眩惑のアクマ
●☓のアクマシリーズ第二弾。もう一回だけつづきます。
※ ※ ※
「お父ちゃーん、ただいまー」
日もどっぷりと落ちた10月半ばの夜。西ノ宮ちはるは疲れ切った顔と声で自宅たる西ノ宮洗濯店の戸を開く。
「おう。こんな時間まで練習か。ご当地アイドルってのも大変だな」
などと言うものの、かくいう父は仕事場で運ばれてきた依頼品を仕分けし続けている。風呂が湧いているから先に入れと言い、娘とは顔を合わさず再び業務に戻りゆく。
自分のいない間も、あぁやって仕事をこなしていたのだろうか。手伝ってあげたいが、積み重なる疲労と湧きたてのお風呂という誘惑には敵わない。
「ごめんね。そうさせてもらうー」
汗ばんだ体操着を洗濯機に放り込み、軽く掛け湯をして湯船の中へ。そうすると決めたのは自分なれど、慣れない体育会系のノリはどうにも苦しい。
しかも、残り数日の間に衣装のリテークまで頼まれている。ずっと単独で創作活動をしてきたちはるにとって、このタイムリミットはあまりにも重い。
「あー、さっぱりしたぁ」
濡れた髪を乾かしてまとめてバスタオルで包み、大きめのTシャツとパジャマズボンを穿いたラフな格好で自室へGO。買ってきたばかりのキャンバスを広げる。
「変えてって言うけどさあ、虎の子のラブリンを封じられたなら、一体わたしにどうしろっていうのさ」
美術部で幽霊部員をしていた頃みたいな理不尽さだ。まさか親友の綾乃からこんなことを言われてしまうとは。
「ま。やれってんならやりますよぉ」
気乗りはしないが、頼まれ頼られている以上、やるという以外の選択肢はない。思い付くままイマジネーションの赴くまま、ひたすらにペンを走らせる。
『わたしは、今のままでも良いと思うんだけどな』
「だよね? そーだよね! 著作権云々ってそんなに大事……」
肯定の言葉にうっかり流しかけたが、ここには他に誰もいない。父かと思い戸を開くも、そこに人の気配は無い。
「ナニコレ……幽霊……??」
お盆はとうに過ぎたはず。彼岸にしたって遅すぎる。じゃあこれは? 耳元で聴こえるこの囁き声は何なのだ。
「お……脅かさないでよ。わ、わた……そーゆーの、信じないんだからね」
怖気を感じて手近な羽織りを引ったくり、歯の根を鳴らして震えるちはる。そんな彼女を勉強机側の窓から見つめる影ひとつ。
『ユウレイなんて。わたし、そーゆーんじゃないよ、ちぃちゃん』
※ ※ ※
「――お姉が、お姉がいないんよ! アヤのん知らん? なんか知らん!?」
「ああ、ああ。落ち着きなさいよ。ぐずってたら解るもんも解らないでしょ」
ちはるが妙な影に怯えていたのと時を同じくし、綾乃の元に掛かってきた電話。集まりを終えて戻ってみれば、居るはずの姉がそこにいない。
「別に気にすること無いんじゃない。どっかコンビニとか寄ってるんでしょ」
「――んなあほな! うちのお姉は筋金入りの引きこもりで人見知りなんよ?!夜だってうちがおらんとなっかなか外に出て来やんっちゅーのに!」
「あんたらさ……、本当に仲良し姉妹なの?」
たとえ事実だとしても、妹の口からそんなことを言われる姉とは。綾乃は電話口に苦笑いを滲ませ、噛み合わない会話の切れ間を探る。
「――ちーちゃんは何か知らんけど話し中やったし、今もバケモノの人攫いは収まっとらへん。アヤのんだけが頼りなん。なっ、なっ? お願いやからチカラ貸してえ」
「うむむ……」
部外者ならば放っておけるが、自分たちは完全に当事者だ。不安材料に怪物共の人攫いをちらつかされては返す言葉もない。
「分かった。今家? うちからなら自転車で十分……」
「――あっ、ごめんなアヤのん。お姉帰ってきたみたい」
「はあ?」
電話越しの喜色に嘘はない。やはり外出してたんじゃないか。綾乃は聴こえるように溜め息をつき、もう切るねと通話終了ボタンを押し込んだ。
入れ違いにそこで何が起こったか、知る由もないまま。
「なんだったのかしら……今の」
姉妹間のいざこざならそれで良い。けれど本当にそれだけか? 勢いで切ってしまったが、もしかしたらそうすべきじゃなかったか?
