見せてくれ、君の淀みを
あけましておめでとうございます。
新年一発目として、今回・次回で完結する中編をご用意いたしました。
なお、ここからこの物語は折り返しに入ります。
遊 び は 終 わ り だ
※ ※ ※
「瑠梨。六歳のお誕生日、おめでとう」
「さ。ケーキのロウソクを吹き消して」
記憶の中の父と母は、幸せそうな顔で『ボク』の誕生日を祝ってくれた。ケンカひとつしないおしどり夫婦。近所でもその仲の良さは有名だったという。
「さあどうぞ。お父さんからのプレゼントだよ」
ロウソクの火を吹き消して、ハッピーバースデートゥーユーを合唱し、包装の成されたプレゼントを受け取る。うきうきとした気分で封を破り、そこにあったのは。
「子どもでもよくわかる昆虫図鑑! わあ、ありがとうおとうさん! ボク、これが欲しかったんだ!」
「わからない言葉があったらいつでも聞きにおいで。お父さんが教えてあげるから」
昔から、女の子が好むおままごとやおしゃれより、図鑑で虫のことを調べ、外で捕まえるのが好きな子どもだった。自分たち人間とは違う姿をした昆虫を、多角から見回しどう違うのかを確かめたくてしようがなかった。
「まあ、あなたってば。また虫の本なの?」
「良いじゃないか。欲しいって言ったのは瑠梨なのだから」
街一番のおしどり夫婦が、唯一互いに承服しかねたのは娘の教育方針だ。父は娘の好きなようにさせればいいと言い、母はもっと他の子と交われるような趣味を持たせるべきだと言って譲らなかった。
当然、ボクは父の側についた。休みの日は胡座をかいた父の膝の上に乗り、図鑑のわからないところをよく教えてもらっていた。
「ねえ、お父さん。どうしてカマキリは卵を産むときメスがオスを食べちゃうの?」
「ううん。理由は色々あるけれど、まず第一には元気の問題かな。親が仔を産むって言うのはとっても体力が要るものだからね」
お母さんも、お前を産む時とっても苦労したんだぞ。なんて言葉が末尾についていたが、正直あまりアタマに入っては来なかった。
身体を寄せ合う二匹のカマキリ。交尾を終えた時、用済みだとばかりに頭を齧って死なせてしまうその絵面。図鑑を捲り、全てのページに目を通す中で、何故だがそこだけが頭から離れなかった。
「他のカマキリもみんなこうなの?」
「さあ、そこまでは分からないな。また調べたら教えるよ」
父はおおらかで、なんでも肯定してくれる人だった。母が『母』のままでいられたのは、父が総てを受け容れるひとだったからなのだろう。
幸せが壊れるのはいつだって唐突で一瞬だ。ボクの六歳の誕生日から僅か四日後、父は自動車事故に遭い、ぐしゃぐしゃのトマトになった。
※ ※ ※
「瑠梨。八歳のお誕生日おめでとう」
「ほら、早くバースデーケーキのロウソクを吹き消して」
母は、ある意味とても強い人間だった。父を喪い二日泣き腫らした後、その二日後には別のいい人を連れて婚姻届に判を押していた。
母が誰かにすがらないと生きられないと知ったのはこの時だ。自分の保身のためにはどんな色にも染まり、それまでの価値観を平気で覆す。
勿論それは、連れ子であるボクも例外ではない。
「なんだ女の子が虫なんて。そんなだからお前はほかと馴染めないんだぞ」
母が十度目に再婚した父は考えられ得る限り最悪の人間だった。内向的で学校で浮いていたボクを『その趣味が悪いのだ』と決めつけ、言って聞かないならと頬を張る。連れ子なんて自分の肩書きのアクセサリーとしか思っていないのだろう。
「そうよ。お父さんの言うことを聞きなさい瑠梨」
子を守るべき肉親は、孤立を恐れて父に同調。味方はなく、抗ってもぶたれるだけなら、押し黙っている以外に道はない。
皮肉なことだが、そうして『ふつう』を押し付けるせいで、ボクはどんどん普通からかけ離れ、口数が少なくなっていった。
(カマキリとは逆だ)
身体を重ね、オスに摺りより、殺さないでと願うその姿。人の方がずっと賢く優れている筈なのに、ボクの目に映る母の背中はとてつもなく惨めで醜く見えた。
※ ※ ※
「瑠梨ちゃん、十二歳の誕生日おめでとう」
「もう、何やってるの。お父さんが祝ってくれてるんだから早くなさい。今年から中学生でしょ」
百十回目の再婚を経て知り合った父とは、百九回目の父が外にオンナを作って出て行った次の日に出会った。三桁に達した頃から変化にも慣れたけど、昨日出会ってすぐの男を父と呼ぶのには抵抗感がある。
日本人離れした鷲鼻に蒼い瞳。温和な雰囲気を醸してはいるけれど、それもきっと数日で剥がれることだろう。親が変わる度殴り蹴られ続けたせいで、顔色を見てどんな人間かを観察する癖がついた。
「はい。吹き消しました。もういいでしょ。ボク、部屋に戻るから」
「えっ、待ちなさい。祝いの言葉はまだ」
「そうよ瑠梨。お父さんの言うことを聞きなさい」
最早ただの『ごっこ』だ。母の癇癪に付き合って、見ず知らずの男をお父さんだと呼ばされて。ボクはお前らの遊び道具か? ボクはひとりの人間だ。この命は誰かの快楽の為にあるんじゃない!
