83.あなたはクズだ
町にひとつしかない教会の裏手で、二人の男が対峙していた。
大通りに背を向けて立つのは、スラリと背の高いシルエット。第一王子、クリストファー・ヴェンティミリアその人である。
そんな彼と距離を置き、敷地の奥に佇むのはノーマン・フィルトン。クリストファーの従者を務めていたこの男は、平素と変わらず、武骨で実直な雰囲気を漂わせていた。
「クリストファー殿下。あなただって聖剣を抜くためなら、小さな犠牲にも目を瞑ったのでは?」
ノーマンは自らの行いを正当化するつもりもなかった。しかし彼には分かっていた。ノーマンが手を下さなければ、遅かれ早かれ、クリストファーもそうしたであろうことが。
ノーマンはクリストファーのクレバーさ、非情さを誰よりもよく知っていた。おそらく殿下は、ノーマンの取った非人道的行為を咎めはしないだろう。
しかしーマンの予想は大きく外れることとなる。
「お前が私を理解したつもりになっているのが謎だな。――そもそも聖剣なんて、人為的に抜く前提で語るものではない」
クリストファーの突き放すような言葉は、ノーマンを戸惑わせた。
「何を言っているんです? この状況を放置したら、どんな結末を迎えるのか、それが分からないあなたではないはずだ」
「放置すると問題があるのか」
「あるに決まっている! 世界が壊れます」
「ならば壊れてしまえばいい。小さな犠牲を払って、全体を救う必要もないだろう。土台から砕け散るならば、それも運命だ」
驚いたことにクリストファーは、世界を救う気がこれっぽっちもなかった。
ノーマンはクリストファーの考えをまるで理解できないという現状に苛立っていた。苛立ちは裏切られたという、身勝手な感情に置き換わる。
「――あなたはクズだ」
感情を滅多に乱さないノーマンが険しい顔で吐き捨てる。彼は殿下の懐刀として、汚れ仕事もしてきた身だから、理想に燃える正義漢というわけでもない。
「お前にクズだと罵られるのは心外だな。――貧しい者を平気で犠牲にできるお前にだけは、人間性をどうこう言われたくない」
「子供の頃、母が強盗に殺されました。その強盗は貧民街で生まれ育った者で、道徳観念を学ぶこともなく大人になり、非道な行いに手を染めた。結局のところ、私はこう思うのです。――人間性を決めるのは、環境であると。貧しい暮らしをしてきた人間は、日々の暮らしに精一杯で、品性もそれに見合ったものになる。だから私は決めたのです。命の選択をしなければならない場面で、誰かが犠牲になるのなら、貧しい人間が死ぬべきであると」
母が強盗に襲われたという過去は、奇妙にもベイジル・ウェインと酷似している。しかしベイジルがノーマンと違った点は、ベイジルにはヴィクトリア・コンスタムという幼馴染がいて、彼女が機転を利かせたことで、母の命が救われたことであろう。
もしもちょっとした運命の悪戯で、ヴィクトリア・コンスタムの幼馴染がノーマンであったなら、母はまだ生きていたのだろうか。
母の無残な遺体を発見したのは、当時六歳の幼いノーマンだった。――あれはあまりにむごたらしい死に方で、あの日見た血の色を、今でも時折夢に見る。
思索に沈むノーマンに対し、クリストファーはあまりに冷淡であった。
「お前の意見にはなんの根拠もない。確かに環境が人に及ぼす影響は大きいだろうが、だとするなら、恵まれた教育を受けてきたはずの貴族社会の連中が、これだけ腐りきっている理由をどう説明するんだ」
「腐りきっているように見えても、貧民街育ちよりはだいぶマシだという話をしているのです」
「幻想だな」
「では、あなたは誰を犠牲にするのです? 聞かせてください、頭ごなしに私を批判する前に」
「どちらか選べというのなら、『貴族連中が率先して死ねばいい』と答えるね。――なんのためにこれまで良い暮らしをしてきたんだ。他人の金で贅沢をしてきたのだから、有事の際くらい自己犠牲を払え」
内容は過激であるが、実のところクリストファーの声には、怒りもなく信念もなく、なんの感慨も込められていなかった。しかし語調に一切の揺らぎがなかったからこそ、かえって本心を語っているのだと気づく。
――呆れた。言うにこと欠いて、貴族が死ぬべきとは。
「あなたとはどうやらとことん合わないようですね」
「らしいな。これまで腹を割って話したことがなかったから、気づかなかった」
