わたしは、スキを……
「負けたのか、私は」
仰向けに空を見上げながら、カマキリたちの長女プレディカは無感情にそう呟く。腹から下に感覚がない。それまでに多くの人間を喰らい、存在格を得ていた為か、この状態になってなお生きてはいるも、それもどこまで続くだろうか。
「女王……さま」
額の触覚で空気の流れを読み、現状を把握せんと努める。彼女の匂いと反応を捉えた。五体満足で生きてはいるが、その匂いには『怯え』の感情が滲んでいる。
「お救け……しなくては……」
プレディカは背を反らせ、腰に生えていた翅を羽ばたかす。だがうまく行く訳がない。飛行とはバランスだ。下半身のオモリを喪った彼女では、たとえ飛べたとして姿勢を制御する術がない。
「どうすれば……。どうすれば!」
絶望を前に歯噛みをし、それでも解を探さんとする彼女の視界に、未だ辛うじて息のあるカマキリメイドの一体が留まった。
※ ※ ※
「あたしは……今まで、何を……」
外の大きな衝撃を聞き、東雲綾乃は目覚めるままに上体を起こす。膝から下の感覚がない。反射的にそちらを見、あの出来事が現実だったことを改めて理解する。
だが、今そこに気を取られている場合ではない。自分が身を挺して守った幼馴染はどうなった。綾乃はもうもうと立ち昇る煙に目を凝らし、何が起こったかを確かめんとする。
「なによ……これ」
曇天空から雨粒がこぼれ落ち、熱気で覆われたホール内に降り注ぐ。
どうして完全密閉のホールに雨が振り込むのか。答えは至極簡単。それらを凌ぐ天井は根こそぎ穿たれ、正門『だった』場所に瓦礫の山を築いていたからだ。
観客たちはどうなった? もたつく身体に腹筋で喝を入れ、少しでも高い場所から客席を見回してみる。
「何が、どうなってんのよ……」
昔、社会科見学で飴細工が溶ける様を観たことがあった。強い熱を与え続け、赤橙色に染まったそれを加工し、思い思いのカタチにするあの絵面。
今、綾乃の眼前に在る光景はまさにそれだ。客席だったものが捩くれて、歪な形で冷え固まっている。
カマキリたちは? その親玉はどうなった? 少し前までと変化しすぎて理解が追い付かない。
「ちはる」
急激な変化について行けず困惑を極めていた綾乃の目に、探していた幼馴染の姿が留まる。だがそこで感じたのは安堵ではなく恐怖だ。赤黒のオーラを漲らせ、客席『だった』場所を睨みつけるその姿。綾乃にも、ここで何があったかが見えてきた。
「冗談でしょ……? こんな、ことって……!」
憎き仇を前にして、ちはるが壇上から客席へと降りてゆく。あの天真爛漫な笑顔はそこにはない。だが笑みはあった。肉食獣が獲物を見込み、口元だけを歪まず邪悪なものが。
※ ※ ※
「プレディカ……。そんな、こんな……!」
この殺人的なエネルギーの奔流にあってなお、花菱瑠梨が五体満足でここに居られるのは、ひとえに下僕たるプレディカが耐えて堪えて耐え抜いたが為だ。彼女と彼女が発する蒼のオーラがちはるの魔力と反発し、瑠梨のいた客席をぎりぎりで範囲から締め出していたからだ。
だが、そのプレディカももう動けない。ヒトの上半身とカマキリの下半身を真っ二つにされ、憎き敵の足元で小刻みに痙攣し続けている。
最早言葉を介する必要もない。激情に狂った西ノ宮ちはるは、戦闘不能にしたプレディカを無視し、その頭目たる瑠梨の元へと歩を進める。どんな言葉を並べ立て、プライドを捨てて謝罪に徹しようとも、瑠梨のことを赦すことはないだろう。
「ちくしょう……ちくしょう、ちくしょう……」
あれほど酷薄に笑うちはるの姿は見たことがない。ほんの数分前まで自分と戦う・戦わないで渋っていた彼女が、こうも人間性を捨て去れるなんて。追い詰められて行き場のない瑠梨は、驚怖の感情に開いた口が塞がらなかった。
(ここが、ボクの終末なのか)
目の前でバトンの穂先を掲げられ、瑠梨の身体から震えが消えた。怖ろしさが閾値を超え、運命をあるがまま受け入れようとしていた。
