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86.幸運のマッチふたたび


 そうしてヴィクトリアは彼の唇に噛みついた。――そう、噛みついたのだ。


 キスというにはあまりに荒っぽい。犬歯で彼の唇を噛み切り、滲み出た血液を舐め取る。


 意外なことにクリストファーは一切抵抗しなかった。地べたに座り込み、宝物のようにヴィクトリアの上半身を抱え込んでいる。


 クリストファーの血液を取り入れると、いくらか呼吸が楽になった。失われた左腕が戻ることはないが、大波に揺られているようにグラグラしていた視界は安定してきた。


 唇が離れると、クリストファーが愛おしげに髪を撫でてくる。


「――少しは楽になったか」


 楽になったよ。そう思ったけれど、口を突いて出たのは憎まれ口だった。


「これっぽちも足りない。怒り狂って脳味噌が爆発しそうだ。あのイフリートの馬鹿に、ボスが誰か分からせてやらなければ、死ぬに死ねない」


「元々はお前の配下だろう。力ずくで従わせろ」


 優しく背を撫でながらも、ドSなことを言うものだ。ヴィクトリアは思い切り顔を顰めた。


「そうできりゃ、してるっての。――ああ、もう、炎が出せないと契約できない。今の私は魔法が使えないから」


「手ずから炎が出せればいいのか」


 クリストファーが身じろぎしてポケットから取り出したのは、見覚えのある代物だった。――以前ノーマンに貸したきり戻って来なかった、幸運のマッチ。まさかこれをクリストファーが持っていたなんて。


「マッチ泥棒め」


 どうでもいいことを毒づきながら、クリストファーの手を借りて火を灯す。赤く燃え上がった炎が消える前に、契約の言葉を述べた。


『Accipe quam primum: brevis est occasio lucri.』


 ――こんな便利なものは、三百年前はなかったなぁ。ヴィクトリアは明々と灯る炎を見おろしながら、そんなことを考えていた。文明の進歩はそのうちに魔法を超えるのかもしれない。


 一際大きく炎が燃え上がって消えた。ところがクリストファーには効果のほどがよく分からなかったらしい。


「……これで終わりか?」


「終わりだ」


「成功したのか」


 答えるまでもない。山頂から飛び立ったイフリートが、真っ直ぐにこちらに向かって来る。小さく見えていたそれが見る間に大きくなり、上空でホバリングを始めると、さらに迫力が増す。楡の大木を軽く越えるほどの巨体だ。


 イフリートはバサリと羽音を響かせて近くに下り立ち、深く礼を取るように、羽を地べたに擦りつけてこうべを垂れた。


「ぶん殴って半殺しにしてやろうかと思ったが、頭を下げられると、それもできないな」


 町の一部を破壊した脅威の精霊だが、イフリートに悪意があったわけではない。魔法のない世界で無理に孵化させられて、錯乱状態にあったのだ。


 消し飛んだ家々にいた人が多数犠牲になったことを思うと、なんともいえない複雑な気持ちになる。しかし感傷に浸っている時間はなかった。


「呑気に構えている場合じゃない。そろそろ魔力の揺り返しがやって来る」


 クリストファーに急かされて、ああ、確かに、と思う。


 今は嵐の前の静けさというやつだ。ヴィクトリアの五感は、やがて訪れる逆流の予兆を感じ取っていた。始まってしまえば、この体は粉々に弾け飛ぶ。


「もう私にできることはないぞ。イフリートは手なずけたが、聖剣に関してはお手上げだ」


 新勇者のノーマン・フィルトンに、なんとか魔力をコントロールしてもらうしかない。やつにはヴィクトリアを助ける義理などこれっぽっちもないだろうが、それでも世界がこうむる被害を最小限に食い止めたいのなら、必然的にそれをしなければならないはずである。


 ――考えてみれば、ノーマン・フィルトンという男は、いつだって計算ずくのところがあった。


 あの茶会での振舞いもそうだ。やつは刺客がヴィクトリアを狙っているのを察知して、誰よりも早く動いた。右側の席にいたはずなのに、ノーマンはいつの間にかヴィクトリアの左隣まで回り込んでいたのだ。


 あれは女の正体をあらかじめ知っていなければできない芸当だった。元々デンチとも繋がっていて、デンチの部下であるあの女とも顔見知りだったに違いない。


 確か夜会にもあの女はいた。大きな靴を履いていたからよく覚えている。――警備の厳しい王宮の夜会に、身元の怪しい人間を引き入れられるのは、立場的にノーマンくらいのものだろう。


 ノーマンはイフリートの卵をかえす時に、ヴィクトリアが生きていたほうが都合がよいと考えていて、茶会で刺客が襲って来た時、咄嗟にヴィクトリアの護衛に回ったのだ。抜け目ない男だから、ヴィクトリアの前世が魔王であることにも気づいていたはずである。


 ――とにかく頼みの綱はノーマンしかいない。そうヴィクトリアは思ったのだが。


「ノーマン・フィルトンは死んだ」


 クリストファーが告げた台詞は、ヴィクトリアをひどく動揺させた。


「ええ? そんなの困るよ。それじゃあもう、聖剣を扱える人間がいない」


「それがそうでもない」


 ヴィクトリアはクリストファーの端正な顔を見上げる。穏やかな目をしているのに、なんだか悪魔めいて見えた。甘言を弄して寿命を騙し取る、美しい悪魔そのものだ。


「聖剣を扱う資格は、僕もまだ有している」


「……ああ、なるほど? クリストファーは元勇者だもんね。資格は失効していないの?」


「それは聖剣に聞いてみよう」


「どうやって?」


「今ならば手が届くはずだ。卵の孵化の余波で、地中深くからせり上がって来ているに違いないから」


 聖剣の門番がここにいれば、今なら渡しをつけてくれるだろう。遺失物が地の底から戻ったようなものだから。


「だけど肝心の門番がいない」


「いるだろう、ほら」


 視線を巡らせると、トゲトゲの首輪をつけた不細工な犬が駆けて来るのが見えた。


 ――ええ? ケルベロスが?



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