78.聖女のたくらみ
色々ありすぎて、ヴィクトリアはお腹いっぱいという気分だった。クリストファーにつき合うのをやめて視線を巡らせると、聖女が射殺さんばかりにこちらを睨んでいることに気づいた。
――ああ、もうんざりだ。ヴィクトリアはため息を吐き、メリンダを見遣った。
「あなたは私のことを、最低最悪のクズみたいに憎んでいるわよね。傲慢で、慎みがなく、人の心がないと。だけど不思議で仕方ないの。あなたの信じる神様とやらは、どうして私みたいな者に恵みをくださるのかしら?」
尋ねると、聖女が地を這うような低い声で答えた。
「それは私たちに学ぶ機会を与えてくださっているのよ」
「私が何かを学ぶわけ? これから?」
「いいえ。あなたという存在を通して、ほかの人が学ぶの。あんなふうになってはいけないと。『高いところから落ちた卵は、もう元に戻らない』というわらべ歌があるでしょう? あなたの人生もそうよ。栄華を極めていても、落ちたら終わり。もう二度と元には戻らない。あなたの無様な転落劇を見て、皆がそれを反面教師とするのよ。おごれる者は久しからずと」
うわ、怖っ! 想定していたよりも、深くえぐる系のコメントだった。
……というか聖女よ、考え方が残酷すぎないか? 意訳すると、『調子に乗っているあなたが落ちぶれるところ、人生勉強になるから、早く見たいわぁ』てことよね? サイコな女だな。
そもそもだよ。ずいぶんなけなしようだが、こちらは別に、貧しい子供を鞭打ってもいないし、ものを粗末にしてもいない。それを『悪という悪を煮詰めてできたクソみたいな存在』のように言われてもね。単にあなたが気に入らないってだけでしょうよ。
もっと醜悪な貴族はそこいらに存在すると思うのだ。それこそあなたがこれまで懇意にしてきた、亡リンレー公爵なんかは、その最たるものだった。
呆れを通り越して、感嘆する域にまで達してしまい、まじまじとメリンダ・グリーンを見つめる。
聖女はあれだけのことを口にしても、『まだ言い足りません』という顔していた。そしてそういう気分の時に、絶対に我慢しないのが、メリンダ・グリーンという女なのである。
彼女がふたたび口を開こうとしたタイミングで邪魔が入った。王宮のメイドが追加のお菓子を運んで来たのだ。
卓上のケーキスタンドには沢山の軽食やお菓子が並んでいる。――サンドイッチに、スコーン、ケーキ。このメンツだと、軽食が減らないこと減らないこと。
ヴィクトリアはふと違和感を覚えた。――ケーキスタンドが品薄になったわけでもないのに、なぜ追加のお菓子が来るのだろう?
メイドの歩き方はキビキビとして無駄がない。メイド服の裾から覗く足は、女性にしてはかなり大きなものだった。
メイドは聖女の後ろを通って、ヴィクトリアのほうへ進んで来る。彼女は持っていたお菓子類を盆ごと地面に打ち捨てた。
ヴィクトリアはテーブル上の平皿を手に取り、それを手首のスナップを利かせて投げつける。女は顔めがけて飛んで来た皿を、左手でぞんざいに払い落とした。彼女の右手には、エプロンのポケットから引き抜いたナイフが握られている。
――様々な出来事がほぼ同時に起こり、収束した。
デンチが卓上のフォークを逆手に取り、信じがたい器用さで、振り下ろされた刃をフォークの爪と爪の隙間にかち入れて防いだ。
いつの間にか音もなく移動していたノーマン・フィルトンが、ヴィクトリアの左横に立ち、剣先を女の喉元に突きつけた。
ヴィクトリアは鼓膜の震えを知覚した。ふわりと硝煙のにおいが漂ってくる。――クリストファーが銃で撃ったのだと分かった。彼は狙いを絶対に外さない。
女がさらにこちらに進んで来ようとして、力を失い地面に崩れ落ちた。這うように進もうとするのだが、上手くできずにもがいている。やがて諦めがついたのか、右肘で地面を押して、仰向けになった。その瞳に空の青が反射する。
女は視線を彷徨わせ、デンチの姿を探し当てた。――彼はじっとこちらを見おろしていた。
