76.どうして婚約に至ったのか問題
そういえば思い当たることがあった。
――数日前、父に呼び出されたヴィクトリアは、書斎で話をすることになった。そして『今日のパパはいつになくソワついているわね』と呑気に考えていた。父はものすごく歯切れ悪く、こんなふうに切り出した。
「ヴィクトリア、その、先日の夜会の件だが。というか夜会でも、ずいぶん派手に、その」
ヴィクトリアは『リンレー公爵夫人と揉めたことで怒られるのかしら』と思った。あれは確かにちょっとアレな出来事だった。そしてそれ以前にも色々やらかしているので、逆にいうと、父はよくここまで娘の奔放な振舞いを放置したものである。奴隷工房から大勢の少女を連れ帰った時も、父は何も怒らなかったから、すっかりそれに甘えてしまっていた。
「パパ、怒っている?」
ストレートに尋ねると、コンスタム公爵は分かりやすく動揺し、ティーカップを取り落としそうになっていた。
マホガニーの執務机を挟んで腰かけていたヴィクトリアは、いつになく落ち着きのない彼の態度に唖然としてしまった。父は何か言いたげにこちらを見て、また視線を伏せ、またチラリと見てくる。
……一体なんなのだろう? はっきり言えばいいのに。
「その、だな。私は驚いたのだよ、つまり、ええと、クリストファー殿下があんなことを言い出すだなんて」
うん? リンレー夫人の件じゃないの? クリストファーの話?
――夜会でクリストファーが殊勝な態度を取ったから、驚いているのかな。父は元々彼と面識があっただろうし、『嘘だろう、あの生意気な若造が許しを乞うた!』とびっくりしたのね、きっと。
パパは夜会には出席していなかったように記憶しているのだが、どこかであの場面を見ていたのだろうか。
「私からすると、遅すぎるくらいだけど」
ヴィクトリアは軽く眉根を寄せて、つっけんどんに言う。
そもそもの話、やつは謝るくらいなら、初めからそんなことをするなっちゅーことなのよ。なんて考えていると、父は信じられないというようにあんぐりと口を開けて、こちらを凝視してくる。
「そ……そうなのか?」
そうなのか? じゃないよ、パパン。しっかりしてくれ。
「私はずっと待っていた。もっと早くに言うチャンスはあったと思う。たとえばクルーズ船で、とか」
おっと、口が滑った。父はゴシップ誌など読まないので、ヴィクトリアが極秘でクリストファーと旅行に行った件は、把握していないはずだ。……把握していないはず、なのだが、実際のところどうなのだろう。口さがない連中から、あることないこと吹き込まれている可能性はあるかも。
「……クルーズ船」
とうとう父は頭を抱えてしまった。……くそう、あの若造にまんまとしてやられた……リンレー公爵の調査に追われて、後手後手に回り、記事を止められなかった……しかしどうせヴィクトリアが本気じゃないだろうと、ゆったり構えていたのが失敗だったか……とかぶつぶつ呟いているのだが、声が小さすぎて、ヴィクトリアは半分も聞き取れなかった。
父は世界の終わりを悟ったみたいに額を押さえて俯いていたのだが、やがて憔悴しきった様子で顔を上げた。
「――お前は殿下から、直接告げられたわけだな?」
「まぁ、そうね」謝罪って本来そういうものだし。「だけどまだ言われ足りないと思っているわね。むしろ何度でも言われたい」
「くそう、あいつ殺してやろうか!」
父が乱心したとヴィクトリアは思った。しかし娘の目には、一家の長が、第一王子を相手に一歩も退かず、物申さんとするその姿勢は大層頼もしく映った。
――そうだ、親子で力を合わせて『クリストファーをぶっ殺そうの会』を巨大組織に育て上げていくのはどうかしら。なんてことを画策する、お馬鹿な娘。
父が力なく肩を落としながら、眉尻を下げて告げる。
「ああ、ヴィクトリア。クリストファー殿下から、当家に正式に連絡が来たんだが」
意外だ。クリストファー、当家にちゃんと詫びを入れたのか。人間、礼節は大事だものね。
「悩むことないんじゃない? 分かったよーって答えとけば?」
「軽い!」
「重く受け取るようなものじゃないし。そうだ、なんなら『言うのが百万年遅いわ、馬鹿』って言っといて」
「なんだこれ、しんどい。ダメージがえげつない」
とそんな感じで親子会談が幕を閉じたわけである。
――ヴィクトリアの意識が現実に引き戻される。彼女は王宮の見事な庭園をぼんやりと眺めた。水面でカワセミが羽ばたき、派手に水浴びしているのが見えた。青い羽が翻るのを眺めるうちに、ヴィクトリアはふたたび心が千々に乱れ、叫び出したくなった。
――あの時のあれ、婚約の打診だったのかー! なんつーことをしでかしてしまったんだ!! 畜生、大失態だ!