「現実なんて、いつだってサイアクだ」
どこにもボクの居場所はない。無いなら作れと他人は言う。だから自室に籠もり、キャンバスに向かって我武者羅に筆を走らせる。
常日頃月に照らされた不夜城。ヒトガタカマキリが総てを統べる帝国。不要なオスを喰らい、"あるじ"たるボクを崇め奉る三賢人。
自分を褒めそやし、後ろをついて歩く妹が欲しかった。
ボクの前に立ち、手を引いて前へ進んでくれる姉が欲しかった。
そして何より、ボクのすべてを肯定し、やさしさを以て接してくれる母が欲しかった。
その総てがここに有る。ボクにとっての理想のセカイ・グレイブヤード。ここと今とが置き換わりさえすれば、誰もボクを笑わない。誰もがボクを愛してくれる。
「実現……出来たらいいのにな」
尤も、それが文字通り絵空事なのは、他ならぬ自分自身が一番よく解っている。現実にボクの居場所はない。こうして夢想することでしか、この欲求は満たされることはないのだ。
※ ※ ※
「十四歳の誕生日おめでとう、ボク」
母は、とうとうボクの誕生日すら忘れてしまった。昨日出来た百三十三人目の父と共に逢瀬に出てしまい、ケーキも自前で買ってきたもの。電気も点けず、暗闇の中で揺らめくロウソク。他に理解者がいないのもあって、ボク自身この世から忘れ去られたような気さえする。
何がおめでとうだ馬鹿野郎。誰からも愛されず、此処に居場所がないボクに、祝う意味などないだろうが。
もう嫌だ。こんな人生に意味などない。終わらせてしまおう。キッチンシンクで干しっぱなしにされている包丁を掴み取り、逆手に持って腹を突き――。
『――おやおや。死んでしまうのかい? 君はまだ、何も成していないじゃないか』
腹を突いた筈の包丁が、寸でのところで止められて動かない。理由を求め、お腹以外の場所を探ってみて見れば、入り口に見覚えのないピンクの外套。
『――花菱瑠梨。君には他の俗物共にはない才能がある。このまま燻ぶらせておくには惜しい』
どこから入った? 音もしないし気配も無い。向こうが話すまで気付けなかった。
月明かりに照らされて、その姿がより鮮明となる。真っ白なシルクハットを目深に被って顔は見えず、その下を覆うのは悪目立ちするピンクの外套。しかも、奴の身体は月光に透けている。ボクは幽霊と話をしているのか? 刺せなかったのではなく、三途の川で見ている幻想なんじゃないか?
『――私と手を組もう。私には君の幻想をカタチに出来る力がある。叶えてあげるよ。私の望みを満たしてくれるなら』
「望み……?」
『――私は面白いものを見るのが大好きだ。喜び、悲しみ、怒り、幸せ。フラットな感情を揺れ動かさせるその瞬間! そうしたものを沢山、沢山観たいのさ』
感情を、観たい? サディスティックにいたぶるだけなら、その中に喜びや幸せなんて単語は入らない筈だ。
「ワケがわからない……」それでも。ボクは伸べられた手を払うことはしなかった。真に父と呼べる理解者だった男は死に、母が無関心になってから、はじめてボクの目を観て話してくれる奴だったから。
「けど、やってやろうじゃないか。必要なんだろ。ボクのことが」
『――そうとも。見せてくれ君の淀みを。私を存分に楽しませてくれ』
十四歳の誕生日。灯りを消した客間の中、ボクはヒトならざる魔の者の手を取って、この世の条理から抜け出した。