おいでよ、こちら側に
※ ※ ※
「それじゃあみんな位置についてー」
二百メートルトラックの外側端に立ち、上体を屈めて合図を待ち、簡易号砲との炸裂音と共に走り出す。
「よーい、はいっ!」
短距離トラックで彼女より早い子はいない。最外側というハンデを物ともせず、東雲綾乃は一位をキープし、他の追随を許さない。
自身が保持するタイムには及ばなかったものの、横並びに五人走って、その誰もがトラック端を駆ける綾乃に追い付けない。
「オッケー。それじゃあちょっと休憩。みんなー、暑くなってきたし、ちゃんと水分摂るんだぞー」
「はあーい」
しかしこのことを気にかけたり、凄いねと声をかける者はいない。カースト上位に背を向けた綾乃に、同じ世代の学友たちの目は冷ややかだ。
スクールカーストの本流から外れた綾乃と仲良くすれば、自分までその波から離されてしまう。多感な時期の女子高生にとって、後ろ盾なく学校で孤立するのはリスクが大きい。馬鹿馬鹿しいが、それが同調圧力というものだ。
「うしっ。次行くわよ次ぃーっ」
大袈裟に声を張り上げても、続く声はタイムを測る顧問くらい。他の部員は無視して勝手に位置につくのみ。
解っていたことだ。それを承知であの子の味方になったんじゃないのか。クラウチングスタートの構えを取って目を閉じ、自らの葛藤に喝を入れる。
「よーい、はいっ!」
渦巻く迷いを横に置き、上体を持ち上げ前のめりに突っ走る。だがそれがいけなかった。迷いを抱えた綾乃の足は右と左で衝突事故を起こし、転倒でグラウンドを擦ってゆく。
「あぁ、あぁ。大丈夫?」
「担架ー、タンカ持ってきてー」
仰向けに二・三メートル滑ったとなれば、流石に無視を決め込む訳にゆかず、隣り合う部員たちが綾乃の元へと駆け寄ってくる。
「大丈夫、だいじょぶ。あるける……歩けるから」
転ばない限り声なんてかけて来なかっただろうに。そう思うと手を借りるのか嫌になる。綾乃は近寄る部員らを振り払い、足を引きずってグラウンドを離れてゆく。
「東雲さんってば頑固だよね」
「あんなのとつるんで、何が良いんだか」
周囲の潜めた陰口が耳の奥にひりついて離れない。前は尻尾を振って寄り付いたのに、鞍替えしたら腫れ物扱いか。親友もずっとこんな気持ちでいたのだろうか? だとしたら自分は――。
「自分を、責めてるの?」
「うん?」
グラウンドから校舎に向かう最中、聞き覚えの無い声に足を止める。どこからかと見回せば、自販機と花壇との間に挟まって身を潜めるひとりの少女と目が合った。
「待ってたよ。あぁいう連中は邪魔くさくっていけないもんな」
自分より少し童顔で、くりくりとした灰色の瞳。濡れ羽色の長い髪をかき上げ編まれたハーフアップ。整った髪型と相反するようにスカートの丈は異様に長く、アンバランスな雰囲気を醸し出している。
「東雲綾乃さん、だよね。ボクは花菱瑠梨。隣のクラスの同級生」
「あたしのこと、知ってるの? っていうか、なんでそんなとこに」
「キミが責任を感じる必要はない」綾乃の質問を遮り、本題を強引に切り出す。「悪いのはその友人の方さ。折角築き上げてきた信頼に土足で割り込んで、邪魔だからとキミだけを締め出して。ひどい泥棒猫とは思わないか」
そうだ。自分は悪くない。あの泥棒猫、姉の面倒を救ってやったからって、それにかこつけちはるを誑かすなんて。
許せない。許せない、許せない! 蓋をしていた欲求が開け放され、綾乃の顔が怒に染まる。
(んん……?)爆発寸前だった綾乃の怒りを止めたのは、頭に過ったひとつの疑念だった。
何故こいつは首を下向けこちらを見ない? 感情を打つ台詞なれど、この異様なまでの棒読み具合はなんなのだ。