赤黒の魔力が穂先の周囲で渦を巻く。先程同様必殺の一撃。至近距離で喰らえばチリ一つ残らないだろう。構うものか。自分を愛してくれる家族はもういない。友達になってくれた子たちは自ら払い退けてしまった。此の世にもう未練はない。
「やれよクソッタレ。お前の勝ちだ」
怒りと諦めがごっちゃになって、汚らしい捨て台詞が飛び出した。西ノ宮ちはるはこれに無言で応じ、集束させた赤黒を放たんとするが――。
「やめて」
彼女たちの外側から発せられた声が止めの一撃を堰き止めた。互いに声のした方に目を向ける。膝から下を切断された綾乃が、腕の力だけで節運動の芋虫めいて迫っている。
「ちはる。あんたはそっちに行っちゃ駄目。一度やったら二度と戻れなくなるっ」
肘を地面に押し込んで右、左。目覚めてすぐは未だ他人事のように思っていたが、こうして匍匐を続けることで、足を使えないもどかしさが現実のものとなって押し寄せる。
「アヤ、ちゃん」
ちはるの目に生気が戻り、親友の方に顔を向ける。バトンの穂先には今なお魔力が集束されたままだ。
「でも、アヤちゃん……足が……!」
「分かってる」
動かない下半身に喝を入れ、覆しようのない現実を受け容れて。それでもなお綾乃は止まらない。
「何が何でもそれは駄目。一度でも手をかけたら、もう二度と戻れなくなる」
悔しいのは分かってる。許せないのは自分も同じだ。けれど、目には目を歯には歯をで済む話じゃない。そうして生じた痼は間違いなくこの先の人生に爪痕を残す。それだけは絶対に阻止せねばならない。
「イヤだよ」
当然、ちはるがそれを許容する訳はなく。その瞳は動揺と怒りに揺れ、一点を見つめる事ができないでいる。
「だって脚だよ? もうじき陸上の大会なのに、それをわたしの、わたしなんかのために……!」
「そうだよ。悔しいし、ものすごく痛い」
彼女があそこまで怒るのは、元はといえば自分のせいだ。庇うためとはいえ、己の人生を棒に振ったことを後悔してないと言えば嘘になる。
「けど、八つ当たりのネタにされたってあたしはちっとも嬉しくない。ちはるがヒトゴロシになるのはもっと嫌。あたしのことを想ってくれるなら、これ以上怒るのは止めて」
なんて言葉が綺麗事なのは分かってる。幼馴染だからこそ、親友の悲しみに折り合いが付けられないのも理解できる。
そう。言葉で止まるフェーズはとうに過ぎたのだ。さすればどうする? 綾乃は残る腿さえ千切れそうな痛みに堪え、半ば落ちながらちはるの身体に抱き着いた。
「もういい。もういいよちはる。あんたはそんなふうに汚れちゃ駄目だ。いつものあんたに戻ってよ」
親友のことを想って泣いたのは、果たしていつ振りだっただろうか。張り詰めた気持ちが涙となって溢れ出る。
「こんなの、全然ちはるじゃないよ。あの笑顔を見せてよ。いつもみたいに馬鹿やってよ。あたしの大好きな西ノ宮ちはるはさ、ちはるはさ」
途中から言葉になっているかどうかさえもわからない。ただ止めてほしいという気持ちだけを込めて。みっともなく縋りついて。
「わかってるよ」
ずっと固まっていたちはるの表情が破顔した。雨に濡られて熱気も失せ、赤黒のオーラから黒だけが失せた。
「わかってるんだけど……止まらないんだよ」
両目から大粒の涙が溢れ落ちた。残った赤のオーラも少しずつ紅に、橙に。順を追って桃色に戻って行く。
「わたしにどうしろって言うの。わたしが奪ったんだよ。アヤちゃんの夢を、その脚を! わたしがちゃんと気付いてさえいれば。みんな、みんなこんなことにはならなかったのに!」
その桃色さえも消え失せて、最早ただのコスプレ少女だ。モノにぶつけていた怒りを言葉に変えて、縋る綾乃に叩きつける。
「いいんだよ。泣いていいんだ。好きなだけ弱音を吐いて泣いちゃいな。今はもう、それだけでいい」
苦しむ幼馴染を抱き締めて、泣いていいよと優しく囁く。しかし、ちはるの見ている方向は違う。綾乃によって我に返ったちはるは、自らが作り上げた惨状と今更ながらに向き合っていた。
