82.魔王の人助け
デズモンドはすでに戦場と化していた。
風向きと地形が悪かったのだろう。護送馬車がデズモンドに到着するまで、ベイジルは町中で争いが起きていることに気づけなかった。彼が異変に気づいた時には、馬車はすでに引き返しようもないところまで入り込んでしまっていた。
――くそう、どうなっている! デズモンドは安全なのではなかったのか?
ベイジルは御者台から飛び下りて、急ぎ車体の後ろに回り、扉を解錠して大きく開け放った。すぐにヴィクトリアが飛び出して来る。
「どうしたの?」
「デズモンドが襲われている。お前は隠れていろ」
「馬鹿おっしゃい。武器は?」
幼馴染のヴィクトリアがこんな時に大人しくしているはずもないと、ベイジルにも分かっていたのだろう。脇差しにしている小振りなほうの剣を、彼女に手渡してきた。
ヴィクトリアがそれを取ろうとすると、ぐっと力を入れて引き留められる。
「――絶対に死ぬなよ」
いつもはヘタレのくせに、こんな時は騎士の顔をするものだから、まったく。
「誰にものを言っているの。あんたこそヘマするんじゃないわよ」
力を込めて剣を受け取った。
ベイジルは悲鳴や怒声が響き渡る方角に走り出した。
ヴィクトリアは一時その場に佇み、虚空に視線を彷徨わせていたのだが、やがて勘を頼りに左の小道に足を踏み入れた。最初は早足だったのが、すぐに駆け足になる。走りながら剣をすらりと引き抜いた。
前方に、いかにも傭兵崩れといった風体の男がいて、子供の背を蹴り倒している。男が倒した子供の背に剣を突き刺そうとしているのを見て、頭の中で何かが焼き切れた。
「――貴様‼」
ヴィクトリアは怒鳴りながら、目にも止まらぬ速さで渦中へ飛び込み、剣を叩き下ろした。剣を握る腕に肉を断つ反動が返り、辺りに鮮血が散る。
ヴィクトリアはそのまま子供の襟首を引っ掴むと、優しさの欠片もない乱暴さで引き起こした。こういうデリカシーのなさが、ヴィクトリアのヴィクトリアたるゆえんであろうか。
子供は目を見開いたまま、ショック状態で固まっている。
「親はどこ?」
子供は途方に暮れた様子で、口を開くこともできない。見たところ、この辺りはまだ荒らされていないようだから、親が先に殺されているということもないだろう。仕事に出ていて不在なのかもしれない。
「家に戻って、扉と窓に鍵をかけて、狭いところに隠れていなさい。親が帰るのを待つの。――親以外の誰が来ても、扉を開けては駄目。浴室やクロゼット、壁に囲まれているなるべく頑丈な場所に、つっかえ棒をして隠れるのよ」
呆けたように立ち尽くす子供を怒鳴りつける。
「――早く!」
子供はぴょこんと飛び上がり、一目散に家のほうに走って行った。
いつの間にかケルベロスも駆けつけていて、オリーブの木の根元で、賊の足にかぶりついているのが見えた。腹を立てた賊が、噛まれた足ごと木の幹に叩きつけようとしたところで、横手から丸腰のマクドネルが体当たりをかまして、身を挺してかばっている。普段仲違いしている一人と一匹は、なんだかんだで息がぴったり合っていた。
思わぬ助けが入ったので、賊に襲われていた若い男が武器を手に応戦し、皆で連携してなんとか敵を倒した。
「マクドネル、これはどういうことなの?」
ヴィクトリアの呼びかけに、冷や汗を拭いながら、マクドネルがこちらに駆けて来る。
「どうやらイフリートの卵がかえるのは、ここ、デズモンドのようですね」
確かにそのようだった。デズモンドは非常事態に突入している。
「戦場となるのは、王都ではないの?」
「あたしは場所までは聞いてねぇんです。だけどこれはおそらく『贄』ですな」
「贄?」
「この世界には現状魔力がない。なのに炎の大精霊であるイフリートの卵を、無理やり孵化させようというんです、魔力の代わりに、別のものが必要なんでさぁ」
「それが人の命ということ?」
少数の犠牲とは、卵がかえった時に、余波で失われる命のことではないのか。人の命が、卵をかえすための材料扱いとは。
大事の前の小事と言われても、はいそうですか、とは納得できない。
デズモンドは一部観光地化しているものの、その大部分は人々がつましく暮らす土地だ。裕福な人間などほとんど存在しない。その多くが犠牲になったとしても、中央にさしたる影響はないのかもしれない。だけど。
――貧乏人は世界のために死ねというのか。ヴィクトリアは怒りを覚えた。
ヴィクトリア、マクドネル、ケルベロスの一行は、町の通りを縫うように進みながら、賊を片づけていった。
