乗り越えろ、過去の自分を
※ ※ ※
「みら。もう大丈夫?」
「うん」
「災難、だったね。ま、無理に出そうとしたあたしたちも軽率だったわ。ごめん」
「うん」
日暮れ時の茜が建物に影を落とし、長く伸びては消えてゆく。ちはると綾乃は帰りの電車でみらを真中に挟み、本日の失敗の謝罪を繰り返していた。
(参ったね。反応ナシだよ)
(アガって固まっちゃったのが余程ショックだったのね)
快復した後、商工会の判断で『今日はもういいから』と帰されたが、それからずっと何を聞いても虚ろな目で生返事。
(こういう時、なんて声をかければいいのかな)
(さすがにもう、そっとしとくしかないでしょ……)
拗ねて無言ならまだ解る。だが反応はあるがノー回答では手の出しようがない。ふたりの大人はひそひそ声でどうすべきかを話し合う。
「ごめんね、グリッタちゃん」
次ぐ判断を決めあぐねていたふたりに、密やかな声でみらが応えた。「わたしが、余計なこと言ったばっかりに」
「そそそ、そんなこと無い!」返事が返ってくるとは思わず、勢い任せに言葉を返す。
「そりゃあ緊張するものね、気持ちはわかる。私だって最初は……」
などと考え、九年前の自分を思い返す。初めて舞台に立ったあの日。幼馴染と同じ地平に立てたのが嬉しくて、それ以外のことは失念していた。
(まずいな、私そういう挫折はしたことなかった)
思わせぶりに言葉を切って、その先に連なる展開がない。何らかの訓示を期待したであろうみらにかけてやれる話がない。
「やっぱりそうなんじゃん」となれば返答も相応である。みらはいじけた顔でちはるを見、「慰めなくてもいいよ。結局わたしが悪いんだもん」
「そ、それは……」
事実そうなので会話が拡がらず、二の句を継げずに押し黙る。大人として情けない。失敗にしょげて俯く子供に、何一つ気の利いた言葉をかけてあげられないとは。
(こんなんじゃ駄目だ)
仲間がいて、歌って踊って楽しかった高校時代。ずっと続くと思っていた青春は他と自己のせいで闇に消え、あの日のキラキラを惰性と生活の為に消費している。
「みら。顔を上げて。舞台でした失敗は、舞台の上で取り戻そう」
「え……?」
本当は楽しいことなのに。やりたいと思った事だろうに。つらい失敗体験だけ残して終わらせて良い訳がない。
「これから三週間後、秋の収穫祭で舞台に立てって誘われてるの。きょうのリベンジ。一緒に練習して克服するの、その人見知りをさ」
※ ※ ※
「で、これはナニ? グリッタちゃん」
「何って。アレだよ。特訓の為の機材機材」
彼女たちが住まう多摩の団地から歩いて十分。小さな図書館の二階・フリースペースを貸し切って。一段高い即席の壇上で西ノ宮みらが見たものは、彼女を中心に末広がりに並べられた椅子と、雑なテープ止めで固定された老若男女のバストアップ写真であった。
「特訓って、わたしのあがり症のことだよね? それで? というかそれが? なんかちょっとおかしくない?」
「大丈夫。ひとつひとつ裏にマイク仕込んでおいたから。どわーっと声が出てくれば臨場感出るっしょ」
先のライブステージで明らかになった、みらの極度のあがり症。三週間後のリベンジライブの為、それを克服すべくちはるが考えた方法がこれである。
「いやいや騙されないよ。これじゃあ多分意味ないよ。どう見たって紙じゃんこれさあ」
「そりゃあそうだけど……。色々あるのよ大人には!」
実際のところは予算と何より人員不足である。怪我による入院からようやっと回復し、仕事をして稼がねばならないちはるに、本当に人を動員して大きな会場を貸し切るだけの財力も人脈もないのだ。
「もういいよグリッタちゃん。じゃあもうわたしが人を呼ぶから」
「駄目ッ」こめかみに手を当てるみらに、ちはるが慌てて待ったをかけた。
西ノ宮みらには、望めばどんな状況も現出させられるまほうのチカラがある。このフリースペースどころか、その気になれば武道館を満員にすることさえ造作もないだろう。
「あなたがあなたのチカラで呼んだ人でしょ。それこそ何の意味もないよ」