「待ってよ。あんた確か初対面のはずよね。どうしてそこまで知ってるの」
そもそも。見ず知らずの人間にどうしてそんなことがわかる? 湧いた幾つもの疑問を前に、綾乃の頭から怒りが消えた。
「そ、そそんなこと関係ないだろ。今必要なのは」
突っ込んだその矢先、瑠梨の言葉に乱れが生じる。やはり何かがおかしい。
「あっ今何かポケットにしまったっしょ」
「うえ? や、知らない。ナニもない」
「ないわけあるか。見せろ、その右ポケット」
言うが早いか取っ組み合いが始まって、数秒ともたず綾乃の勝利。右手を関節とは逆に捻り、隠し持っていた四つ折りの紙を奪い取る。
「何これカンペ? あんた、これであたしのこと操ろうとでも思ったわけ?」
「ち、ちがう。ボクは……その……」
「怪しさしか感じない。あんた、ちょっとこっち来なさい」
「ちょ、ちょちょちょ!?」
事前にセリフを総て覚えておけばこんなことにはならなかっただろうに。策士策に溺れるとはこのことか? 花菱瑠梨は掴まれた手を振りほどくことも出来ず、綾乃と共に校舎の奥へと消えて行った。
※ ※ ※
「なる程……これが、拳の極意」
秋川の駅を道なりに進み、噴水広場を超えて公民館の向かい側。グレイブヤードの三賢人・末妹のトウロは、あきる野市中央図書館の二階席に本の山を作り、開館直後から集めたそれを読み漁っていた。両手の鎌は折り畳まれて袖の下に隠れ、その先に黒手袋で覆った不恰好な義手。市街地のでの活動に際し、瑠梨が別個で与えたものだ。
最初はただ西ノ宮ちはるを殺せば済むものと思っていたし、事実圧倒出来ていた。しかし今は勝手が違う。新たに現れた東雲綾乃はこちらの攻撃を総て躱し、防ぎ、有効打を与えさせはしなかった。
「変わらなければならないんだ……。女王さまのために、姉さまたちの為に」
チカラだけでは奴らに勝てない。数で劣るなら、技を磨き圧倒するまで。誂え向きの武術もある。ヒトの姿に死神鎌を置換した、自分だからこそできる拳法――。
「アー。あのォお客様あ?」
「うん?」
「ここ、一応図書館なのでぇ……。ご飲食の方はご遠慮いただきたいなーって」
職員が不審がって声をかけるのも無理はない。本を並べて読みはするが、その傍らには複数のタッパーが置かれており、中に詰められたカニカマを延々と口に運んでいるのだから。
「何よ。何か文句あるっての?」
「モンクって言いますか、そのぅ……倫理的にぃNGっていうかァ」
如何にヒトの姿を取っていようとも、彼女の本質はカマキリそのもの。打ち込まれた命令に依って行動し、腹が減ればエサを喰らう。
だが、何事も暴力で解決していてはいけない。ヒトに溶け込みやり過ごす中、備わった食人衝動を抑えるべく、あるじから与えられたのがこのカニカマ。スーパーで購入できる一パック十個入りと全く同じ。
これが一番人間の食感に近いとは女王たる瑠梨の言。食感も味も全く似ていないのだが、あるじが言うなら間違いないのだろう。三女トウロは煮凝った魚臭さと野暮ったいぼそぼそ感に耐えながら、二つ目のタッパーを開く。
「悪いけど、あなたみたいなのに構っている暇はないの。用はそれだけ? ならとっとと消えなさい」
「え、えぇ……」
無法を捨て置くわけにはゆかないが、言って通じる相手でもない。押し問答の末に職員が折れ、次いで人目やひそひそ声も失せてゆく。関わっても良いことがないと判断したからだ。
「蟷螂拳……。必ず、習得してみせる……!」
カニカマ二本を口内に放り、咀嚼しながらページを捲る。総てはあるじたる女王の為。あちらのセカイに囚われた姉たちをこちら側へと迎え入れる為に。