茶会用に仕立てたヴィクトリアの淡い水色のドレスは、いまや返り血によりその大部分が朱に染まっていた。魔王の称号に相応しい、凄惨極まりない姿である。
前進しながら敵を斬り伏せ、助けた人間をいたわることもなく、家に戻って閉じこもるようにと定型文を怒鳴り続ける。女子供にも甘い顔はしない。老若男女全てに容赦なしだ。
人々は感謝するよりもまず、ヴィクトリアの恐ろしげな風体と圧に押されてしまい、一様に『感謝1:怯え9』がブレンドされた、なんともいえない一瞥をくれてから無言で散って行く。
信心深い気の弱い爺さんは、『とうとう地獄の使者がやって来おった!』と蛮族の姿よりもヴィクトリアの殺気に当てられて震え上がり、クロゼットに閉じこもってひたすら神に祈り続けるのだった。
一行がちょっとした広場に出た時、思いがけず声をかけられた。
「――Nia様!」
驚いて視線を巡らせると、なんとカサンドラ・バーリングが勇ましく腕まくりをした格好で駆けて来るではないか。野性の狼のように全身をピリつかせていたヴィクトリアは、この事態に度肝を抜かれ、思わず脱力してしまった。
「カサンドラ! あなた、何をしているのよ?」
「姉さんご無事ですかー!」
カサンドラが一目散にヴィクトリアの胸に飛び込んで来た。――ちょっと、と額をぐいーと押しやると、カサンドラが子犬のように懐きながら、涙ぐんでいる。
「パメラ・フレンドがやって来て、デズモンドでおそらくNia様がピンチに陥るから、先回りしようと言って来たんです。パメラも一緒にここへ来たんですけど、戦力にならないからって、今は頑丈そうな屋敷に隠れています」
じゃあ来ても意味ないだろうとか、突っ込みたいことは山ほどあったが、そんなことよりもまず。
「――パメラ、鼻詰まりが治ったの?」
気になるのはその点だった。確か少し前に、鼻詰まりの副作用(?)で何も見えないとか言っていたはずだけれど。
「まだ調子はいまいちみたいですけど、ちょっと前に少しだけ記録にアクセスできたらしくて。デズモンドでよからぬことが起ころうとしているって」
パメラ・フレンドは未来視の能力はないので、この地に武装した連中が集まっている場面が見えたのかもしれない。非常事態が起これば、結局のところ大抵の出来事が魔王ヴィクトリアに還元されるので、パメラは機転をきかせて、仲間を集めてくれたのだろう。
しかし招集をかけたのは直前のことであり、準備万端整えるとはいかなかったらしい。駆け寄って来たカサンドラも、着の身着のままといった様子であったからだ。
「ヴィクトリア様!」
今度はエイダ・ロッソンが飛び込んで来た。――ええいお前もか! ヴィクトリアは思わず苦い顔になる。
「ちょっとお転婆娘ども! 特にエイダはこんなところに居ちゃ駄目でしょう? ベイジルが心配するわよ」
「ですが、Nia様のお力になりたくて」
「あなたたち、弱いでしょう。足手纏いよ」
ヴィクトリアはこういう時に気を遣わない。迷惑そうに言ってやると、一見気が強そうなカサンドラは目に見えてしゅんとしてしまった。しかし大人しそうに見えるエイダがここで芯の強さを見せた。
「こんな時は、女子供でも戦わなくてはなりません。非常事態です」
「何ができるというの?」
「干し草を扱うピッチフォークのような農具なら、女でも扱えます。持ち手が長いし、先端に複数の歯があって攻撃力もある。恐れずに立ち向かえば、活路は開けるはずです」
エイダはそう告げたあとで、駆け寄って来る際に落としたピッチフォークを拾いに戻った。鉄製のそれは頑丈で、確かに扱いやすそうに見えた。
普段は『清廉な乙女』といった感じのエイダが、それを構えて気合を入れているのを見て、ヴィクトリアはやれやれと小さく息を吐いた。
「まったく。無理はしないでよ」
「はい」
気遣われたエイダがはにかむように微笑む。
――この場面をベイジルに見られたら、やつに嫉妬されそうだとヴィクトリアは考えていた。朴念仁かと思いきや、ベイジルは婚約者を溺愛しているからなぁ。
……まぁいいか。エイダとカサンドラのことは心配だが、二人とも大人だ。本人がやると決めたのなら、他人がそれを止めることはできない。
「一人の敵に対して、必ず複数で対処すること」
「はい」
「あとは、絶対に死ぬな。それだけは肝に銘じておいて」
「Nia様の命とあれば」
エイダとカサンドラはかしこまり礼を取った。
ヴィクトリアはここで皆と別れることにした。マクドネルにはエイダとカサンドラに協力するように命じる。
そしてたった一人でヴィクトリアは、敵の中を斬り進んで行くのだった。