だがそれは、みらの意のままに動く操り人形同然の存在だ。極端な話をすれば、ちはるが作った即席の"観衆"と何も変わらない。親心とでも言うべきだろうか。たとえそれが的外れでも、自分の力で彼女を勇気づけてあげたいのだろう。
「むむう。じゃあさ、どうするっていうのさ」
「それは……」ちはるとて、この練習が意味を成さないことは解っている。自分ひとりではこれ以上してやれることは無い。と、なれば。
「オーケー、みら。あなたの勝ち。お出かけしよう」
「お出かけ? どこへ?」
「そりゃあ決まってるでしょ」
※ ※ ※
『はいっ、じゃあ次はこの服ね』
『いいよぉ、すごく良い! それじゃあちょっと上目遣いしてみようか』
「おっけー。やるやる!これでどぉ?」
場所を移し、渋谷は道玄坂。東雲綾乃が懇意にしている撮影スタジオで、みらがスポットライトを一点に浴び、きらびやかな衣装でカメラマンの指示を受けている。
「あんたさ、最近すぐヒトを頼るようになったよね」
「独りでぐちぐち悩むよりマシでしょ」
仕事の領域を冒されてさぞ立腹かと思いきや、綾乃の顔に浮かぶのは安堵。親友が悩みを抱え込まず、相談という形で持ち込むようになったのが嬉しかったようだ。
「しっかし、自分のことしか見えてなかったあんたが。ここまで親身に面倒観るなんてね。環境はヒトを変えるってやつ?」
「かもね」ちはるはほんの少し間を置いて、穏やかな口調でこう続ける。「私さ、ゆめを追おうとして失敗しちゃったじゃない? それで塞ぎ込んで、ずぅっと俯いて生きてきた。けどみらは違う。失敗をずるずる引っ張って、私みたいになってほしくないんだよ」
「ふうん」それを聞いた綾乃は、否定と肯定とも言えない調子で返し。「あんたも、人並みに歳を取ったってことね」
「まあ、その……そうかな」
思っていた反応と違う。それなら自分も応援する。大人になったじゃない。親友の綾乃なら、自分の想いをそう後押ししてくれるものと思っていた。返しの言葉が微妙に不機嫌なのは何故か。尋ねたいなと口を開くが、そこから言葉は出て来なかった。聞いて、改めて否定の感情をぶつけられるのが怖かった。
『似合うねえ。キミ、モデルの素質あるよー』
『アヤちゃんの知り合いなんだって? 大きくなったらウチで働いてみる気ある?』
「ほんとぉ? おねーさんたち持ち上げすぎじゃない? わたしってばそんなにすごい? そんなこと……あるけど!」
代わる代わる別の服を纏い、被写体としてカメラの前に立っていながら、みらの表情には些かの揺らぎもない。あの日、見知らぬ人々に怯えて固まっていたのは何だったのか。
「んー……。これはちょっと予想外だったなあ」
「きょうの仕事全部パァにしといて第一声がそれ?!」
あがり症を克服すべくやって来たというのに、これでは何の意味もない。何のための根回しか。何のための遠出なのか。
「あの子。ヒトに囲まれるのが怖いんじゃなくて、壇上に立つのが恐いんじゃない? 被写体としてちやほやされるのは平気なんだし」
「なるほど……」
今こうして撮影をするのは、綾乃の口添えで勝手知ったるスタッフたちだ。本音かどうかは別として、みらのことを褒めちぎり、笑顔で彼女に接している。対して、ステージは見ず知らずの人間が奇異の目で、自分という一点を注視する。そこには正負様々な感情が渦巻いており、必ずしも肯定してくれるとは限らない。
「ということは、九年も続けられてる私ってば結構すごいんじゃないの?」
「今頃気付いたんか」
不貞腐れようと、生活の為だろうと。プレッシャーを跳ね除け、誰もがステージの上で歌い続けられる訳じゃない。
「で。みらは現在『そう』じゃない」
「だから、他に取れる手段があるとすれば……」
※ ※ ※
「いよォ〜っ、待ってましたァ! 魔法少女のみらみらちゃん、歌ってぇ〜」
肩までかかりそうな黒髪を茉莉花の花飾りで留めて持ち上げ、少し着崩したスーツの女。それがしまりのない表情でみらに向かって酒臭い声援を送っている。
「ねぇ、グリッタちゃん。あのおばさん、誰」
「ミナちゃんのお姉さん。こっち来る用事があったから、ここまで呼んだの」