済んだことを悔いてもしようがないが、疑念がどうにも離れない。『自分には関係ない』と結論付けつつも、綾乃の足は自室から玄関の方へと向いていた。
(このお人好し。あんなのあいつらの問題じゃない)
心中そう毒づくも、逸るこの気持ちは止まらない。引っ手繰った外掛けのジャンパーを羽織り、廊下に躍り出た綾乃の目に、予期せぬ顔が飛び込んで来る。
「ちはる?」
冬制服をきちんと着込んだ幼馴染は、戸を開けたままにこやかな笑顔を浮かべ、無言で玄関に立っていた。どうして制服? こんな夜更けに? 連絡も無しに何故うちに? 言いたいことは山ほどあるが、綾乃はすぐにそれらを振り切った。
「じゃ……、ないよね。誰よ、あんた」
見咎めたその距離から一歩も動かず、懐に収めた変身アイテムを構える。あれが本物でないのなら、残る可能性はひとつしかない。
「へェ。解るのね。他の子とは違って」
そこにもう幼馴染の姿は無い。灰色の頭巾にシスター衣装の妖艶なる美女。誰なのかを今更問い質す必要もないだろう。ここ最近の雑兵たちとは違う、ヒトガタカマキリの二人目!
(冗談でしょ? こんなモノを向けられてて、今の今まで気づかなかったなんて!)
冷たく、鋭く、研ぎ澄まされた殺意。酷薄なる瑠璃色の瞳は自分の顔を一点に捉えて放さない。
「妹がお世話になったわね。礼はたっぷりとさせてもらうわ」
「ふぅん。あんたらみたいな人食いにも、家族の情みたいなものがあるワケ」
向こうにも家族がいる。改めて自分たちがヒトひとり殺めた事実を突き付けられるが、ここで立ち止まるわけにはゆかない。
知ったことか。お前たちが居る限り、この街はバケモノに喰われ続けるんじゃないか。私は正しい。間違ってなどいない。何度も心中そう自分に言い聞かせ、次女オガミを睨み返す。
「綾乃ー? お友達ー?」
玄関の物々しい気配を察してか、綾乃の母がリビング越しに問い掛けてきた。
「う、ううん。なんでもないよ。来なくていいから」
今この場に第三者が来るのはまずい。少々無理のある返答で突き返す。
「場所を変えましょ。そこで存分にやってやる」
「あら。なんで私があなたの言うことを聞かなくちゃならないの?」
ぐうの音も出ないほどの正論だ。仇を目の前にして、陥れる材料が揃っていながら、みすみす逃がす馬鹿などいない。
最早一刻の猶予もない。会話を打ち切った後コンマ五秒で変身アイテムに手を触れ、瞬時にズヴィズダに変身。勢い付いた飛び蹴りで招かれざる客を文字通り叩き出す。
「硬……いッ!!」
虚を突いた初撃でペースを作り、すぐさま勝負を決める心づもりだったのだが、☓字に組んだオガミの腕は微動だにしない。
細くしなやかなオガミの腕は、衝撃に対して即座にそばだち、柔肌の上から鋭く尖った棘のようなものを展開。組んだ腕を上方に逸らして威力を削ぎ、バックフリップで距離を取る。
「容赦ないのね。妹も、そんな風に虐げたのかしら?」
向かいの家の塀に着地し、何の構えも取らずに脱力。高台から綾乃を見下ろしそう零す。
「勝てないわよ、アナタ。妹の仇、今ここで討たせてもらうから」
「フン、何も持たずにちょこざいな……なっ?」
煽りの文言を探すその最中、鼻を突く悪臭が綾乃の言葉を堰き止める。古い牛乳を雑巾で拭き絞った時のような。浴槽下の排水口に長年こびりついたヘドロのような。耐え難い臭いに咽返り、鼻を押さえてたたらを踏む。
一体どこからこんなものが? 答えを探す綾乃の目は自然と右足に向いていた。
「まさか……アイツが!?」
臭いでだいぶぼけてはきたが、その根源ははっきりと足回りを指している。初撃で蹴りつけたあの一瞬で、これだけの臭気を擦り付けたというのか?
「そうよ。私がやったの」向こうにも隠すつもりはないらしい。口角を僅かに吊り上げ、獲物との距離を見定める。
「匂いにも種類があるの。安心するもの、警戒するもの、嗅ぎたくないもの。私は体の中で『におい』を作り、自由自在に操れる。滑稽よね。心底安心する匂いを作ってやれば、誰も彼もが向こうから近寄ってくるんだもの」
直接目にしていなければ、脳への伝達は視覚より嗅覚の方が早い。初見でちはると誤認してしまったのもそのためか? シチュエーションの歪さで気付けたが、そうでなければどうなっていたことか。
(こいつを、ちはるの元に行かせちゃいけない)
自分ですら一瞬騙されかけた相手だ。警戒心の薄いあの子が出逢えば、変身することすらなく首をへし折られるだろう。これ以上被害者を出さないためにも、今ここで仕留めなければ!
