75.クリストファーの大馬鹿野郎
ヴィッキーが席に座り直すのを、クリストファーはたっぷり時間をかけて眺めていた。まるでそれが罰だとでもいうように。
居心地の悪くなったヴィッキーが微かに顎を引いた頃になって、やっとクリストファーが続きを口にした。
「ロートンと知り合いだったのか」
「ええ、まぁ。前に見かけたことがあって、私から声をかけたの」
「君が誰かに興味を持つなんて、珍しいな」
クリストファーが問うようにこちらを見つめてくる。……珍しい? そうだろうか。ヴィッキーは考えを巡らせた。
「うーん。言われてみると、そうかもしれないわね。なんだか彼のことが気になって」
「君は僕にヤキモチを焼かせようとしているのかな」
クリストファーが奇妙奇天烈なことを言い出した。ずっと真顔だったのに、今ははっきりと口元に笑みを浮かべていて、それがどういうわけか怒っているように見えてしまうから不思議だった。
「あなたでもヤキモチを焼くの?」
「君は距離が近づいたかと思えば、離れる。君といると、僕はどうやら衝動的な気分になるらしい」
何それ、呆れた。
「私のせい? たぶんそれはあなた自身のせいだと思うわ」
「いいや、違う」
「そうかしら。あなたは結局のところ嘘つきだわ」
ヴィッキーは気分がささくれ立ってきた。――ああ、もう、まったく! という気分だった。こんなふうに複雑な状況に身を置くのは好きじゃない。こんなことならいっそ聖女と殴り合いでもしたほうが、まだマシかもしれなかった。
それに正直に心の内を語ったというのに、クリストファーのご機嫌はやっぱりよくならない。
「――ロートンには裏表がないと?」
なぜここでロートンが出てくるのか。イラっとしかけたヴィッキーは、そういえばロートンの話をしていたことを思い出した。
「裏表がないというか、彼はシンプルだと思う。クリストファーと違って、とても分かりやすい」
「どのあたりが?」
「だって彼は、生きることに貪欲な感じがするでしょう? どんな場面でも、何があっても、必ず自分の安全を優先するタイプよ」
クリストファーとは大違いだとヴィッキーは考える。複雑怪奇で迷路みたいな精神構造をしているクリストファーとは、正反対だと。
――この時『ロートン』という偽名を用いてこの場に加わっていた武器商人のデンチは、素で驚いてしまった。
今の自分は、繊細で正直な人間に見えているはずだ。
変装というのは突き詰めていくと、相手に虚構を信じ込ませる作業だ。自分の姿形を変えるだけに留まらない。なりきる演技力が重要という問題でもない。
誰にも見破られない擬態を完成させるには、『説得力』という天賦の才能が必要になってくる。デンチにはそれがあった。彼は特別努力をしなくとも、実直そうな人物になろうと思えば、いつだってそうなることができた。
これは観念的な話になるのだが、人にはそれぞれ特有の『色』のようなものがあって、それが薄ければ薄いほど、透明に近ければ近いほど、この擬態が上手くいくのではないかとデンチは考えていた。素が薄いから、なんにでも染まりやすい。
そういう意味でいえば、ヴィクトリア・コンスタムなどは、変装が下手なタイプだろう。彼女は貧乏人に扮したとしても、『貧乏人の演技をしているヴィクトリア・コンスタム』にしかなれない。それは本人の個性があまりに強くて魅力的だからだ。
デンチから見たヴィクトリア・コンスタムという女は、あまりに強烈であり、それゆえ大雑把で単純なタイプだと思い込んでいた。
だから彼女が『ロートン』という架空の人間を気に入っているとするならば、きっと『人当たりが良くて、なんでも言うことを聞いてくれそうな男』だからだろう、と。
ところが彼女は『ロートン』が――あるいはデンチが――『シンプル』で『生きることに貪欲』であるから、気になるのだという。それは自分自身でも認識したことがない観点であったので、奇妙に衝撃めいたものをデンチの胸に残した。
「……ヴィクトリア嬢」
呆れたように声をかけられ、ヴィッキーは右手を見遣った。そこには背筋を伸ばして席に着いている、大型犬のようなノーマン・フィルトンの姿が。――そう、今日は彼も同席している。
もしかすると、とヴィッキーは考える。ヴィッキーと聖女が場外乱闘に発展した際に止める係が必要だから、彼も同席させられたのだろうか。別に後ろに控えていればいいのだろうが、ノーマンも貴族籍の末端に身を置く人間であるから、この場に参加したとしても別段おかしなことではない。
