84.凡庸なりベイジル・ウェイン
「そういえば」
あることを思い出し、ノーマンは小さく笑いを漏らした。
「ベイジル・ウェインの父であるウェイン伯爵が、大金を隠し持っていたという情報がありましたね。あなたはその勘とやらで、ウェイン伯爵が無実であると分かっていたわけだ」
あの実直なベイジル・ウェインが、父の汚職を疑ってクリストファー殿下に申し出て来た時は、正直呆れてしまった。やつには保身という概念がないのだろうか。誠実ではあるが、あまりに愚鈍であるとノーマンは思った。
しかしこれに対するクリストファーの答えは、ノーマンの想定を超えていた。
「勘も何も、ウェイン伯爵が潔白であるのは初めから分かっていた。なぜなら大金を彼に持たせたのは、ほかならぬ私だからだ」
「なんですって?」
「そもそもお前はどうして、卵を奪う際にデンチを使ったんだ?」
「それは殿下の私兵が――」
言いかけて気づく。ああなるほど、そういうことか。まさかクリストファー殿下が、このようにセンシティブな行いをするとは思ってもみなかった。
ノーマンがイフリートの卵の利用法に気づいた時、デズモンド教会の警備はすでに固められていた。殿下直属の部隊が警護に当たっていたからだ。
あの精鋭部隊を出し抜くのはことで、ノーマンは仕方なく、武器商人のデンチに仕事を委託することにした。
結果として、デンチの急ぎ仕事により多くの血が流れた。――つまりウェイン伯爵が所持していたあの大金は、遺族への分配金だったのか。
なぜ殿下の従者である自分を通さず、ウェイン伯爵に金を預けて一任したのかと、ノーマンはこれにちょっとした嫉妬を覚えた。――『私を差し置いて』と、まるで寝取られ男のような馬鹿げた考えが浮かぶ。
「亡くなった者たちは、元々はウェイン伯爵の部下だった。伯爵は馬鹿がつくほどに実直な男だから、金の分配は一任してしまおうと思ったんだ」
「それを息子のベイジルが見てしまい、父の汚職を疑った、と」
「見られたウェイン伯爵は迂闊だし、見た息子も早とちりだ。親子揃って間抜けだな」
小首を傾げて、なんてことないというように呟きを漏らすクリストファー殿下は、ずいぶん意地が悪い。正直者をからかう行為は、あまり褒められたものではないと思う。
「あなたはすぐにベイジルに教えてやるべきでした」
「あの時は、やつが素直に申し出てきたことに驚きすぎて、言葉が出なかった。――私が不意を突かれたのは、人生で数回しかないから、あの男はもしかすると大物かもしれない」
「あのベイジル・ウェインが?」
「あのベイジル・ウェインが、だ」
クリストファーの戯言はあまりにありえないものだった。ノーマンの唇に嘲笑の笑みが浮かぶ。
――それはない。ベイジル・ウェインが大物だなんてことは、万に一つもないだろう。確かに彼は平均より秀でている。顔もいいし、腕も立つ。何より実直で、信頼に値する。
けれどただそれだけの男だ。何一つ想定を超えることがない、実直な騎士団員。意外性の欠片もない。――ただ一つだけ、ベイジルに非凡な点があるとするなら、あのヴィクトリア・コンスタムと親しいことくらいだろうか。
ノーマンとクリストファーがお喋りに興じているあいだに、陽が傾きかけていた。鐘の音が響き渡る。
普段は空を突き抜けるように響く鐘の音が、今日はひどくこもって、奇妙な余韻を辺りに残した。
――一つ。
クリストファーが異変を察知するのは早かった。微かに眉を顰めて空を見上げている。
「殿下。空間が軋んでいるのに気づきましたか」
「これは」
「さぁ、終わりの始まりです」
ノーマンの右手には、いつの間にか銃が握られており、照準は真っ直ぐにクリストファーへと向けられていた。殿下は先程『不意を突かれたのは、人生で数回しかない』と語っていたが、こんなふうに敵から目を離すとは、彼にしてはとんでもない失態だった。
――それほどヴィクトリア・コンスタムが心配か? この迂闊さはどうにも彼らしくない。
残念だ、クリストファー・ヴェンティミリア。あなたは突出していて異質であるが、恋をした途端に、ありふれたつまらない男に成り下がってしまった。
――二つ。
今度の鐘の音は、先程よりもさらに音が歪んでいる。
「鐘の音が四つ響き渡ったところで、イフリートの卵が孵化します」