「やはりあなたは救いようのないクズだ」
「自らを聖人だと名乗った覚えは一度もない」
憎らしいほどに、クリストファーの台詞には嘘がない。それは確かにそうなのだった。彼がノーマンの前で偽善を口にしたことは一度もなかった。使命さえも語ったことがない。
ただノーマンが勝手に、『クリストファー殿下はこういう人間だ』と勝手に思い込んでいただけで。
「――元勇者のくせに」
子供じみた恨み言が口を突いて出た。
「他人が勝手にそう呼ぶだけだ。私自身、その称号にはまるで興味がない」
クリストファーの言葉は淡々としていて空虚だった。
ノーマンは瞳をすがめてクリストファーを眺める。――クリストファーは身勝手な理屈を並べているのに、皮肉にも、彼は理想的な王になる資質を備えていた。クリストファーがこうと決めて、間違っていたことはこれまで一度もない。
彼はある時は保守的であり、またある時は革新的だった。姿勢がブレているようで、ブレていない。彼が選ぶ道はあくまでも中道であり、クリストファーのバランス感覚が並外れて優れていることが、ノーマンにはよく分かっていた。
こだわりが一つもないからこそ、正しい道が選択できるのか。――あるいは単に、あまのじゃくなだけなのか。
あのヴィクトリア・コンスタムに対してだって、彼は矛盾した態度を取り続けていた。『どうでもいい』と言いながら、いつだって彼女に対して最大限の注意を払っていた。それはおそらく出会った当初からだ。
この誇り高い男が、損得勘定なく自ら会いに行ったのは、あとにも先にも彼女だけだ。
「あなたはとても鋭い方だ。それなのに、私の裏切りには気づかなかったのですか?」
もしかするとノーマンはクリストファーに敗北を認めさせたいのかもしれなかった。無益なことを口に出している自覚はある。
これに対し、初めてクリストファーは苦笑いのような表情を浮かべた。彼にしては気安い態度だった。
「……勘に頼りすぎたかな。失敗だった」
「勘が外れたのですか。あなたにしては珍しい」
私情を挟んで目が曇ったというほど、クリストファーがノーマンを信頼していたとも思えない。良い意味でも悪い意味でも、クリストファーは他者に対してフラットだ。先入観も思い入れも、基本ないと考えてよいだろう。
彼のそんなところにノーマンは惹かれ、そして反発を覚えたのだから。
「私の勘が働かなかった理由は、お前が聖剣に選ばれた――いや、これから選ばれるであろう『新勇者』だからかな」
現状、聖剣は行方不明であり、勇者を選んではいない。しかし聖剣がふたたび地上に姿を現した時、ノーマンが選ばれる。それは未来の出来事であるが、聖女が夢見をしたことで、確定事項になった。
「それの何が問題なのです?」
ノーマンにはクリストファーの言っている内容が理解できなかった。――勇者になる資格を有しているだけで、今のノーマンはただの人だ。経験があるクリストファーと比べれば、赤子も同然というやつである。
意外にも懇切丁寧にクリストファーが説明してくれた。土壇場でこんな気まぐれを起こすのも、クリストファーらしいといえばらしいのかもしれなかった。
「君と私は次元が同じになる。私の勘は、階層が下の者に対しては有効に働くが、同じレベルか上の者に対しては機能しない。――ところが、私と同レベルの者などほぼ存在しないものだから、相手の階層については考えない癖がついていた。つまり、『身近な者が悪事を働いていれば、必ず感じ取れるはずだ』という思い込みが私にはあって、お前に対して無防備になっていたわけだ」
なるほど。頭を使わずとも、白か黒かを判別できる確実なツールを持っていたから、それに頼る癖がついていたというのは理解できる。
クリストファーにはほかに頭を使わなければならない事柄がいくつもあっただろうし、省略できる部分は省略したいというのは、いかにも彼らしい合理的な考え方だと思った。
しかしそうだとしても、クリストファーの他者への関心のなさには、やはり呆れを覚える。誰かと関わった時に、自らの心を通さず、機械的にツールに頼って自動判別するだけなんて、いくらなんでも人として、ものぐさすぎはしないだろうか。
この人間のここが気に入っているとか、この人間のここが気に障るだとか、そういった自身の感情の動きから、相手の人となりを判断するということがないのか。




