ボクたちがどれだけお前を憎んでいたか解るか。何もかも全部計算済みだ。林に隠れた臆病な主の言葉が蘇る。
「ぐ、ぁあ!!」
ここにいては危険だ。逃げなければ。そう願い、横たわる身体に鞭を打ったが無駄だった。周囲の土を抉り爆ぜさせるような衝撃がちはるの鳩尾に突き刺さり、彼女を泉へと乱暴に放り込む。
※ ※ ※
「はい。トイレはもういいでしょ。手ェ洗って出ておいで」
「はぁい」
歳上に急っつかれ、苦い顔をしてトイレから追い出され。西ノ宮みらはお目付け役の生真面目さをうっとおしく思いながら、粛々とその指示に従っていた。
ちはるの勝利を疑うつもりはない。約束を守り、笑顔で帰って来てくれると思っている。
だがそれを心の底から信じることが出来ないでいる。殺意に満ちた言動のせいか? 自分を遠ざけるあの態度のせいか? それとも―-。
『――おやおや。ずいぶんと冷たいねアイム』
手を洗い、顔を上向けたその先で。ショッキング・ピンクのシルクハットとかち合った。
聞き覚えのない、いやある。濁りひとつない父親のようなこの声は。頭の中に響いてくるこの声は。
(あなた、ステージの時の?)
『――そう。キミにチカラを与えたファンタマズルさ。今後ともお見知りおきを』
声は出していない。心の中で思っただけだ。目だけを動かし、廊下に立つ綾乃を見やる。こんなにはっきり映っているのに、彼女が動く気配はない。
(わたしに、何か用事?)
『――用も何も。私には理解できないんだよ。キミほどの逸材が、仲間のピンチに何もせず黙っているだなんて』
妙に含みのある言い方だ。仲間など。自分に居るはずが……。
(待って。仲間ってまさか)
今この状況で仲間という言い回しを使い、自分にだけ念話を送ってきたということは。みらは全てを察した。
(ピンチなんだね。グリッタちゃんが)
『――百聞は一見にしかず。その目で確かめるといい』
みらの顔を映す大鏡が波打ってたわみ、絵の具をかき混ぜるように風景を変えて行く。続く場面がどこになるかは想像がついていた。多摩中央公園で魔物と戦うちはるの姿だ、その血で池を赤く染めながら、力なく上体を浮かせている。
(嘘……こんなの、そんな)
声を抑えるので精いっぱいだった。綾乃はまだこちらに気付いていない。話せるわけがない。彼女とてちはるの帰りを待っているひとりなのだから。
『――彼女、もうじき死ぬんじゃないかな。むかっ腹を立てて立ち向かったが、それでも全く敵わなかったみたいだね』
(嫌だ……そんなの、嫌だ!)
ぎりぎりのところで繋ぎ止めていた約束が、音を立てて崩れ去ってゆく。ちはるの願いも、綾乃の言いつけも関係ない。そのちはるがピンチなのだ。今向かわなくては命がない。
『――そうか。ならば行くといい。キミにはもう解っているはずだ』
「うん。行くよ。行ってくる」
行き方をいちいちご教授してもらう必要はない。頭頂のティアラに願いを込めれば、彼女は何処へだって自由に行けるのだ。
「みら……? 行くって何? あんた」
廊下からでも足先が見えると油断した。不安に思い、トイレに駆けつけた時にはみらの姿は洗面所から消えていた。
次回、『でも。それっておかしいよ』に続きます。