「まだ贄は十分に集まっていないんじゃないのか」
確かにそうだった。計画通りなら、デズモンドはすでに火の海と化しているはずなのだが、町のほうは驚くほど静かである。少し前に響いていた怒号や悲鳴も、徐々に治まりつつある。制圧が想定よりも早く完了したのか、あるいは。
「まぁ、いずれ帳尻が合うでしょう。イフリートの卵が孵化すれば、どのみち大勢が死ぬ。不完全な形でかえったとしても、それでチャラになるはずだ」
栄養失調で生まれたのなら、すぐに補えばよい。
――聖剣が地上に弾き出されるには、二段階のブーストが必要だ。
一段階目は卵の孵化。これにより次元に亀裂を入れる。
二段階目はイフリートによる魔法の行使。魔力の薄い世界で、強制的に極大魔法を放ち、地下の魔力を吸い上げる。これにより栓の役割を果たしている聖剣は、強い力で上に引き上げられる。
――三つめの鐘の音。不快な残響。
「あなたにはここで消えていただきます。第二王子がリンレー公爵と共に沈んだので、あなたを生かしておこうかとも思いましたが、やはり頭の良すぎる殿下は邪魔になる」
「果たしてお前に私が殺せるかな」
事ここに至っても、余裕たっぷりのクリストファー。
もしかすると彼はいつ死んでもいいと考えているのかも。ならばお望みどおり、引導を渡してやろう。
「さようなら、クリストファー・ヴェンティミリア」
別れの挨拶を告げる。トリガーに指をかけた瞬間、クリストファーが微かに視線を動かしたのが分かった。ノーマンのすぐ後ろ、何もないはずの場所に向かって。
「――幕引きだ、ノーマン・フィルトン」
……なんだと! ノーマン・フィルトンは心の底から驚愕した。
この位置取りは完璧だったはずだ。クリストファーは通りを背にする、無防備な場所にいた。
対しノーマンは敷地の内側におり、死角を取られるとしたら、教会の裏口から近づくルートしかない。裏口扉から忍び出て、長い長い距離を、ノーマンに一切気取られることなく詰めなければならない。
ノーマンは国内屈指の手練れであり、後ろから誰かに接近されれば、絶対に気配を感じ取れる自信があった。彼の不意を突ける人間は、この世界におそらく数人とおるまい。不測の事態が起こっても十分に対処できるからこそ、このロケーションでクリストファーと対峙することにしたのだ。
ノーマンは馬鹿ではない。それなりに修羅場もくぐってきている。経験に裏打ちされた実力は確かなもので、彼の持つ自信は根拠のあるものだった。
だというのにまるで気配を感じ取れなかった。しかし今ならば、はっきりと分かる――誰かが後ろにいる。
なぜ気づけなかったのかは分からない。はっきりしているのは、敵があまりに上手だったということだけ。
鈍い音と共に、味わったことのない衝撃が胸部を突き抜けた。何を考える暇もない。自身の胸から鋭い剣先が突き出ているのを、ノーマンは目視した。
――心臓を一突き。それはあまりに見事な手際だった。
ノーマンは崩れ落ちながら、最後の力を振り絞って背後を仰ぎ見た。絶命の瞬間、彼の目に入ったのは、剣を引き抜くベイジル・ウェインの姿だった。
ベイジル・ウェイン――なんとここで、ベイジル・ウェインとは!
やつの顔を見て思った。――ああ、ベイジル・ウェインは、生え抜きの騎士団員なのだと。来る日も来る日も、有事に備えて自らを律してきた、愚直な男の姿がそこにあった。この緊迫した局面においても、ミスを一つもせずに、すべきことを完璧な手際でしてのけた。
――強い。
単純な話だ。ベイジル・ウェインは突出して強かった。
こうして次世代の勇者は、一騎士団員の手により葬り去られた。
劇的な幕切れだった。
【※脚注】
6話の『幸運のマッチは彼の手に』に記載されている地の文
『実はこの夜、元魔王――元勇者――武器商人――新勇者――現聖女という重要人物五名が、この小さな安酒場で奇跡的にニアミスしていたのだが、その事実を知る者は、今はまだ誰もいない』
これは6話時点では、
1. ヴィクトリア
2. クリストファー
3. ?ウェイトレス?
4. ロートン
5. メリンダ
と読めますが、実際のところは
3. ロートン=デンチ
4. ノーマン・フィルトン
を指しています。