「あんたは今、あたしが斃す!」
気合と痩せ我慢で悪臭を堪え、左回し蹴りを放ち距離を詰める。オガミは少々驚いたような表情を見せるが、すぐに平静を取り戻す。
「おかしいわね。ヒトならまず耐えられない濃度のはずなのだけど」
棘の生えた腕で綾乃の蹴撃を捌きながらも、その声には一切の疲弊は見られない。何を放とうが狙いを反らされ、クリーンヒットを阻害されているからだ。
「我慢したって無駄よ。私の匂いからは逃げられない」
顔をしかめ堪えたところで、原因が消える訳じゃない。堪えるというクッションを置いている時点で、綾乃はこの魔物に半歩以上遅れを取っている。末妹のトウロの時点で身体能力は向こうが上だったのだ。大鎌を持たないその姉となれば――。
「く……う、う、う、うっ!」
接触する面積が多ければ多いほど、まとわりつく臭いは増してゆく。放つ蹴りは精細を欠き、涙で前が見えなくなって来た。
「こん、の! 野郎!!」
だから何だ。諦めてなどなるものか。東雲綾乃は使命と怒りを火種とし、カマキリ相手に喰らいつく。ただ阻まれ、防がれるだけだった蹴りの嵐が、少しずつオガミの芯を捉え始めた。
「おやりになるのね」
腕にひりつく痺れるような感覚。たとえ有効打にならずとも、続けて喰らえば使い物にならなくなるのは必至だ。
「なら、遊びは終いにしましょうか」
オガミは横蹴りを上に逸らした衝撃を利用して、自らもバックフリップで距離を取ると、はず向かいの家の塀へと着地。脚の筋肉を波打たせ、綾乃の周囲を跳ね回る。
「な、なんのつもり?」
残像が残る程の速さではあるが、ここから攻撃に転じる様子は微塵もない。逃げるにしたって他に方法があるだろう。困惑し、攻めあぐねるこの状況が向こうの狙いか? 否、既に綾乃は敵の術中に嵌っていた。オガミを捉えきれず周囲を見回すその中で、見知った顔が映り込む。
「なんで」
これが平時なら。悪臭に顔をしかめ、敵を斃すという使命感に駆られてさえいなければ、ヘンだと即座に見破れていたことだろう。しかし今の綾乃にはあらゆる意味で余裕がない。居るはずのない幼馴染の顔を目の当たりにし、研ぎ澄まされた戦意が一瞬鈍る。
「かかったわね。それは私の『残り香』よ」
それこそが向こうの狙いであると気付いたのは、オガミが自身の眼前に迫る直前であった。相手は既に振り被った右腕を下ろす寸前であり、虚を突かれた綾乃に躱す術はない。
「妹の仇。まずはこれで『アイコ』よ」
ヒトならざる膂力によって放たれた右の手刀が綾乃の左肩に深々と突き刺さる。石膏が割れるような嫌な音を響かせ、左腕が関節を無視して直角九十度に跳ね上がった。
「うぐ……! あっ、ああっ!!」
鈍く鋭い痛みが全身を駆け回り、決意と怒気に支えられた気合いが途切れた。瞬時に耐え難い悪臭が鼻腔を突き抜け、綾乃の意識が涅槃へと飛んだ。
「フン。他愛ない」
大の字を作って横たわる綾乃を見下し、むき出しの腹部に人差し指を押し付ける。妹はこんな小娘に負けたのか? 白目を剥いて無防備に倒れる姿を見てもなお、湧き上がる衝動は高揚ではなく殺意のみ。オガミは淡々と左手で電話を操作し、登録された番号に着信を入れる。
「女王様。東雲綾乃を無力化しました」
『――そうか、よくやった。よくやったぞオガミ。これであいつはもう誰にも頼れない』
間を置かず電話に出た主は彼女を褒めこそすれ、その口ぶりに喜色はない。綾乃はあくまで目標の通過点。倒して然るべき相手ということか。
「ならば! 一刻も早くこいつを! 妹の仇を討たせてください! トウロの腕に傷を負わせたこいつを殺し、一族の恥を濯ぐのです!」
口では気に喰わないと言いつつも、そこは親を同じくする三姉妹と言ったところか。無防備な仇敵を前に、美しい瑠璃の瞳が激情に揺れている。
『――駄目だ』なれど、産みの親はそれを無慈悲に両断する。『最初に言った筈だろオガミ。奴らは総て"材料"だ。直接の仇、西ノ宮ちはるに見せつけてやるんだよ。誰も助けには来ないのだと。絶望に打ちひしがれたところで殺す。始末は全部その後だ』
「ぐ……ぐ」
主の言うことは絶対。次女の自分には抗うことさえ許されない。オガミは怒りを堪え唇を噛むと、綾乃を持ち上げ抱き寄せる。
「了解……しました」
すぐに粘液が綾乃の体を包み、物言わぬ繭を作り出す。オガミはそれを抱え、夜の闇へと跳んだ。
「西ノ宮ちはる……。諸悪の根源。女王さまの為、姉様降臨の為、散って行ったトウロの為、私が必ず仕留めて見せる」