桐乃三葉の姉・菜々緒と会うのも九年ぶりか。見てくれは歳相応に落ち着いたが、酒でこうも酔っ払っていては、それにも少し疑問符が付く。
「お姉、ちぃちゃんの家であんま醜態さらさんといてや。ほら、水……水」
「酔ってない。あたしゃぜーんぜん酔ってませんよォ"マツリ"。ほぉら、次の一本、持ってこぉい」
妹に対しても傍若無人。おどおどとし、三葉の影に隠れていたあの姿は今いずこ。
「なんか……。ごめんなちぃちゃん」
「別に。むしろ好都合なんだけど、荒れてるねぇ」
「好きな人にフラレてもうて、今傷心旅行中なんさ」
この時の桐乃菜々緒は自身が編集者として関わり、ついぞ最終巻の原稿の校正を終えた所だった。燃え尽き症候群に加え、恋い焦がれていた相手には逃げられ、体力的にも精神的にもぼろぼろであり、アルコールが入ればこうなってしまうのはむしろ必然だったと言える。
「ねぇグリッタちゃん。ホントにこのヒトの前で歌わないとダメ?」
「そりゃそーよ。せっかく来てもらった赤の他人なんですもの。ここで魅せなきゃ女がすたるってもんですよ」
「いや、意味がわからない」
普段ならばいざ知らず、今の菜々緒は誰にでもくだを巻く面倒な酩酊者だ。みらを特別視することは無い。ステージで負の感情をぶつけられるのが怖いと言うなら、これほど適した練習相手もいまい。
「ほらぁ。お酒のキが抜けちゃうでしょお。歌うんならはよしなさいよお」
とは言え、ここまで傍若無人なのは計算外だ。悪意も無ければ付き合う道理も無いのだが、みらが躊躇う気持ちも分からなくはない。
「わかった。わかったよ。やってやるう!」
だからと言って、ここで躓けば元の木阿弥。何も変えられないことはみらが一番解っている。頬を張って気合を入れ直し、マイク越しに訴えかける。
「酔っ払いなんかに屈するもんか。わたしにはグリッタちゃんがついているんだからっ」
指を鳴らしてそのグリッタちゃん指示を出し、音楽スタート。次いでティアラに願いを込め、ドアというドア、窓という窓に銀色のシャッターを下ろしてゆく。これで他の階、他の部屋から来るであろう苦情を封殺する。
「ワン、ツー、スリー、はいっ! 歌およ踊れよパレードっ、今ここがわたしのステージ。星のチカラでキラッとGO!」
選んだナンバーは、かつてちはるが昴星歌唄を下したあの曲、グリッタちゃんのオープニング・テーマだ。練習ゆえ衣装は私服のままなれど、メロディに併せてぴょんぴょんと跳ねる姿は、ちはるのそれより曲に合っている。
(よし、歌える)相手にしているのがたった一人だからか、心臓を鷲掴みにされるような苦しみは無い。きっとやり遂げられるという自信が湧いて来た。喉を震わせ、続く歌詞をひねり出す。
「つらいときはほしをみあげーてー、ほら、いち・にの・さんっ、シュテルングリッタえとわーーるっ」
七面倒な酔っ払いに変化が起きたのはその時だ。歌って踊るみらの姿を目にし、澱んていた瞳に生きた光が差し込んだ。
「あぁ……。あぁ、あ……」
彼女の目に映るのは歌って踊るみらではない。必死になって物事に取り組むその姿に、別の何かを幻視していた。
「マツリ……。どぉしてあんなヤツと一緒になっちゃったのぉ……」
悪酔いが涙に変わり、彼女の目から溢れ出る。三十路間近になって現れた想い人。成就するかと思った恋は、別のヒトにさらわれて。憎しと思いたいけれど、そちらも知らぬ者ではない。募るもどかしさを吐き出す術は無く、彼女はただただ酒に逃げていた。
「置いてかないでよぉ、私も連れていってよぉ……。ずっと一緒だったじゃない……」
絡む相手の居ない絡み酒。今そこにある努力を目にし、手の届かない場所にあるものを想う。溜め込んでいたつかえが取れて、桐乃菜々緒は幼子めいて泣きじゃくる。
「行けるね」
「えっ、まじで? どこを見てそう思ったん?」
後方で保護者面をするちはるはそう言ってほくそ笑み、困惑する三葉の反応をよそに、その目を自室のクローゼットに向けた。九年前のあの事件以来、文字通り閉じ込めて日の目を見なかったあのアイテムに、再び光を充てる時が来た。