斜め右の場所で微かに動く人影を見つけた。黒く染まって顔は見えないが、服の上からエプロンをしていた形跡が残っている。『西ノ宮洗濯店』という文字も微かに見て取れた。
(お父ちゃん)
時計の針は後ろには戻らない。過ちを悔いたところで被害者が元気になるわけではない。
こんな当たり前の理を、齢十六のちはるはようやっと理解した。街を守る魔法少女が聞いて呆れる。自分の怒りがこれだけの人間を、実の家族を傷つけてしまうことになるなんて。
「わたしは……なんてことを……」
親友を想い抱きつく綾乃に、ちはるが発したそんな呟きは届かなかった。罪の自覚と魂の安寧。ここまで近くにいてもなお、ふたりの気持ちはまるで噛み合っていない。
「ごめん……なさい……。ごめん、なさい……」
もう、前を向くことさえかなわない。溢れ出る涙と共に俯き、押し寄せる罪悪感に打ちひしがれる。
この日、西ノ宮ちはるの瞳からキラキラが消え去った。
※ ※ ※
「プレディカ?」
綾乃が抱きつき、ちはるが手を止め、生殺しで膠着状態と化した瑠梨の前に、翅を生やした黒い塊が降りてきた。
「見苦しい姿で申し訳ありません。しかし今は撤退を」
「逃げろってお前、その身体……」
自分が思い描き、やっとの想いで現出させた理想の魔物は、カマキリの象徴たる下半身を捨て、そこにヒトの二本脚を置換させていた。
スラリとした体格に似つかわしくない歪なそれは、自身が産み出したメイドを二つに裂き、宙ぶらりんになっていた神経を強引に繋ぎ合わせた仮初である。
「ええ。これはあくまで応急処置。だからこそ、動くうちに貴方様の命だけは」
あれはヒトとカマキリの間の子だ。感情を持ち、傷が付けば当然痛がる。あんなことをして苦しくない訳がない。無事で済むわけがない!
だのに、彼女は自分のために。産みの親たる自分の命を守るべく、それをやり遂げ飛んで見せた。未だこんなにも必要とされている。
差し迫るいのちの危機を前にただ諦め、死ぬことだけを考えていた。まさか自分の創造物に救けられる時が来ようとは。
「ごめん。頼む」
「かしこまりました」
何もない地面に立っているのに、泥濘を歩いてるような音がする。馴染む訳がない。放っておけば接続部から腐り落ち、本体の命も危ないだろう。それでもなお、行けと指示をしその身体に包まる。それが彼女の望みだから。それが自分の願いだから。
止める者などもうここにはいない。咎める者は皆死んだ。この大参事を引き起こしたもう片方のアクマは、翅を広げこの雨の中をふらふらと飛び去ってゆく。
『アハハ、ハハハ! とうとう! とうとう"覚醒"したんだよん! 感情爆発によるイメージの暴走! まさか、ペンを手にして一年以内にここまで行けるだなんて!!』
破壊を逃れた奥の客席に座り、大仰な笑い声で手を叩くピンク色の外套に白シルクハットの異形在り。降り頻る雨の下、野ざらしになってなお、雨粒は外套をすり抜け、椅子の座面だけを濡らしている。
『最高だよん。最高の見世物だったよん西ノ宮ちはる!! 君は、最高の逸材なんだよん!!』
これをちはるたちが聞いていたらどんな反応を返しただろう。否、返したところで奴には何も届かない。そこにいるのにそこにいない。ヒトでも、魔法少女でも、カマキリたちでもない存在。ファンタマズルにとってはここも、今まで起きた総てのことも。何もかも壇上で起きた喜劇でしかないのだ。
後に発表された死者は少なく見積もっても800人以上。逃げた人々も待ち受けたカマキリらに食われ、ホールの中では熱波で黒焦げとなり、トドメに浴びたスターバーストで、殆どの人間が消し飛んだ。
2009年1月25日、14時45分。
後の世に平成最大のミステリーとして語り継がれることになる、渋谷区区民会館・崩壊消失事件はこうして幕を閉じた。
ここまで本シリーズをご覧いただき、誠にありがとうございました。
次回、『エピローグ、もしくはこれからのスタートライン』に続きます。