77.クリストファー、振り回される
メリンダがクリストファーに語りかける。
「どちらかを選ばなければならない瞬間は、必ず訪れるでしょう。私はその瞬間は、貧しい人の味方でいたい」
彼女の瞳は理想に燃えている。――ご立派だと素直に思う。
けれど嫌な物言いをさせてもらうなら、『あなたは今、庶民よりもずっと高い服を着て、こうして王子殿下と美味しいお茶をいただいているでしょう』ということになる。
理想を語れば、何かしら突っ込まれるものだ。ヴィクトリアが厭世的であるというよりも、そもそも世間というのはそういうものだと思う。
「じゃあ、聖女は『金持ちの素直な子供』と『貧乏で性格のねじくれた婆さん』が目の前にいたら、『嫌われ者の婆さん』の命を取るわけね。だってあなたは貧乏人の味方だから」
ヴィクトリアが口を挟むと、聖女から親の仇でも見るような目で睨まれた。
「――あなたって、最低!」
グリーンアイに涙を浮かべ、悔しそうに唇を噛むメリンダ。
――おお、清らかな聖女め! ヴィクトリアは舌打ちが出そうになる。『最低』と言うなら、まず先の問いにはっきり答えてからにしろっての。
彼女の涙は、議論で追い詰められたことが原因ではなく、このような質問を口にした、ヴィクトリアの心根の貧しさを軽蔑してのことなのだ。
しかし、とヴィクトリアは考える。判断を下す者が、感傷的であるのはよろしくない。トップに土壇場で迷われると、下の人間は不安になるものだ。
彼女ははっきりと明言すべきだった。貧乏人を優先するという原則を初めに掲げたならば、『貧乏で性格のねじれた老婆』のほうを生かすと答えるべきだ。
その点クリストファーの指針は、シンプルそのものである。彼は先程から『原則は曲げない』と明言しているから、このケースでも当然『金持ちの子供』を取るだろう。
――なるほど、こうなってみると確かに、クリストファーのやり方は非常に合理的であると思った。原則を定めたら、それを守る。これならいちいち迷わなくていい。
ヴィクトリアは聖女から罵られるのは痛くもかゆくもなかったが、これにクリストファーが口を挟んできたもので、堪忍袋の緒が切れかかった。やつはこう言ったのだ。
「確かに君は、すごく冷たい」
と。涼しげな顔で。
なんだろう。婚約の件をこちらが把握していなかったことを、当てこすられているような気がする。――いや、だけど、そんな子供じみたことはしないか? さすがに。
窺うようにクリストファーを見つめ返すと、彼はなんだか意地悪な顔でこちらを見てきた。
――この野郎、コロス。
大体だ。冷たいということなら、お前もだろう、と声を大にして言いたい。イフリートの卵がかえって、ヴィクトリアが犠牲になったとしても平気なくせに。
しかしやつをとっちめるのはあとだ。今はメリンダとの口喧嘩が中途半端になっている。
「あなたは口だけの人だわ」
ヴィクトリアはメリンダ・グリーンを真っ直ぐに見据えた。
「そんなふうに終始感情的に振舞っていては、誰かを助けられるとは到底思えない」
「私には力がある」
「あなたは現状、自分のことだけでアップアップに見えるけれど」
「馬鹿にしないで!」
「できると信じ込んでいるところが、逆にすごいと思うわ」
人間風情が片腹痛い。できもしないことを軽々しく語るな。
「――クリストファーは? 一方的に助けてくれと縋ってくる人間のことを、どう思っている? 有事の際は、各自がベストを尽くすべきでは?」
今世でも、クリストファーは人々のために剣を取るのだろうか。全てを背負って。前世で彼自身がそうしたように。
「人は追い詰められた時、強い力に縋りたくなるものだろう。ただし助けを求めても、それが叶うかどうかは別の話だが」
ふーむ。上手く逃げたなと思う。腹を割っているようでいて、クリストファーは巧みに本心を語るのを避けている。もう少し踏み込んでみようか。
「あなたは他力本願な人間を許す?」
「許す許さないの問題ではない。そういうものだと割り切っている」
