85.ならばお前と結婚してやるよ
鐘の音が鈍く空に響き渡った瞬間、ヴィクトリアはたとえようもない苦痛を感じた。全身の血が逆流しているかのようだ。
荒く息を吐き、目の前の敵を薙ぎ払う。剣を振るった瞬間、無様によろけた。
三つ目の鐘の音が響き渡った。重ねるごとに音は歪にひび割れ、奇妙な残響を残した。歪み、割れ、揺り返し、いつまでもねっとりと漂う音の欠片。
――息が苦しい。視界が歪む。肩で息をしながら、剣先を地面に突き立てて、空を仰ぎ見る。
四つ目の鐘が響き渡った瞬間、ふっと視界が陰った。
――あれは鳥だ。いつぞやの再現かと思った。教会から放たれた鳩が、群れを成し空を旋回して行く。
その瞬間、膨大な魔力が地の底からせり上がって来くるのを、ヴィクトリアは知覚した。
***
同時刻、グィネヴィア山。
フードを被った複数の男たちが、水色の卵を抱えていた。一人はこれに加わらず、腰を下ろして、じっとデズモンドの町並みを見おろしている。目の良い彼は見張り役だった。
町の右端のほうに、小さな黒点のようなものが集まっているのが見て取れた。それはゆっくりと横に移動していく。
――鳥だ。男は慌てて号令をかけた。
「今だ、放り込め!」
火口に佇み卵を抱えていた男たちは、手に持ったそれを、躊躇いなく下に投げ込んだ。
――卵を飲み込んだマグマが、意志を持ったかのように蠢く。世界を切り裂くような怨嗟の念が、凄まじい高熱を伴って噴出してくる。
衝撃波は数段階に分かれて空気中を伝わった。
禍々しい産声を上げて、グィネヴィア山の火口から、炎の精霊イフリートが羽を折り曲げた痛々しい姿で這い出して来た。
朱に染まる空。舞い上がる灰燼。巨大な黒い悪魔が身をくねらせ、怒りの雄叫びを上げた。
***
デズモンドの住人は世界の終わりを覚悟した。たった半時前まで平和そのものだった故郷が、今や地獄と化している。
突如、賊の強襲を受け、一方的に蹂躙されかけていたところを、なんとか盛り返した。受けた被害は甚大であったが、生き抜くことができそうだと希望が見えかけたところで、火口から出現した悪の化身。その禍々しい姿は人々の心を折った。
炎の精霊から放たれたエネルギーは凄まじく、高圧の波が、上空をうねるように横切って行くのが感覚的に分かった。
そして禍々しい産声を人々が聞いたあと、イフリートの身体が蠢いた。苦しげに前屈したそれは全身を震わせている。
やがて鎌首をもたげたイフリートは、つんざくような音と共に、口から大火炎を放った。それは直線状に進み、空を深紅に染め上げていく。熱波は進路上にあった全ての物質を、等しく無残に吹き飛ばした。
全ては一瞬のうちに起こった。――波が去ったあと、町の一部が空虚に抉り取られていた。三ブロック以上の世帯が、一撃でこの世から消え去ったことになる。
世界が静寂に包まれた。全ての音が消え――
そして復旧した。そこここから金切声や悲鳴が上がる。怒声、罵声、阿鼻叫喚が響き渡る中、我先に逃げ出そうとする人々。
――イフリートが火炎を噴き出した瞬間、ヴィクトリアの左手が木っ端微塵に弾け飛んだ。ヴィクトリアは全身をぶるぶると震わせながら膝を折る。
それと同時にクリストファーに貰ったターコイズのイヤリングが弾け飛ぶ。その瞬間、全身にかかる圧が増したのが分かった。元勇者から贈られたものだからか、ヴィクトリアを守ってくれていたようだ。
これがなければ、片腕どころでは済まなかったかもしれない。死んでもやつに『ありがとう』とは言いたくなかったが。
――苦しい。息ができない。ここまでか。ここまでか……
崩れ落ちそうになった時、その華奢な背を誰かが支えた。寄りかかるように仰ぎ見れば、こちらを覗き込んでいるのが、皴だらけの婆の顔で思わず笑ってしまう。
「なんだい、この馬鹿娘、笑っている場合かい!」
コーンドッグ店のクソ婆だ。いつも眠そうに目を細めていた婆が、今は顔を青褪めさせてこちらを見おろしている。その見開かれた瞳がなんだか不気味で、また軽く笑ってしまう。
しかしその強がりな態度も、虫の息と相まって、ひどく痛々しく老婆の目には映ったらしい。
「ちょっと、しっかりおしよ。痛いのかい、可哀想に」
意地悪ばあさんが意地悪を言えなくなるだなんて、世も末だなとヴィクトリアは思った。
「……早く逃げろ、婆さん。老い先短いんだから、一日が重いぞ」
歯を食いしばりながらヴィクトリアが憎まれ口を叩くと、老婆はへの字口になった。唇をわなわなと震わせながら、なんとか声を押し出す。
「今、包帯を持ってきてやるから。頑張るんだよ」
包帯でなんとかなるように見えるのか、婆。そう思ったが、ヴィクトリアは口を開く元気もなかった。
――意識が途切れる。しばらくのあいだ気を失っていたのかもしれない。声が断続的に聞こえてくる。……――リア……――ヴィクトリア……――……
うるさいなぁ。眠いんだよこっちは。睫毛を震わせながら目を開くと、至近距離に深い青の瞳があった。
先ほどまで婆さんの冴えない顔を眺めていたので、脳が軽く混乱をきたしている。……なんだこれ。
「天国か……?」
と呟いたら、より一層強く腰を抱え込まれた。……ぐ、苦しい。
「死ぬな、ヴィクトリア」
まるで迷子になった子供のような声。懇願する気配を感じ取り、ヴィクトリアの意識が本格的に引き戻される。
なんだ、よく見ればクリストファーだ。やつの黒髪が額を柔らかくくすぐる。
……この男でもこんな目をするんだなぁ。やつがこんなふうに切羽詰まった顔をするだなんて、きっともう二度とないような珍事だろうな。
瞳を閉じて、深呼吸を繰り返す。深く深く集中し、精神を統一した。その先で辿り着いた境地――それは原始的な怒りだった。
ふたたび瞳を開いた時、ヴィクトリアのはらわたは煮えくり返っていた。激しいきらめきを宿した菫色の瞳をクリストファーに向ける。
「――おい、クリストファー。私はお前に一言物申したい」
たどたどしいヴィクトリアの言葉を、一言も聞き漏らすまいとしているかのように、クリストファーが問うようにこちらを見つめる。この男の深く吸い込まれるようなブルーアイを見ていると、ヴィクトリアはなんともいえぬ不思議な心地に陥った。
昔と逆だなと思う。あの時はお前が怒り狂っていて、こちらはそうでもなかった。あの時のお前は菫色の瞳で、こちらは青い瞳をしていた。
――まるで時間差で鏡を見ているようじゃないか。なんの因果か、三百年越しの腐れ縁。
「生き残ったら、お前に全てのツケを払わせてやる」
「いくらでも償う」
用心深いクリストファーにしては、考えなしな台詞だった。脇が甘いな。
「言ったな、今の言葉ゆめゆめ忘れるな」
ヴィクトリアはほとんど舌打ち混じりに覚悟を決めた。それはもう不機嫌極まりないという顔で。
「――ならばお前と結婚してやるよ」
それを告げた時のクリストファーの顔は見物だった。
でも誰にも教えはしない。だってそれはクリストファーがヴィクトリアだけに見せた顔だから。
残っていた右手で、クリストファーの襟首を掴んで強く引く。