仲間とつるんでいた時の彼は、軽快な表情を浮かべていることが多かった。いつも本気じゃなかったし、乾いていた。しかし今の彼は表情らしい表情を消し、見ようによっては険しいような、なんともいえない深みのある瞳でシャーリーを見おろしている。
シャーリーの頭に以前聖女から言われた言葉が蘇った。――『あなたはロートンを慕っているのでしょう? 彼をじっと待っているなんて、健気ね』――聖女はそう言ったのだ。
あの日シャーリーは、古びた教会に入って行くデンチを見送っていた。神の存在を信じていないデンチが教会に出入りするなんて、狂気の沙汰だと思いながら。
デンチは聖女に会うために教会へ行くのだ。――しかし聖女はこの時、教会の外にいて、シャーリーに声をかけて来た。
メリンダ・グリーンは女の勘を発揮して、しばらく前からロートンに女がいることに気づいていたらしい。そうでなければこんなふうにシャーリーの存在を見つけることなど、できなかっただろう。
いきなり『ロートンを慕っているのでしょう?』と言われ、その不躾さに腹が立った。シャーリーは相手にする気にもなれず、
「あんた、何を言っているの。私、忙しいから」
ぶっきらぼうにそう言って、去ろうとした。ところが。
「ロートンに危険が迫っているのよ! あなたが彼を助けてあげなさい」
思わず足が止まった。この時振り返ってしまったのが、シャーリーの運の尽きだった。メリンダ・グリーンが捲し立てるように続ける。
「ヴィクトリア・コンスタムという名前をよく覚えておいて! ヴィクトリア・コンスタム、それは公爵令嬢の名前よ。私には夢見の能力があるのだけれど、イフリートの卵を追う者は、ヴィクトリアのせいで地獄の業火に焼かれるのが見えた。ロートンは新勇者だから、必然的に卵を追わざるをえないわ。彼を死なせないためには、ヴィクトリアを排除しなくては」
――ヴィクトリア・コンスタム。シャーリーは口の中でその名前を何度も繰り返した。
聖女はデンチのことを『新勇者』だと誤解している。それはあまりに馬鹿げた勘違いだった。しかし聖女の託宣は、部分的にデンチに当てはまる。それがシャーリーの恐怖を煽った。
彼は卵と密に関わっている。だから『イフリートの卵を追う者は、ヴィクトリアのせいで地獄の業火に焼かれる』という聖女の夢見に当てはまっているのだ。
シャーリーはこのことをデンチに話さなかった。ヴィクトリア・コンスタムの始末は自分がつけるつもりだった。
今回こうして王宮への潜入が叶ったのは、クリストファー・ヴェンティミリア王子の暗殺を請け負ったからだ。しかしあえて彼女はヴィクトリアを狙った。
シャーリーの意識が急激に遠のいていく。――仕事はやり損なったが、案外気分は悪くない。シャーリーの悪あがきよりも、ヴィクトリア・コンスタムの悪運のほうが強かったという、ただそれだけの話だ。
デンチがシャーリーの凶刃を受け止めた時、『あの彼がまさか』と意外に思った。彼はヴィクトリア・コンスタムが生きようが死のうが、どうだっていいに違いない、シャーリーはそんなふうに考えていたのだ。
しかしヴィクトリア・コンスタムを守るデンチの動きは、あまりに速く常人離れしていた。つまり彼はあの瞬間、本気を出したのだ。
関係を持っていても、シャーリーは彼に愛されていると感じたことはなかったが、それなりにつき合いが長かったので、彼の持つ多面性については、それなりに理解しているつもりだった。そんなシャーリーでさえ、彼があれほど本気になった場面を初めて見た。
デンチは取引上の危険な場面においても、どこか手を抜いているふしがあった。 手を抜いていたとしても、彼はやはり非凡であり、だからこそ多くの人間を惹きつけてきた。
――やはり聖女の言ったことは正しかったのだ。いまわの際にシャーリーはそれを悟った。
ヴィクトリア・コンスタムは極めて危険な存在だ。全てを根底から覆してしまう。
シャーリーの瞳から光が抜け落ちた。彼女は役目を終えたので、そのあとに起きた馬鹿げた騒ぎを見ることもなかった。