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87.キスしてやろうか


「――共に聖剣を抜くぞ、ヴィクトリア」


 血が滲んだクリストファーの唇は妙に色っぽくて目に毒だと、ヴィクトリアはまるで関係のないことを考えていた。彼に告げられた言葉の意味が、あまりに訳が分からなすぎて、脳が混乱していたのかもしれない。


 ――なぜ一緒に抜くのだ? クリストファーだけでいいだろうに。


「このまま僕が単独で聖剣を抜いても、お前の左腕は元に戻らない」


 それはまぁそうだろう。クリストファーが回復魔法を使えるようになったとしても、それを元魔王のヴィクトリアに対して行使できるとは思えない。


「一緒に抜けば、私の腕は元に戻るのか?」


「理論上は」


 なんとも眉唾であるが、治る可能性を示されると、『やめとく』とも言い出せない。上手く転がされているような気もしなくはないが、背に腹は代えられなかった。


 ――ええい、ままよ! ヴィクトリアはクリストファーと手のひらを絡めながら、ケルベロスの口に手をねじ込んだ。


 小さな犬の口が、ボワンと膨張したように見えた。空間が歪む。中はぬるぬるしていて、なんだか気持ちが悪い。


「うわぁ、この感触、酔いそう」


「キスしてやろうか」


 クリストファーが真顔で言うので、冗談なのか本気なのかよく分からなかった。この近い距離にもなんだか慣れつつある自分自身が怖い。


「お前、よくシラフでそんなこと言えるな! 馬鹿じゃないのか」


「さっきはもっと過激なことをしたくせに」


 それについては返す言葉もない。


 なんだかんだ二人がイチャイチャしているあいだに、指先に硬いものが触れた。思わず顔を見合わせる。


「――抜くぞ」


 クリストファーの艶のある低い声が、ヴィクトリアの耳朶を震わせた。


 これを抜いたら、もう後戻りできないような気がする。……けれど。きっともう、手遅れで……。


「クリストファー、背筋がぞくぞくする」


「頑張れ」


 上手く力が入らない。クリストファーの手を離すまいと、必死で添わせながら腕を引く。彼が腰を強く抱くので、互いの身体がさらに密着した。


 なんだこれ。


「んんんんん……」


 痺れるような感覚が、背中から腰に抜けて行く。空間が膨張し、捻じれて歪んだ。


 そうして眩い光に包まれたと思ったら、ヴィクトリアの膝の上には立派な剣が乗っていた。


 ……で、出た。難産であった。思わず遠い目になるヴィクトリア。


 クリストファーが何かを口の中で呟くと、ヴィクトリアの肩口が淡く光った。光の粒子が螺旋状に踊り、失われた左腕が再生していく。


「おお……おおおおおお……!」


 ヴィクトリアは感嘆の声を漏らした。すっかり元に戻った手のひらをグーパーグーパーしてから、すぐ近くにある彼の瞳を見上げる。


「クリストファー、戻った」


「よかったな」


「ありがとう、クリストファー。私はお前が大好きになりそうだよ」


 この時の自分はもう血迷っていたとしか思えない。彼の首に縋りついて甘えた声を出し、頬をすり寄せ、感謝の意を示していたからだ。


 こういう時、人でなしのクリストファーは、ここぞとばかりに恩に着せるものと思っていた。しかしどういう訳かやつは黙り込んだまま口を開かなかった。クリストファーがこちらの腰を抱いたまま固まったように動かなくなったので、不思議なこともあるものだとヴィクトリアは考えていた。




***




 この時、武器商人のデンチはグィネヴィア山の麓にいた。大木の枝に器用に腰を下ろし、双眼鏡で眼下に広がるデズモンドを見おろす。


「……なんとまぁ」


 イフリートの力は想定以上だった。面白半分に始めた仕事であるが、これは自分の手にあまるかもしれない。


 そのうちにあの黒い悪魔が山頂から飛び立ち、町のほうに飛んで行ったので、デズモンドはこれで跡形もなく消し飛ぶだろうと思ったのだ。


 ところがそうはならなかった。イフリートが羽を畳んで行儀良くこうべを垂れたのを見て、デンチは自分の負けを悟った。――こりゃもう引き上げ時だな。


 クリストファー・ヴェンティミリアは敵に回すとヤバい男だ。茶会に出てみて骨身に沁みたが、あれは相当イカレてる。あの男はおそらくデンチの正体を見抜いていて、それでいてあえて逃がした。それでなんだか、『お前など相手にする価値もない』と言われた気がして、腹が立つよりも『まぁでも、そのとおりだなぁ』と思ったのだ。


 手を引くことに未練はないが、ヴィクトリア・コンスタムに関しては、少しだけ思うところがあった。――一度くらい寝てみたかったが、それも叶わないだろうな。


 ヴィクトリアの気持ち云々というよりも、手を出そうとした瞬間、クリストファー・ヴェンティミリアに消される気がする。


 双眼鏡でイフリートの周辺を探ると、すぐ近くにぐったりしたヴィクトリア嬢がいて、それに寄り添うクリストファーの姿が見えた。


「あー、はいはい、お似合いですよ、お二人さん。末永くお幸せに」


 少々投げやりに祝福の言葉を口にしたら、青い瞳が動いて、こちらを真っ直ぐに見つめてきた。レンズ越しに目が合った気がして、ぎょっとして双眼鏡を取り落としそうになる。


「――化けものかよ、あの男」


 デンチの精神力はゴリゴリと削られ続けていて、『これまでも結構な修羅場をくぐり抜けて来て、何度か死にかけたこともあるけれど、クリストファーのひと睨みに比べたら、あれらは全部ぬるま湯だったな』という結論に達した。


 やれやれと溜息ひとつ零して枝から下りようとしたところで、まてよ、と動きが止まる。双眼鏡を下ろす前に、おかしなものが見えたような?


 それでもう一度レンズ越しに覗いてみたら、通りに躍り出て来た聖女メリンダ・グリーンの勇ましい姿を見ることとあいなった。


「おいおいおいおい、やめとけ、嬢ちゃん」


 眉を顰めて呟くが、気の強い娘だ、止まりはしないだろう。メリンダ・グリーンという女の前世は、猪か何かだったに違いない。


「退散だ。俺はもう、全部放って逃げるぞ」


 それきりデンチは姿を消した。


 しばらくたってから、『武器商人のデンチが山中を抜けて隣国に逃げた』という、まことしやかな噂が広がるのだが、その後の彼の行方を知る者は誰一人として存在しない。



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