チリ、と導火線に火が点いたような感覚。――なんか苛立つのよねとヴィクトリアは思った。
クリストファーの物言いは寛大ではあるが、ある意味人を一番馬鹿にしているような気もする。どうせ人間なんて、そんなものだろうと。
――ところでヴィクトリアは、少し好き勝手に振舞いすぎたのかもしれなかった。一層感情的になったメリンダ・グリーンに食ってかかられたからだ。
「ヴィクトリアさんはとても傲慢だわ! あなたは当たり前のように沢山のものを持っているから、そうやって持たざる者を見下せるのよ。――公爵令嬢として生まれ、衣食住にも困らず、我儘勝手、自由に暮らしている。結婚だってそう。あなたが望めば、多少無理な縁組でも整うわ。だけどそれはあなたの実力ではない」
クリストファーとの婚約を持ち出してきたか。なんと答えたものかと考えていると、意外な助け舟が入った。
「私たちの縁組については、君には関係のない話だ。――私が彼女を望んだ。彼女の出自は関係ない」
ここでクリストファーがヴィクトリアを擁護したのは意外だった。もしかすると以前『今度聖女の味方をしたら終わりよ』と警告しておいたのが効いたのだろうか。
――だけど、そりゃそうよねぇ。ヴィクトリアは軽く肩を竦めてみせる。この縁組は、こちらサイドはちっとも望んでいないのだから。
「クリストファー殿下!」
メリンダ・グリーンの悲劇のヒロインモードは性質が悪いと思った。目に涙をためてウルウルした上目遣いで見つめるとか、なんとあざとい仕草だろう。
なんとなく彼女、『ええ、ええ、私は分かっています、公爵家が厄介だから、そう言うしかないんですね』とか考えていそう。
もういいよ、結婚しちゃえよ、お前ら。なんて考えていたら、クリストファーが射るようにこちらを見つめて圧をかけてきた。
――うわ、何よもう、怖いってば。さっきの『結婚しちゃえよ、お前ら』は『思った』だけで『口には出していない』から。さすがにこの流れで『クリストファーをあげます』なんて言うわけがない。ましてや聖女になど。
それなのにおかしいなぁ。ヴィクトリアはむくれてしまう。クリストファーから信用されていないのかしら。
それで渋々口を開いた。――これじゃまるで、疲れ切っているのに鞭打たれて走らされる騾馬だわと思う。クリストファーの謎の追い込みがすごい。
「私、クリストファーに望まれてごめんなさいとは言わないわ。メリンダに彼を譲るわってわけにもいかないし」
ええい、瞳をすがめるんじゃないよ、クリストファー。怖いんだよ。
「もしも私が誰かと結婚するとしたら、相手はたぶん、クリストファーなのでしょうね。……だって私、ほかの男に触れられるのは、なんか無理だし」
頭を抱えたくなった。――別にこの男と結婚したいわけではないのだ。しかし誰かと結婚するとなると、やつ以外の相手がすぐに思い浮かばないというだけで。
――驚いたことにそう。そうなのだ。
それで、ええと、どうして自分はこんなことを口走っているのだろう? ヴィクトリアは唐突に舌をかみ切りたい衝動に襲われた。羞恥の極みとはこのことだと思う。
それになんだかんだいって、今日のヴィクトリアは、クリストファーに貰った例のターコイズのイヤリングをつけているのだから、これはもう救いようがないと思うのだ。
くすりと吹き出すような声がして、見ればクリストファーが口元を押さえて俯いている。やつの肩は少し震えていた。
なんだこいつ、笑っていやがる。え、どういうこと? 失礼じゃない?
「ちょっと、クリストファー?」
ヴィクトリアが咎めるように名前を呼ぶと、当の本人はたっぷり時間をかけて、笑いの発作を治めてから顔を上げた。まだ少しキツイのか、若干瞳を伏せがちである。
「……すまない。ちょっとツボにはまった」
どこがツボにはまったっていうのよ? はまるポイントなくない?
ヴィクトリアはますます不機嫌になるのだが、クリストファーはまるで子犬にでもじゃれつかれているかのように、緊張感ゼロで彼女を眺めるのだった。