ショックがでかすぎる。これなら勝手に話を進められたほうが、まだマシだった。それなら誰かに責任転嫁できたはずだから、心情的にいくらか楽であっただろう。
これが俗にいう、不幸なボタンのかけ違い。もう泣きたい。
***
感情が乱高下を繰り返して元の状態に戻った。
ふと気づけばいつの間にか、茶会らしい空気に変わっている。――席を囲う者たちで交わす雑談。
相手に対する思い遣りがあれば、話していても心が和むのだろうが、この場にはそれがない。聖女ははっきりとヴィクトリアに対して敵意を抱いていて、隙あらば何か仕かけてやろうという意図が感じられる。
そうこうするうちに話題が『命の選択』に移った。かなり重い話題だ。聖女はまず初めにクリストファーに尋ねた。
「殿下は人の命に優先順位をつけなければならない立場でしょう。どんなお考えをお持ちなのですか?」
クリストファーがわずかに睫毛を伏せると、その下の虹彩の色が深まる。すると無機質な人形めいて見えるのだった。
「少数よりも多数を取る。それから年寄りよりも子供」
テキストめいた回答であるが、実際にそれを選ばなければならない人間が口にすると、ズシリときた。
混ぜ返すつもりもないのだが、ヴィクトリアは気になったことがあったので、彼に尋ねてみた。
「たとえば年寄りが優秀な医者だったらどうするの? 彼は大勢の命を救えるかも」
聖女が始めた問答を、ヴィクトリアは利用することにした。これはクリストファーの考えを知る、良い機会かもしれない。
――彼はイフリートの卵をどう扱うつもりなのか? これから語る内容に、ヒントが隠されているかも。
「それでも子供が優先だ」
「そうなの? その子供が、将来重要人物になるかもしれないから?」
「単純に子供のほうが、先が長い。それ以上でも以下でもない。例外を作っていくとキリがないだろう? 初めに原則を作ったら、そこから外れるべきではないと私は考える。場合によりコロコロ覆るようなルールは、使い勝手が悪い」
彼は非常に系統立てた考え方をするというのが分かった。――クリストファーは大きなことでも小さなことでも、私情を挟むべきではないと考えている。
また、彼の掲げる原理原則は、彼自身の信念というよりも、世間の共通概念から大きく外れないものを選んでいるように思われた。
いざとなったら『多』を取るとクリストファーは明言した。つまり彼は『少数の犠牲ならばやむをえない』という判断を下す可能性がある。
――たとえば近い将来、多数の命が失われることがあらかじめ分かっているとする。それを避けるために、イフリートの卵を危険な方法でかえすことが必要ならば、彼はそれを合理的に選択するだろう。少数を捨て、多数を取る。
ここで重要なのは、クリストファーが理想主義者でも完璧主義者でもないということだ。彼は究極この世界がどうなってもいいと考えているからこそ、皮肉なことに、何に肩入れすることもなく、バランスの取れた思考で物事を決められるのだ。
ヴィクトリアが考え込んでいると、聖女はいかにも優等生然とした様子で、クリストファーを見つめた。
それはいかにも『私にはあなたの苦しみが分かるわ』的な女の顔であったので、ヴィクトリアはお腹いっぱいな心地になり、思わず半目になってしまったのだった。