むしろメリンダ・グリーンとその連れこそが貴族ではないので、バランスを取るためにあえて、従者のノーマンが加えられたのかもしれなかった。
ノーマンは武骨な見た目とは裏腹に、おかしなお節介を焼き始めた。
「これ以上クリストファー殿下を翻弄するのはおやめください。収集がつかなくなる」
まさかの駄目出しである。彼の言っていることはヴィッキーの理解の範疇を超えていたので、眉間に八本くらい浅い皴が寄ってしまった。
それを近くで眺めることとなったノーマンは、『かぶりついていた肉塊を突然取り上げられた小型犬みたいな顔だな』と考えていた。
「――ノーマン」
ヴィクトリアがその顔のまま呼びかけてくる。
「なんでしょう」
「ノーマン。ありえない」
「いえ、素直に忠告を聞き入れてください」
「どうして?」
「先日、私が助けて差し上げたのを忘れましたか? 殿下を煽った結果、痛い目に遭いそうになったでしょう? いつも私がお節介を焼けるわけではない。先の台詞はあなたのために申し上げたのですよ」
普段はあまり表情を変えることのないノーマンが、なんとなく面倒臭そうな顔つきになっているのが、なんともリアルだなとヴィッキーは思った。なんというか、『本当に面倒なんですよ』という本心が透けて見えたからだ。
ええと、それよりも、先日助けてもらったっけ? 呑気に記憶を遡ったヴィッキーは、やっと思い出した。――ああ、そうか。夜会の日、部屋でおいたされそうになったところを、ノーマンが割って入ってくれたのだった。
受けた恩をあっさり忘れてしまうとは、悪いことしたわ。その点については、確かに悪かったと思う。――だがしかし、だ。それ以外の点で、ヴィクトリアが責められるのはおかしくないだろうか? ノーマンはあるじに対する贔屓がすぎるのではないかと思う。クリストファーが白といえばなんでも白になるのか。そんなのおかしい。
「納得できないわ」
「ですが、おめでたい席なのに、あなたは意地を張っている」
何がおめでたい席なのか。何一つめでたくないわ。ヴィッキーが大人げなく腹を立てると、ノーマンがはぁと小さく息を吐く。
それから少し口調を和らげて、本日一番の衝撃をヴィッキーに与えたのだった。
「――では私からあなたに、祝福の言葉を贈らせてください。ご婚約おめでとうございます、レディ」
この時の彼女は衝撃のあまり意識がぶっ飛びかけた。あまりに驚きすぎたために、かえってピクリとも表情が動かなかったくらいだ。
――今、ノーマンは、ご婚約おめでとうございますと言ったのか? 文脈からすると、『ヴィクトリア』が『婚約した』ということになりそうなのだが。――いやいやいやいや。そんなはずがない。だって本人が知らない婚約ってある? ないないない。絶対ないから。
百歩譲って、ヴィクトリアが知らぬ間に婚約させられていたと仮定する。そうなると相手は誰よ?
記憶が確かならば、茶会の冒頭で、聖女メリンダ・グリーンがクリストファーに向かって『婚約おめでとうございます』と告げていたように思う。
――ねぇ、やだ、嘘でしょう? そんなことってある? すごい偶然じゃない? 五人しか参加していない茶会でだよ、五人中二人が婚約を祝われているわけですよ。そんな偶然が果たして起こりうるものだろうか?
そこまで段階的に考えを進めてから、ヴィッキーはゆっくりと視線をクリストファーに向けた。
彼は眉根を微かに寄せて、解せないというような顔をしていた。平素は感情を読み取りづらい男であるが、今は珍しくそれがおもてに出ている。
彼の視線が雄弁に語っていた――『お前まさか、知らなかったのか?』と。
ヴィッキーはゆっくりとドレスの皴を伸ばし、椅子に座り直した。そうして白いテーブルクロスを眺めおろしながら、小刻みに震えそうになる身体を必死で押さえなければならなかった。
彼女は大きく息を吸い、そして吐いた。それから凪いだ視線を池のほうへと向け、心の内で絶叫したのだった。
――さーいーあーくーだー! なんでよ! 嘘でしょう? クリストファーと婚約ぅ? 何が起きた! 知らぬ間に、何が起きたんだぁ!
暴れたい。もう滅茶苦茶に暴れたい。このテーブルクロスを勢いよく引き抜いて、振り回して、それで聖女の首を絞めてから、目の前のガーデンテーブルを力任せにぶん投げる。それでもって湖に向かって叫ぶのだ。
「クリストファーの大馬鹿野郎ー!!!!」
と。